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chapter 9 The Combat

 翌日、夜明けよりまだ数時間前。辺りはまだ暗闇である。  顔を洗い、簡単な朝食を済ませた影音が馬の様子を見に向かう。自分の足音以外に何の音もせず、沈黙が耳に煩い。朝晩の寒さは、冬が既にそこまで顔を覗かせていることを告げている。  家畜小屋の一角を借りて馬を繋いでいた。影音の馬は嫌がる様子もなく、豚と犬と同じ小屋でのんびりと藁を食べていた。彼の姿を見て、鼻を鳴らして挨拶をする。  他の二頭は城主の馬屋からの借りた馬だった。だが日頃馬屋へ行くことも多く、二頭とも影音とは顔見知りだ。二頭ともに人懐こい、良い馬である。今回二人のために影音が選んだ。  影音の馬も元々は城主の馬屋に居た。馬屋に通ううち、仲良くなった一頭だ。馬はすぐに彼を主人として認めた。今では他の者が勝手に乗ろうとしても、彼女の気に入らない相手であれば、暴れ馬と化し背から振り落とす困った癖まである。  湿った鼻を優しく撫でる。花も影音も、大体の動物には好かれる。  馬の手入れをしていると、長い尻尾を揺らしながら、猫が小屋の桟を歩いて来た。この辺りで餌を貰っているのか、腹回りがややふくよかだ。馬に臆することもなく、馬の方も鼻で挨拶をする。 「知り合いか?」  一頭と一匹は、どうも昨日のうちに知り合いになったらしい。まるで十年来の友と語り合うかのような、落ち着いた雰囲気がある。おかしなものだ。その大きさも、ましてや種族すら違うのに。  面白い光景にひとしきり猫の喉を撫でていた影音だったが、そろそろ楊を起こさなければならない。昨日たらふく酒を飲んでいたので、起きているかが心配だった。  影音が馬小屋を振り返ると、猫と馬は互いの体と顔をまだ擦り寄せ合っていた。  まったく、いつの間にそんな親密な仲になったのやら……。  出発すればあの一頭と一匹は、もう二度と会うことはないかもしれない。  そんな引き離しにくさを感じた自分を嘲笑う。  薪置き場へ帰ると、楊が小屋の前で背伸びをしているところだった。影音に気づき片手を挙げるも、拳が入りそうなほど大きな欠伸がそれを邪魔する。 「酒は抜けたのか」  だが楊の目は、海岸に打ち上げられた魚のそれと同じだった。  影音は湯を沸かし茶を入れた。二日酔いに効く薬草を自身の袋から取り出し、茶の中へ放る。楊は顔を顰めてそれを見ていたが、結局渡された茶を全て飲み干した。 「あー……苦い」  影音は二日酔いではなかったが、同じものを作って飲み干した。 「大佬、あんたも二日酔いなのか?全然そうは見えないぞ」  衣服も髪も乱れ放題な楊と違い、影音はこんな早朝でもきちんとしている。 「この薬草は眠気覚ましにもなる」  空にはまだ星が残っていた。ところどころ千切れた雲の合間から、月が恥ずかしそうに顔を見せている。 「雨になるかも……」  不安定な空を見上げ、楊は不安そうである。野外を馬で駆けるのに、雨は全く喜ばしくない。空を見上げた影音も、その重苦しい雲の層に眉を顰めた。 「夜には降るだろうな。早く行って、早く帰って来よう」  彼が何気なく言った一言だったが、それは楊の心で騒めく不安を取り除いた。影音が帰ってくると言えば、それは帰ってくるのである。楊は影音のことをこれまで疑ったことはない。これまでも、これから先もずっと。 「湯を沸かした。出る前に体を拭いて顔を洗え。それと、服も着替えろ。着替えを持ってきただろう」  まるで母親のような小言に尻を叩かれた楊は、驚いた表情で小さく呟く。 「まさかあれが本気で言ったことだは思わなかった。……持って来て良かったぜ」  街を出発する前に影音に着替えを持てと言われ、それが本気なのか冗談なのか測りかねた。楊にしてみれば、たった数日の野営である。着替えを荷物に詰めるくらいなら、道中の食べ物と酒と肴の方がよっぽど良い。そう思ったものの、言った影音の顔を思い出し、結局着替えを持った。彼の妻の菎菎がそんな夫の荷物を見て、浮気を疑ったぐらいだ。だがどうやら、持ってきた自分は正確だったらしい。  そう言う影音は、昨日と違う服を着ていた。だが色は変わらず、相変わらず黒に近い紺だったが。  素早く体を拭いて顔を洗い、着替えを済ませた楊が小屋を出ると、影音は崩れかけの塀にもたれて立っていた。彼の向こう側で、空が薄っすら白んでいる。  その立ち姿に何故か、楊は酷く胸を打たれた。そして同時に、今ここに花が居ないことが心底惜しいと思った。佇む影音の傍らにもし花が居れば、それでこの絵は完璧になる。芸術はさっぱりな楊だが、どういうわけか嘆きたくなるほど、そのことを口惜しく思ったのだった。 「行けるか」  影音は壁から背を上げた。彼の剣である踊跃は、これから起こるであろう戦いを受けて立つと言わんばかりに、その腰元で光っている。  馬小屋で手綱を解く際、思わず猫を探した影音だったが、その姿は見えなかった。当たり前だろうが、馬が気にする様子もない。  所詮は人の偽善が見せる幻なのだ。そう自身を嘲笑する。  影音は自分の弱さを恥じ、ずっと閉じ込めてきた人間だ。感傷的な柔な男では、大切な者たちを守ることなど出来ないからだ。  彼は子どもの頃から、母や花を守れるよう、一刻も早く強い男になりたがった。  守りたかった一人である母は、二人のために身を賭して働いた末病気にかかり、あっという間に逝ってしまった。花は残されたたった一人の家族だ。何より大事で、他の誰より大切な彼のことを守りたい。  だが現実は上手くいかない。  傷つけたのに謝ることも出来ず、結果こうして街を離れ、影音は花から逃げている。  それと同時に彼の胸に強くあったのが、花にとっての蘭という存在を認めたくないということだった。  あの店主が花にとってどういう存在なのか、知りたくもない。だが真実を知りたい気持ちも、常にそこにはあった。だがその真実は、影音が安堵するものでなければならない。まるで駄々をこねる子どものようである。  このままではあの家に帰れない。  街を出て以来ずっと、影音はそう思っていた。答えを見つけない限り、傍にいれば花を傷つけるばかりなのだ。  影音は馬を飛ばした。  彼の馬は主人の気持ちを察してか、速度を落とすことなく地上を駆けた。  楊が弱音を上げるまで駆け続け、そこでようやく速度を落とす。楊は泣き言を言ったが、だがお陰で柳南州へは予定よりも早く着きそうだ。  村へ向かう途中で、真っ先にその異臭に気づいたのは馬である。彼らは敏感な生き物だ。それでも人間を信頼する訓練を受けているため、向う方角を嫌がりながらも走ってくれた。  人の鼻にその異臭が届いた時は既に、村の一部が見える距離だった。有難いことに風上だったため、異臭の大部分が風に流れていたのだ。  だがそれでも臭いは凄かった。血生臭さと、腐った生き物の匂いが混じり、鼻がもげそうなほど臭い。  影音は楊に指示し、二人は口と鼻を布で覆った。馬を降り、徒歩で村の入り口らしき方へ向かう。二頭の馬は賢い。手綱を留めずとも、二人を乗せるまではこの辺りを離れないだろう。  入り口には、木の門らしきものが転がっていた。門は倒され、元の形が辛うじて分かる。そこを一歩入ると、思わず足を進めるほど、匂いは酷くなる。  影音と楊は目配せをし、二人は剣を腰から引き抜く。  最初に見た住居らしき建物は倒壊していた。原型を留めておらず、一部の木は焼けたような痕跡がある。この地域のほとんどは、木で出来た家だ。村の道には木片や柱らしき木が散乱しており、ところどころで二人の行く手を遮る。  それほど広い村ではなかったはずだ。  影音は数年前に訪れた際の記憶を辿った。朧げに覚えているのは、村の長老の家が池の側にあり、その周辺にも民家が数件あったことだった。  分かれ道に差し掛かる。記憶ではどちらも最終的に同じ道に出る。影音は指で左を指した。だが楊は右の道を見たまま、彼に気づかない。  近寄って初めて、楊の異変に気がついた。楊は目を見開いたまま固まっていた。肩に触れた影音にびくりと痙攣する。 「どうした」  楊は途方に暮れたような目で道の先を指す。その先にある道は普通の小道だった。だがその普通の道は途中から突然、真っ赤に染まっているのである。  影音はもう一度楊の肩を叩いて、顎でしゃくった。楊がギクシャクとした動作で後をついてくる。体がそこに行くことを拒否しているようだった。  それは明らかに血だった。人間のものなのかは分からないが、血に混じり、内臓が散乱している。錆びた鉄臭い匂いと腐敗した匂いで、さすがの影音も気分が悪くなった。我慢出来ず吐いた楊が、縋るように影音を見る。  道は、こちらとあちらで分かれて雨が降ったかのように、突然色が違う。血路は家三つ分ほどの距離を置き、その先でまた普通の道の色に戻っていた。  影音は、意気消沈した楊の腕を引いて元の分岐点へ戻った。風上に立つよう楊に指示し、自分も口を覆っていた布を下ろした。腐臭は相変わらず酷かったが、とにかくあの血の光景と臭いから解放されたことに安堵する。 「ありゃ、ありゃ一体……」  楊の動揺が激しい。無理もない。影音でさえ、あんな量の血を見るのは、人生で初めてである。この時影音は、花と喧嘩をして良かったと、心からそう思った。でなければ今頃花も一緒に、あの光景を見る羽目になったかもしれない。想像して身震いする。あんなものを、彼には絶対に見せたくない。 「楊、死体を見たか」  楊が青白い顔を横に振る。影音も同じく、この村に入ってから一体も見ていない。  足取りも重く、二人は先へ進んだ。原型を留めた家屋には中へ入り、生存者の確認をした。とある家屋の台所には、主人が使っていた姿のまま食材などが残されており、切っていた大根がそのまま干涸びていた。倒壊していた家屋とは真逆で、そこには荒らされた様子すらない。  進むにつれて、倒壊していない家屋は少なく、そして倒壊した残骸には必ず、焦げた痕跡が残っていることが分かった。火ではなさそうだ。火であるなら、乾燥したこの季節に燃え上がらないわけがない。火を吐く魔物もいるにはいるが、こんなふうに村を襲うものはこれまで見たことがない。  だが、おかしなことはまだあった。  幾ら進んでも死体が見当たらないのだ。この腐臭とあの血も、村人のものではないかもしれない。そんな淡い期待すら抱かせた、その時だった。  そこは長老の家の近くだった。小さな池があり、そこが風を受けるたびに陽の光を反射させる。だが池の様子の何かがおかしい。池の水面はこんなふうに、ドロっと滑った色だろうか。  近寄づくにつれ、それは確信に変わった。あの血まみれの道と同じである。水面は真っ赤に染まり、風を受けるたびにその赤い水面が波を立てている。  長老の家は倒壊していた。その周囲にあった家々も、全て無残な姿で瓦礫が散乱している。  影音は周囲を見回した。池は森の中に囲まれている。昨日見たのは、おそらくこの場所の近くのはずだ。上空を見上げる。だが昨日見た黒い影は、既にそこにはない。  池に近寄った途端、生臭い鉄の臭いが鼻をつく。真っ赤に染まる池は、この世のものとは思えない、近くで見れば見るほど、おぞましい光景だった。  池には家の残骸を含め、様々なものが浮かんでいる。死体がないか確認するため、どこか高台がないものかと周囲を探った。すると、池の半周ほどのところに、祠らしきものが建っているのが見えた。周りの木々が生い茂っているせいで、ほとんどが隠れてしまっている。近づいてみると、何かを鎮めるための祠らしかった。字は消え、祠自体も相当古い。  影音はこれからする失礼を先に詫びると、地面を蹴った。祠の屋根に乗り、前を遮る木を剣で薙ぎ払う。そうしてようやく池が見渡せたものの、特に目新しい収穫はなさそうだった。 「どうだ、大佬」 「やはり遺体はない」  諦めて降りようとした時だった。池にかけられた小さな桟橋の横に何か気になるものを見つけ、影音は屋根から飛び降りた。  近づくとそれは二本の溝であった。二本の間には幅がある。轍のようにも見えるが、幅は真っすぐでない。何か重いものを引き摺った痕のように見える。人を引き摺ったにしては、だがそれは重すぎる。相当な巨体を引き摺らないことには、こんな痕にはならない。 「どうにも分からないことだらけだな。……気をつけろ」  痕は森の中へ続いていた。楊と頷き合い、その痕を追う。  道を進むほど、腐臭の正体に近づいているのが分かった。  元々は村の者が作った道らしかった。高い木々が両脇に並び、陽の光もあまり当たらない。  少し行くと、突然開けた場所へ出た。そこでの光景は、これまでにないほどおぞましいものだった。  何十人もの人間が、一本の大きな杭に串刺しにされている。  大人も子供も、男も女も無造作に地面に横たわり、その胸や腹を杭が貫いているのである。  中には生後間もない赤子の姿まであった。その顔から出た杭が、次の人間の腹へ繋がっていた。  楊が茂みへ走り、そこで嘔吐する。杭はその場だけで六本あった。全ての杭に人間が刺さっている。 「死後十日ほどか……」  死体はどれも腐っている。蠅や蛆が酷く、獣や鳥が食べた痕もあった。確認しようがないが、おそらくは柳南州の村人であろう。  影音は腰を下ろして杭を調べ、それが家の梁であることに気づいた。梁の片方を削り、刺さりやすいよう先端を尖らせている。その杭にもやはり焼けたような黒い痕跡があった。  六本全てを確認し、草むらに座り込んでいる楊の元へ向かった。楊は項垂れて、ただ地面を見ていた。 「……一体どんな化け物がこんなこと出来るって言うんだ」  影音が慰めるようにその肩に手を置く。 「ここは危険だ。一旦村へ戻るぞ」  魔物は一般的に、その知能が高いほど、行為には理由がある。影音は実戦でそれを学んできた。そして影音の、この勘は正しかった。  楊に手を貸し立たせた瞬間、不快な音が聞こえ始めた。大きな虫の羽ばたきのような、唸り音である。それが森の奥から、影音たちの方へと近づいてくる。  影音は楊を茂みに突き飛ばし、自分も木の幹に身を潜めた。徐々に音は大きくなり、しばらくすると今度は声らしきものが聞こえてきた。だが声かどうか定かでない。それはあまりにもくぐもり、唸りの音の向こう側から出てこない。  影音はそっと音がする方を盗み見た。  森の奥の暗闇から、黒く濃い煙のようなものが移動している。それは広けた場所に出てきた。  影音が険しい目を細める。それは明らかに、街で花に襲いかかった正体不明の黒いものと同じだった。  人の足音らしきものが聞こえるが、黒いそれに足らしきものは見当たらない。足音は、先ほどまで影音がいた杭の前でぴたりと止まった。 「……おかしいな。人間の気配がしたと思ったのに」  少年のような声音である。  楊を見ると、彼は緊張した面持ちで頷く。その手には、既に剣が握られている。 「こんなに時間を無駄にするとは思わなかった。こんな小さい村なんかで」  黒い影が揺れて、人の刺さる杭が動く。腐った人間の一部がその衝撃で転がった。その黒い影が、杭を蹴ったらしかった。 「もうちょっと生かして、穢れを作っても良かったのかもな……。なぁ、見ろよ。この醜い死にざま」  黒い影が、上の一部だけ動いた。そこから覗いたのは、おそらく左目だ。黒い影の中に目が一つだけ浮いている。その目が、連なる死体を蔑むように見下ろす。その冷たい眼差しには、人間らしさをまるで感じない。  突然黒い影が伸び、串刺しになっている女の顔を包み込んだ。あっという間に女の顔は骨だけになった。  やはり蟲か。  影音の目がその正体を捉えた。  あの黒い正体はやはり、祸津獣(フオジンショウ)である蟲だった。その蟲が、主らしい者の体を覆っている。その数はおそらく数万にも及ぶ。  ……これは本当に鬼かもしれない。  これだけの数の蟲を操るとなると、相当の力が要るはずだ。一塊の魔物に出来る芸当ではない。  踊跃を握る手に汗が滲む。影音の喉仏は緊張で大きく上下した。  そもそもが、これほどの虐殺を行うような相手に会うのは初めてである。そのうえ、これがもしも本当に鬼であるなら、歴史的に見ても有り得ないような状況だ。  踊跃が小刻みに震えているような感覚に囚われた。しかしその震えは、自分自身のものだと気づく。恐怖と武者震いで、圧倒的に恐怖が勝る。 「美味い?ほんとかよ」  若い声の主は、蟲と話しているらしかった。蟲は再び死体の一部を覆い、その死肉を食った。  蟲は祸津獣(フオジンショウ)の一種だ。恨みや妬み、邪悪な感情が集まって生まれる。人間だけでなく、魔物からの思念からも生まれることがあると聞く。  それぞれ別の場所で生まれた陰の気、すなわち穢れが、呼応するように、別のところで生まれた穢れに惹かれる。結合をそれを繰り返すことで、より強いひとつの思念になり、祸津獣が世に誕生するのである。姿や形、大きさは様々で、集まった思念により形を変えると言われている。  いずれにしても、これほどの蟲が誕生するには、相当な年月が必要だ。 「あの女は?ここに連れて来いよ」  声が蟲に命令すると、若い娘の体を乗せた別の黒い集団が森の奥から現れた。乱暴に地面に降ろされた娘が、呻き声をあげる。  娘の姿は異常だった。頭からつま先まで真っ赤だ。ところどころ白い部分から、かろうじて肌の色が分かる。どうやらそれも血らしい。しかし娘のものではなさそうだった。  ……殺した村人のものか。  ここに来るまでの惨事から見ると、この犯人がしそうなことである。  蟲が娘の髪を引っ掴む。痛みに呻くのもお構いなしに、血まみれの娘の顔を腐敗した死体に近づけた。 「一人残らず全員殺したぞ。見ろ。嬉しいか」  娘は最初、それが何であるかを理解していなかった。気づいた瞬間、腰を抜かして転がる。悲鳴すら上がらない。 「おいおい、どうした?お前が望んだんだろ?村の奴らを見返してやりたいって。こいつらがお前の望みを教えてくれた。どうだ?嬉しいか?」  娘が激しく首を振る。恐怖で声も出ない様子だった。蟲は娘の手首を拘束した。 「チッ、何だよ、我儘な奴だな。……池に連れていって放り込め」  その一言に、遂に悲鳴があがる。だがその声は酷く掠れていた。 「血を染み込ませるんだ。よーくな。こんな塗った程度じゃ、全然分からない。染み込ませて、それでも穢れなきゃ、多分母胎として正解だ。……だよな?」  納得したのか声の主は、蟲と共に森へ来た道を戻って行く。  影音は楊に合図し、二人は池への道を戻った。蟲が娘を池まで連れて行く。それを待ち伏せた。  娘はあまりの絶望に、涙も枯れたようだった。着物も髪も乱れ、足には靴も履いていない。あちこちに擦り傷らしきものがあり、痣もあった。酷い扱いを受けていることは一目瞭然だ。  影音は機会を待ちながら、先程の男の言葉を考えていた。  母胎だと?一体何のことだ。  かつては、鬼が人間の娘を陵辱する事件は珍しくなかったらしいが、だがそれでも釈然としなかった。仮に奴が鬼だとして、殺戮を楽しむ一方、あの鬼には何か別の目的がある気がする。  街で女を襲ったのは蟲だけである。でなければ花があの蟲の中に体を突っ込んで、女を助けることなど出来たはずがない。それを想像しただけで、影音は全身に鳥肌が立つのを感じた。 「嫌……嫌……お願い……」  池の様子を見て気づいたのか、それとも既に知っていたのか、娘は必死で抵抗を続けた。蟲の唸りが強くなり、娘の体はどんどん池へと引き摺られていく。  合図を受けた楊が最初に剣を振った。蟲は女を地面に転がし、楊に攻撃しようと方向を定める。その隙をつき、背後に飛び出て踊跃を振るう。光を帯びた踊跃が軌跡を残しながら風のように舞うと、蟲の半分ほどが地面に落ちた。落ちたそこで、煙のように消えていく。  蟲は二手に分かれた。大きな塊は影音に、そしてその残りが娘を捕えようとする。娘を守ろうとする楊の腕に蟲が飛び掛かった。 「楊!」 「ッ……平気だ」  楊は痛みに呻いた。だが剣を離さず、すぐ立ち直る。当たった箇所から血が流れ、その傷の縁は焦げたのような跡になる。それは倒壊した家に残されていた、焦げたような跡と同じだった。  近づこうとする蟲から娘を守る楊に影音が叫ぶ。 「女を拾って走れ!」  言うと同時に、影音は楊の前に躍り出た。楊が地面の娘を肩に背負い走る。追おうとする蟲の前には、興奮した様子の踊跃が立ちはだかった。  分岐しようとした蟲を囲うようにして、踊跃が電光石火の軌跡を描く。  分かれることが出来なかった蟲は集結した。明らかに憤っている。強く唸る羽ばたきの音が、周囲に響き渡った。  村への道に差し掛かった楊は後ろを振り返った。影音は後退せずに戦っている。自分と娘が安全なところに逃げるまで食い止めるつもりなのだ。  すぐに引き返して一緒に戦いたかったが、もし娘をここに放り出して戻りでもすれば、後で彼にこっ酷く怒られるだろう。 「この娘を馬に乗せたらすぐ戻るからな。それまで死んだりしないでくれよ」  奥歯を食いしばって走り出す。馬に娘を縛ってでも乗せれば、後は馬が村まで走ってくれる。娘の意識はなかった。恐怖が限界を超えたに違いない。気絶してくれて良かったと楊は思った。恐怖で錯乱した人間を守りながら逃げることなど、楊には出来ない。とにかく一刻も早く馬のところまで行かなければ――。  だが次の瞬間、楊の足に灼けるような痛みが走った。 「……あ?」  体が崩れそうになったがどうにか踏ん張る。自分の足から血が流れている様子を不思議に見下ろした。 「楊!」 「あはは」  黒い影と笑い声が地面に降り立った。蟲の群れの合間から覗く二つの眼が、面白そうに楊を見下ろしている。その眼を見た楊は全身が総毛立った。 「湯!」 「来るな!」  駆けつけようとする影音の行く手を、蟲が阻もうとする。影音は舌打ちすると、なぜか踊跃を宙に向け投げつけた。踊跃はそのまま蟲の中に呑み込まれてしまう。  好機とばかりに蟲は影音に襲いかかった。しかし次の瞬間、蟲の群れは爆発するように飛び散った。蟲のいた中心では踊跃が満足気に震えている。  この短い間にも、影音は蟲の攻略法を考えていたのだ。一匹二匹の単体では倒し難い。ならば集合させ、中から爆発させればいい。それは娘を助けようと、後先考えず飛び込んだ花から得た発想だった。  残り僅かになった蟲は、主の方へ一目散に逃げて行く。 「なるほどな……。お前だったのか」  蟲から覗く二つの眼が、向かってくる影音を捉える。その声には興奮の響きがあった。 「街でこいつらをいくつか仕留めたのはお前だな」  若い声の男の興味は既に楊にはない。  影音は踊跃を手に戻し楊の前に出た。身を屈めて彼に手を貸し、二人にしか聞こえない声で会話をする。 「歩けそうか」 「ああ。こんなの痛くも痒くもねぇ」 「機を逃すなよ」  楊が頷いたのを見て、影音はそこで初めて声の主を振り返った。声の主は、無視された怒りを露わに蟲を唸らせる。 「餌の分際で俺を無視するな……って待て。じゃあお前が、その時一緒にいた奴か?」  声の主の興味が再び楊を捉えた。邪悪な両目で楊の姿を上から下まで観察する。 「ああ……?女だった?本当か?お前らの眼は信用ならない!」  男のその怒りは蟲に向けたものだった。  男の怒りで黒い影が波打ち、その足に纏わりついていた蟲がボタボタと地面に落ちた。八つ当たりされた蟲は迷惑そうに舞い上がり、再び群れに帰る。  男の両脚が見えた。その裸足の足が地面から浮いていた。 「なぁお前。そこのでかいお前だよ。お前があの時こいつと一緒に居た奴――」 「走れ」  男が言い終わるのを待たず、踊跃が裸足に斬りかかる。楊は娘を肩に背負うと、再び走った。 「っ……この!」 「行かせるか」  間髪を入れず影音が躍り出る。剝き出しの素足を再び狙い、男の足から血が吹き出す。体勢を崩したそれを逃さず、影音は踊跃で踊った。  踊跃を蟲の中に突き入れ、瞬間を見計らい素早く力を込める。一瞬で蟲の群れが飛び散る様子がまるで黒い血のようだ。  衝撃で影音も飛ばされた。咄嗟に受けの大勢を取ったが、それでも激しい衝撃に呻く。影音は数回咳き込んで血を吐いた。  だがこれで戦いが終わりでないことを、彼は分かっていた。  横になっていた男が、むくりと上半身を起こす。蟲はまだまだ群れも多い。影音が吹き飛ばした分など、取るに足らない数だ。  主に擦り寄った蟲を無造作に掴むと、男はそのまま握り潰した。それが男の怒りの捌け口らしい。蟲が戸惑いながら次々と男から離れ、宙で旋回を始める。 「――で、お前と居たのはあの男なのか」  蟲の黒い影の向こうから、男の姿が現れる。  見た目は影音より若い。人間で言えば、二十歳になったばかりの年だ。 「何をそんなに怖がってるんだよ」  男から離れた蟲に笑う顔は、どこかまだ幼さが残っている。目も口も鼻も、人と相違ない。  しかしその額よりやや上に、角の生え変わりの際の牡鹿のような短い角がある。左右で二本、伸びているその角が、男が人間ではないことを物語っていた。  あれが鬼……なのか……?  男は軽々と立ち上がった。  影音は、自分の力が後どれほど持ちそうかを考えた。  楊はそろそろ村の入り口に着いた頃だろう。傷を負っているが、楊なら問題ない。真の問題は、彼が馬に女を乗せた後、彼自身も馬に乗り、ここから離れたりしないところにある。楊はきっと戻ってくるだろう。影音を残し、自分だけ逃げるような男でない。だがそれでは駄目だ。  人間相手にも魔物でも、戦って初めて分かる手応えというものがある。  影音の勘は、楊と二人で戦ったところで、共に生き残れる確率は低いと言っていた。 「なぁ……どうなんだ。街で女を攫ったとき、お前と一緒にいたのは、さっき逃げた男なのか。あの男がもしそうなら、奴の命は助けてやるぞ。どうだ。悪くない話だろ」 「なんだ、奴に惚れたのか。残念だったな。奴には既に美人の妻がいる」  影音の軽口に、男は腹を抱えて笑う。その笑い顔はやはり幼く見える。 「お前面白いな。人間にしては強いし、根性もある。気に入ったぞ。死んだら蟲の餌にしよう」  男はさっきから何度も、裸足で地面を踏んでいた。久々の土の感触を面白がっているようだった。  その様子に影音は険しい眼差しを送る。  正体不明のこの敵は、全てを遊びのように捉えている感じがする。人間を殺して血で道を染めることも、女子供関係なく串刺しにしてその遺体を晒すことも、久々の地面の感触を楽しむのも。その全てが等しく、ただの遊びのようだ。  森の中のあの、この世のものとは思えない光景を思い出す。  あれを土遊びと同じ感覚でやってのけたのだとすれば……。嫌悪で吐き気がした。 「そろそろ追いかけないとな。もしあいつがお前といた奴なら、もう女は要らない。女か、男か。死んでいいのはどっちだ?早く言ってくれよ」  これまでの笑みは消え、全身が総毛立つような殺気が男を包む。 「なぜ俺といた奴を探してる。俺じゃ物足りないのか」 「何だよ?もしかして両方違のか?あー……蟲は、お前と一緒だったのは女だって言ってたな。あいつらの目は信用出来ないんだいつもなら。そっか……」  男は何かを考える仕草をした後、再び影音に尋ねた。 「お前の恋人か?妻か?」  蟲の群れが、まるで男の強い殺気に怯えるように波打つ。主である男のことを恐れているのは明確だった。  男の眼が、狂気で光った。 「なら丁度良い。そうなら、ここにいる奴は全部殺しても良いからな。俺は面倒が嫌いなんだ」  それは影音に対する挑発だ。だが影音はそれに乗るどころか、場に全くそぐわない笑みを顔に浮かべた。  女……花が聞いたら……。  ――俺のどこが女だって!?このクソ蟲が!  きっとそう叫んだ時はもう、既に男に飛びかかった後だ。  そう思うと、口元を手で塞いだものの、影音はもう我慢出来なかった。ここ数日よく寝てないのも、悪かったのかもしれない。突然笑い出した影音に、呆気に取られたのは男の方である。 「……数百年生きてきて、まさかこんな人間に会うなんてな。あんまり怖すぎて、気が狂ったのか?」  笑い終えて満足した影音は、踊跃の切先を男に向けた。 「やはり鬼か」  男はその台詞に一瞬きょとんとした後、今度は自分の番だと言わんばかりに大声で笑った。 「鬼……?あはは、鬼……そうか鬼か」  腹を抱えるほど笑うと、影音の方を見て溜め息を吐く。 「人間の話し相手なんてするもんじゃないな、まったく……。こっちの頭までおかしくなるぜ。あの人間の女も、始終喚いてばっかで苛々したんだ。母胎かもしれないから我慢したけど。でもまさか、そっちから飛び込んで来るなんてな。この世界は俺の味方だ。間違いない」  狂気じみた顔に笑みを浮かべながら、男が天を仰ぐ。言っていることの大半が、意味が分からなかった。だがこの男が今探しているのが、花であることは間違いない。 「なぁ、どうするんだ?まだ教えないつもりか?」  男が手を掲げると蟲が集結した。男が蟲以外の能力を何か持っていないことを願うが、それも望み薄と思われる。男の話を鵜呑みにするなら、齢数百年の鬼である。  踊跃を握る手に汗が滲んだ。どう転んでも勝ち目がない戦いだ。だがやるしかない。ここで引けば自分はもちろん、遅かれ早かれ、楊と女も殺されるだろう。楊に限っては、楊が鬼の探している人間かどうか、おそらく拷問されるはずだ。  鬼が先に動いた。  飛んできた蟲を踊跃が蹴散らすも、蟲は斬られる前に分散し再集結する。小さい蟲を一匹一匹を仕留めていたのではきりがない。どうにかして蟲の群れの中に踊跃を突っ込ませ、内側から力を破裂させる必要がある。  だが蟲に気を取られた隙に、鬼は影音のすぐ横にいた。寸前のところで躱したものの、脇腹に激しい痛みを感じた。 「お前の血、なんか美味いな」  鋭く伸びた爪から滴る影音の血を、長い舌が舐め上げる。  影音の脇腹からは血が滴っていた。もしあと少しでも反応が遅れていたら、今頃は串刺しだった。  乱れた呼吸を整える。内力で止血をし、それが成功したのを確認する。少なくとも流れる血の量は大幅に減った。それでいい。  光を帯びた踊跃が影音の手を離れ、鬼の足元に向かって行く。また足を狙われたと思った鬼が飛んだ。だが踊跃が速い。鬼を追いかけ、その体の周りを回転した。旋風が周囲を巻き込み、鬼の体から血飛沫が上がる。影音は舌打ちした。 「浅い」  その通りだった。鬼が蟲を踏み台にし高く飛んだ。そして影音を目掛け、凄い勢いで落下する。  轟音の後、辺りには土煙が上がった。  深く抉られた地面に影音の姿はない。咄嗟に腕で庇った彼だったが、凄まじい衝撃で横にすっ飛ばされていた。  鬼は倒れた影音の頭を掴むと、無理矢理引き起こした。 「一緒に居たのは誰だ」  影音は答えない。 「一緒にいたのは誰だ」 「……ッ」  鋭い痛みが影音の腹を突き抜けた。鬼の爪が彼の傷の中を抉るように動く。  小さく呻いただけで、やはり影音は答えなかった。 「女を連れて逃げたあの男じゃないんだろう?言え。言えばすぐ殺してやる」  影音の口から血が流れる。傷口に捩じ込まれた爪が中を抉っても、彼は悲鳴すら上げようとしない。  影音の反応に、鬼は心底がっかりした。 「分かってないなお前……。ここ百年の間、ずっと探していたものが見つかったかもしれないんだ。それがもう少しで、手に入るかもしれない。これがどんなに重要なことか、人間のお前如きに分かるはずがない」  血の流れる腹を踏みつけられた影音は、意識を保つことに必死に集中する。気絶すれば終わりだ。 「……おい。名前は聞いてないのかよ」  鬼は蟲に喋りかけた。だがそれは望む答えでなかったのか、更に苛立ちを増したようだ。 「百年……百年無駄にした。こうやって無駄な時間を使ってる合間にも、亜依蛼(アイシャ)の生命は削れてるってのに……」  血のせいで赤く染まる視界の中、影音は、自分が頭を打っておかしな幻を見ているのだと思った。その赤い視界の中で、鬼が涙を流して泣いていたからだ。  ……鬼も涙を流すのか。あんな残虐な行為をしておきながら。  残虐非道で人肉を食らい、魂すら食う。  それが言い伝えられている鬼の姿である。  人間の住む領域を狭めた原因であり、樹海の穢れた生き物。  魔物が人の形を覚え、知恵をつけ、そして人に害を為す。多くの文献の中の鬼ついては、そう記されている。  鬼に共感の心などない。そもそも心がないのだ。心を失うと鬼になる。子どもたちは大人からそう教わる。  その証拠にこの世界には、かつて人間だった鬼がいる。人の心をなくし、鬼道を習得し、何千年と生きる鬼が――。  掠れた意識の中で影音は、自分の腕が動くかどうか確かめた。右手は駄目である。動かそうとすると痛みが酷く、あまり感覚がない。折れてはなさそうだが、ひびくらいは入っていそうだ。左手は血塗れだったが、どうにか指を動かせた。  ひとしきり涙を流し、鬼は我に返った。勢いをつけた足で、無造作に影音を蹴る。  蹴飛ばされた影音は吹っ飛び、木にぶつかって止まった。ぶつかった木が大きな音を立てて折れた。  影音は吐血し、激しく咳き込んだ。その整った顔は、傷と血にまみれていた。  肋骨を何本か、いったなこれは……。  呼吸すると、したことを後悔するほどの痛みが走る。何とか内力で止めている腹の出血も、いつまでも保つか分からない。 「……もういい。そんなに死にたいなら仕方ない。後で蟲の餌にしてやるよ。お前にやられた奴ら、新調しないといけないからな。こいつら、生まれたては腹をすかせてんだ凄く」  鬼の爪が鈍く光り、その先端が影音の心臓を狙った。 「踊跃!」  鬼がその気配に気づく。しかし影音の剣は、思考よりも速い。  踊跃が鬼の背中に突き刺さった。 「爆ぜろ!」  踊跃から眩い光が放たれる。鬼の左肩から腕が吹き飛んだ。血飛沫が上がり鬼は膝を地面についたが、倒れない。あまりに一瞬の出来事で、何故自分が膝をついたのか理解出来ないようだ。ぼたぼたと血が流れる肩に目をやり、自身の腕がないことに、そこでようやく気づいたようだ。 「お前……お前一体何者だ」  修行者や賢者特有の呪術を使うでもなく、ただ街で少し腕の立つだけの若造。そう見くびっていた相手に腕を吹き飛ばされた事実に、鬼が驚愕する。  影音は痛む腹を庇いながら起き上がった。その手を掲げると、呼応した踊跃が、鬼の背に刺さったままその身を震わせる。衝撃に鬼は手を地面について呻いた。 「踊跃は俺以外の(しゅく)を受けている。俺の剣だが、俺だけの剣じゃないんでな」  それは戦闘で一度しか使えない、影音の奥の手だった。影音はそれを祝福と呼んでいる。  霊木から受け取った力「祝福」を、与えたのは花である。奥の手としてのそれを思いついたのも彼だ。  鬼が嫌うと言われる柊の枝から、花が聖丹の力の一部を取り出した。聖丹とは長い間生きた植物が持つものらしいが、植物と話す花自身ですら、その詳細はよく分かってないふうだった。  おそらく、人で言う精神丹のようなものだろう。植物と会話できる花にすら分からないものは、影音にも分からない。如何せんあの性分だ。「光ってて、とにかく役に立つもんだよ」と、概要を説明した。  戦闘で使ったのはこれで数回目になる。最後の切り札として、頼りになる力だ。 「踊跃」  呼ばれた剣が鬼の背から離れ、影音の手に戻る。  これまでは、影音の力と花の与えた祝を持ってすれば、どれほど凶暴な魔物や怨霊とも渡り合えた。しかし目の前のこの敵には、それだけでは足りない。 「それは霊剣か?」 「世の中にはそう呼ぶ奴もいるが、俺は好きじゃない。第一、こいつは違う」  強い影音の持つ剣であることから、畏怖の念を込め霊剣と呼ぶ者もいる。  踊跃は闇市でただ同然で売られていた剣だ。世間で「霊剣」と言われるそれは一般的に、強大な霊力の宿った剣のことである。その強大な力故に、各地で守護神として祀られるか、封印されているものが多い。  それら霊剣の特徴のひとつが、自身の主人を選ぶことだ。その選択には謎が多く、選ぶ主人が真っ当な人間だろうが、鬼道を修める者だろうが、霊剣には関係ない。かつて、邪悪な心を持つ者が強大な霊剣を手に入れ、天海と地海の戦争にまで発展したこともある。 「へぇー……どうでもいいけど、見てわかる通り、俺は腕を落とされたくらいじゃ死なないぞ」  しかし、そう言って立ち上がろうとした鬼の膝が崩れ落ちた。 「不思議か。なぜ立てないのか」 「この痺れるような感覚……。霊剣のものとは違うな……。剣に力を貸した奴だろ」 「魔物や鬼には特別良く効く力だ。穢れた身には特にな」  踊跃についた鬼の血を振り払う。主の異変に気づいた蟲は、鬼の周囲で様子を伺っている。あわよくば癇癪持ちな主から逃げたいと思っているようにも見える。これまでを見ると、蟲はこの鬼に忠誠心などは持っていなさそうだ。 「だが確かに、今の俺ではお前を殺すことは出来ない」  剣の祝の力で膝をついてはいるが、一時的なのは分かっている。  鬼はそう簡単には死なない。その身から心臓を取り出し、その心臓を浄火で、灰になるまで焼かない限りは。  影音に浄火の炎は出せない。経験のある修行者か賢者でも呼んでこない限り、この鬼を殺すことは不可能だ。 「だが応援が来るまで、その体を斬って時間稼ぎをすることは出来る」  影音を見極めるように鬼がその目を動かす。影音は痛む体を押して背筋を伸ばした。 「どうする。死ぬことないが、細切れになって浄火の炎を使える奴が来るまで待つか」  もちろんそれははったりだった。踊跃の祝はもう使えない。だが鬼はそのことを知らない。  鬼は何やら考える様子を見せる。地面を見つめ、そして残った片手を顎に当て天を仰いだ。結論が出かけたその時、絶妙な機で登場したのは楊だった。 「大佬!」  向こうから投げた楊の剣が、鬼の背から腹を貫く。楊が影音に向かって走りながら剣に込めた力を解放すると、鬼の腹に拳ほどの穴が開いた。剣が腹の空洞から滑り落ちる。  腹から飛び散った肉塊には鬼の僕である蟲が群がった。我先にとその肉塊を食べ始める。先ほど吹き飛んだ鬼の腕には群がっていない。肉を選んで食べている。影音ははっとした。 「楊!」  咄嗟に楊を庇った影音の腹を、楊の剣が突き抜けた。剣を握るのは、影音に弾き飛ばされた鬼の腕だった。 「大佬!」  自身に刺さった剣を抜き取り、逃げようとする腕を影音が串刺しにする。腕は粋のいい魚のようにばたついていたが、しばらくして大人しくなった。 「腕は再生する。気をつけろ」 「大佬傷は、」 「大丈夫だ」 「あー……酷い格好だ。亜依蛼(アイシャ)になんて説明しよう……」  ぶつぶつ呟きながら鬼が立ち上がる。何度かふらついたそれさえも、楽しんでいる様子だ。  片腕がなく、腹には穴まである。それでも立ち上がる異形な姿は、正しく鬼の様であった。 「大佬?それがお前の名前?」 「人に名を聞く前にまずは自分が名乗れと、母親は教えてくれなかったのか」  母親という言葉に、鬼が僅かに反応したような気がした。だが反応はすぐ消えたため、影音はあまり気に留めなかった。 「马氣里(マキリ)……、俺の名前は马氣里」 「では鬼、どうする。こちらは一人増えて賢者を待つことになったが、俺たちが浄火出来ないことに変わりはない。戦って待つか」 「俺は名乗っただろ。言えよ、名前」 「鬼に名乗る名などない」  ぴしゃりと言い放った影音に本気で腹を立た马氣里が、顔を赤くし地団駄を踏む。そういう仕草が、まるで子どものようである。  鬼の寿命は長い。もしかしたら二十代の見た目であっても、鬼の寿命の上では十歳くらいなのかもしれない。  隣で楊が何か言いたげな目をする。影音は目配せした。 「この腕は本体に引っ付くのか。それとも、この腕を蟲の餌にしても、新しくそこから生えるのか」  踊跃が腕を狙う。  その一言で、马氣里は遂に決めたようだった。 「分かった分かった。今日は引いてやる。女もそこの男もお前も、殺さないで逃してやる。……返せよ腕」  马氣里の合図で彼の両足の周りに蟲が群がった。马氣里の体が地面から浮き上がる。 「だが今日だけだ。今度会ったら、真っ先にお前を殺す」  尖った爪先が影音を差す。 「腕を返せ」  剣を抜くと、腕は気持ち悪い動きで数回バタついた。それを持ち主のところへと蟲が運んでいく。 「俺が探してる奴は、お前に縁がある。それは分かってるんだ。今度会ったら、お前から奪い取る」  そう言い残すと、马氣里の体は上空へ上がっていった。 「……あれは結界の方だ」  楊は、今になって自分の足が震えていることに気づいた。刺された傷のせいではない。こんなに恐ろしい敵を目の当たりにするのが、初めてだった。恐怖の前に足が竦んで動けない経験は、影音と一緒に戦う場面では初めてだった。  足を見つめる楊の隣で、不意に影音の体が傾く。 「大佬……酷い傷だ……」  支えた楊はその傷を目にし蒼白になる。  影音は体のあちこちから出血しており、なかでも腹の傷がかなり深い。それも二箇所だ。内力で止血をした箇所も、激しい戦いでその傷口は開いた。 「……平気だ。見た目ほど酷くない。お前は歩けるか」 「これが酷くないなら、俺の足の傷なんか、転んで擦りむいたのと同じだ。大佬、何とか馬まで保ってくれよ」  影音は頷いた。そして歩き出そうとする。こんな傷を負っても自分の足で立って歩こうとする彼に呆れ、楊は肩を貸した。 「……大佬、こんな時ぐらい、俺があんたを背負っても……。誰も見てないし」 「寝言は寝てからにしろ」  二人は何とか馬のところまで辿り着いた。影音の馬は、主人の危機を察してか村の中まで入り、彼らを見ると大きく鼻を鳴らした。影音の帰還に安堵したようだ。 「……女は」 「馬に縛って乗せた。叔叔のいる村まで走ってくれるはずだ。大佬、後ろで我慢してくれ」  今度ばかりは影音も何も言わず楊の後ろへ乗る。元来た道を走りながら、楊は気が気でなかった。鬼が消えた空を何度も後ろを振り返る楊に、影音は血の気がない顔で呆れて言った。 「心配しなくても、奴もすぐには再戦しない。腕を引っ付ける必要がある。蟲も補充するはずだ」 「そうは言っても……」  鬼の飛んでいった方角を振り返っては、ざわつく胸に楊は気が狂いそうだった。 「楊、村へ行ったら、誰か馬の早いものを街へ飛ばせ。誰かに、あいつを守るよう言伝を……」  急に途切れた声を訝しむ。振り返る視線の隅で、危うく落馬しそうになった腕を、楊は寸前のところで掴んだ。  意識を失った影音の腹から流れる血が、馬の腹に滑った赤黒い線を滴らせていた。  「大佬、大佬!」  だが影音は答えない。彼には意識がなかった。 「ああーー!くそったれ!頼むから間に合ってくれよ」  楊は馬を飛ばし、広野を駆けた。

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