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初恋の終わり方

 昔から、エロいな、と思っていた。節榑立った長い指とか。掠れたような低い声とか。目を伏せた時に震える濃い睫毛とか……。  どちらかと言えば笠村なんてぱっとしない部類の男で、俺の方がモテたくらいなのに。  それでも、学生時代の俺の部屋をイカ臭くするのに少なからず貢献していた。  大人になって、自分が男女両方に好意を抱ける少数派と知ってからは、単純に笠村のような素朴系の男が好きなんだと自分を納得させて誤魔化してきた。  だから、なんて言ったら言い訳がましいかもしれないが、集合場所になった老舗の居酒屋に入るまでは笠村のことなんてすっかり忘れ去っていた。忘れるくらい経験を重ねてきた。  それなのに。  笠村はまるで別物だった。  居酒屋に入るなり、真っ先にその姿が目についた。  野球部時代から変わらないそっけないような短髪。印象の薄い一重まぶたに縁なしの丸眼鏡……。  先週、同窓会やるから、と声がかけられ、昨日の夜に地元に帰省した。昔からわいわい騒ぐのは好きだったし、成人式以来で十年以上会ってない旧友たちの変貌ぶりにも興味があった。  三十六歳。高校当時の彼女だった子とも会ったが、すっかりおばさんで、性的な魅力は消えているのに、笠村は違った。 「なあ、次なに飲む?」  どうしても、その姿を遠目に見るだけでは満足できず、昔の仲間と話しながら少しずつ移動して、やっとたどり着いた笠村の右隣。  垂れたような泡を残して笠村のビールジョッキが空になっていた。  ラミネートされたメニューを差し出すと「白谷は?」と聞かれた。 「え、俺はビールでいいや」  持って来たジョッキにまだかなり残っていたビールを一気に飲み干す。本当はアルコールに弱くて、ビール一杯でほろ酔い気分になるが、何となく笠村の前で見栄を張った。 「お、いい飲みっぷり」  久しぶりに聞いた笠村の声。甘さのある掠れが左耳の奥から全身を痺れさせる。 「飲めるなら日本酒飲まないか?」 「え、日本酒?」 「そう、地元のやつ。燗で飲むと美味しいんだよ」  徳利を持つ笠村を想像して似合うと思った。  ビール一杯でほろ酔い、お燗なんて全く飲めないって言うのに、笠村の、その流れるような自然な雰囲気に乗せられてお燗を頼むことになってしまった。  まあ、俺が笠村についでやれば大丈夫だろう。  そう思っていたのに、いざ運ばれてきた徳利が火傷するほど温まっていたので、あえなく断念。笠村が慣れた手つきで俺にお酌する。 「ここの熱いんだよ」 「よく持てるなお前……」 「なれかな」  微笑みながらお酌する笠村は想像通りどこか色っぽくて、ついつい見入っていると、不意に目が合った。  何となく後ろめたくて顔を下に向けると、笠村が少し笑った。 「君、昔から俺と目が合うとそらしたよね」 「悪い……」  まさか気づかれていたとは思わなかった。  やたら見ていたことを気味悪がられていたら、なんて考えてひやひやしていると、笠村はテーブルの下で俺の腿に手を置いてきた。  急に触られてドキッと心臓が飛び出かける。 「なんだよ、笠村……」 「どうしてあんなに目が合うのか考えたことなかった?」 「は……」  言われてみて、確かに。笠村とは、よく目が合ったような気がする。気まずくなっていつもすぐそらしていたが、どうして目が合うのかなんて、少しも考えたことがなかった。  笠村は腿に置いた手を動かし、俺のズボンの縫い目をなぞった。  テーブルの下であの節榑立った指がそうしているのだと思うと、座り心地が悪くなる。 「酔い過ぎじゃないのか?」 「酔っちゃいないさ」  笠村の手が離れて行く。  だが、心臓は未だに激しく動きアルコールを素早く全身に回す。顔が火照り、背中に熱い汗をかいた。  貧血を起こしたように周りのざわめきが遠ざかり、笠村の声だけが鮮明に聞こえる。 「君の俺を見つめる目以上に熱を帯びたものを俺は知らない」  笠村をちらりと見た。長い指を持て余し、お猪口持つ手。飲み口に触れる薄い唇。知らず知らずのうちに唾を飲んだ。  今以上にキスしたいと思ったことがない。 「笠村」  呼びかけると笠村がこちらを向いた。そしてまっすぐ俺を見つめてくる。  飲み会の席。周りに大勢いるのに少しも気にならなかった。  俺を見る笠村の目。  穏やかで優しい。それでも底に強い力を感じた。その力が熱を帯びて俺に降り注ぐような不思議な心地がする。  こう言う目を俺もしていたのだろうか。  テーブルの下で笠村の手を握る。ごつごつした男の手だ。柔らかさなんてない。ただ、ひたすら熱かった。  三十六にもなって、高校時代に戻ったように俺はドキドキしていた。そうだ。この男が他と同じな訳がない。  笠村はたった一度きりの……。 「初恋だった」  男に対して劣情を抱く自分を受け入れられなかったあの頃。安心したくて彼女を作ったあの頃。  俺の初恋はとっくに笠村に捧げていた。 「奇遇だね」  そう呟く笠村の反対の手が重ねられて、硬いものがカチリと合わさった。  俺の指輪に笠村のが当たった音が骨を伝って冷たく響いた。 「二十年しても劣化しないんだから、怖いよ」 「全くだ」  どちらからともなく手を解き、肩を抱いた。変な笑いが込み上げてくる。  笠村と見つめ合っていた時、家に残してきた妻や幼稚園に通い始めた子どものことを完全に忘れていたのだから、笑い話じゃないのに。  笠村も口に手を当てて苦笑いしている。 「あと十年早かったらなぁ」 「確かにね。まあ、すっきりしたけど」 「同感」  家庭を捨てて無茶してまで下火になった初恋に燃料を投下する気にはなれなかった。  ただ、欲を言うなら。 「時々、会う?」  笠村が聞いてきた。 「もちろん、健全に。家族ぐるみでもいいし」 「じゃあ、次の帰省の時は連れてくる。キャンプでもするか」 「いいね。うちのも喜ぶよ。あと」  そう、欲を言うなら……。 「キャッチボール」  笠村の言葉に俺の声が重なる。  同じことを思っていた。たったそれだけのことなのにゲラゲラ笑ってしまった。  ここから、どうこうなるつもりは笠村にもないのだろう。それがわかるから安心する。  周りのざわめきが耳に戻る。  肩を叩いて笠村と離れた。  もっと前に再会して打ち明けられたら、そりゃ確かに違ったのだろうが、今は今で間違いなく幸せだった。  これ以上は望む気が起きないほどに。  白球を追いかけるユニフォーム姿の白谷。  軽い熱中症を起こして日陰で休みながら、その姿を目で追いかける。 「集合!」  部長の声で今、グランドにいるメンバーがマウンド近くに集まる。  白谷も走ってきた。走るフォームがきれいだとか、ユニフォームが似合うとか考えていると、目が合った。 「あ……」  だけどすぐ、白谷はキャップを下げて下を向く。  好きだなんて言えば真っ赤になって逃げてしまいそうだった。でも、白谷とつき合えたら楽しいに違いない。つき合う妄想を繰り広げながら、腰を上げた。 「もういいの?」  そばにいたマネージャーが尋ねてくる。 「平気」 「倒れないでよ」  どこか迷惑そうなマネージャーに返事をしてから、集合をかけた部長の元に走る。 「笠村、もういいのか?」 「はい! すみませんでしたっ」  声を張って謝罪し、キャップを取って頭を下げる。 「気を付けろよ」 「はい!」  メンバーの輪に戻り、白谷のそばに立つと「大丈夫か?」と小声で聞かれた。 「あ、うん」 「無理するなよ」  目は合わせてくれないくせに。  内心で恥ずかしがりの白谷を少し笑いながら、心配してくれたことに嬉しくなって、またのぼせそうになる。  妄想と現実は違う。きっと、白谷とはつき合えない。だけど、こうやって時々、言葉を交わしてほしい。大人になっても白谷は友だちでいてくれるだろうか。  田舎のキャンプ場に二泊三日。嫁同士が意気投合し、白谷の引っ込み思案な息子がうちのやんちゃ盛りの娘とどういうわけか仲良くなったので、俺と白谷の再会からわずか数ヵ月でキャンプが実現した。  子どもにキャッチボールを教えながら、自分たちもグローブをはめて白谷と硬球を投げ合う。お互い昔みたいな球は出せないが、取りこぼしを追いかけて走る白谷のフォームは相変わらずきれいだった。  よく晴れた連休。風は心地よく、川も魚が見えるほど澄んでいる。季節外れだからかキャンプ場は閑散としていて快適で、妻や子どもの笑い声がよく聞こえる。  それを見て微笑む白谷の横顔。  好きだった。厳密に言えば、今も好きだ。だけど、家庭がある。それを捨てたら白谷が怒りそうだった。だって、今、間違いなく幸せだと思えるんだから。  高校時代、甘酸っぱい悩みを抱えていた自分に言いたい。心配するな、大丈夫だと。  娘が駆け寄ってきた。抱き上げてやるとぺったり体をくっつけて甘えてくる。白谷の息子が甘えん坊だから、それにつられて最近赤ちゃん返り気味だ。  白谷の方を見るとあっちもぺったり子どもにくっつかれている。  目が合うと困ったように白谷が笑った。男の子なのにといつも愚痴る。  もう、白谷はあからさまに目をそらしたりしない。  父親顔の白谷を見ながら、俺の初恋は穏やかに過ぎていく。

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