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万物流転
──現在、第二次性徴期を迎えたΩは保護の為、親元を離れ、安全性が高い政府管理下の施設に入る事を義務付けられていた。
そこでは親族以外のαとの面会を禁止される。
やや閉鎖的なイメージはあるものの、発情期以外の外出は自由なので、少し厳しいΩ寮とでも言ったところだ。
──Ωである皐月 は、施設に入った頃から大学卒業に至るまで、αの誰に出会う訳でもなく、毎日一人で妄想に耽っては、好きな漫画ばかり描き続けていた。
未だ収入は不安定で、自身の少ない原稿依頼とアシスタントを二つ掛け持ちし、どうにか食いつなぐ日々だった。
──そんな時、Ωの女友達に悪知恵を吹き込まれた。
彼女は皐月と同じく22歳。3ヶ月前、就職したばかりなのに、αの番を見つけたので仕事を辞め、早くも専業主婦になると言う。
「これでもう、発情期の度に理解ない連中から嫌味を言われずに済むわ、アンタも売れない漫画家なんて不安定な仕事してんならサッサと金持ちに番になって貰いなよ。酒に酔わせりゃどーにかなんでしょ」
「──つまり酒にでも酔わない限り、俺というΩは誰にも選ばれないのか…?」
皐月はがくりと項垂れ、寝癖で跳ねた髪を掻いた。
友達と別れ、自宅の洗面台でマジマジと皐月は自分の姿を眺めた。視力が悪く眼鏡越しなので、これが本当に正しい顔かどうかも怪しい。
わかることは、2ヶ月散髪をサボった頭の寝癖が酷い事と、決してイケメンではないという事だ。
さらに、着ているTシャツは4年も前に買ったもので、洗濯表示は既に読めないが、穴が空いているわけでも無いので皐月にとっては現役だ。
今時眼鏡なんてファッションでしか見ない。と散々友達たちに揶揄されてきたが、コンタクトはどうしても怖くて着けれない。
「番か…」
考えないわけではなかった──。
Ωは義務教育過程で、その体質や、αと築く将来の関係について嫌になるくらい勉強させられる。
それはΩ自身の自衛手段でもあるので大切な教育な事は確かだった。政府の監視下にあっても、法律が整わない時代に比べれば稀になったとは言え、理性のないαによる乱暴がゼロなわけでは無い。
電話の着信音に気付き、皐月は考え事からしばし離れる。
昼間会ったばかりの彼女から「合コンに誘われたんだけど、私行けないからアンタ代わりに行かない?」と言われた。
相手は男女二人ずつのαらしい。
αは基本的に相手のΩが男でも女でも、発情期の誘引に反応を示す者が大半だとされている。
普段からひきこもり生活の皐月にはハードルが高い代物ではあったが、未知数であるその世界に全く興味がないわけではなかった。
散々悩んだが、取り敢えずお試しくらいの気持ちで誘いを受け入れた。
可愛い女性ではないのでヒラヒラした服も無ければ、お洒落な男性のようにセンスある一品も持ってはいないし、新調する金もない。
経験値を上げる程度に参加するのだから適当でいいかと、普段着で行く事にした。もちろん、余るような散髪代もない。
──が、失敗した。
皐月の顔から一気に血の気が引く。
Ωは皐月を含め、相手と同じ男女二人ずつだった。
皆キチンとした格好で、男性も女性も今日のために気合が入った煌びやかな服と髪で完璧にスタイリングされていた。
少し大袈裟な表現かもしれないが、それ程に皐月の普段着との落差が激しかったのだ。
そして、それ以上にαの彼らは高価そうな服や時計を眩しく輝かせ、その体からはα特有の凛々しいオーラが漲っているように皐月には見えた。
席に着く事すら皐月には憚られたが、かと言って帰る訳にも行かず、端の席に座って他から逃げる事だけを考えた。
端の椅子を引こうとした瞬間、Ωの女性と肩がぶつかってしまった。皐月がすぐに謝ると、なぜか逆に睨まれる。だが、彼女はすぐに笑顔を作ると、そのまま隣の席に何事もなかったように腰掛けた。
皐月はどうして睨まれたのかわからないまま、コソコソと腰掛ける。
学校の友達にαはいなかった。
差別とかでは無く、ヒエラルキーというのは自然なもので、類は友を呼ぶと大昔から言われただけあって、ΩはΩと無意識に群れをなす。それはαも同じ事だろう。
それなのに番う相手はその真逆だなんて、お互い皮肉で何処までも過酷な世界である。
自己紹介はαから始まった。当たり前だが皆家柄が良さげで、裕福に育った人間には余裕がある。こんな場所まで来て、わざわざΩを揶揄する馬鹿は一人もいない。
皐月は自身の気まずさから、彼らの自己紹介をあまり本腰を入れて聞くことが出来なかった。ただ、二時間気配を消して生きようとだけ決意する。
──なのに。
前に座る男から話し掛けられた。
「皐月くんは何の仕事してるの?」
少し馴れ馴れしさが鼻についたが、全員何歳か年上らしかったのでそこは目を瞑った。というか二時間口も瞑っていたかったのに、クソ。と内心悪態を吐いた程だ。
「…漫画家です」
「えっ、スゴイ!」
──すごい。なんて初めて言われた。しかもαに…。
嫌味に聞こえなくもないのは自分の卑屈さによるもなのかと、皐月は眉間に皺を寄せる。
「別に…そんな、すごくもない…んですけど」
「なんで? すごいじゃない。自分の手掛けた作品がお金になって、それを大勢の人が読むんだよ?」
耳が痛いと、皐月の心は悲鳴を上げていた。
「──あんまり金に…なって、ないんですけど」 「そうなの? ねぇ、なんかここに描いてよ」
そう言って男はテーブルにあった紙ナプキンを取り、内ポケットからこれまた高価そうなペンを出してきた。
皐月はさっきから男の顎を見ながら話していたので、ようやくその時に初めて男の顔を見た。
男はとても整った顔をしていた。
彫りの深い瞳は大きく、少し緑ががった黒目にクッキリとした二重、すっと通った鼻筋の先にある口は大き目で、元々上がり気味の口角をさらに上げ、ニッコリと優しげな表情でこちらを見ていた。
隣の彼女に睨まれた理由をようやく今になって知る。
興味がないと思っていたのに、こんなにちゃんとαを見るのは初めてで、その迫力に皐月は一瞬肩が竦んだ。
イケメンに近距離で微笑まれることに全く慣れていなかったので言葉すらも失う。それは時間にしてほんの数秒だったと思うが、皐月は22年間の人生において、初めて誰かに見とれるという経験をした。
「…嫌です」
完璧なその笑顔に惑わされる事なく、皐月は素っ気ない声で返事を寄越す。
「なんで? ちょっとでいいよ」
男は少しも怯まない。その弧を描く優しい瞳をジッと睨むように皐月は眺め、もう一度口を開いた。
「嫌です。もし、あなたの仕事が歌だとして、今、ここで歌ってください。と言われて歌いますか?」
「うーん、ここでは流石に…」
男は初めて困惑した声を出すが、少し宙を見て思案しただけで思い悩む程ではないらしい。
「──でしょう? 俺は金にならない事はしません」
「あっはは。そうだね。成る程──。君ってば理屈っぽいね」
今、明らかに男は皐月に嫌味を放った。
少なくとも皐月はそう認識した。
「ハァ⁈」
大声ではないにしても、皐月はあからさまに嫌悪感を含んだ声で男を睨んだ。αなのだから当然かもしれないが、男はそれでも怯む事なく笑顔のままだ。
「ねぇ、皐月くん。今日はここに何しに来たの?」
この男は一体何を言っているんだと、皐月は内心呆れた。
「──何、って…合コン…じゃないんですか…」
「本当に?」
「なんなんですか、一体…」
「僕はね。今日は人数合わせで呼ばれたっていうのもあるんだけど、それでも遊びではないよ。だって相手の人があっての合コンだもんね?」
男が何を言わんとしたいのか、皐月には測りかねた。
「だから、キチンとして来たよ。新品でないにしても服は綺麗なものを選んだし、靴も磨いた。髪だってセットしたよ、礼儀だからね。でも君は?」
皐月はハッと息を呑み、目を見開く。
──自分…は。
とりあえずで来ただけだった。ある中で全て済ませた。…本当に済ませたのだ。
適当な格好で、適当な心持ちで──そして、あわよくばと──。
ここへ来た瞬間、自分がした後悔を改めて男に突き付けられる。
皐月はとうとう俯き、黙りこんでしまった。
暫く膝の上に結んだ手を置いたまま皐月は逡巡し、再び顔を上げ、男を見た。
「え、と…名前…」
「聞いてなかったんだ、酷いなぁ。僕は似てる名前だと思ったのに」
「似てる…?」
「そう。改めまして、僕は一条詠月 です。君の皐月って名は五月でしょ? 詠月は九月のことなんだ」
「ふーん…」
「興味なさそうだね。あ、僕の事は詠月って呼んでね」
なぜ興味がないと思うのだろうか。自分はただ、その深い瞳に見とれていただけなのに…と皐月はぼんやり思った。
「──詠月さん、俺の事、番にしたいと思いますかって…思わないですよね」
「自分で答えるんだ…まぁ。今の君じゃ思わないね」
「──です、よね…」
不思議だ。わかっていても傷付くもんなんだなと、初めての感覚に皐月は手を付けていなかった酒を思わず口に運ぶ。
「ごめん」
突然の詠月の言葉に、皐月は素直に驚く。
「え…」
「今のはない。本当ごめん」
詠月は苦い顔でグラスを回し、皐月と目が合うと誤魔化すように微笑んだ。
イケメンにされると思わずときめくから不思議だと、現金なことを皐月は思ってしまった。
「皐月くんは発情期いつなの?」
「ふぇっ⁈」
皐月は手にしていたグラスを危うく落とすところだった。
「な、な、なん、なんで?」
「そんな茹でタコみたいに真っ赤になって照れないでよ、可愛いな」
「だって…、え、き、聞く? そんな」
「聞くよ、普通のことでしょう? αとΩには一番大切なことでしょう?」
皐月はその言葉に自分たちの立場を思い知って、さっきまで少し浮ついていた体が一気に重くなった気がした。
「──そっか…」
「君はαと恋がしたかったの? 理屈っぽいわりに、中身はロマンチストだ」
「……」
皐月は無意識下にあった図星を突かれ、返す言葉が見つからず、グラスに伝う雫をぼんやり目で追う。
その横に力無く置いた手を不意に詠月に掴まれ、皐月は肩を大きく揺らした。
「ごめん。これ二人分、俺たち行くね」
詠月は4人に向かってニッコリ笑うと、二人分にしては多めに万札を置いて、皐月を連れ去った。
驚きのあまり、皐月は目も口も開いたままだ。
皐月は席を後にする時、隣にいた彼女の顔が恐ろしくて見ることが出来なかった。
──こんなのフィクションだ、ファンタジーだ。
最早、白昼夢?
皐月はパニックを起こしながら、前を歩く詠月の後ろ姿をまじまじと眺めた。
163㎝の小柄な皐月より頭一つ分は背が高く、少し筋肉質な体のラインがやけに色っぽいと皐月は邪な思考をよぎらせた。
「ど、どこ行くんですか? あの、えっと」
「会ったばかりの人に何かしようなんて幾ら僕がαでもしないよ──まぁ、今はね」
「い、今は⁈」
「あははっ本当皐月くんて面白いね。まるで初めて海でも見た子供みたいだ」
「──海…」
「え? 見たことないの?」
コクリと素直に頷く皐月が詠月には可愛く思えて、自然と口元が緩む。
「──詠月さん。俺…着替えたい…」
前を歩いていた詠月の足がピタリと止まる。
振り返り見た皐月の顔は辛く、悲しげだった。
「どうして?」と、少し意地悪だったろうかと思いながらも詠月は口にした。
「だって、俺…こんな格好だし…」
恥ずかしくて俯く皐月の頭にポンと、詠月が手を置いた。ゆっくり顔を上げると、こちらを見る詠月が余りにも優しい笑顔だったので、皐月は思わず泣きそうになる。
「もう良いよ」
「──良くない…です」
「じゃあ、次」
「えっ…次…?」
驚いて目を丸くすると、詠月はいきなり傍まで顔を寄せて来た。皐月は緊張で一瞬息が止まる。
「そう、次に会う時。お洒落して見せてよ」
どうしてか、皐月には詠月の声がさっきから酷く甘美で艶麗な音に聞こえた。まるでいきなり酒にでも酔ったみたいに──。
その時、急に皐月の腹部に細い針が刺さるような、バチッと強い静電気みたいなものがそこを走った。
「お腹…痛い…」
突然、皐月が青い顔で訴えるので、詠月からは一切の笑顔が失せる。
「救急車呼…っ、皐月くん──⁈」
詠月が名前を叫んだ時、既に皐月の意識は失くなってしまっていた──。
皐月が次に見たのは、見慣れない天井だった。
喉がやけに乾いて、まるで高熱にでも冒されてるみたいだった──。
「水…」と皐月が意識半ばで声にすると、手が引かれグラスを渡された。背中を支えて貰い、ゆっくり起き上がる。乾いた土みたいな喉に、水分がじんわりと染み渡る。
「大丈夫…?」
誰の声なのか一瞬わからなくて、皐月は睫毛を瞬かせ、ゆっくりとそちらを向く。
暫くして、それが詠月と言う名の男であるのを思い出した。声がうまく出せなくて、皐月は頷くことで詠月に答える。
もう一度水を飲もうとして、自分の上半身が裸な事に気が付いた。
驚いて固まると、詠月が申し訳なさげに眉を下げた。
「汚れたから洗濯してる。その、気を失った時に君が、吐いて…」
申し訳なく思った皐月が、詠月の目を見ようとするも、会った時とは逆に今度は、詠月が合わせようとしない。
不思議に思った皐月は、余計にその表情を知ろうと間近で覗き込む。
詠月はどこか様子がおかしかった──。
「…皐月くん、薬は…?」
気まずそうに詠月は、声を絞り出す。
「…薬…? 何…?」
「何って…わかんないの?」
──解熱剤…? 風邪薬…?
皐月は、まだ膜が張ったような脳内を懸命に巡ってみるが、思い当たらない。
「抑性剤だよっ! わかんないの⁈ 自分の発情期だよ⁈」
詠月は痺れを切らしたのか、酷く狼狽えた顔で皐月を見た。
その顔は会った時の彼からは全く想像出来ないほど余裕がなく、真っ赤に火照っていた。
「エッ! アッ…ああっ‼︎」
顔の近くでいきなり大声を出され、詠月は反射的に目を瞑る。
気付かなかった──。
いつも薬でやり過ごしていたから、あの感覚を皐月は忘れていた──。
そして、もっと忘れてはならない事があった。
目の前の男は、αなのだ──。
──自分には反応しないかもしれない…。
でも、もし、反応したら…?
皐月は、後者であれば良いのにと願ってしまった──。
「…持ってないの? 買って来るよ。強いものでなければ処方箋なしで買えるよね」
そういって立ち上がろうとした詠月の腕を皐月は捕まえ、ベッドに引き戻す。
「皐月く…ッ」
「会ったばかりの俺とじゃ…なにも…ない、ですか…?」
精一杯誘ったつもりなのに、詠月は酷く辛そうな顔をした。
「──君は…、何も知らないんだね…。αがどんなに野蛮な生き者かって…こと…」
「…俺の、知識は義務教育程度です、けど…、詠月さんは…野蛮なんですか…?」
「野蛮だよ。君が発情期だと倒れたあの時、匂いでわかってた。それでも病院に連れて行かなかったんだから…。自分でも恥ずかしいよ…僕は、他の奴とは違うと思ってたのに…思い込んでた、のに…」
詠月は酷く苦しそうに、唸るように、声を発した。
皐月はこんな時でもまるで他人事みたいに、顔の整った人間はどんな姿でもイケメンなんだな──と傍観してしまう。
その頬に触れると、自分と同じくらいの熱を持っていた。なんだか肌触りが良くて両頬を挟むように触れると、詠月の顔は不安そうに曇って、その潤んだ瞳と目が合った。
皐月は心臓が激しく揺れたような錯覚を起こす。
気がつくと、唇が重ねられ、皐月は全身の血が一瞬にして沸騰するような感覚に襲われた。
それは詠月も同じだったようで、触れた時は優しかったキスもあっという間に深いものに変わった。
息がうまく出来なくて、慌てる皐月を気に留めることなく詠月はひたすらに唇を追う。
「待っ…て…苦しっ…」
待って欲しいのに、続けて欲しい。
離して欲しいのに、抱いて欲しい。
自分のままならない感情に頭と体を無茶苦茶にされながら、皐月は悲しくもないのに涙が溢れた。
詠月がそれに気付いて皐月の顔を覗き込むが、皐月は自ら抱きついて、何でもないと伝えた。
まだ何もされていないのに、体の中が異常に熱い。
下腹部がジンジンして、この男に早く触って欲しいくて、そればかりが頭をよぎる。
肌を撫でられるだけで感じてしまって、恥ずかしいのにもっとして欲しくなる。詠月にもそれが伝わっているのか、それとも詠月も同じ思いなのかその瞳は熱で潤み、早く喰わせろと言われているみたいだった。
体の中に熱い楔が打ち込まれ、皐月は初めての感覚に痛みが走るものの、痛みよりも恐ろしい程の快感に声を抑えられずにいた。皐月はそれが恥ずかしくて堪らなくて、誤魔化すように話す。
「お、俺…」
「何…?」
「──俺…少女漫画…描いてんの…αとΩが…恋する話…。変…でしょ…?」
詠月は少し驚いたような顔をしたものの、すぐに笑顔になり皐月の頬を優しくなぞる。
「──やっぱり君はロマンチストで可愛い…」
詠月の瞳が、皐月には余りに眩しくて、心臓が怖いくらいに震える。
──あるんだ。
現実にもそれはあったんだ。と皐月は唇を噛み締め、声も出さずに泣き始める。
「痛い…? 大丈夫?」
「──ん…ううん…。違う…」
抱きしめられた体から心臓の音がする──。
自分の音と、詠月の音と…どちらがどちらなのかもわからない程にそれは大きく、一緒に波打つ。
今日会ったばかりなのに、断られたばかりなのに、皐月は言わずにはいられなかった──
「詠月さん…俺の事、番に──」
「皐月くん──僕と、番になって」
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