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chapter 8 影音’s Depression

 その日、影音は街の外にいた。  紺の衣をはためかせ、馬に跨り駆ける姿が、若く凛々しい。もしも彼のこの姿を見れば、街中の娘が夢中になったことだろう。  だが一緒にいたのは仲間内の一人と、城主の元の人間が一人。筋肉が自慢の男と、ろくに戦うことも出来ない、内勤の中年男である。娘の一人でもいれば、その凛々しい姿が後で噂にもなっただろうが、むさ苦しい男のみなのが惜しまれる。  当初から先頭を走っていた影音は手を挙げ、後ろの二人に合図した。彼の馬が小高い丘に向け、緩やかに進路を変える。  影音は馬の扱いに慣れ、駆けるのも早い。後ろの二人が追いついた時にはもう、影音は馬を降り、どこか遠くを見ていた。その眼はいつになく険しい。 「大佬(ダアラオ)、どうしたんだ?」  影音の仲間である(ヤン)が近寄ると、影音は顎で先を指す。それはここからは遠い、どこかの森である。  一足どころか百足は遅く、城主の元で働く男の馬が到着した。しかし男は馬から降りようとして、二人の後ろで派手に転ぶ。長時間馬に乗ったことがないため、手も足も言うことを聞かないようだった。屁っ放り腰で立とうとして、危うく馬に蹴られるところである。馬は迷惑そうに鼻を鳴らし、男から離れた。馬の方も、手綱捌きが下手くそな男を嫌っているようだ。  影音に目配せされた楊は白目をむきながら、仕方なしに男の側へ行った。腕を掴んで無理に立たせる。幸いにも、手も足も捻っていない。だが指先ほどの擦り傷を見つけ、大の男が情けない声を上げたのには、ここまで我慢していた楊も、その頭に拳骨を食らわせてやりたくなった。 「二人ともどうしたんです。急に止まるなんて。目的地はまだ先ですよ。早く着かないと、夜になってしまう。夜になったら魔、魔物が……」  言えば魔物が現れるとでも思ったのか、そう言って怯える。  そもそももし遅れるとすればそれは、足でまといのこの男のせいだ。  楊は喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。満足に馬で駆けることも出来ない人間を、結界近くの危険な場所に連れていくこと自体、最初から気に食わなかった楊だった。これなら花を連れてきた方が、一千倍はましである。  だが城主の元で働く者をあまり邪険に扱うわけにもいかず、湧き上がる怒りで顔面を引き攣らせながら、楊は男の肩に手をかけた。 「叔叔(シュウシュウ)、問題ないさ俺たちなら。ちょっとは落ち着いてくれ。街を出る前から、ずっとそんな調子だろ。こっちが落ち着かない」  何が一番楊の癪に障るかといえば、この叔叔、とにかく怖がりなのである。  草むらが小動物で動けば腰を抜かす。自分たちに驚いた鳥が飛べば馬から落ちる。おまけに一人で小便も出来ない。ちなみに、付き合わされたのは、もちろん楊である。  楊は怯える男に馬を見ているように告げ、影音の元へ戻った。  影音の精悍な横顔が、やはり森の方をじっと見つめていた。目を細めてその方角を見ると、確かに何かが森の上空にあった。黒いものが幾つかに分かれ、空を漂っているように見える。 「鷲……じゃない。鴉か?それとも椋鳥か」  だが鳥にしては、少々妙な飛び方ではある。 「あの数で鴉なら、死肉があるな下には」  影音が頷く。 「向かう村は、なんて名だったっけか?忘れちまった」 「柳南州(リウナンジョウ)。元は地域を差す名だが、地域にはその村ひとつしかもう残ってない。ちょうど……、あの方角だ」  鳥のような物体は、上空をグルグルと回っているようだった。薄っすらだが、ここからでも確認出来る。それが鳥であるなら、纏まった数が飛んでいるか、もしくは通常よりも大きい鳥ということになる。  だが影音の勘は、そうは言っていなかった。 「嫌な予感がする」  そう言って楊を振り返る。 「楊、ひとっ走りして、後から使える者を数名連れてこい」  だがその案に楊はひどく反対した。 「冗談だろ!あんな、それこそ鳥の餌にしか使えない男を預けたせいで、もしあんたに危険があったら、俺は仲間に死んでも許してもらえない!」  楊がどうしても引かなかったので、影音は仕方なく、当初の予定通り三人で向かうことにした。 「この先には湿地がある。迂回して、先に東の山の麓へ行く。そこにも村がある。そこで荷物を降ろしたら、村で腕の立つ者を数名借りて行こう」  荷物とはこの場合、足でまといの男のことである。  怖がりの男は、この提案に不満げだった。しかし城主からは、精悍な顔つきの、この若い男の指示に従うように言われている。そして野外に慣れ、魔物との戦闘経験も豊富な二人に、着いていくしかないのが現実だった。  そんな頼みの綱の二人の緊張した様子に、男の恐怖は跳ね上がった。慣れない乗馬で痛む尻に涙ぐみながら、急いで二人の後を追う。置いていかれてはかなわない。 「大佬」  楊は影音の馬に自分のを寄せた。 「なんだ」  影音は速度を落とした。後ろに目をやり、怖がりな男がきちんとついて来ていることをついでに確認する。 「大佬、やっぱり、花に声をかけときゃよかったんじゃないか」  表には出さなかったが、その名前が出たことに、影音は内心うろたえた。 「なんでだ。あいつは……、魔物との戦いには向いてない」  それは半分は事実だった。やろうと思えば、花は剣でも戦える。以前はよく、二人で剣技を競い合ったりもした。筋力のせいで前線には不向きだ。しかし自由奔放な戦い方で、絶体絶命な道に血路を開く天賦の才を持っていると思う。  もう半分は、影音の身勝手な考えからだった。  花が傍にいては、気が散って戦いどころではなくなってしまう。  影音は知っていた。  どこか完全に安全なところに花を閉じ込め、それをきちんとその目で確認してからでないと、自分は戦えないのだと。 「それでも花はそこらの連中より、ずっと強いだろ。俺なんて、何回あの細腕で伸されたことか」  影音はこれに何も返さない。彼の眉間の溝が深くなったことに、楊は気づかず続けた。 「あの見た目だろ。それで喧嘩が強いんだ」  まるで自分のことのように、誇らしげに言う。  楊は、年下である影音のことを尊敬し、彼の後ろ姿に憧れさえ持っている。それと同じように花のことも尊敬し、まるで本当の弟のように可愛がっていた。 「街を歩けば、振り返る二人に一人は男だしな。この前も、街歩いてたら姑娘(グゥニャン)って呼び止められてさ……。暴れるあいつを止めるのが、魔物を狩るより一苦労だった」  思い出したらしい楊が豪快に笑う。だが舌を噛んでしまったらしく、悪態をつきながら顔を顰めた。馬を走らせながらは笑わない方が良い。  影音は自然と、自分の馬が徐々に速度を上げるのを感じた。手綱を持つ手に力が入ってしまったらしい。馬は楊を引き離し、そのまま先頭を駆けていく。  鼓動が早かった。思い出すのは、昨日の後悔だ。だが本当に問題なのは、後悔そのものより、花の乱れた姿を思い出し早まる鼓動の方だった。  影音が舌打ちする。馬は彼の不安定な感情を読んだかのように、大きく鼻を鳴らした。背の上の青年を少しでも慰めようと、美しい馬のたてがみが靡く。  影音の紺の衣の裾が、草原を撫でるように駆ける。風を切って進む姿は、何事にも迷わず前を向いて進むように見える。  だか影音は浮かない表情だった。昨夜の出来事が、彼の中で反芻し続けていた。  そもそも、影音が今回の仕事を引き受けたのは、街の外に出て、少し頭を冷やしたかったからだ。日帰り出来ない仕事は、それには好都合だった。     扉の前で立ち止まり、家の中の明かりがついていることを影音は訝しんだ。ここのところ、花が寝静まった頃に帰宅するようにしていた。この時間にまだ蝋燭の明かりがついているということは、中の人間は休んでないということだ。  その辺で時間を潰して来ようかとも、一瞬頭をよぎった。だが影音には何となく、なぜまだ明かりがついているのかが分かる気がした。  花とは長い付き合いである。ろくに話すらしようとしない影音に痺れを切らし、そろそろ仲直りのきっかけを作ろうとしている。それが花という人間が、この明かりの向こうでやろうとしていることだろう。  影音は一呼吸し、扉を開けた。仕切りの向こう側から、立ち上がる気配がした。 「おかえり」  寝巻きに一枚羽織った花が、影音を見てほっとしたのが分かる。 「……絵を描いてたのか」  囲炉裏の横には、普段花が描きものをする際使っている机が置いてあった。筆置きに寝かされなかった可哀想な筆が、紙の上で墨を濃くしている。  影音は呆れながら筆を拾い、きちんと筆置きに寝かした。そして紙に書かれてあるのが、絵ではなく字であることに気がつく。  台所に居る花が、手桶と手拭いを居間へ置いた。机の前で動かない影音に首を傾げたものの、再び台所に姿を消す。  紙の上の字は、お世辞にも綺麗とは言えない。あえて褒めるとするならば、花の性格が表現された味のある字、とでも言おうか。  影音の口元が緩む。字ですら人の心を解きほぐすのだ。本当に彼らしい。  影音は、外では滅多に笑わない。精悍な彼の顔は、笑うと年相応になる。それを知るのが極々僅かなことが惜しまれる、どこか可愛らしくもある笑顔だった。 「……何ひとりで笑ってんだ?」  茶を持って現れた花は、そんな影音に首を捻った。 「何でもない」  影音は用意された手桶で手と足を洗った。桶には湯が入っていた。冷えた手足がじんと温まる。  自分のために火を起こしてくれたことが、言葉にはしないが嬉しかった。口を聞かない間も、遅くに帰ってくる影音のため、湯だけは欠かさず沸かしておいてくれた。 「まだ使うなら、沸いてるぞ」 「分かった」  影音が台所で用事を済ませて戻ると、居間に花の姿はなかった。寝室を開けてみれば、彼は机を移動してそこで書いている。 「字を練習してるとは知らなかった」  布団の用意をしながらそう言うと、花がそっぽを向いて机を片付け始める。その耳は赤く染まっていた。書いた字を見られたことに気がついたのだ。 「まだ始めたばっかだ。続けるかどうかは分かんねぇよ」  言いながら、その耳を更に赤くする。内緒で練習して上手くなった頃に、影音に見せるつもりだったのかもしれない。  影音は、後ろ姿の花を抱きしめ、その赤く色づく耳に唇を当てた。腕の中で、相手が瞬時に緊張したのが分かる。  それでも影音は口づけをやめなかった。耳から耳の付け根に。そして花の匂いを嗅ぐようにゆっくりと、首から肩に唇を滑らせる。  緊張で固まっていた花も、肩に影音の額が乗ると、その肩から力を抜いた。  既に乱れていた髪紐を解く。漆黒の長い髪が白い肌の上を滑り、彼の香りがふわりと影音の鼻を擽った。風呂上がりなのだろう。髪がまだ濡れている。その体から香る彼の匂いは、とても自分と同じ生き物とは思えないほど良い。  清々しい草原の緑のような、瑞々しいの花のような。それでいて春に吹く風そのもののような……。  控えめで甘い蜜のように、彼の周囲の者を惑わす。 「……影音」  我慢の限界だった。  何か言おうとしたそれを遮り、手首を引く。そして半ば乱暴に、布団の上へ組み敷いた。 「……影……音……っ」  名を呼ぶ唇を奪う。すぐに侵入した熱い舌が相手の舌を絡め取り、その熱さは影音から一気に思考を奪った。  抵抗しようとしていた花だったが、影音がその気であるのを察して、体から力を抜いた。こうなった影音は、したいままにさせておくしかない。ましてや、仲違いしてもう一週間だ。ここでまた喧嘩してしまえば、更に憂鬱な一週間を過ごすことになる。彼には、選択肢があまりなかったのだ。 「……風呂に入って来たのか」  触れた影音の髪が濡れているのを感じ、不思議そうに見ている瞳と目が合う。散々味わった花のその唇は真っ赤で、しばらく絡めていたせいで舌の回りが少しおかしい。呂律が回らず、それは舌足らずな口調だった。 「血を浴びた。そのまま街に出れないだろ。城主のとこで風呂を借りた」  こんなにも熱を感じている自分とは違い、考え事すらしているふうな花に、影音は苛立ちを隠せなかった。  影音は花の唇から、再び呼吸を激しく奪った。性急な口づけになす術がない花がそれでも、服の隙間に入ってきた手を何とか止めようともがく。きちんと括ってなかった腰紐が花の腰で絡まり、苛立った影音は乱暴に前をはだけさせる。腰だけ服が残り、裸よりも卑猥だ。 「……あ……ッ」  前に触れると、花の体がびくりと痙攣する。影音は自身の腰を意図的にそこへ押しつけた。押しのけようとする花の片膝を、力で押さえ込む。  お互いのものが反応している。それを確かめたかった。  暴れだした両手を一纏めにすると、花が目を大きく見開く。瞳にははっきりと、恐怖が浮かんでいた。 「影……音……っ」  だが影音は聞こえないふりをした。  腕一本で布団へ押さえつけられた花は、裸同然だった。  吸い付くように滑らかな白い肌。濡れた赤い唇。そして何より堪らないのが、この香りだ。  香炉や化粧では嗅ぐことのない、花の匂い。花の全てが、影音の理性を奪う。  影音の指が触れるところ全部、花はいちいち悶えた。その体も花自身より知り尽くしているかのように、大きな手は敏感な箇所を執拗に責めていく。 「影音!」  影音が下穿きに手を入れた瞬間、花の抵抗は激しくなった。拘束から逃れようと、足をばたつかせて暴れる。だが影音の力の前では、彼の力は無力に等しい。  影音は容赦なく、勃っているそれに触れた。花が息を呑んで唇を噛む。そうしないと、あらぬ声が出そうだったのだ。きつく噛んだ唇に血が滲む。気づいた影音は動きを止め、親指でそっとその血を拭った。 「噛むな。誰にも聞こえやしない」  平長屋で育った二人だが、数年前、その平長屋の離れの建物に住まいを移した。そこは元々管理人の婆さんが住んでいた。独り身で身寄りもなく、最期を看取ったのも花と影音である。そんな二人にこの家を残したのだ。  離れにあるため、壁の薄かった長屋の部屋とは違って、中の声も聞こえない。  血で更に真っ赤になった唇を指でなぞり、そしてまた口づける。舌を絡ませたまま、放置された下半身に触れた。最初は大きく、やがて小刻みに、影音の手の動きはどんどん早くなる。 「やめ、んん……ッ……」  花は大きく首を振った。長い髪が布団の上で散らばる。  反応を見ながら、手は何度も速度を変えて彼を翻弄した。 「は……ァ……影音……俺……もう……」  影音の手の中に、熱い液体が放たれる。放った後もまるで絞り出すように擦られて、花は身悶えた。赤くなった目尻に滲んでいた涙が、堪えきれずにこめかみを伝う。焦点の合わない視線が、ぼんやりと宙を舞った。 「……多いな」  手のひらの熱でいやらしく溶ける粘ついたそれを見て、影音が呟く。  荒い呼吸を繰り返す胸を眺めながら、影音の手が太ももを押し開いた。自身を放った衝撃で気力のない花は、抵抗したくとも体が満足に動かない。花が放ったもので粘つき濡れている指が、後ろの、硬く閉ざされた入り口に辿り着く。  花は自分の左足首に熱を感じた。だが身体中が熱く火照っていたため、すぐにそれに気づけない。  発作への備えがなかった。だから余計、その痛みは倍だった。  指が花の入り口へ触れた瞬間、花の心臓に大きな杭を打ちこまれたような痛みが走った。 「ああ!」  上がった悲鳴に拘束は解かれた。花は胸を両手で押さえ、布団の上でその痛みにのたうち回った。  足音の茜色の紐は光を放ちながら、その色を真紅に染める。 「ぅ……ぐ……」  影音は何もせず、ただじっと花が落ち着くのを待った。……いや、しないのではない。何も出来ないのだ。足首の呪術は、花の貞操を頑なに守ろうとする。相手が何者であろうと変わらない。どんなに本人が快感に溺れていようとも、酷い痛みが快感の波間から彼を引き摺り出す。  酷い痛みの発作が去るには毎回、ある程度時間がかかる。  花の息が少し落ち着いたのを確認した影音は無言で立ち上がり、一旦部屋から消えた。  冷たい水を手に戻ると、そこには猫のように体を丸め、布団に顔を埋めた花の姿があった。  顔にだけ引き寄せた布団に食い込んだ爪が白い。  彼は声をあげず泣いていた。 「……水だ。飲めるか」  影音の声にその肩が震える。布団を引き剥がそうとするも、強い拒絶だった。 「花」  辛抱強く待つ影音に、花はようやく布団を離した。鼻を啜り、影音が手渡した手拭いで素早く顔を拭いた。 「痛みは?」 「……引いた」 「足を見せろ」  だが身構えて、布団で体を隠す。触ろうとした影音の手も、強く拒否した。 「知ってるだろ」  それは小さな呟きだった。再び伸びてきた手を、花は叩きつけるように払いのける。 「俺が出来ないの知ってるだろ!発作で死にそうになるのも!」  なのに何で止めてくれないんだ――。  最後まで言わずともそれは分かった。 「じゃあ何で拒まない」  影音の声は硬い。 「嫌なら、唇を合わせた時に何で拒まない?服に手を入れて体に触った時も、……初めて抱き合って眠ったあの時に、なんで拒まなかったんだ」  あの時彼が影音を拒んでいれば、中途半端に開放されない熱を持て余し、隣で長い夜を過ごすこともなかった。 「……拒めばよかったんだあの時……。お前が嫌だと言ってれば……」  聞いているだけで痛い声だった。  はだけた白い肌を見ただけで、正気でいられないような気持になったのが先か、触れたその肌の温もりに夢中になったのが先か、影音には思い出せなかった。  幼い頃から一緒にいて、人生の苦楽を共にした。母親が亡くなった時も、一晩中傍にいて悲しみを分け合ったのは花だ。唯一の母親の存在が消えた後も、二人で何とか毎日乗りきった。花がいなければ乗り越えられなかった。頼りになる大人はおらず、二人で大人になるしかなかった。  だから、寂しさや不安で眠れない夜、互いを求めても不自然に思わなかったのかもしれない。  初めて触れ合った夜、花は影音を拒まなかった。  困惑した表情で影音を見つめ、彼の痛みを理解すると、花は突っぱねていた手をおろした。  それ以来、恋人でもない、兄弟とも違う中途半端な状態が、二人の関係を悪化せていた。  血気盛んな十代だった頃は、嫌がる花の後ろに触れるのを我慢出来ず、影音は何度か発作の発端になった。  二十歳を超え、年よりも落ち着いた雰囲気の影音を、周囲は冷静沈着な人間だと思っている。だがこれが、彼の隠している一部でもあった。感情に揺さぶられ、傷つけると分かっていても、自分を制御出来ない。 「奴にはどこまで許したんだ」  言われた意味が分からず、花はきょとんとする。 「亜蘭亭の店主のことだ」  その名前に青ざめた顔が色を失い、だが次の瞬間、彼の顔は真っ赤になる。その反応を見た影音は確信した。 「な、何馬鹿なこと言って、」 「俺が気づかないとでも?」  いつもより遅く帰宅する時、必ず誰かの移り香をその身に漂わせている。その相手が誰なのか探った影音は、それが亜蘭亭の店主だと知り愕然とした。亜蘭亭の店主は腰の低い、いつでもだれにでも笑顔を絶やさない、優美な大人の男だった。花の好きそうな感じの男だ。すぐに分かった。男の方も、花に好意を持っているのは明らかだった。だが花はそういうことにはめっぽう疎い。  ある日家で、無造作に置かれた小袋を見つけた。落としたことも気づかなかったらしい。中には小銭が入っていた。小銭といっても妙な額で、花の日当の三分の一はある。  その香りに気づいたのは、開けた小袋を閉じる時だった。その香りは、あの移り香と同じだった。嫌な予感が影音の頭を殴った。  その日の夜、影音はさりげなく、見つけた小袋のことを花に訊ねた。彼はその金を、残業分だと言った。目を逸らし、愛想笑いをするそれは、何かやましいことがある時の彼の癖だった。 「お前のしてることは娼妓と変わらない。分かってないのか」  影音の頬に強い衝撃が走る。  打たれても影音は目を瞑らなかった。真っ直ぐに花を捉える。  打たれて熱い頬には、影音の意識はなかった。ただ組み敷く相手の瞳から流れる涙を、心底美しいと思って見ていた。  濡れた目尻に口づけ、抱きしめて眠りたいと思う。朝になっても離さず、どこにも行かず、この家に二人だけでずっと生きていきたいと思う。 「少なくとも蘭は、俺を傷つける真似はしない」  自分以外の名前を呼ぶ口を塞いでしまい。自分以外の者がその肌に触れることを想像しただけで、腑が煮え繰り返りそうになるのだ。 「それに俺の意思でどうにかなるもんじゃないって、何回も言ってるだろ。何で信じないんだ……」 「信じてないわけじゃない」  口ではそう言ったものの、影音は実際疑っていた。足首の紐の呪術を、である。  過去、暴漢に襲われた時に始まり、術の発動の機は、花の心に起因していると影音は睨んでいる。花自身は気づいていないが、彼がどれだけ相手に心を許すかで、発動の機が異なる。紐自体が呪術の発動の機を決めているわけではなく、呪術はおそらく花の心を読み取っているのだ  本人がそれに全く気づかないことが、更に影音の焦燥感を煽った。あの店主に一体どこまで許しているのか、それを考えると居ても立っても居られなくなる。  黙ってしまった影音から、花は目を逸らした。 「……もう休む。……向こうで寝ろよ」  そう言った彼の声は涙と失望で、酷く掠れていた。  夜通し寝返りをうち、影音は結局眠れず朝を迎えた。  夜明け前の暗闇に包まれ、花は眠っていた。渇ききっていない涙の跡が痛々しかった。  起こさないよう気をつけながら、影音はその寝顔をしばらくじっと見つめていた。   「……大……大……大佬!」   影音は、はっと我に返った。楊が心配そうな顔で覗き込んでいる。 「……悪い。どうした」 「良い知らせと、悪い知らせが」  影音たちは、東の山の麓の村にいた。小さい村だ。影音は以前もここへ来たことがある。付近の魔物を退治し、日が暮れたため、一泊させてもらったのである。  影音のことを覚えていた村人は、魔物から村を救ってくれた影音に今回も丁寧に礼をし、必要なものを用意してくれた。だが人手に関しては、期待薄だった。  そもそも村には若い人間があまりおらず、ここ数年でその数は減る一方だ。若い者は皆街へ流れてしまう。残った数人も、魔物との戦闘経験などなさそうな者たちだけだった。 「良い知らせから聞こう」 「お荷物は、村で預かってくれることになった。俺たちが数日待っても戻らなきゃ、村の定期便と一緒に、街へ届けてくれる手筈だ」  これで足でまといの心配はなくなった。確かに良い知らせである。 「で、悪い方は」 「十日ほど前、西の風が強かったそうだ。その日、西から、魔物が死んで腐ってくのと同じ匂いが、風に乗ってここに香ってきたらしい。朝に強い血の匂いがして、その日のうちに、腐った生き物の匂いに変わったって言ってた」 「十日か……。城主が依頼を受け取ったのが、一カ月前だ」 「……駄目かねこりゃ」  楊も諦めの色を顔に浮かべた。 「蓋海に近い村は、みんな同じ運命だ」  楊の元いた村も、同じ末路を辿った。  蓋海との結界近くでは、魔物の被害が絶えない。そのための結界だったが、結界も物と同じく、使えば使うほど消耗していく。一度結界を敷いて展開すれば、生涯安全というわけではなく、そのための手入れが必要なのだ。だが辺鄙な場所にある小さな村のために、賢者や修行者がすぐに結界を修復しに来ることは、まずなかった。 「大佬、今回も結界を修復するのか」 「修繕だ。俺には修復はできない。状況を見て決める。村が壊滅にしろ、生き残りがいないか、まずそれが最優先だ」  楊が頷く。影音は無意識に腰の踊跃に触れた。荒野に出れば、頼れるのは背を預ける仲間と、この剣だけだ。 「出発は明日の日の出前だ。使えそうな者はいたか」  肩を竦める楊の仕草を見た影音が小さな息を零す。分かっていたことだが、この状況では仕方がない。 「薪小屋を使ってもいいって。大佬、この村でも魔物退治したのか?大佬の名前が出た途端、自分たちが薪小屋で過ごすから、家を使ってくれって。断るのが大変だったぜ」  影音はそれに何も言わなかった。  元来そういう人間である。花が明るい分、比べられ、冷たい人間と思われがちだが、力のない誰かのために力ある者が助けることを、当たり前だと思っている。当たり前だから、助けた者たちの感謝の言葉などに溺れたりしないのだ。  そんな人間が、少なくとも二人もあの街にいる。そしてそんな二人の仲間であり、一緒に戦うことが出来る。それが楊の誇りでもあった。 「大佬、明日に備えて、一杯付き合えよ」  そう言った楊が掲げたのは酒瓶だった。 「一体どこから調達したんだ」  影音は呆れ顔である。 「長老がくれたんだ。あんたに飲ませてやってくれとさ。頼まれたからには、断れないだろ」  調子のいい仲間に呆れつつ、酒を受け取る。  村の夕刻は穏やかだった。  遠くの地平線で夕日が静かに燃えている。囲いの向こうから牛の鳴き声があがり、小さな子どもたちがその側で笑い合っていた。  ふと視界に入った銀杏の木に、影音の目が留まった。  立派な木である。黄金に色づく葉で生い茂る枝が揺れ、カサカサと秋らしい音を立てている。  茶碗に酒を入れ、木の下まで椅子を動かした。少し向こうでは、村人とすぐに打ち解けた楊が、彼らとの酒盛りで騒がしい。  銀杏の木の下は、その喧騒も遠くなる。葉の揺れる音が全身に降り、それが酷く心地良い。 「大哥」  七歳くらいの子どもである。その手には、青菜をあえたらしい小皿を持っている。影音にやるよう、母親にでも頼まれたのだろう。 「村で足りないものはないか」  皿を受け取り、影音はそう尋ねた。男児は考える素振りも見せず、首を横に振った。 「大哥が魔物を倒してくれたから、また畑を耕せるようになったんだ」  嬉しそうにそう言う。影音は大きな手で、その小さな頭を撫でた。そして嬉しそうに去っていく後ろ姿に目を細める。  少年の頃の花を思い起こす。  楊が言ったように、その見た目のせいで、花は幼い頃からよく娘に間違えられた。影音の母である樂樂が節約のため、自身のお古や近所の娘たちにもらった着物のお古で花たちの服を縫ったことも、その原因を作ったと言える。  花は幼い頃から、芯がスッと真っすぐ通った、負けず嫌いな子どもだった。揶揄い、娘扱いした近所の年上の子に、殴りかかったはいいものの結局負け、ボロボロになって帰って来たことも一度や二度ではない。  影音は一度聞いたことがある。 「何で負けるって分かってて、殴りかかるんだ」  喧嘩の相手は明らかに花より大きい。背は高く、力もある。  その問いに、心底不思議そうな表情をした花を、影音は今でもよく覚えていた。 「――何で負けるって、分かるんだ?」  酒で焼ける体に、秋風が心地いい。  足元へ舞い落ちた銀杏の葉を拾おうとした影音だったが、葉に視線が合わず、指は二回も土を掴んだ。三回目でようやく葉を拾う。どうも悪酔いしたらしい。影音の口元から嘲笑が零れた。  立ち上がり、より大きな葉を探す。何枚か拾った後、そこから出来るだけ大きく美しいものを一枚選んだ。  木の下で突っ立っている影音を見つけ、楊が千鳥足で近づいてくる。途中机にぶつかり、椅子にぶつかり、そして犬の尻尾を踏み、酔っぱらった連中は、その姿に大盛り上がりだ。 「大佬!大佬!」  振り返った影音の手に、銀杏の葉はなかった。 「乾杯だ。ほら、乾杯!大佬と花神がいなきゃ、俺たちはあの街で死んだも同然だった」  酔った楊が唾を飛ばしながら、影音の肩に腕を回し、茶碗を掲げる。  明日は危険な場所へ行き、おそらく魔物に出くわすだろう。  そんな緊張感の欠片も見せない仲間を好ましく思いつつ、影音の夜はこうして更けていった。

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