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1章 第22話

 米と漬けマグロを口に入れたまま後ろを振り向けないでいる。後ろに百合がいるとわかっていてどうして振り向けようか。というかどうしてここにいる。  一度口の中の食物を噛む。喉がカラカラに乾いて仕方ない。だが頬袋にたまったご飯を一気に飲み込めば喉が詰まって窒息してしまう。  ゆっくりと咀嚼して背中に迫る百合に意識を集中させる。折角の漬けマグロも、全く味が感じられないんじゃ貰った意味がないよな。  百合が俺の肩に手を乗せようとしているので思わず体が跳ねる。  反射でほとんどなくなっていた口の中の食べ物を勢いよく飲み込んでしまったので喉の奥が一瞬詰まる。慌てて水を飲む俺の視界の端で槙の手が百合の腕を掴んだ。 「なぁに? 槙センパイ。手離してくれない?」 「食事の邪魔をするな」 「邪魔って酷くなぁい? 俺も一緒して良いよね? 真澄クン?」  バチバチと火花が散る。一触即発の空気に巻き込まれて俺は胃が痛くなる。助けを求めてダメもとで頼人を見ると何やら複雑そうな顔をしていた。なんだその顔。  俺はため息を吐いて非常に断りたい気持ちを抑えながら、我妻の隣―頼人の向かい側の席に座るように促した。  もう半分以上食べ終わったハンバーグをちらりと見る。少し冷めてきたものを食べ終わってもそれを理由にここを去るのは難しいだろう。周りの視線がとても痛い。  斜め向かいに座る百合がいつもの微笑みを浮かべて上機嫌でササッとパネルを操作している。隣に座っている我妻が緊張しているのかカタカタと手を震えさせているのが少し可哀想だ。  空気が重い。ひりついている。頼人も難しそうな顔で百合を見ているし、槙は眉間にしわが寄っていて先ほどの笑顔が嘘のように重い空気を背負っている。  田島と我妻だけがこの空気に居心地悪そうに困った顔をしているが、二人の食事は一向に進んでいない。こんな空気じゃあご飯なんて喉も通らないだろう。 「真澄くんお弁当ありがとうね。美味しかったよ」 「ああ、どうも」  百合が沈黙を裂くように口を開く。弁当が口に合ったようで機嫌はかなり良いようだ。ニコニコと笑っているその笑顔が俺にはなんだか恐ろしく思える。  毎度思うがこいつは何がしたいのかよくわからなくて苦手だ。急に現れては意味不明に俺に絡んでくる。  機嫌がいいのかと思えば急に怒っているような口調で話すし、感情が読みづらい。どうにも居心地の悪い空気の中、ハンバーグを食べる手が進まず、少し時間をかけて漸くあと一口になったくらいで百合の元に百合が頼んだであろう寿司の盛り合わせが運ばれてきた。  高級食材をふんだんに使った寿司の盛り合わせを見て、あれが噂の生徒会専用メニューの一つか、と考えていると百合がにっと笑みを浮かべた。 「真澄くん、どれ食べたい?」 「え? あ、いや俺は…………あー……、じゃあ、サーモンで」  断ろうとすると恐ろしいくらいに表情をなくすので、俺は驚いて咄嗟に王道の品を頼んだ。寿司を小皿に取り分けて渡される。流石にこの距離ではあーんなんてできないからね、なんて笑う百合に本当はそれがしたかったのか、その席に座らせて良かった。とほっと胸を撫でおろした。口に入れるとサーモンの旨味が口に広がる。  ハンバーグもサーモンも食べ終えた俺は食後にストレートティーを頼むことにした。画面を操作して注文するとそんなに待たずに運ばれてくる。 「ますみんほんとに紅茶好きだね」  それを見ていた頼人が難しい顔を止めていつも通りの表情で呆れたように言った。悪いかよ、と小さく笑みを零して湯気を立たせるコップに口をつける。温かなそれが胸がじんわりと染み渡って生き返るようだ。  我妻と田島、それに槙も食事を終えてブラックコーヒーを飲んでいる。  そういえば、ブラックが苦手な俺も、中学くらいの時背伸びをしてブラックコーヒーを飲んだことがあったっけ。確か、あの時は大人になることに憧れていて、ブラックが飲めたらかっこいい、みたいな気持ちで飲んでいた。今でもたまに、ブラックを飲む友人たちや、世良を見ていると、格好がつくなとは思うけど。  パフェを頼んだらしい頼人が、来るのが待ちきれないと言わんばかりに、そわそわと右手でスプーンを弄んでいる。 「真澄くんはコーヒーは飲まないの?」  ふと、百合が笑顔でそう聞いて来た。もう寿司をほとんど食べ終えている百合は一緒に運ばれてきた緑茶を飲み一息ついているようだった。 「あー、たまにカフェオレを少々……」 「へえ……いつも紅茶なの?」 「ええ、まあ……」 「そ! ミルクティー美味しいよね!」  鋭い視線に一瞬射抜かれた気がしたが、すぐに笑顔に戻ったので気のせいだと自分に言い聞かせる。 「それはそうと、四人はテスト勉強捗っているのか?」  槙が話が途切れた瞬間を見計らって話題を変える。学生の本分は勉強だと言わんばかりの顏。流石風紀委員長。こんな時でもテストの話題を出すなんて真面目だな。なんて思われそうだが、テスト勉強を言い訳に逃がしてくれようとでもしているのだろう。だが、そんなことで百合が逃がしてくれるはずがない。  にんまりと笑みを浮かべる百合の笑顔は果てしなく怪しい。  いつまでこの地獄の時間が続くんだ。せめて我妻と田島は解放してやりたい。 「真澄くんはダイジョブでしょー。親衛隊の子が言ってたよ。須賀くんは頭がいいって。もし勉強で分からないことがあってもー俺が教えてあげるしねー。一年生の勉強なんてヨユーヨユー」  真澄くんは、というところがみそだな。紅茶を口に運びながらそう考える。  この百合成瀬という男が俺のことを調べる上で親衛隊を使ったりしているなら、もちろんその周りの友人の話も耳にしていることだろう。我妻はともかくとして頼人や田島はちゃんと勉強しないと赤点とは行かずとも親に怒られるくらいの点数になる。だから真澄くんは、と言ったんだろう。他三人は知らないよ。とでも言わんばかりに。  でも、それを言ったとしてもこの場から槙以外の誰一人として席を立てないのを、百合は承知しているだろう。  現に立つものは一人もいないからだ。心臓を掴まれているかの如く、我妻と田島は動けない。頼人は多分百合が怖いとかじゃなくて萌えのためだとかそんな理由だろうけど。 「テスト勉強は順調ですよ。な、頼人」 「ソウダネー。ますみんとゆーたんは順調だよねー」  空気を緩和しようと頼人に話を振るといつもなら空気を読む男がどこか遠い目をして全然気持ちの入ってない返事をする。驚いてどうした? と聞くと、「化学、嫌い」とだけ返事して魂が抜けたように机に突っ伏してしまった。これは、相当重症だな。 「あんま順調じゃないみたいです」 「だねぇ」 「だな……」  俺と百合と槙は三人そろって憐れむような目で頼人のその姿を見る。他人事とは思えない田島も同じく机に突っ伏したのを見て、もっとちゃんと気合い入れて教えてやるか、と気合を入れなおすことにした。 ***  寮に帰ると狩野が素顔を晒して眠っていた。もう、俺の前では変装をする必要はないということか。  金色の髪がうっすらと濡れている。風呂上りにソファーでテレビでも見ていたのだろう。つらつらとニュースを読み上げる男性のアナウンサーの声が室内に響いている。  すうすうと寝息を立てているその顔は幼い印象が強く、こうしてみているとまるで同じ年とは思えない。 「雅貴くん。こんなとこで寝ていたら、風邪ひくよ」  俺が起こしてやる義理は一つもないのだが、放置して風邪をひかれたらそれはそれで厄介だ。体を揺すって声を掛けると狩野は小さく呻いて軽く寝がえりを打った。  これは起きる気配がないな。呆れてため息を吐く。制服のポケットから出したスマホのロックを外して通知を確認しながら、ブランケットを取りに部屋に足を向けた。  あの後、百合に生徒会からの呼び出しがかかって名残惜しそうに何度も「ライン送るね」と念を押された。あの言葉の裏には返事を返せよという言葉が隠れていたに違いない。  生徒会の招集は風紀も巻き込んでいるらしく、槙も共に席を立つとにっこりと微笑みを浮かべて「また後で連絡する」と爽やかに言い放ち、うだうだと残ろうとする百合を引き摺って去っていった。  嵐が去った後、俺は三人になんとなく詫びる。居心地の悪い食事になってしまったことを気にしていると、三人を代表した頼人があっけらかんとした表情で「別にいいよー」と笑った。 一服を終えた俺たちがそれぞれの寮部屋に帰り、現在に至るわけだが、スマホを開いた俺の顏は驚きと嫌悪感で歪む。  生徒会の呼び出しに向かった筈の百合から鬼のようなメッセージが届いている。一体生徒会とはなんだったのかという気持ちが隠せない。  はあと深いため息を吐いてブランケットを片手に取り、共同スペースであるリビングに戻り、寝ている狩野の体にかける。大量の通知を開く気にもならなくて俺はスマホを自室のベッドに放り投げて風呂に入るために着替えを取った。  風呂から上がって洗面所でカラー剤の落ちた金の髪を乾かしているとリビングルームからドタドタと騒がしい音が聞こえた。足音がしてすぐ後ろの戸を叩く音がする。返事をすると狩野が扉を開けて嬉しそうな顔を覗かせた。 「ま、真澄!! このブランケット!!」 「ああ、風邪ひくといけないから被せといたよ」 「そっか!! ありがとう!!」  手に持った黒の布を笑顔で指差す姿に苦笑する。なんだか嬉しそうな狩野に首を傾げるとなんでもないとブランケットを背中に隠してしまった。…あげるとはいってないんだが。 ご機嫌な様子の狩野はへらへらと笑みを浮かべてリビングに戻っていく。何がそんなに嬉しいのかは知らないが機嫌がいいのは良いことだ。  俺は髪の毛がある程度乾いたのを確認して白のフェイスタオルを洗濯機に放り投げる。  狩野も風呂に入ったことは濡れた髪から察することが出来たのでそのまま洗濯機の電源を入れる。洗濯籠に服が入ってないことから、狩野が脱いでそのまま服を入れたことも分かったので透明の液体洗剤を入れてスイッチを押す。  自動で水量を図る機械が動き出したのを確認して俺は洗面所の電気を消し、リビングルームに向かう。  ソファに座ったところで一日の疲れが出たのかつい欠伸を零していると、自室にいたのだろう狩野がひょこっと顔を出す。 「なあ、真澄ー」 「ん?」 「成瀬と、仲いいの?」  言いにくそうに狩野が言う。目線を逸らして唇を尖らせている姿は副会長とかが見たら喜ぶんだろうななんて考えてしまう。頼人辺りは萌え死ぬんじゃないだろうか。  仲がいいのか、と言われると、"仲良くなりたくはないが向こうが勝手に接触してくる。"が正解なのだけれど、これを素直に話すと面倒なことになりかねない。かといってオブラートに包みすぎても、この狩野の口ぶりや仕草を考えればそれまた厄介ごとを生みそうだ。 「うーん。仲がいい、というか……どうだろうね?」  曖昧に微笑みを浮かべて見せる。これで誤魔化されてくれれば良いのだが。  俺の答えに納得がいっていない様子の狩野はムッと頬を膨らませるが、少しするとため息を吐いた。 「……ふーん、あっちの片思いか」  狩野は頭の後ろで手を組んで体を小さく反らすとフッと笑みを浮かべる。顔に似合わない大人びたその表情に俺がびっくりしていると、足音静かに近付いて来た狩野がトンと俺の身体を押す。  ドサリと音を立ててソファに沈んだ俺を見下ろしている、晴れた青空のような瞳。狩野に押し倒されていると一瞬遅れて自覚した俺はその胸を押し返すが、びくともしない。 「雅貴君……?あの……」 「俺、アルファだからさ。ずっと探してたんだ。俺だけの番になってくれる天使を」 「はあ、天使……?」 「まさかここで見つかるとは思ってなかったんだけどな! 俺嬉しいよ。真澄は、まさに理想だから!」  嫌な予感がする。なんだろう。天使だとか理想だとか、態と大事なところを言わないで濁しているが、狩野が言いたいことはもしかしなくとも。  少し息を荒げて熱っぽく俺を見る姿を見ればどんなに鈍いものでも察するだろう。コイツが言いたいことは、つまり。 「真澄、キスしたい! いいよな? 番になって、くれるよな!」  頼むから勘弁してくれ。

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