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Chapter 18 花 Sneaks Up On 蟲

 院は各地にある。霊山と呼ばれる山の上に建てられており、修行も行っておらず、力も使えない所謂新入生と呼ばれる者は、数千の階段を登らなければならないと聞く。  その階段を途中で諦めるような根性のない者は、院に上がる資格もない、ということだ。    花は石の階段を登っていた。躓いたら転がり落ちそうな、急な階段である。  すぐ後ろには影音もいた。  息が切れ、足は震えている。山頂はまだ遠く霞がかり、一体あとどのくらい登ればいいのかさえ分からない。  麓を見下ろす。麓も同じく遠い。目が眩むほどの光景である。足を滑らせればもう終わりだ。 「平気か影音」 「……ああ」  影音も苦しそうだった。花の方がまだ声をかけられる分、余裕がありそうだ。逆なら分かるが、こんな状況は少し珍しい。 「もうちょっとだ。あとちょっと……」 「俺のことは心配するな。遅れても後を追う」 「置いてったりするかよ。ほら、一緒に」  手を差し出すと、戸惑いながら、影音の大きな手がそれを握り返す。温もりに安堵して、花は離れないようその手を強く握り直した。  二人分の息切れが霧の中に反芻する。霧は上に行くほど濃くなっていく。  段々呼吸するのさえつらくなり、足を止める回数も増えた。 「あと少し……あと少しだ……」  だが登るしかないのだ。ここまで来たら、もう麓に戻ることも出来ない。  足が上がらなくなってきた。太ももが、がくがくと震えてどうしようもない。 「気をつけろ。足を滑らせたら終わりだ」  一段後ろから声がする。 「ああ。でもそうなっても、俺たちは一緒だ」  歩き続けるしかない。後ろに道はない。もし落ちるなら一緒だ。  繋いだ手に突如、力が籠められた。歩き出そうとした花を、そうさせまいとする意図を感じて足が止まる。 「……影音?どうしたんだ」  俯く顔は見えない。  一段下にいるせいで、いつも見上げている彼が低い。花はもう片方の手を伸ばし、その頬に触れようとした。 「……大丈夫だ。あと少しで着くから」  だが影音は首を振った。 「俺と一緒にいれば、あそこには着かない」  一体何を言い出すんだろう。ここまで来て弱気になったのだろうか。彼らしくない。 「変なこと言うなよ。あと少しだ。もう少し登れば、上に着くから。……二人で院に行くんだ」  励ます声も届いていない様子で、影音が突然、繋いでいた手から力を抜いた。  花は、意地でも放すもんかと強めた。しかし影音は、その手をもう片方で引き剝がしてしまった。 「……すまない。お前と一緒に行けない」 「どうして……」  瞠目する花の視界から影音は身を翻した。 「じゃあ俺も一緒に、」 「駄目だ」  花の目が涙でいっぱいになる。置き去りにされようとしているのだ。こんなところに一人きりで。 「嫌だ。俺も一緒に行く」  聞き分けのない子どもの悲痛な声が山に木霊する。  花の姿は子どもへと変わっていた。  影音の腰に縋りつき、子どもの花は泣き喚いた。 「嫌だ。一緒に行く……俺も一緒に……」  昔、家に独り残されるのが嫌で、出かける影音に花はこうして縋り付いた。それと同じ光景だった。 「……分かってるはずだ」  口調は硬かった。だが頭を撫でる手は、誰よりも優しかった。 「俺は行けない。お前と俺は違う」  子どもの花が、千切れんばかりに首を振る。涙が影音の服で擦れたが、その後から後からまた溢れた。  大きな目に溜まった雫を見下ろした大人の影音が苦笑する。落とすように笑う笑顔は、よく知ってるものだ。だが彼は、もはや花が知る影音ではない。  皆に頼られ、誰よりも強い、大人の男。  彼は、子どもの花が知る影音ではない。  影音が一歩後ずさった。  足を踏み外したと気づいても、子どもの花には支えることさえ出来ない。 「嫌だ……影音……影音!」  影音の体が霧に包まれ、姿は白い靄の中に消えて行く。  花は自分もいつの間にか、階段から足を踏み外したことを知った。  先に落ちたはずの影音の姿はなく、どこまでも底のない霧をただひとり、彷徨った。 「……ッ」  目覚めた時の不快さったらなかった。 「またかよ……」  自分がまた、悪夢を見たのだと気づく。  寝入った机の上では、筆が紙を真っ黒に染めていた。可哀想な紙が墨色の水で破れている。字の練習をしている最中に寝入った自分が、寝ながら筆も墨も転がしたらしい。寝相が悪いと言った影音の言葉は、あながち間違いではないらしかった。  影音は朝早く城主のところへ出かけ、家は花ひとりだった。  花はここ三日ほど体調が優れず、大人しく家で寝ることが多かった。雨に濡れたせいで本格的に風邪をひいてしまったらしく、昨日は影音が髭爺をここへ呼んだ。 「風邪じゃ。寝とれ」  熱は微熱で、髭爺の薬を飲んですぐその熱も引いた。ただその後も、体が怠く、眠気が取れない。  影音は、花が大人しく家で休むことを疑っていた。家を出る直前まで、戻った時にもし居なければ、髭爺に告げ口すると言って煩かった。  そんな髭爺と言えば、最近ずっと竹杖を使っている。それで殴られると涙が出るほど痛い。また髭爺は、竹の節の部分を上手く当てるのだ。既に何度かそれを喰らった花にとって、それは確かに効果がある台詞と言えた。例え風邪で布団に伏せっていようとも、髭爺は花に容赦がない。 「あぁーあ……」  座ったまま体を伸ばす。  もうそろそろ、表を歩いても問題ないくらい回復した。ただ夢見の悪さだけが治らない。それも夜寝つきが悪いせいだ。夜あまり眠れないから昼間に眠くなり、うたた寝すれば嫌な夢を見る。 「そう言や、何かの木の匂いが、睡眠に良いって言ってたような……」  具体的な木の名前は思い出せないが、以前蘭が言っていた。  思い立った花はすぐに着替えた。髪を結って扉に手をかけ、そこで少し躊躇う。 「……影音が帰ってくるまでに、帰ってくればいいいか」  躊躇わせたのは影音の言葉だ。彼が帰ってきた時に、家にいなければならない。  爛心树のところへ行くつもりだった。性格に難ありだが、何しろ高齢である。知識は豊富だ。  しかしその時、あるものが目に入った。雨の日に亜蘭亭で借りた服である。 「その手があった」  亜蘭亭では香も扱う。店に行けばお香だけでなく、香炉も借りられる。さすがに商品は無理だろうが、蘭の私物なら借りても構わないだろう。  花は服を風呂敷で包んだ。作業着と影音が借りた蘭の服だ。二着ともきちんと洗濯してある。花は伏せっていたので、したのは影音だ。  蘭の服を着ていた影音の姿を思い出す。  花は思い出し笑いをした。  亜蘭亭から、これを着て歩いて帰った。その道中は、少なくとも花にとっては、すれ違う人たちの反応が笑えたのだ。  二人が帰る頃雨は上がり、雲の切れ間から差す陽が、水溜りに虹を咲かせていた。人通りも元に戻り、通りには知った顔がたくさんいたのだ。その彼らときたら、開いた口が塞がらないどころか、顎が落ちてしまいそうなほど影音の格好に驚いていた。  体調が悪いのを必死で隠して歩いていたので、その全てを覚えているわけじゃない。だが驚く彼らの様子が面白く、笑えたことはよく覚えている。  あの後、名家の娘たちから数着、影音宛に服が届いた。もちろん借りた蘭の服と同じ色である。  手触りのいい一級品で、一緒に届いた外套は、見たこともないような高級な毛皮付きだった。聞くところによると、妖狐の毛皮らしい。魔物の毛皮が外套として出回っていることにも、衣服に頓着のない花は衝撃を受けたのだ。  影音は頬を引き攣らせながら、それらを眺めた。布団から身を起こした花はその様子を見て、抱えた腹が痛くなるほどに笑った。  どうするのだろうと思っていたら、影音はやはり服を突き返した……い、のはやまやまだったが、「嫁入り前の娘なのでどうか怒らず穏便にすませてくれ大佬」と言う楊の言葉に負け、礼状を認めて返したのである。  ちなみに実際に礼状を書いたのは、城主の下で働く楊の知り合いらしい。ただ贈り物が届いただけで、贈られた本人から、妙な知り合いの繋がりの輪に繋がったわけである。それも面白い。  表に出て、日差しに少し目が眩んだ。三日ぶりの外出だ。仕方ない。  歩いているとすぐに、長屋の子どもたちが花を見つけて寄ってきた。 「花、花、もう体良くなったの?」 「ああ、元気だ。ほらこの通り」 「花って、元気なだけが取り柄だと思ってたのに」 「だけとは何だ。お前ら、髭爺の悪いとこを真似するんじゃない」 「花ってば、病気でも髭爺に怒られてたよね」  子どもが髭爺を真似、杖で叩く動作をする。花は苦笑して、思い出すと痛む頭を摩った。 「今みんなで隠れんぼしてるんだ。花も一緒に遊ぼうよ」 「あー……それは魅力的な誘いだな」  半ば本気でそう思った。この長屋で子どもたちと遊ぶのが好きである。元気で走り回れば、夜もぐっすり眠れるんではないだろうか。 「……悪い。今日は無理なんだ。用がある。帰ってきたら、……」  だがそこで声が止まる。影音が帰ってくれば、たぶん今日はもう家から出ることはないはずだ。 「……駄目だなたぶん。ええと、明日には遊べるかもな」 「どこに行くの?」 「亜蘭亭」 「まだ仕事しちゃ駄目なんじゃない?駄目だよ大人しくしてないと」 「花は子どもなんだよ。体は大人でも、心は私たちと変わらないんだって。だから布団で大人してるの、無理なんだよ」 「確かにー」  子どもに笑われ、花は乾いた笑い声を上げた。言い返せないのが悔しいところだ。 「じゃあねー」 「また遊ぼうね」 「おう」  元気な子どもたちに見送られ、長屋を後にする。  久々に姿を見せたうえ、慣れない風呂敷を携えた花は、知り合いに声をかけられて、なかなか前に進めなかった。  亜蘭亭に着いた頃には、疲れを感じてしまった。久々に歩いたのが、鈍った体には鞭だったらしい。  店の前の壁にもたれたところで、蘭がまだ帰ってないことを知る。彼が帰っていれば、この壁のところには今頃娘たちがいるはずだ。  見上げた二階の端の部屋は、窓が閉まっている。蘭がいれば風通しを良くするために、窓は大体開けてある。無类に頼まなかったのだろうか。  何となしに見上げた視界だったが、何か気になるものが映った。 「あれってまさか……」  蟲だ。  黒い塊になって飛んでいる。二階の高さより少し高いくらいのところである。 「どうしよう……」  呟いた花だったが、同時に心は決まっていた。  いきなり店に飛び込んできた花に驚いた従業員の手から、花瓶が滑り落ちる。 「な、なんだ!?」  落ちる寸前で何とかそれを掴んだ男は、ともかく自分の給料の何ヶ月分の花瓶を割らずに済んだことに、胸を撫で下ろした。 「悪い!これ頼む!」  放り投げられた風呂敷は男の足元を滑り、椅子にぶつかって止まる。それに気を取られている間に、飛び込んで来た人物は既に店から飛び出していた。  亜蘭亭に入っている間に見失うことを危惧したが、まだ蟲はそう遠くないところにいた。花以外誰も気づいていないようだった。空に点々とする黒い塊に気づく者などいないだろう。  なんかこの前より増えてないか?  前に見た時は両手で掬うほどだったのに対し、今はその倍ほどに見える。  今度こそ巣を突き止めてやる。  気づいたことを悟られたくない。近くの店の軒下に入った。蟲からは目を離さない。この距離だ。相手は四方八方自由な宙にいる。ちょっとでも目を離せば、おそらく見失ってしまうはずだ。  店に入らず入り口で空を見上げる花に、出入りする客が首を傾げる。もっとも花には、そんなことを気にする余裕はなかったが。 「……どこまで行くんだ」  追い続けて西の方まで来た。ここまで来て思いつくのは、李香を助けたあの橋の下だ。あそこが巣なのだろうか。だがあの後気になって何度か見に降りたものの、橋下には何もなかった。  そもそもが、この蟲が巣を持っているかどうかを疑うべきである。花はここでそれに気づいた。  蟲の見た目は蝿の様で、その蝿と言えば巣は持たない。  これを操る奴のところに行く可能性の方が高いかも……。  影音が戦った鬼は蟲を操っていた。その鬼は街の中に入ってこられるのだろうか。  街には護符が敷かれている。とは言え、もう随分と昔の護符である。結界とは違って、その効力も鈍いと聞く。  影音にあんな傷を負わせるほど強い鬼には、そもそも護符など意味をなさないかもしれない。行く先がそんな鬼のところだったらならば、自分にどうにか出来ることではなくなる。  花は首を振った。  考えても埒があかない。  操っているのが誰であれ何であれ、とにかくその場所を突き止めたい。話はそれからだ。  西に行くにつれ、高い建物がなくなってきた。蟲の位置は確認し易かったが、同時に自分も目立つことになって困った。 「……くそ。どこまで行くんだ」  西の橋を通り過ぎ、街外れまで来ていた。西の外れは貧民街である。貧民街を抜けたその先はもう街の外で、そこには幅広く、深さのある川がある。街を越えるところまで行ってしまうと、目立たず追うのは難しくなる。  貧民街は静かだった。子どもたちの声も聞こえない。大人は誰も疲れた顔で、軒先に座り込んでいる姿が目立つ。白百利の街はどこも同じくらい陽が当たるはずなのに、この貧民街はどこも陰気くさい。住んでいる人に活気がないだけで、こんなにも雰囲気は変わる。  城主や街の人たちの働きかけで、このところ日に一回、夕刻に炊き出しが行われている。おかげで餓死する者が減った。だが働かずとも餓えを凌げることが大きな起因になり、薬物に手を染める者が増えてしまったのである。  最近の西側では、薬を売り捌く怪しげな者の姿が頻繁に目撃されていた。  颯爽と歩く花の姿は、そんな場所では悪目立ちする。  陰と陽、二つは混ざり合うことがない。陰の者は、目敏く陽の光を持つ者を見分ける。 「あんた、ここらで見ない顔だな」  上を見ながら歩いていたため、周囲の険悪な視線に気づくのが遅れた。 「良い衣だな。よく似合ってるよ大人」  家の影から、声をかけたのとは違うもう一人男が出てくる。  手の小刀を光らせ、花を上から下まで品定めする。追い剥ぎの男たちは、目の前の上等品に口笛を吹いた。 「悪いが退いてくれ。今はあんたらに構ってる暇はない」  焦って上を確認すれば、少し目を離しただけなのに、蟲は既に遠くなりかけている。ここまで来て、見失うわけにはいかない。 「財布と衣を置いてったら、帰らせてやるよ」 「馬鹿野郎。見てみろよこの姿。良いとこの若様だ。こんなとこで脱げるかよ」  小刀を翳す男は下世話に笑った。 「ああ、確かにそうだな……。そこの道に入れよ。他の奴らんには見えないとこで脱げばいい」  あからさまなその提案には、呆れて言葉もない。見た目だけの判断で、少し脅せば思い通りになると思ったらしい。  苛立った花は地面を蹴った。その背に羽があるかのごとく高く飛び、膝が相手の顔面に入る。 「ぅあ゙あ゙あ゙あ゙」  男は顔を押さえて地面に転がった。 「鼻、俺の鼻が」  男の鼻からは血が溢れ、左に変に傾いている。 「い、痛ェ……痛ェ……」  鼻を確かめたいが恐ろしく、そして痛みで何も考えられないようだ。 「てっめぇ……こっちが穏便済ませてやろってのに」  穏便に追い剥ぎとは笑わせる。  花は怒り心頭な男を真っ向から見据えた。 「言っただろ。俺は急いでる。二人揃って鼻を折りたくなかったら、そこをどけ」  男は地面の相棒を引き起こし、戦意喪失なその手から小刀を奪った。どうあっても引く気はない。  ちらりと見た空からは、蟲の姿は消えていた。見失ったかもしれない。それというのも、この追い剥ぎのせいである。  背後に回した手が触れたのは、小剣だった。腰に挟んだそれに触れ、その存在を確かめる。  影音が花のために作った剣だった。小刀のような寸法で、だが剣の形をしている。木剣のため、持っていることさえ忘れるくらい軽い。身軽なことを好む花には最適だった。さすが影音である。  だが前へ戻った花の手には、剣は握られていなかった。気持ちを落ち着けるために触れただけで、拳で伸せる相手に剣を抜く気は毛頭ない。人相手の喧嘩なら、負けない自信があった。  事実、花は昔から喧嘩が強かった。どんな屈強な男も、拳と蹴りで伸してきたのだ。 「この野郎……。調子に乗ってると、承知しねぇか、ぐふっ」  追い剥ぎの男は、最後までその台詞を言えなかった。花の足がみぞおちを蹴り、仰け反った頬を拳で殴られたからだ。男は呆気なく気絶した。  空を見上げたが、蟲の姿はどこにもない。花は大きく肩を落として、地面に転がる男たちを睨んだ。 「ひっ、悪かった。ほんの出来心なんだ。ゆ、許してくれ。命だけは」 「ったく……、お前らと一緒にするな。追い剥ぎするにしても、てめぇの拳で勝負しろ。こんなもん持ってやるなよ」  そもそも追い剥ぎは犯罪である。だがそこを言及しないのが花らしいといえばらしい。  小刀を蹴り飛ばそうとして思い止まる。その辺に捨てれば、またそれが犯罪に使われないとも限らない。 「……はぁぁぁ。お前たちのせいで見失っただろ」  その小刀を地面から拾い上げようとした時だった。 「……何だ?」  唸るような音が、どこからか聞こえてくる。 「ちょっと静かに」  痛みで呻く男に黙っているように言い、耳を澄ます。音は段々と、こちらへ近づいているようである。それもすごい速さで。 「まずい。気づかれたのか?なんでだ」  花は気絶している男の腕を自分の肩に回した。 「ぅ、重い……。おい、あんた、そっち持てよ」  言われた仲間の男は何が何だか分からないまま、だが花の言う通りにした。喧嘩が強いだけでなく、有無を言わせない何かが、花にはあった。 「そこの物陰に」  建物の横には壊れた荷台車があった。腐った空箱が数箱、積まれたままである。先ほど追い剥ぎがそこで花を脱がせようとした場所だ。  建物と建物の隙間で、上には屋根が伸びている。これで空からは見えないはずだ。  二人も関係のない者がいる。隠れてやり過ごすしかない。 「いいか、俺がいいと言うまで動くな。声も出すな」 「へ、へい」  緊張した花の様子に尋常じゃない事態を悟ったのか、追い剥ぎの男は目を白黒させながら頷いた。強い相手に順応するのが、敬服すら覚えるほど早い。  その曲がった鼻から血を流す姿が憐れになり、花は胸元から手帕を取り出して相手に投げた。 「これで血を拭けよ」  綺麗な手帕からは、男が嗅いだことがないほど良い匂いがした。胸元に入れていたので、花の匂いが移っている。男は夢見心地で目を閉じたのだが、嗅ぐために膨らんだ鼻に痛みが走り、情けない呻き声をあげた。 「しっ」  従順に口を閉じる男を確認し、通りに目を向ける。唸る音はさっきよりも近づき、すぐ側まで来ている。やはり蟲の羽音である。  どうして後をつけていたのがばれたのだろう。追い剥ぎとの騒ぎでだろうか。だがその時蟲は、見えないほど遠くにいた。もし後をつけていたことが原因で蟲が現れたわけでないなら、では一体何のためにここに?  羽音がすぐ側で鳴った。物陰から通りに目をやる。先ほど花たちがいた場所に、蟲が降りようとしているのが見えた。  ……何だ?  蜂が水溜まりの水を飲むような仕草で、蟲が地面に近づいては上がる動作を繰り返している。 「大、大人、何ですかありゃ。蝿かなんか、」 「しっ。黙って。死にたくないだろ」  蟲はまだ同じ動作を繰り返している。  もう少し近くで見たい。追い剥ぎの男にくれぐれも声を立てたりしないよう念を押し、花が動く。  あれって……小刀か?  拾おうとしてそのままだった、追い剥ぎの持っていた小刀である。蟲が群がっているのは、その小刀だ。  得物が好みなのか?  ますます意味が分からない。  花は首を傾げた。  それに気のせいだろうか。蟲が先ほどより増えた気がする。  だがそれは、まったくの気のせいとも言えなかった。  黒い煙のようなものが小刀から出ている。それが、蟲が増えたように見える原因だったのだ。  まるで蟲の大群が、その煙を吸い込んでいるかのようである。  穢れを吸ってる……のか?  考えられるのはそれしかない。言うなればこれは、蟲の食事である。  蟲すら食事すんのかよ。じゃあ俺は蟲以下か。  食事する蟲に妙な嫉妬さえ感じ、そんな自分に嫌気がさす。何とも言えない複雑な気持ちだ。  食事はそろそろ終わるようだった。これが終わればまた動き出すはずだ。  花は鼻の曲がった男のところへ慎重に戻った。男は律儀に花の手帕で鼻と口を塞ぎ、声が出ないようしていたらしかった。だが実際には、男はただその匂いを嗅ぎたかっただけである。曲がった鼻の痛みも、もはや痛すぎて麻痺していた。  花は蟲が動くのを待った。  食事が完全に終わると案の定、その羽音が上がり出す。食事を終え、群れは少し膨れて見えた。これなら見失いにくい。  羽音が遠くなりかけるのを待ち、花は男に言った。 「東市の通りの外れに、髭爺がやってる茶屋がある。髭爺は医者だ。金のない者からは無理に取り立てたりしない。しかも名医だ。口は悪いけどな。あ、言っとくけど、今は杖を使ってる。余計なこと言うと、杖で叩かれるからな」 「へ、へぇ……。……あの、大人、一体何のことで?」  男の物分かりが悪いのか、それとも花の説明が悪いのか。 「とにかく、髭爺なら、その鼻も真っ直ぐに直してくれる。いいか、俺が去ったら行け。もうこんなことするな。仕事がないなら、俺の知り合いだって言って、亜蘭亭に行け」  早くしなければまた見失ってしまう。  花は捲し立てるようにそう告げ、蟲の後を追って姿を消した。  残された男が、花がいなくなった通りに、縋るように無骨な手を伸ばす。聞きたいことはいくつかあったが、男が今聞きたいのはたったひとつである。 「大人……、あんたの名前は……」  虚しい声は風に散った。  男は花の残した手帕を握りしめ、曲がった鼻で、再びその残り香を嗅いだ。

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