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第3話 再会

 天然パーマの奴に部屋を追い出され、音丸は新宿の寄席に駆けつけた。  柏家音丸(かしわやおとまる)は落語家としては二つ目という修行中の身分である。  本来なら開演後の浅い時間帯にしか高座に上がれない。だが緊急の代演で与えられたのは、これまで経験のない仲入り後の時間帯だった。 新宿に続いて池袋にも(地下鉄で)駆けつけたが同じく席亭の判断でそうなった。  緊張はしたが満足できる出来だった。  客席にはいつもの寄席マニアや、どこで代演情報を仕入れたのか音丸のコアなファンまで顔を揃えていた(寄席は客席の明りを落とさないから高座から客の顔が見えるのだ)。  アクシデントで妙にテンションの上がった落語家達は、寄席がはねた後も遅くまで呑み歩いた。  音丸も最後までつきあって、明け方に二つ目仲間のアパートに転がり込んで雑魚寝をしたのだった。  その間スマートフォンを確かめることはなかった。  そもそも音丸はスマホは常に音が出ない設定にしてある。電源を切ることも多い。楽屋で鳴って高座に支障を来たさないためである。  電話だけ最小音でバイブ機能にしてあるのは、個人営業の落語家は直接スマホに仕事依頼が入るからである。故に昨日あの状況でも電話に出られたわけだが。  朝になって新宿駅から特急電車に乗った。  グリーン車の座席に着くなり眠気が兆していた。重い瞼が閉じようとするのを堪えてスマートフォンを確かめた。  音丸は切れ長の一重瞼である。居眠りしそうになる度に「目が糸になってる」と笑ったのは誰だったか。  実のところ昨日は寄席で客席を見ながら、ああは言ったものの遅れて奴も見に来るのではないかと少しは期待していたのだ。だが遅れて入って来たのは、音丸ファンサイトの運営管理人ぐらいだった。  ではスマホに何らかの連絡があるかと思えば出て来るのは業務連絡ばかりだった。  昔ながらの礼儀が重んじられる世界である。昨夜の代演に対するお礼やお詫びが、協会からも休演せざるを得なかった落語家からも届いていた。留守電もLINEもメールもそればかりである。  ついでにファンサイト管理人からは代演に対する感想が届く。 〈音丸さんは切り立った崖っぷちに座してお客様を笑わさずには帰さないという気迫に満ち満ちていました。  二つ目なのにヒザ前というお席亭の大英断にあなたは見事に応えました。私は感動せずにはいられません〉  褒められているのは理解できるが、いつも少しわかりにくい文章ではある。  ともあれ、奴からは何の音沙汰もなかった。普段なら少しばかりの諍いの後は何もなかったかのように連絡を寄越すのに。  やれ起きたの寝るの会社に行くの飯を食うのと由なしごとを伝え来る。ちびドラゴンのスタンプだけのこともある。奴のアイコンは小さなドラゴンなのである。  ふと、こちらから昨日のことを謝ろうかと頭を過ったが気が進まなかった。いっそこのまま関係が切れてもいいような気もしていた。  もやもやした気分でスマホをしまうなり深い眠りに襲われる。いや、先に寝るわけには行かない。主催者が取ってくれたチケットは、同じ車両に今日の落語会の主役、柾目家逸馬(まさめやいつま)が乗るはずなのだ。  上下関係に厳しい世界である。二つ目ならば立ち上がって挨拶をしなければならない。それまで起きていなければ思う間もなく、どすんと音を立てるように眠りの底に落ちていた。  深い夢の中で音丸は、昨夜の高座を再体験していた。  何故かそこでは奴が客席正面かぶりつきに居て、頬を染めて笑っている。そのたびに天然パーマもふわふわ揺れる。何故か奴は、 「音丸あにさん! あにさん!」  と叫んでいる。 だが目を覚ませば、 「音丸あにさん! 起きてください! 降りますよ。乗り換えです」  と言いながら、強く肩を揺すっているのは高校球児のような短髪の前座だった。  昨日、新宿の楽屋から電話を寄越した立て前座の柾目家咲也(まさめやさくや)だった。  立て前座とは楽屋で働く前座のリーダー格である。その地位になれば二つ目への昇進も間近である。  落語家の階級は、見習い、前座、二つ目、真打とある。  これと決めた真打に弟子入りを許されれば、まず見習いになる。  見習いを終えて前座になると寄席の楽屋働きを許される。とはいえ前座は虫けら同様で、名前も人間離れしているものが多い。柾目家咲也などは大層まともな前座名である。  前座が二つ目に昇進すると、羽織袴の着用を許される。名前を変えることも多い。師匠の命名でやっと人間らしい名前を与えられるのだ。  二つ目修業を終えて真打昇進するには十年近くかかる。それでやっと一人前の落語家なのだ。〝師匠〟と呼ばれるようになり、弟子をとることも出来るようになる。 「今日の前座……咲也なのか」 目をこすりながら音丸はまたぽんやりした違和感を覚えている。それが形を成す前に咲也が、 「あにさん、今日はよろしくお願い致します」  と、こちらに頭を下げていた。  そして前の席に大師匠の柾目家逸馬も乗っていると伝えるのだった。派手な鼾が聞こえるのは逸馬師匠も居眠りをしているようだった。そもそも落語家は昼過ぎから稼働する生き物である。朝早い電車など誰しも眠って移動するのだ。 「昨日も、ありがとうございました。逸馬師匠が音丸あにさんを呼べとおっしゃったんです」 「ああ……だから……」 「明日いえ、今日ちょうど新宿から同じ電車に乗るんだから都合がいいとおっしゃって」 「……なるほどね」  頷いているうちにようやくはっきり目が覚めた。  落語家協会所属の音丸が何だって落語芸能協会の芝居(興行)に呼ばれたのか?  昨日からの違和感に気づくと同時に謎が解けた瞬間だった。  私鉄の鄙びた駅前にホテルの送迎用マイクロバスが待っていた。泊り客が着くには少しばかり早い時間だが落語家達を迎えに来たようだった。  運転しているのは、大福もちのような丸々とした容貌の中年男である。ホテルオーナーの孫だと自己紹介したのは、つまり若旦那だった。 「お疲れ様でした。朝早くに東京を出られたんでしょう。さあさあ、お乗りください」  と若旦那は咲也が持て余している大師匠の重い革のスーツケースや音丸のキャスター付きケースを取ると、手際よく車に積み込むのだった。  老師匠、柾目家逸馬はさっさと車に乗り込んで、また鼾をかき始めた。咲也が通路を挟んで隣の席に座った。音丸は二人の後ろに乗ろうとしたのだが、 「音丸さんはこちらにどうぞ」  と若旦那に誘われて、仕方なく助手席に乗り込んだ。  車が渓谷を走るハイウェイに乗ると音丸は言葉を失った。見事な絶景である。フロントガラスに新緑の山々が迫り来る。 「手前どものホテルは山頂にあります。館内に長野県と群馬県の県境がありましてね。だからオーナーは落語会を始めるにあたって〝山の県境落語会〟と名付けたんです」  などと話しているうちに、 「あれは何でしょうね?」  とブレーキを踏んだのだ。  そして今にもガードレールから飛び降りそうな若者を保護した。  音丸が見下ろした若者の髪はサラサラで天使の輪が光っていた。そして、 「たっぱちゃん?」  と昔の名前で呼ばれたのだ。  

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