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第236話

「……よし」  パシンッ、と両頬を叩き、思考回路に喝を入れた。  深呼吸して、くっと前を向く。  大丈夫、弱気になることはない。  いつも俺の隣に座るアゼルが向かいにいること。  怒っている時にしかならなかったはずの、表情の抜け落ちた顔で俺を睨んでいること。  話しかけるのを躊躇われるような、触れれば凍えそうなほど冷たい威圧感は、コントロールが効いてないのだろう。  鉛でできた亡霊じみたアゼルが警戒心を緩めず、俺を見つめる視線に一切温度がないことも、リセットされた記憶の証明。  大丈夫。  受け止めた。  相手は感知できない聖法で、更に太古の神遺物。  それに襲われ記憶喪失で済んだのは幸いである。もしかしたら、死んでしまっていたかもしれないのだ。  罠にかけられてもこうしてアゼルが生きていたことに、喜びと安堵が浮かぶ。  胸の奥が凝り固まった感触に、誤魔化すようにカップを手に取り喉を潤した。  このティーセットを買った時のあの日のお前の顔が、まぶたの裏に鮮明に思い出せる。大丈夫。  俺達の関係が〝スタートに戻る〟というマスに、運悪く止まってしまっただけだ。  ならまた始めればいい。  なにも戸惑うことはない。俺のすべきことはなにも変わっていない。  ──アゼルを愛すること。  それだけなのだ。 「どうにか、なる。大丈夫だ。まずはできることを、考えよう。天界からの攻撃にも備えないといけないから、みんな忙しくなるな」  そう言って奮い立つ。  このくらいでは俺は揺らがない。  ライゼンさんが心配そうにこちらを伺うが、安心させるためににこりと笑って見せる。  それから俺は、アゼルを見つめた。  彼は黙りこくって、俺のことをまるで知らないように警戒し、本来の人間への認識である食料か下等な生き物だなといった目をしている。  なぜ人間が自室にいるのか理解できないらしい。興味はないのに、警戒だけは向けられた。 「はじめまして、になるのだろうか」  暗く億劫そうに細められる瞳を正面から見つめて、できるだけ自然に微笑む。  なるべく明るく、一人知らない時を押し付けられるアゼルの不安を取り除くために。  じっと目を合わせると、ビクッと視線を逸らしほんの少しだけ怯えたように震えたアゼル。 「俺は大河 勝流。この世界ではシャルという名前で生きている。そう呼んでほしい」 「…………知らねえな。お前、人間……侵略者……では、ないな。誰かの、生き餌……捕虜……? まぁ、興味もないが、俺には城のことを把握する義務がある……」 「ぁ……あぁ、ええと、どこから説明すればいいのか……、」  なぜ魔王城に人間がいるのか。  それも普通に生きているのか。  異常な状況を訝しむアゼルに、俺はどこから語ればいいのか迷ってしまう。  今のアゼルの記憶では、十八年前のままトリップしてきたような状態だ。  その頃のアゼルは恩人のシャルにも会っていない上に、魔王であるために自分を殺しすぎて、本当の自分を晒せない呪いにかかっている。  限界を感じるまであと数年くらいしかない。  周囲全てに疑心暗鬼になって精一杯尖るよう、心を閉したままなのだ。  そんなアゼルに突然俺との思い出やらなんやら語ったところで、そんなことは信じられないし、心底どうでもいいだろう。

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