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第2話 再会

1 再会  枕元でスマホが鳴った。最小設定のバイブ音だったが、 「はい。音丸です」  即座に応じた。  柏家音丸(かしわやおとまる)はどんな時でも電話に出る。  たとえベッドで抱いている奴がすさまじい形相で睨んでいても。  寄席の夜席が開く十七時前のことだった。  山手線が電気系統の故障で全線ストップしている。車内に乗客を閉じ込めたままで。  中には寄席に出演するはずの落語家たちも乗っていた。  そう電話を寄越したのは、新宿の楽屋にいる立前座だった。 「音丸あにさん、新宿まで来られませんか?」  緊急事態に驚いて、実はかなり妙な電話だったと気づくのはもっと後になってからである。  この時は何も考えずに答えていた。 「わかった、すぐ行く。大丈夫、山手線じゃない。地下鉄一本で行ける」  身体の下には天然パーマの奴がいる。有体に言えば、つながっていた。  それがもぞもぞと一人でベッドを抜け出しても止める手立てもない。  漆黒の巻き毛が音丸の手を離れてバスルームに向かっている。  白いうなじから肩、背中に至る線の色っぽさときたら無敵である。  腰のくぼみに今一度口づけを……  いや、ただスマホを握って見送るだけの音丸である。  新宿からの電話を切った後も電話は続いたのだ。  今度は落語家協会から池袋の寄席への代演依頼だった。  寄席とは落語のライブ会場である。  落語以外にも漫才、講談、太神楽などの古典芸能を毎日休まず上演している。  どれぐらい休まないかといえば、太平洋戦争の最中でさえ営業していたのだ。 〝欲しがりません勝つまでは〟〝贅沢は敵だ〟〝撃ちてし止まん〟etc.  お国が戦意高揚のスローガンを掲げている時に、落語で笑わせていたのである。  なのに2021年のコロナ禍で寄席は休業せざるを得なかった。驚天動地の出来事だった。  だから山手線が止まって落語家が来られないぐらいで休むわけがない。  空いている芸人を探して高座に上げるだけである。  落語家とは寄席に雇われて出演する個人事業主である。  それらが所属する団体が落語家協会、落語芸能協会などである。  今や寄席も協会も慌てふためいて代演可能な落語家を探しているのだった。 「わかりました。新宿に行ってから池袋に回ります」  などと答える頃には淫欲も冷めていた。  奴がバスルームで盛大に水音をたててシャワーを浴びているのは抗議の意だろう。  珍しく二人揃って休日で翌朝まで共に過ごす(やりまくる)予定だった。  肌を合わせていちゃついてキスなど楽しんだ後、いよいよひとつになったところで枕元の電話が鳴ったのだ。 「あんた消防士⁉ それとも救急救命士⁉」  バスルームから大声で問われれば、 「いや。落語家だけど」  真面目に答える音丸である。 「ふつう出ないでしょう! ああいう時、電話なんかに」  噛みつくように言いながら出て来た奴と入れ替わりにシャワーを浴びる。  身支度を整える。シャツもデニムもジャケットも黒一色である。  汚れが目立たなくて楽なのだ。無印GUユニクロといったラインナップ。  靴下だけ白いのは、足袋を忘れた場合に代替えになるからである。  明日からの地方公演に備えて着物が入ったザックやスーツケースは部屋に持ち込んである。  翌朝はここから出立するつもりだった。 〝後朝の朝〟なんて古い言葉を思ってにやけていたのだ。  取り急ぎ今日の衣装が入ったザックを背負って部屋を出ると、 「これも持ってけば?」  玄関ドアの隙間からスーツケースを投げ出された。 「もう会わない!」  閉ざしたドアの向こうでわめいている。  黙ってキャスター付きスーツケースを引いて歩き出すと、 「別れるって意味だからね‼」  と背中に追い打ちをかけられる。  特に答えず足早にマンションの外廊下を歩いて行く。  つきあい始めて一年半ほど。  もともと恋人など望んでいなかった。  単なるセックスフレンドでよかったのだ。  潮時かな……と思ったりする。

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