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第41話 寒い部屋

 三弦が自分が何をしたのか気がついたのはトイレで長い用を足している時だった。  トイレの外では龍平が大声を出したり、音丸が出て行く荒々しい足音が響いたりしている。  アルコールのお陰でいつまでも続く排泄がようやく終わってドアを開けた途端に、向こう側から押されてまたトイレに閉じ込められる。服を着て外に飛び出した龍平があわててトイレのドアに手を突いたせいらしい。そのドアを開けてみれば室内には誰もいなかった。  ようやく頭が働き始める。自分は同性愛の恋人同士の片方と共にベッドで寝ていたのだ。しかも裸で。落語的に言えば〝間男〟である。  にわかに青ざめて必死で服を着た。そして転げるように部屋を飛び出したのだ。  かつて真剣のように尖った目をしていた音丸である。半殺しの目に遭うかも知れないと怯えていたのに、事実はまるで違っていた。  たっぱちゃんが泣いたのだ。  三弦には驚天動地の出来事だった。  大きくて強いたっぱちゃんは決して泣いたりしないはずだった。なのに。 「咲也にはふられたくせに」  と、能面のような表情だった音丸の瞳から涙が溢れ出したのだ。  名人の彫師が一閃の元に切ったような一重瞼から涙はぽろぽろ落ちて来る。たちまちそれは泣くなどという生易しいものではなくなった。獣の咆哮のような声で鳴き喚いている。  気がつけば三弦は音丸に抱き着かれているのだった。肩に顔を伏せて身も世もなく咽び泣く音丸の背中を震える手でそっと撫でてみる。 「だから! 何でそっちなんだよ⁉」  傍らで龍平が地団駄を踏まんばかりにして叫んでいる。  まったくである。  三弦はいきなりしゃがみ込んだ。三弦に抱き着いていたはずの音丸は、支えを失い踏鞴を踏んだ。それを支えたのが龍平である。あるべきものはあるべきところに納まった。  三弦が部屋に戻って荷物を持って出て来る間も、欅の大木の陰で二人はまだ抱き合っていた。すすり泣く音丸を龍平が何やらなだめているようだった。  暴漢に抱き着かれた時逃げ出す技は、かつて音丸に教わったものである。唐突に下に抜ければ暴漢は力の向け先を失う。その隙に走って逃げろと教わった。  だから三弦はとっととその場を逃げ出した。  地下鉄はまだ動いていた。と言うか、時刻はまだ二十二時を過ぎたばかりだった。ホームの時刻表示を見て思わず目を擦った。てっきり夜中を過ぎていると思っていたのだ。  地下鉄に乗って横浜の実家に向かっているうちに気が変わった。  まっすぐ新宿の高速バス乗り場に行った。乗り場は大荷物を引いたスキーやスノボ客で大変な混雑である。長野行き高速バスに何とか確保したのは三列並びの中央の座席だった。明りが落とされ車窓も見えない席で、三弦は眠るに眠れなかった。既に熟睡した後なのである。    ベッドに入る前に三弦が服を脱ぎ始めた時、龍平が妙な声を出した意味が今ならわかる。 三弦が同性愛行為に誘っていると疑ったに違いない。  だが龍平にもその気があったのではないか?  何しろ自ら裸になったのだ。三弦はふられたのだし向こうも別ればかりである。慰め合うには格好の相手ではないか。  とはいえ公園の前に残して来た二人の様子を見れば、とても別れたとか浮気心とか考えられないのだった。  三弦が落語家ではない普通の家庭に憧れているように、中園龍平も純粋に礼儀正しい日本人になりたかったのだろう。あれは単に仁平一門の躾に過ぎないのに。

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