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Chapter 19 Whose Handkerchief Is This ?

 髭爺の手伝いをしていた楊は、茶屋の方に顔を出した。前掛けをした菎菎の姿を見て、締まりのない顔が更にやに下がる。  菎菎も楊も、髭爺の具合が悪いと知って、すぐに手伝いに来た。  妻に茶屋の客の相手をさせることに、楊は当初いい顔をしなかった。当たり前である。美人妻を、作法もなにもない、野獣の熊と変わらないような男たちの前に出せば、客というのをいいことに無理難題言い、妻が困るのではと思っていた。  だが菎菎は、どこにいても菎菎だった。  尻を触ろうとした客を見事な平手打ちであしらって以降、誰も楊の嫁にちょっかいをかけたりしなくなった。  妻に任せておけば問題ない。  楊は心置きなく診療所で、髭爺の助手をすることが出来たのである。 「菎菎、変わりないか」 「楊楊、お疲れさま。まぁ座って。茶請け持ってくるよ」  すぐに茶と茶請けが運ばれてくる。  楊は菎菎に声をかけ、二人は一緒の席に腰掛けた。途端周りから揶揄いの声が飛んでくる。仕方がない。店は知り合いばかりである。 「ああはいはい。別嬪な女房で羨ましいだろ」 「ちょっと楊楊」  だが菎菎はまんざらでもなさそうである。  二人で休憩を取り、話は髭爺の話題になった。 「でも腰が悪化しなきゃいいけど先生……。先生が杖を使うところなんて、初めて見るから心配で……」  茶屋の髭爺の腰痛が酷く、店が開けられない。  それを知った夫婦はすぐに駆けつけ、店番と助手を買って出た。 「先生には命助けてもらった恩があるもの……。私、良くなるまで毎日でも通うつもり」  結婚したての頃、妻が妊娠した。だがその子どもとは縁がなく、子は流れてしまった。  その流産の時だ。  菎菎の体調は急変し、診ていた医者も匙を投げた。当時は特に、出産や流産で、妻子ともに失うことが多かった。医者は楊の肩を叩いて、残念だが出来ることはないと言った。  髭爺が現れたのはそんな時である。  後から聞いた話だが、花と影音が髭爺に話したらしい。  髭爺のことは前から知っていた。だがその頃はまだ影音や花と知り合ったばかりで、三人とも顔を知っているという程度だった。 「まだお前さんの嫁は死んどらん。そんな大きい体で、めそめそ泣くでないこの馬鹿もんが」  その叱咤の声を、楊は今でも覚えている。  髭爺は薬を調合し、経過を見てまた薬を変えて菎菎に飲ませた。  菎菎はゆっくりと回復した。目を開けた妻の枕元に縋り付き、楊は大泣きした。家が揺れるほどの泣き声だった……とは、髭爺の言葉である。  髭爺のおかげで、今の夫婦があるのである。 「でも来てみたら、変わらず元気そうで安心した」 「変わらずもなにも……」  楊は叩かれた頭を摩った。 「元気も元気。ありゃ仮病なんじゃないかと思うくらい、いつもと変わらねぇったら」 「また叩かれたの?」 「花がいれば良かったのに……」  もし花がいれば、楊の叩かれる分が花に行くからである。 「花のことも心配よ」 「ああ、ああ、あいつの心配こそ不要だ菎菎」 「まぁ楊楊。あんた友人でしょ。薄情よ」  楊が、とんでもないと首を振る。口に入っていた茶が卓に飛び散り、菎菎を呆れさせた。 「そんなんじゃねぇって。考えてみろよ菎菎。奴には影音がいる」 「でも城主のところに行ったんじゃないの?仕事を振られたら、影音だって断れないでしょう?花の看病出来ないじゃない」 「いやいや、大佬は心配だからすぐ帰るって言ってた」  回復しかけで暇を持て余す花が、家でじっとしているのは有り得ない。影音はそう言っていた。 「どうせ今頃も、花が心配で仕事なんて手につかないはずだ」 「そんなに心配なんて、まるで奥さんみたいね」  菎菎の何気ない一言だったが、それは楊の心に引っかかった。  ……何だ?今何か引っかかった気が……。  楊は考えようとしたが、菎菎といる時の上の空はしない方が身のためである。丁度よく、奥から声がした。 「楊、先生が呼んでる。患者らしいぞ」  楊は夫婦の時間を邪魔された文句も言わず、すぐ奥に向かった。  診療所には患者らしき屈強な男が二人、玄関先で転んでいた。 「す、すまん。重くて持ち上げられなかった」  謝る男も怪我をしている。顔に血がこびりつき、その鼻は曲がっていた。一目で喧嘩だと分かった。 「儂じゃ上げれんわい」  それで楊が呼ばれたのである。自分で歩ける男と一緒に、気絶している男を中へ運ぶ。 「どっか怪我して気絶してるのか」  楊の問いに、鼻の曲がった男は首を振る。 「いやぁ、恥ずかしながら、見事に伸されちまいまして。それが見事な蹴りと拳が、きれーにこう入っちまったもんで」  妙な言い方だと思った。  こっちの男も、その鼻を折られるほどの拳を顔面で受けているのである。普通ここまでやられたら、相手に対して悪態をついていても不思議はない。だが男は妙に落ち着いている。  落ち着いているばかりでなく、伸した相手を思い出してか、変に恍惚な表情さえする。不気味なことこのうえない。  楊は髭爺に目配せした。楊の言いたいことが分かったのか、髭爺は肩を竦めた。 「そこに寝かせ」  寝台は前の患者が使った後で、楊がきれいに整えてある。  寝かせてみれば、意識のない男の足が寝台からはみ出す。本当に大男である。こんな大男を蹴りと拳だけで伸せる人物を思い浮かべ、心当たりが頭に浮かんだ楊は頭を振った。  そんなわけがない。  影音は仕事で、花は自宅で療養。二人のわけがない。  しかしあの二人を除外すると、後はもう数えるほどである。 「あんたら、この辺りで見ない顔だよな。どこで喧嘩したんだ?」  警戒するかと思ったら、鼻の曲がった男は拍子抜けするほどすんなり答えた。 「へぇ、大哥、俺たちゃ、西でさぁ。ボロ街で生活してますんで」  ボロ街とは、貧民街のことである。  これには少なからず驚いた楊である。 「西から先生んとこまで……?どうやってここまで来たんだ?まさか、こいつ背負ってきたのか?」 「い、いえ大哥。こいつは重くって、俺にも無理です。壊れた荷台車があったんで、ちょっと直してこいつを乗せて来たんです」 「なるほどな……。けどよ、よく先生のこと知ってたな」  西側にも医者はいる。喧嘩で伸されたぐらいで、わざわざ街の反対側から来るのは不自然とも言える。 「それが……、ここへ行けと言われたんです」 「言われた?誰にだ」 「それが……、名前を聞く間がなかったもんで……。俺も知りたいぐれぇで」 「……ああ?」 「俺たちを伸したお方ですよ、大哥。そのお方が、西の茶屋の髭爺という医者のところへ行けと」  楊は混乱した。 「お前ら、一体どんな理由でそいつと喧嘩したんだ?」  喧嘩して自分の鼻を折った相手を、「お方」などと敬称する。  そして怪我を負わせた方は方で、鼻を折った相手にわざわざ東の名医を紹介する。訳が分からない。 「これ小楊、手が動いてないぞい」 「わっ、先生、分かってる、分かってるからその杖で叩かないでくれ」  楊は薬草を擦る手を早めた。  気絶している男は、全く大事に至らず済んだ。怪我らしい怪我もなく、ただ寝ているようなものである。あまりにも綺麗に蹴りと拳が入ったため、本人は痛みも感じず眠っている。  鼻が曲がっている男の方がまだ見た目も痛々しい。 「運が良かったの。鼻骨骨折じゃ」 「へ?せ、先生……俺の鼻……」 「治るわい」 「よ、良かった……」  楊は濡れた手拭いで男の血を拭き取ってやった。ふと見えた、男の懐の不相応な手帕に目がいく。楊は首を捻った。途端に嫌な想像が頭を走る。  こいつら、まさか女追っかけて乱暴しようとしたんじゃ……。  楊のその視線に、男が気づいた。 「へ、へへ……これは、そのお方のもんなんで……。今度会ったら返すんです」  屈強な鼻の曲がった男が、そう言って頬を染めた。それは楊が、想像もしなかったような反応だった。気持ち悪さで身震いした楊の手から濡れた手拭いが落ち、男の服を濡らす。 「あ、わ、悪い」  手拭いを拾いながら、ふと何か気になった。男の持っている手帕は、どこか見覚えがある気がする。だが手帕など持たない楊には、手帕などどれも同じに見える。きっと気のせいだ。 「返すんなら、その血は落とさないとな。血まみれの手帕なんて、受け取らないだろ普通。ここへ入れろよ。ついでに洗ってやるから」  洗濯を手伝わされることが多い楊には、手帕一枚を洗うことなどお手のものである。  だが男は、なぜか手帕を手放そうとしない。よもや犯罪の証拠でないかと疑いだした楊は、男が恥じらいながら言った台詞に危うく腰を抜かしかけた。 「で、でも洗うと、この良い匂いが消えちまうんじゃないかと……」  腰を抜かす代わりに、楊はひっくり返った。  がっしりした、毛むくじゃらで、風呂もろくに入らないような男が、手帕に曲がった鼻をひくつかせて頬を染めるのである。もう、気味の悪さに泣きそうである。 「遊んでないで湯を沸かせ。早く手当てせんと、また血が出だすぞ」  ひっくり返ったまま動かなかったため、今度こそ杖が強かに楊の頭を打った。  これ以上変なものを見たくないし、打たれるのも嫌だった楊は、助手の仕事に専念した。  影音が診療所を訪ねてきたのは、それから一時も経たないうちだった。 「……やはりな。楊が静かなんで、患者がいるんだろうと」  そんな憎まれ口を叩きながら部屋に入ってくる。  影音はいつも通りの紺色の衣に、外の冷気を纏っていた。 「火鉢に当たってくれよ大佬。外は寒いだろ」  だが影音は楊が落としかけた包帯を押さえた。 「お前もちゃんと巻けないのか」  そう言って、珍しく笑みさえ見せる。影音がそんなふうに、他人がいる前で笑みを見せるのは珍しいことだ。何か良いことでもあったのかと思った楊は、だがなぜ彼が笑みを浮かべたのかに気づいた。 「俺は花ほど不器用じゃない」 「……ここ、緩んでるぞ。貸せ。俺が巻く。お前は押さえろ」  突然現れた、整った顔立ちの男。そんな影音が包帯を巻くため近づき、鼻の折れた男は慌ただしく目を泳がせる。その様子を見ていた楊は笑いを噛み殺した。 「派手に折ったな。これだけ綺麗に折れていれば、戻るのも早い。……負けか?」 「へ、へぇ、そ、それはもう見事に」  男がしどろもどろに応える。影音の精悍な顔をちらちら盗み見ては口を開けるため、ただでさえ間抜けな面は更に間抜けになっている。 「そっちの男もか」 「へ、へぇ、その通りでまったく……」  まるで鷹の下を走る小動物である。影音の前では、大体の者がそうなるのだ。  結局楊は包帯を影音に任せて、自分は湯を捨てに行こうとした。だがまだ桶の中の水が綺麗なので、捨てるのは勿体ないと思っているうちに、男の持っていた手帕のことを思い出す。  男は大事そうにそれを折り畳んで、脱いだ衣の上に置いていた。男たちの服があまりに汚れていたので、どちらも服を着替えさせたのだ。  ささっと洗えば、まぁ香りも落ちないんじゃないか?  善意の心で、楊は手帕を湯に浸けた。  血は水で洗わないと落ちにくい。それを知っていた楊は、湯に水を足した。  少し揉みながら洗う。血は目立たない程度になった。染みてしまった血を完全に落とすのは難しいので、このくらいが妥当である。 「おいあんた。手帕返すなら、新しいの買って返す方がいいぞ。これは諦めろ。あんたの血が落ちねぇ。いくら気に入りの手帕でも、血のついたものなんて返してもらって、喜ぶ女はいないんじゃないか」  女の気持ちが分かると言えるほどではない楊でさえ、そう思うのだ。男に渡した女も、後で返して貰おう思って渡していないに違いない。  絞った手帕を、男に広げて見せる。男が目に見えて、がっかりと肩を落とす。さっきまでの気持ち悪さは何処へやら、妙に可哀想になってくるから不思議である。 「さっきもらって、血がついたばかりなんですがね……。でも落ちないんですか……」 「心配すんなって。あんたが言ってた良い匂いは残って……ん?あれ?この匂い、どっかで嗅いだことある気が……」  すると突然、影音が立ち上がった。広げた手帕に顔を近づける。 「これをどこで拾った」  低く硬い声が包帯の男を振り返る。男は突然のことに驚いて狼狽えた。 「あ!そうか、あいつの、花の匂いか」  楊は自分の鈍さに、つくづく呆れた。馴染みのある匂いである。なぜもっと早くに気づかなかったのだろうか。 「答えろ」 「ちょっ、大佬、落ち着いてくれよ。一応怪我人だ」  影音は男の襟首を掴んで持ち上げた。楊は慌てて止めようとしたが、本気の影音を止めることなど楊には出来ない。  それは単純な力だけでなく、意思の力の差だ。 「止めんか。この馬鹿者ども」  竹杖がまず影音の頭に、続いて楊、そしてとばっちりの包帯男の頭に落とされた。 「……っ」 「だっ……い、痛ぇ……」 「……なんで俺まで……」 「痛いのは生きとる証拠じゃ」  三人の頭に痛みの雷を落とした髭爺は、囲炉裏から茶瓶を取り、湯呑みに注ぐ。三人分の湯呑みである。飲んで落ち着けと言うことだ。  だが影音は待てなかった。 「これは花の手帕だ。どこでこれを?」  彼の気迫に押された男は、座ったまま尻で後ずさった。 「早く言え」 「大、大佬、ちょっと座って話を聞こう。な?ほら」  楊は影音の肩を押しつけて、無理矢理座らせた。これ以上竹杖で頭を叩かれれて、ただでさえ鈍い頭がこれ以上鈍くなっては困る。  振り翳した杖が降ろされたことに安堵しながら、楊は自身も腰掛けた。 「大佬、初めに言っとくけど、手帕の血はこいつので、花のじゃない」 「あ、あの……」  包帯の男が躊躇いがちに話へ入ってきた。 「お前さんたちは、この手帕の持ち主を知っているんで?」 「ああ、知ってるも何も、この影音の義弟で、呼び名は花。そういや、あんたの名前をまだ聞いてなかったな。何て呼べばいい」 「あ、こりゃ失礼しました。俺は一杰(イージエ)ってもんです。あっちは、」 「お前たちの名前はどうでもいい。どこでこれを拾ったんだ」 「大佬……」  花のこととなると、途端冷静でいられないのが影音の唯一の欠点である。  楊は助けを求めて髭爺を見た。視線を受けた髭爺が、溜め息と共に影音の肩を叩く。 「小影、お主はちと黙っとれ。儂が代わりに聞いてやる」 「あ、あの、この手帕は拾ったわけじゃねーんです。あの方が、鼻血を出した俺に手渡してくれたんです」 「貧民街から来たと言ったな。お前さんに手帕を渡した奴もそこにいたのか」 「へ、へぇ、そうです」  自分が追い剥ぎしようとしたとは言えず、男が口をもごもごさせる。嘘を言おうものなら、影音と呼ばれるこの男は、即座に見抜いてしまいそうである。彼の腰元の剣も、剣にしては少し不思議な形だが、何やら威圧感が凄い。  迂闊に嘘も言えない。だが真実も言えず、男は自分の胃が痛み出すのを感じた。 「それが、あやつがつけた傷かどうか、どうして傷を負う羽目になったかは、今は聞かぬことにしよう。喧嘩両成敗と言うしな。手帕をくれた男の特徴を言ってみろ」 「へぇ、それはお安いご用で。そうですね……、大きい目の端がちょいとこう……吊ってて、唇がこう、形が良くて。それに近寄るとこう、なんとも言えない良い匂いがして……」  影音の怒りを悟った楊は、大きく咳払いをする。 「えーと……、体の特徴はないか何か」 「背は俺よりずっと低くて、身も軽い。けどあんな身軽なのに、拳がやたら重いんですよ。俺なんかと比べて体もあんなに華奢なのに……。腰なんてこう、何とも言えないほど細くて……。それを後ろから見ると、何かこうムラムラっとくるもんがあるって言うか……」 「だああああ。もういい、もう十分に分かった。そいつは花だ。なんでそんな変な視点で語るんだあんた」  殺気立った影音を止める楊は大変である。  影音の額には青筋が浮いていた。今にも男に殴りかかるか、その腰の踊跃が飛び出しそうである。 「言っただろ一杰。花は影音の義弟だ。言葉を選べ。……せっかく鼻だけで済んでんだ。腕と足も折られたら、帰れねぇだろ」  後半部分は一杰に耳打ちする。一杰は瞬時に顔面蒼白になり、影音を見て小刻みに頷いた。 「それで、花はそんなとこで何をしてたんだ?……ん?待て。それは今日の話か?だが奴は、家で療養中なはず……」  影音を見ると、何とも渋い顔だった。 「家、まだ帰ってない……よな、大佬」 「薬を貰って行こうと思って寄った」 「……だああああ!あんのじゃじゃ馬め!大佬が見張ってないと、すぐこれだ」  一杰は、頭を抱える楊を見た。この楊という男は、手帕の君の義兄とは、まるで正反対である。どうやらあの手帕の君は、二人の義兄に守られているらしい。一杰は自分でつけた手帕の君という呼び名に、密かにうっとりした。それはあの、爽やかな青年に、とてもしっくりくる呼び名だ。 「……あー……一杰。そういう鼻の下を伸ばす顔は、今この場ですると、死ぬ原因になるぞ。止めとけ」 「あ、へ、へぇ、こりゃすみません。つい思い出しちまって……。俺、あんな優しい扱いされたの、生まれて初めてなんです」  一杰は手帕を渡してくれた花の顔を思い浮かべた。その光景だけで、これからの人生、どうにか凌げそうな気さえする。 「花は貧民街で何をしてたんだ?何か聞いたか?」 「いえ、よく分かりませんでそれが……。急に隠れろって言われて、そしたら空から突然、虫の大群みたいなもんが降りてきて。それを熱心に見てたんですよ手帕の君は」 「手帕の……?何だって?」 「虫の大群が空から降りてきた……そう言ったか、今」  急に立ち上がった影音の迫力に、一杰が仰け反る。影音の様子に只事ならない何かを感じ、楊も立ち上がった。 「大佬、どうしたんだ」 「この前話したな。磁器から出た蟲を逃したこと」 「ああ、あの亜蘭亭に預けたっていう。……まさか虫の大群って……」 「ああ。でなきゃ隠れたりしないだろう。おそらく、ちょっとふらつきに出たところで、蟲を偶然見つけたんだ。それで後を追った」 「それで貧民街まで……」 「ああ。あいつがやりそうなことだ。俺を待てばいいものを……」  影音には確信めいたものがあった。花自身、そんなところまで追いかけることになるとは思っておらず、引き返すにも引き返せない。きっとそういう状況だ。 「正確な場所を教えてくれ」  一杰は、出来るだけ事細かく場所について話した。 「ボロ街は、道が狭くて迷路みたいなんでさ。おまけに最近は特に、薬中の連中がうろうろしてる。行くにしても十分気をつけてくだせぇ」  花はそんなところで一人で、しかも蟲の近くにいる。影音は自身の体に鳥肌が立つのを感じた。恐ろしかった。花にもし何かあれば……。 「……楊、お前はここに、」 「何言ってんだ大佬。俺も行く」 「相手はたぶん蟲だぞ」 「上等だよ。あいつらなら、俺の力も通用する」 「菎菎に言って来い」  茶屋を手伝っているのを見て知っていた影音は楊にそう告げ、腰元の踊跃を確認する。 「まったく……。騒がしい連中じゃわい」  髭爺は呆れたように言って寝台の男を見に行った。 「小影」  呼ばれた影音が振り返る。髭爺は、寝ている男から顔を上げないままで言った。 「怪我して帰ってきても、儂は診てやらんぞ」  それは怪我をするな、無事に帰って来い、という髭爺なりの叱咤である。 「あいつを連れて帰ったら、灸を据えてやってくれ」 「出るなと言うと出る、するなと言えばやる。まったく、親の顔が見てみたいもんじゃ」  長い髭を撫ぜ、髭爺が笑う。  両親がおらず、義母は早くに逝き、周囲の人間が花の親代わりだ。自分もその「親の顔」の一人である。 「行ってくる」 「……怪我するでないぞ」  聞こえるか聞こえないかの声でそう言い、髭爺は何度も髭を撫でた。    無类が現れたのは、影音と楊が診療所の門をくぐろうかという時だった。 「結局ここかよ。俺に無駄足踏ませやがって……」  そう言って門に背をつき、無类が白目を剥く。白い息が大きく宙に向かう。彼が息切れしているとろこを見るのは、これが初めてだった。  突如現れた無类に驚いたのは影音と楊である。特に影音は、無类が現れたことで、険しい表情を一層険しくさせた。すぐに、何か予期せぬ事態を想定したためだ。 「大佬、無类と知り合いなのか」  楊が驚いた様子で影音に呟く。亜蘭亭の無类と言えば、影音にも負けず劣らずの無口で知られた男である。その笑顔はもとい、表情が崩れたところを、誰ひとり見たことがない。従業員との会話は最小限、仕事以外のことで喋るのは店主と花のみ。その証言も、部屋での会話を扉越しに聞いた従業員のものである。 「どこで知り合いに?」 「その話は後にしてくれないかな」  無类は不機嫌そうに言った。ただその表情は全く変化がない。声音に少し感じるくらいである。 「言っただろ。俺、あんたを探して無駄足踏んだんだ。早く店に帰りたい。街の中はほんと、埃は酷いし女の化粧は臭いし、酔っぱらいはいるし、ガキどもは食い物持って走り回ってるし……。ああもう、これだから嫌なんだよ」  その走り回る子どもと、ぶつかって何か当たったらしい。彼の膝付近の衣には何か染みがあった。 「蘭から言伝だ」 「亜蘭亭の店主から?街を離れてるって聞いたけど、戻ったのか?」  途端、無类に睨まれた楊は黙った。 「話を遮る奴しかいないのか、花の仲間には」 「それで何だ。言伝とは」  焦れた影音に遮られ、無类はばつが悪そうに咳払いをした。 「花が亜蘭亭から飛び出した直後に、ちょうど蘭が着いたんだ。店に入ったら、風呂敷が床に転がってるわ、従業員はポカンと突っ立ってるわで、事情を聞いたわけ。で、飛び込んできて、風呂敷放り投げて、その後また飛び出したのが花だって分かった」 「風呂敷?」 「服だ。雨の日に貸した」 「花が店に来た……。それをわざわざ知らせに?」 「俺がそんなことでいちいち、あいつの様子を見に行くわけがないのは分かるよな。蘭の奴め……。あんたらもあんたらだ。長屋にいないわ、城主のところも、いつもより早く帰ったって?大人しく家にいろよ」 「それは俺もあいつに言いたい」  怒りを発散して少し気が済んだのか、何の挨拶もなく無类は踵を返そうとする。用は済んだと言わんばかりの背中に影音は声をかけた。 「店主に何て伝える気だ」  振り返ったものの、無类は肩を竦めた。 「いないんだろ。見たまま、行方不明って」 「それじゃ、子どもの使いと変わらないんじゃ……」  影音だけに聞こえるように、楊がぼそりと呟く。  様子を見に行けと言われたのはそうだろうが、その言葉には「花が何か面倒なことに巻き込まれていないかどうか、今安全な状況にいるかどうか確認しろ」という意味も含まれている。普通の者なら分かるだろう。だが何せ無类である。 「ほんと変わってるよな、無类って。こんなに奴が喋るとこ、俺初めて見た」  だが影音には分かっていた。亜蘭亭の店主は、無类の性格をよく知っていて、他でもない彼をわざと寄越したのである。  これが他の者なら、おそらく影音は手助けを頼んだ。人探しは人手が多いに越したことはない。  亜蘭亭で働く者たちの大体が、腕の立つ者である。足の遅いひ弱な者に火急の言伝を預けるとも思えない。来るなら用心棒を担う者だろう。  仮に花が面倒事に巻き込まれたのを知ったとして、もし伝人が無类でなければ、影音に同行する確率が高い。そうなれば何が起こったのか店主が知るのは、事が済んだ後である。一方無类なら、例え花に何があったとしても、まずは店主の元へ報告に戻るはずだ。何だかんだ言いつつ、蘭と無类の間には信頼関係が築かれているように見える。 「これから探すんだろ」 「ああ」 「心当たりは?」 「ある」  影音の言葉に無类が鼻を鳴らす。 「そんなにお守りをしたいなら、もう馬小屋にでも縄で縛って繋いでおけよ。どいつもこいつもあんな奴心配して探して、みっともないったらないね。いい大人だろあいつ。じゃ、俺は店に帰る」  言うやいなや、無类は目の前から忽然と消えた。屋根の上に飛び上がったのだ。そのまま音も土埃も立てず、駆けて行く。こんな時間にそんなことをすれば目立つ。目立つことも厭わないほど急いでいる、ということなのだろうか。  先ほども、何か別のことに気を取られているような様子が見られた。それでいつもより不満を言う口数が多かったのだ。影音はそれに気づいていた。 「……嵐の様だったな」  楊の呟きを無視して影音が歩き出す。 「貧民街に行くぞ」 「なぁ大佬、ちょっと気になるんだが」 「なんだ」 「まさかあの鬼が、蟲を追った先にいたりしねぇよな?」  影音は返事を濁した。 「腕が引っ付くのにかかる時間は分からん。だが街に、あのままの体で入ってくることはないはずだ。仮にもし入れても、入って来たことに気づくことは出来るはずだが」 「へ?大佬、もしかして結界を?」 「一人でこの街に結界を張るのは、俺には無理だ。元々あった、街の護符陣にちょっと細工をした。俺には分からんことが多くて、他の街からも人を借りた」  楊は呆気に取られた。  意識不明になるほどの怪我を負い、その傷の回復も遅かった。そんな最中にも、鬼が街に入れないようにと、そんな細工をしておいて、それを誰に言うこともない。  影音と楊は、用意した荷馬車に乗った。西の貧民街までは距離がある。のんびり歩いて向っている間に花を見失いかねない。 「ほんとに何でも出来るんだな大佬」  だが感嘆のその声にも、影音は浮かない顔で爪を噛んだ。 「鬼用の陣を敷けたのは、ほんの数日前だ。それに実際に鬼を使って試したわけじゃない。陣が作動してみなければ分からない部分が大きい。しかしまさかその陣が災いするとは……」 「どういう意味だ?」 「もし蟲が、その陣のせいでこの街から出られないのだとしたら?」 「護符陣に細工したせいでか?」 「ああ……。そもそも、元々敷いていた護符陣が弱まっていたとはいえ、外から蟲が街へ入ってくるとは考えにくい。あの蟲の大群はおそらく街で生まれた」 「一匹でも恐ろしいのに大群ってのが怖いな……」 「その、生まれた蟲が街の外へ出ようとしたところで、護符陣に阻まれて出られない。出られないと知った蟲が次にどんな行動に出るのか、検討もつかない」 「じゃあ花はそんな状態の蟲を追ってるって言うのか」  影音が眉根を寄せる。その表情は苦しそうである。 「攻撃的になってないことを願うが……」 「大佬……」 「まだ分からないことが多すぎる。とにかく今は、あいつを見つけるのが先だ」  楊は手綱を持つ手に力を込めた。 「振り落とされないよう気をつけてくれ。なに、大丈夫だ。花だって蟲と戦える」  荷馬車が小石を跳ねる。  楊の励ましにも、影音の憂いは晴れない。  花……、すぐに行く。頼むから、それ以上ひとりで動き回ったりせず、そこで待っててくれ。  二人を乗せる馬車は速度を上げ、何も知らぬ人々の合間を駆けて行った。

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