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28 知りたい

 駅近くのトイレで、朝陽と破廉恥な朝を過ごした後。  離れ難くなってキスを繰り返していたら、気付けば出社の時刻が迫っているじゃないか。慌ててトイレから出ようとした俺を「待って下さい! あと十秒だけ」と、朝陽が強めに抱き締めてきた。  あと十秒だなんて、こいつはなんて可愛いことを言うんだ……。  ますます離れ難くなるじゃないか、なんて思いながら、俺を包む朝陽の匂いを堪能する。「週末は僕が誉さんをたっぷり味わいますからね、約束ですよ」と囁かれると、幸せに浸っていた俺は素直に頷いた。  甘々なムードを漂わせたまま、誰もいないことを確認しつつ外に出る。  会った時は暗かった朝陽の表情も、今は紅潮してにこやかなものに変わっていた。目が合うと、どちらからともなく微笑み合う。  きっと、俺の表情も誉のと同じになっていた筈だ。あんなにも寂しくて焦っていたのは一体なんだったんだろうと思うくらい、今の俺は満ち足りた気持ちになっていたから。  少し足早に向かっていると、やがて社屋のエントランスが近付いてくる。この中に入ったら、朝陽を見かけることはあっても、これまでのように同じ時間を過ごすことはできなくなる。考えただけで、急に寂しさが募ってきた。  と、朝陽は肩をくっつけてくると、小声で尋ねてくる。 「誉さん。夜遅くなっても電話していいです? 声だけでも聞きたいんですけど」    朝陽の発言の可愛さに、悶えそうになった。可愛い。うちの大型わんこが可愛すぎる。こくこく、と何度も頷いてみせた。 「勿論。俺もその……朝陽の声が聞きたいし」  途端、朝陽の顔にパッと笑みが咲く。 「本当ですか!?」  朝陽の無邪気そうな笑顔を見ていたら、距離を置かなくちゃ駄目だと意地を張っていたこれまでの自分がいかに馬鹿だったかを痛感した。無理に自分から距離を置こうとしなくたって、朝陽の異動のせいで一瞬で距離ができてしまった。これ以上やったら、俺は絶対朝陽切れを起こす自信しかない。  だからだろうか。素直な言葉が、自然に出てきた。 「うん。昨日、結構寂しかった。朝着信がなかったのを見て、夜の内に自分からすればよかったって後悔したし」 「誉さん……!」  朝陽の顔が、幸せそうに綻ぶ。見えない尻尾がパタパタいっているようにしか見えなくて可愛い。  だけど、朝陽にとっては自分よりも俺だったらしい。多分聞かせるつもりはなかったであろうごく小さな呟きが、聞こえてきた。 「やばい……今すぐ連れ去ってずっと閉じ込めたいくらい、可愛い……」  え、閉じ込める? 今閉じ込めるって言ったか?  一瞬、脳裏にアルファのオメガ監禁事件のニュースの見出しが過った。……いやいや、朝陽に限ってそんな、あはは。  俺に聞かれたとは思わなかったのか、にこやかな笑顔の朝陽がエレベーターを指差す。 「誉さん、エレベーターが来ましたよ。あれに乗りましょっか」 「あ、うん」  エレベーターに乗り込むと、次々に乗ってきた人に押されて壁に押し付けられた。誰からも見えない角度で、朝陽が指を絡めてくる。  ここはエレベーターの中だぞ、と焦って朝陽の目を見ると、驚くほど蕩けた朝陽の顔がそこにあった。  こんな顔をされちゃ、抗議なんてできるもんか。  だから俺は抗議の代わりに、朝陽の手をぎゅっと握り返したのだった。 ◇  朝陽が第一営業部の中に消えていくのを、通り過ぎる速度を緩めて見守る。  ピンと伸びた広い背中が、真っ先に部長の元に向かうのが見えた。――それと、例のオメガが嬉しそうに駆け寄る姿も。  部長に会釈をしている朝陽の腕に絡みつき、一瞬だけこちらを振り返るオメガ。俺を認識したのか、フンとでも聞こえてきそうな笑みを一瞬だけ浮かべた。  すぐに朝陽が手でオメガの肩を押して離れたので、一瞬で沸騰しそうになった気持ちが少しだけ落ち着く。  これ以上見ていたら不快になるだけだ。無理やり意識を朝陽とオメガから引き剥がすと、第三営業部に足を向けた。両方の頬をパンパンと軽く叩き、気合を入れ直す。  どうもあのオメガは朝陽を狙っている感が漂ってきているけど、残念ながら朝陽は俺に夢中だ。だから大丈夫、気にすることはない、と自分に言い聞かせ――はたと気付いた。おい俺、「朝陽は俺に夢中」って自分で言うか? 自惚れにもほどがあるぞ。……でも、やっぱり朝陽は俺に夢中な気しかしないんだよな。  でも、考えれば考えるほど、なんで朝陽がただのベータでしかも男の俺をこんなにも好きなのかが分からない。そもそもあいつは男が好きなのか? という疑問も、これまで朝陽に聞いていなかったことに今更ながら思い至った。更に気付く。そういえば、朝陽の過去の恋愛話を一切聞いたことがないことに。  ……あれ? 俺、もしかして過去の朝陽のことを殆ど何も知らないかも?  朝陽の家族構成は聞いたことがあるけど、後は殆ど朝陽が質問して俺が答えて、だった気がする。  原因は――多分、俺が避けてきたから? 家族の話題も過去の恋愛話も、俺は自分からすることはなかった。朝陽に尋ねることもなかった。何故なら、聞き返されると何と答えたらいいか分からなそうだったからだ。三年付き合いのある安西にだって、あいつが振られたと泣きついてこなければきっと今も話してなかっただろうと思う。  だからって、どんな大学生だったのかとか、どんな運動をしてきたのかとか、何も知らないのはどうなんだよ。いくら俺が事なかれ主義で穏便派だとしたって、もう少し尋ねてもいいんじゃないか。  初めて朝陽のマンションに行った時、ぐいぐい尋ねないことについて朝陽に「ちょっと淋しいけど」と言われている。つまり、朝陽はもっと色々尋ねてほしいって望んでるってことじゃないか。  俺は朝陽といる時、怒らせないかなとか、間違ったことを言ったらどうしようとか、そういう余計なことを考えなくなっていたことには自分でも気付いていた。  気付かない間に、朝陽といる時間が心から安堵できる時間に変わっていたんだ。 「……もう少し聞いてみてもいいかな」  次に会うのは、今週末の予定だ。その時朝陽は、朝陽の宝物を持ってくると話していた。  つまり、俺に朝陽の秘密を話すつもりだってことだ。  朝陽が勇気を出してくれるんだ。だったら俺だってもうちょっと勇気を出して、頑張らないでどうする。  かなり強引に、俺と身体を繋げた朝陽。最初は振り回されるばかりで流されている感が半端なかったけど、あいつが全力で俺にぶつかってきてくれたからこそ、何事にも消極的な俺が今こうして幸せを感じられているんだと思う。  与えられるだけが幸せじゃない。勇気を出すのだって、片方ばかりがやることじゃないだろう。 「――うん、そうしよう」  俺もちゃんと朝陽に向き合いたいから、週末に自分からもっと深く聞いてみよう。  心の中で決めたら、これまで漠然と抱えていた見えない将来への不安が少し薄れた気がしてきた。

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