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第4話

「……おいしい」  Delicious、という単語は果たして本当に『美味い』という意味なのかどうか考えてみたがわからず、結局ヨーゼフはノルウェー語で賛美した。  テーブルの上に並べられていたのは、赤いスープとパンとサラダだ。  別段豪華でもない。通常の家庭料理としては寂しい量ではあるが、同じようなスープを延々と作り続けるヨーゼフにとって、久しぶりの他人が作った貴重な食事だった。 「おいしい? 本当?」  向かいの席でヨーゼフの口元を見つめていた青年は、拙いノルウェー語を並べながら首を傾げる。  赤いスープは、ノルウェーの伝統的な家庭料理である干し鱈のトマト煮込みだ。酸味のあるトマトでじっくり煮込んだタラは臭みもなく、塩気が利いている。一緒に煮込まれたジャガイモと玉ねぎも味わい深く、シンプルだが間違いなく美味い。  一人の食卓でわざわざ塩漬けの鱈の塩抜きをするのも面倒だ。時折料理好きなスヴェンが、ホームパーティーで振舞っていた記憶はある。しかしここ数年の彼は多忙で、パーティーを開いたとしても、シェフは大抵アニータだった。  ジョゼは料理が苦手だ。壊滅的だと言ってもいい。  それは不得手などという生ぬるいものではなく、とにかく口に含んでも吐き出さない程度の味のものが出来れば大成功、という具合だ。どう見ても失敗した時の味は、悲惨なんてものではない。  長年自分の最低な料理と向き合い、結局辿り着いたのがスープストックを入れただけの野菜とソーセージのスープだった。  物価が高いノルウェーは、外食も勿論割高になる。友人との会食に金は惜しまないとしても、一人の食事に美味を求める性質ではない。  食べられればいい。だったら、同じ味のスープでも問題はない。  イージーを拾い、彼の生活の面倒を見るようになってから十日ほどが経った。最初の一週間はヨーゼフの作ったスープを共有していた。そして昨日から、イージーはキッチンに立つようになった。  文句も言わずヨーゼフのスープを飲んでいたが、やはり不味かったのかもしれない。右足を労わりながらひょこひょことキッチンの中を移動する様は、あまり心地よく眺めていられる光景ではない。しかし、自分の料理の腕を考えると、彼を止めることもできない。  さて何味のどんなものが出てくるのか。もしかしたら、彼の人生を知る手がかりとなるかもしれない。  そんな風に期待していたものの、テーブルに並べられたものは清く正しいノルウェー料理で、別の意味でヨーゼフは驚いた。  しかもその料理は、お世辞抜きで美味い。  本当においしい、と再度ゆっくりと放った言葉に、やっと安心した様子のイージーは、ようやく自分の皿に手を付け始めた。 「一体、どこでこんなうまいノルウェーの味を拾ったんだ?」  ヨーゼフの半ば自問のような言葉にも、律儀なイージーはスープ皿から顔を上げて首を傾げる。  アニータが用意した髪留めとゴムのお陰で、少々長い彼の髪はざっくりとまとめられていた。すっきりしたフェイスラインが目に毒だとは絶対に言えない。口に出したところでどうせ理解されない、とも言えなくなってきた。  ノルウェー語の勉強を始めたイージーは、驚くほどのスピードでこの国の言葉を覚え始めたからだ。 「……ごめんなさい。もっと、『easy』に」  そしてこれは、ヨーゼフのぼそぼそとしたノルウェー語が聞き取れなかった時にイージーが使う『もっとゆっくり簡単な単語で話して』という合図だった。  mer "easy"、と言われるたび、彼の呼び名を『easy(簡単)』などという言葉にしてしまった事をからかわれているような気分になる。イージーなりの皮肉なのかもしれない。 「――この料理の、レシピ」  できるだけ単語を選んで言葉を並べる。皿を指させば、イージーはやっとわかったというように表情を和らげた。 「スヴェン、貰った」 「ああ……まあ、そうか。キミがインターネットでレシピを検索するわけがないのだから、あとの出どころは二つだな。アニータはどうも、エスニックな料理が得意でバカラオは苦手らしい」 「バカラオ……あー、Dried cod」 「そう、干し鱈。この国の愛すべき名産物だ。ノルウェーは石油と干し鱈でできているから。あとは夜のない夏と、暗い冬がトロムソの名物だ」 「白夜?」 「白夜と、極夜だ。あと一か月もすれば、すっかり暗い冬が来る。曇っているから暗いんじゃない。単純に、太陽が登らない。まあ、この辺の極夜は完全に日が登らないというわけではないけれど……あー。もっと簡単にする?」  パンを千切りながら、イージーのように少々首を傾げてみせる。  自分の常套句を取られた青年は、ほんの少しだけ目を開いた後に笑うように息を吐いて『ja(yes)』と頷いた。  自室で言葉を交わしながら食事をするのは、何年ぶりかわからない。  スヴェンの家での集いとはまた違った面白さがある。思うままに言葉を紡いでしまっては、イージーの耳を通り過ぎてしまう。  できるだけ簡単に。できるだけ言葉を少なく。そしてゆっくりと心がけて話すノルウェー語は、自分が思っているよりも美しい響きがあるような気がした。  自国語が嫌いな人間もいる。彼らはフランスや英国の美しい響きの言葉と比較し、原始的で野蛮な汚い発音だとこき下ろす。  しかしヨーゼフは、ノルウェー語が好きだ。  そして異国の青年の薄い唇から発せられる、淡い響きのたどたどしいノルウェー語も悪くない事に気が付いていた。  イージーは、ヨーゼフの言葉に耳を傾けそれをかみ砕きながら、器用に左手で食事をした。左利きなのかもしれないし、両利きなのかもしれない。片足で歩き炊事をし、言葉も数日で覚える程器用な青年だ。利き手でなくとも、スプーンとフォークを操るくらいはできそうだと思う。  自分の手元の皿をきれいに平らげたヨーゼフは、炭酸水を飲みながらイージーの食事に付きあった。  腕の打撲はだいぶ回復した様子だったが、足がどうも芳しくない。ただ捻っただけではなく、筋を痛めているのかもしれない。何にせよ専門の病院に連れて行く気はないのだから、しばらく面倒をみるしかないと結論付けた。  ヨーゼフには家族はいない。先日、唯一の家族だったレグンは死んでしまった。異国の青年を一人、部屋に住まわせていたとしても、誰に迷惑をかけるわけではない。  彼が犯罪者だとしたら、多少は倫理的にまずいかもしれない。しかし記憶がないと言い張っているのだからそれを信じているうちは、特別な問題があるとは思えない。  本当に記憶はないのだろうか。本当に数枚のドル紙幣以外の持ち物はないのだろうか。本当に一人でノルウェーまで来たのだろうか。本当に彼は外国人なのだろうか。本当に彼はノルウェー語を喋れないのだろうか。  最初の夜は様々な疑問が頭をよぎったが、そのすべてにヨーゼフは『知らないと言っているのなら自分も彼の事を知ることはできない』と自答し、以後知らぬふりをすることにした。  もし彼が外国人を装ったホームレスでも、ヨーゼフは困らない。料理がうまい使用人を手に入れたと思えばいい。もし異国の犯罪者で、ヨーゼフとその家財を狙っている悪人だとしても、この世に特別な未練もない身だ。寝ている間に丁寧に殺してくれるなら、それはそれでありがたいとさえ思う。  きっかけがないから死なないだけだ。失敗すると面倒だということを、身をもって体験している。自分の責任以外で命を断てるなら、それも運命だと諦めて死ぬことができる。  これを言うとスヴェンがとても悲しそうな顔をするので、今は口に出すことはない。しかしヨーゼフはいつも惰性で生きているようなものだ。  キミは生きる事に対して不真面目すぎる、とスヴェンは眉を顰める。  幼少の頃から延々と真面目だと言われ続けていたヨーゼフが、唯一不真面目だったのは恐らく彼の言う通り、生きる事に対してだろう。  生きることが不真面目なヨーゼフだから、わかることがある。  おそらくイージーは、事故で落ちたわけではない。  彼は明確に死のうとしていた。三階の窓を開け放ち、そこから冷たい庭に落ちて全てを終わらせるつもりだったのだろう。  彼にとっては不幸なことに。そして、ヨーゼフにとっては幸いな事に、その落下はヨーゼフの手によって少々妨げられ、その上窓の下は土が敷き詰められた庭だった。コンクリートや石畳なら、もしかしたらもう少し酷い怪我をしていたかもしれない。あるいはヨーゼフが目を覚まさなければ、彼を待ち受けていたのは死という可能性も無くはなかった。  ただでさえ後ろ暗い出会いをしたというのに、自宅で自殺などされては笑い話にもならない。身元不明のアジア人の死体は不審死で調べられ、自分たちの性交の証も発見されるだろう。  壊れる家庭もないので、犯罪者として塀の中に放り込まれても別に、困ることはないのだけれど。スヴェンとアニータは泣くだろうなと思うので、イージーが死ななくて良かったと思うことにしていた。  それは、昨日までの素直な感情だ。  しかし今のヨーゼフは、素直に彼が死ななくて良かった、と思っている。  見てみぬふりを続け、無視をしてきた事実を、料理とともにつきつけられていた。  風呂場で泡まみれにして爪の先から髪の毛まで丁寧に洗い、全身をこれでもかと清潔にした。その後また入念に身体を乾かし、かなり大きいヨーゼフの服を着せてやると、出会った夜のイージーがいかに汚れ、いかに自分が酔っぱらって視界が曇っていたか、という事実に気が付かされた。  イージーは、ヨーゼフ自身が動揺する程に魅力的な外見をしていた。  ヨーゼフはゲイだが、ゲイポルノの表紙を飾るようなマッチョよりも、どちらかと言えば細身の男が好みだ。  外見よりも性格が重要だと己では思っていても、やはり骨盤のラインが美しい腰や滑らかな鎖骨が目に入れば、つい目で追いそうになる。好みを突き詰め勝手な事を言うのなら、もう少し肉付きがよい方がいい。なんにしても今現在ヨーゼフの生活圏内に居る人物の中で一番魅力的な外見をしているのは、イージーだった。  くっきりとしたアーモンド形の瞳はとてもアジア的で、強い視線に捕らわれるとしばらく目を逸らせなくなる。細い顎も、薄く小さい唇も、黒く艶やかな髪も、ヨーゼフには馴染みがない。それなのに美しいと思うから、自分はアジア人が好きなのかもしれない。  外見が美しいからといって、即物的に手を伸ばしたりはしない。  何より恋や愛などはヨーゼフにとって最も嫌煙するもので、例え自分に好意的な人間が現れたとしても、その手を取り愛の言葉を囁く事などありえないことだと思っている。  恋は怖い。愛は恐ろしい。  性欲は時折ヨーゼフを襲ったが、そんなものは人間を相手にせずとも治めることができる。イージーを買った夜は特別だった。あの日は家族を亡くして打ちひしがれていた。それは言い訳ではあったが、ヨーゼフのほとんど波立たない凪いだ人生の中では重大な出来事だったから、あの日の事は例外だ。  平素のヨーゼフは、例え自分の好みの人間が裸体で目の前を通っても、手を伸ばしたりはしない。  誰かと関係を築く事が面倒くさい。手を伸ばした先のスキンシップが面倒くさい。更にその先に待ち受ける感情が怖い。  しかし、イージーは外見が好ましい事に加え、驚く程真面目でそして慎ましい性格の好青年だった。その上ヨーゼフが苦手とする料理を、魔法のようにこなしてしまう。  語学の勉強を始めたからなるべく彼と話してあげて、とアニータに言われていなくても、ヨーゼフはきっと彼に『おいしい』と伝え、言葉を交わしていた筈だ。  イージーはとても好ましい青年だ。外見も、そしてそのいじらしく勤勉な内面も。  自分の皿をきれいに平らげたイージーは、ヨーゼフに見つめられている事に気が付くと、不審そうに首を傾げた。  彼の言葉はまだまだ不十分で、今はリスニングがやっとできるかといった具合だ。とっさに言葉が出ない為か、イージーは少々コケティッシュなボディーランゲージを多用した。  首を傾げると喉の骨が動き、滑らかな肌が目立つ。その上大きすぎるヨーゼフのセーターは少々くたびれているせいもあり、ざっくりと彼の鎖骨を露わにした。  自分の店で洋服を扱っていたら、真っ先に新品のシャツを買い与えていたと思う。残念ながら日用雑貨と少々の食糧と菓子を扱うDEILIGE KJEKSには、彼の艶めかしい首元を隠す便利な商品はない。  解決策はヨーゼフがイージーを見ないことだ。  しかしヨーゼフが距離を取ると、異国の青年は少々不安そうな様子を見せた。頼れる人間が三人しかいない現状では、ヨーゼフの機嫌を窺うのも仕方ない。それは好意ではなくただの恐怖と生存のためのコミュニケーションだ、と自分に言い聞かせなければならない程、ヨーゼフは彼の様子が気になっていた。  レグンが死んで、少々気分が安定していないだけだ。  そう思い込むしかない。  そんなヨーゼフの心中など知らないイージーは、席を立つと空になった皿を手にして歩き出した。向かう先は、先ほどまで彼がひょこひょこと右往左往していたキッチンだ。  器用に歩いているように見えても、やはり足を引きずっている。ゆっくり歩く彼に追いつくと、ヨーゼフは後ろから皿を奪って頭の上に持ち上げた。  驚いたイージーが転ばないように、肩を支える。これだけ近くに寄っても、イージーからは最初の夜の不快な汗臭さは漂うことはなく、ただ清潔な石鹸と洗剤の匂いがする。 「皿洗いは僕の役目だ。キミは料理を作った。そして僕が洗う。……言い訳するが、僕は料理以外の家事は嫌いじゃない。料理も別に嫌いじゃないんだけどね。劇的にうまくないものを作るだけで。キミはまだ万全じゃないのだから、うっかり皿を落としたりして余計な怪我をしてしまうかもしれない」 「……えーと、……もっと、簡単に」 「つまり、こういうことだ」  ぱっと持ち上げていた皿を落とす、――ふりをする。  一瞬だけ落ちた皿をすぐにキャッチしたヨーゼフは、腕の中で小さな悲鳴を上げるイージーに一瞬だけ理性を忘れた。  目が丸い。そんなに驚くなんて真面目な子だ。びっくりすると、少年のような顔になる。そしてそれがヨーゼフの悪戯だと気が付いた後、目を細めて睨む様が、とても可愛らしい。 「――目を閉じて、って、英語でどう言うんだ?」  キミが悪い、などとはノルウェー語でも言えない。彼の魅力に逆らえなかったヨーゼフが悪い。  理性を忘れたヨーゼフは、腕の中の青年に覆いかぶさるようにキスをした。

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