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第19話

 医務室で顔や背中など身体の傷の手当てを受けてから、仕事場である皿洗い場に戻った。すっかりお昼を食べ損ねてしまったが、食事が食べられないことには慣れているからそのくらい我慢できる。 「す、すみません、遅れました……」  おずおずと洗い場に戻ったら、なぜかみんなが拍手と温かい目で迎えてくれる。  これはいったいどういうことなのだろう。 「七瀬さん、すごいです! 犯罪者を捕まえちゃったんですかっ?」 「えっ?」  岸屋の言葉を聞いても、颯は意味がわからず目をしばたかせる。 「オメガ売買の犯人を見つけてとっ捕まえて、子どもを守ったんですよね?」 「え、あの……僕は何も……」 「だって、西宮室長がそう言ってましたよ? そのとき犯罪者の男に殴られて怪我をしたから医務室に行ったって。違うんですか?」 「そ、れは合ってる……」  衣緒を助けたかったのは事実だ。でも、あれは颯ひとりの力じゃない。諒大や佐江がいてくれなかったらきっと衣緒を守りきれなかった。 「屈強な男ふたりに、ボッコボコにされながらもゾンビみたいに立ち上がって、子どもを守ったらしいじゃないですか!」 「殴られて五メートル吹っ飛ばされたって聞きましたけど、大丈夫でしたかっ?」  あれ。なんか話に尾ひれ背びれがついて、颯が不死身の少年マンガの主人公みたいな扱いになっている。  男ふたりはそこまで屈強じゃなかったし、佐江の登場で殴られたのもそこまで長いあいだじゃない。そして本当に五メートル吹っ飛ばされていたら、颯ならその場で気絶していると思う。 「七瀬さん。よく見抜いたわね! どう見ても普通の宿泊客にしか見えなかったのに、どうやってわかったの?」  瀬谷は根掘り葉掘り、颯の話を聞きたがる。  それから照れるくらいに褒められた。散々、諒大のおかげだと説明したのに、「またまた、謙遜しちゃって」と言われてしまった。 「これ、シェフからの差し入れだよ」  宴会調理課の調理担当の人が、颯に手渡してくれたのは、白いお皿にのったテリヤキチキンサンドだ。こんがりと焼けたトーストも、柔らかそうなチキンも、とろけたチェダーチーズに新鮮な野菜たちも何もかもがおいしそうだ。 「ゆっくり食べてください」 「ありがとうございます……」  ホテルの料理なんて、颯にしてみれば到底食べられるような価格のものじゃない。  全部で四切れあるから、今は半分だけ食べよう。半分は持ち帰って夕食にすれば、今日の夜の食費が浮く。  空腹だったし、みんなの優しさも嬉しくて、味は間違いなしのホテルの高級料理。  厨房の片隅で食べたテリヤキチキンサンドはめちゃくちゃおいしかった。  身体の痛みに耐えながら、なんとか今日の仕事を終え、颯はロッカールームで帰り支度をする。 (諒大さんに返しそびれちゃった)  颯の手元には、諒大がかけてくれたスーツのジャケットがある。 (いい匂いがする……)  颯はそっと諒大のジャケットに鼻を寄せる。アルファの匂いがする。それもとびきりの極上アルファのフェロモンの香りだ。  その匂いを嗅いだだけでクラクラする。今すぐこの匂いに包まれて、ふかふかのベッドの上で巣作りしたい。願わくば、丹念に用意したオメガの愛の巣の中で、極上アルファの諒大とあんなことやこんなこと——。 「あれ? それ、西宮室長から借りたんですか?」 「わっ!」  突然後ろから声をかけられ、颯は慌てて諒大のジャケットをロッカーに突っ込んでバタンととドアを閉める。 「それってアルファの恋人がいるオメガがよくやるやつ、ですよね?」  ベータの大学生・岸屋が、ニマニマと意味深な笑みで颯を見る。 「ちっ、違うよっ、これは……っ、そのっ!」 「隠さなくていいですよ、七瀬さんが西宮室長に愛されてることは、みんなが知ってることですから」 「き、岸屋くんっ……!」  そういうことを大声で言わないでほしい。この大きなロッカールームには、宴会調理課以外の他の部署の人たちも大勢いる。大きな声で話したら、何も知らない通りがかりの人まで話が聞こえてしまうというのに。 「やっぱり西宮室長はアルファだなぁ。自分のオメガを取られないようにマーキングして」 「マ、マーキング……?」  諒大にマーキングなんてされた覚えはない。いったいどういうことだろう。 「はい。七瀬さんからはアルファの匂いがぷんぷんします」 「え! 嘘っ!」  颯は慌てて自分の腕や身体の匂いを嗅いでみる。でも、自分ではアルファの匂いがまとわりついているかどうかわからない。

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