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第40話 寒い部屋

 音丸はと言えば、その場に立ち尽くしそうになったが無理にも身体を動かした。黙ってスタジャンを着て玄関に向かった。  靴を履いていると「違う」と変に裏返った声が背中に飛んで来た。  部屋を飛び出して外廊下を駆け下りようとしたが、きちんと結んでいなかった靴ひもを踏んで階段を踏み外す。転げ落ちそうになって手摺りを掴んで踏み留まると、 「待って、音丸さん‼ 違うよ! 違うんだってば!」  背後から声が降って来た。  前より急いで足を動かす。児童公園の前を通り過ぎようとしたところで背後から抱き着かれる。渾身の力を込めてそれを振り払う。 「あっ!」という声と共に背後で誰かが派手に地面に転がる音がする。 「違うよ、たっぱちゃん‼ 寝て、眠ってただけ!」  と、また誰かに背後から腕を掴まれて、反射的に胸倉を掴む。拳を振り上げて顔面に叩きつけようとした瞬間、思い出した。 「何もしてない‼ 僕は女の子のが好きなんだ‼」  これは仁平師匠の孫である。この男に何かあれば師匠の笑顔が消える。  考える以前に拳は寸止めになった。鼻先に当たらんばかりの拳を若い男が両手で握って胸に抱いた。 「ごめん。違うんだ。ただ話を聞いてもらってただけ」  見上げて言う口からは言葉と共に白い息が吐き出されている。動く度にサラサラ揺れる直毛は、街灯の明りで頭頂部に天使の輪を光らせている。この尊い顔が仁平師匠を蕩けさせ、中園龍平までも虜にした。 「僕には好きな女の子がいて恋愛相談ていうか……」 「咲也にはふられたんだろう」  鼻先で笑ったつもりだが声はひっくり返っていた。  意思と反して息がひゅっと吸い込まれる。  にわかに顔面がかっと熱くなり、目に涙が噴き出していた。濡れて視界がまるで効かない。  音丸は息も出来ない程に嗚咽を洩らし、滂沱と涙を流しているのだった。 「えっ⁉ たっ……ぱちゃん‼」  と悲鳴にも近い声を上げる身体に抱き着いて号泣する。そうしないと地に崩れ落ちそうだった。驚愕は音丸自身も同様である。 「だから! 何でそっちなんだよ‼」  地団駄を踏まんばかりに叫んでいる奴もいる。  いつの間にか音丸は魔法のようにリレーをされて別の身体にしがみいている。  顎にこそばゆく触れるのはくるくる巻いた天然パーマである。取りすがっているのは師匠の孫ではない。そう気づいた時に、思わぬ言葉が飛び出した。 「おまえまでそれかよ‼」  自分でも理解できない言葉が口をついて出る。 「龍平まで裏切るのか‼ みっちゃんのがいいのかよ⁉」  龍平が何か叫んでいるが耳に入らなかった。 「みんな……みんな無視する‼ 誰も庇ってくれなかった‼」  音丸は慟哭のあまりすがる力も失い、地べたに打ち伏した。這いずって拳を握って雄叫びを上げている。 「楽屋でシカトされて、仁平師匠は……師匠まで謝れと……女なんか触ったこともないのに! 何で……何を謝るんだ⁉」  一体自分はいつのことを喚いているのか?  とっくに騒ぎは収まって年も改まったと言うのに。  そう思ったのは冷静になったずっと後のことである。今はただ思いもよらない言葉を涙の奔流と共に吐き出していた。 「どうせホモだよ‼ 男とやる奴だってバカにされてシカトされて……今度は女を触ったってガン無視かよ⁉」  ふいにホームに電子警告音が響いた気がした。  線路などどこにもないのに。  傍らの児童公園にはパンダやゾウの遊具があるだけである。 「もういい‼ もう……やっとここなら師匠も、みんなも認めてくれて……ここでなら生きて行けると思ったのに……」  まるで制御が出来なかった。涙に咳き込みそうになりながら地に蹲って咆哮を上げていた。 「でも、もう生きてたってしょうがない‼ もう死んだっていいんだ‼」 「僕は音丸さんが死んだら嫌だよ」  誰かが耳元で言っていた。冷えた耳朶に温かい息と共に囁かれる声。 「ねえ。死んじゃ嫌だよ。僕をおいて行かないでよ」  その時やっとわかった。  あの時ホームで線路に向かった足を止めるべきは、この声だったのだ。 「濡れ衣……龍平だけが言ってくれた。濡れ衣だって……誰も信じてくれなかった」 「信じてるよ。音丸さんは何も悪くない。みんな知ってたよ。百合絵さんだって。ファンのお爺ちゃんお婆ちゃんもすごく心配してた」 「じゃあ、何でおまえは‼ 何でこんな寝小便たれのガキと……龍平だけが……なのに、これかよ⁉」 「だから誤解だってば。紛らわしいことしてごめん。僕はいつだって音丸さんのものだよ」  ようやく状況を把握する。音丸はマンションの階段を降りた先の地べたに座り込んでいる。それを抱きかかえるようにしているのが龍平だった。傍らで欅の巨木が見守っている。  いや。自分は龍平ともう別れている。ふられたのだ。他の男と寝ていたからと責められる立場にはない。  理性らしきものが蘇って来ておろおろ辺りを見回した。師匠の孫の姿はどこにもない。  少し離れた道を中年の夫婦連れらしい足音が通り過ぎて行く。 「いやだわ、酔っ払い?」 「正月だからな」  ふふふと笑って龍平が、 「お正月だもんね」  首っ玉に腕を回して強く抱きつく。  音丸もその背に両手を回して巻き毛に顔を埋めてみる。目の前に見つめた瞳はきらきら輝き、何だ星はこんなところにあったのかと思ったりする。  厳冬の星空の下、地べたに座り込んだ男二人がひしと抱き合っているのだった。

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