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旅立ち

この世界は生きにくい── 埃を吸った硬いベッドに横になる一人の男。 小さく溜息を吐きながら、抑制剤と呼ばれる薬を水も飲まずに口に放った。身を丸め、小さく身震いするとそのまま死んだように眠りについた。 この世界には男女の性とは別に‪α‬(アルファ)β(ベータ)Ω(オメガ)、といった三つの性が存在している。殆どの人間が平均的な特徴を持つβ性の中、ほんの一握りの存在のα性は飛び抜けて優れており、人類のトップに立つ器を備えている。α性というだけで、人生の勝者と謳われるくらい別格な存在だった。 それとは対照的なのがΩ性。Ωはほんの一握りとされているα性よりはるかに少なく希少な存在。 この性は男女問わず妊娠が可能で繁殖能力に長けていた。これは定期的に訪れるという、性的興奮を高めるフェロモンを発する発情期(ヒート)と呼ばれるものの存在が大きい。己の意思に関係なく、その発情期にあてられたものは抗うことができずに性行為に溺れてしまう。これは番っている者や愛し合っている者同士なら然程問題もないことだけど、問題なのはそうでない者でも誰彼構わず惹き付けてしまうということだった。発情期中は薬で症状を抑えないと体もままならないことが多かったため、希少だと言われつつも、このΩ性は社会的に最も低い地位で蔑まされることが多かった。 この身を丸め小さくなって眠る男、ミケルもΩ性を持って産まれてきた一人だった。 産まれてすぐ親を亡くし、施設で育てられてきた。そこでΩだと診断され、今日までそれをひた隠しにして生きてきた。それは「そうするべき」だと幼い頃から教えられてきたから。 抑制剤を飲んでいれば周りにバレることもない。成人して施設を出てからは、自分を人口の殆どを占めると言われる在り来たりなβ性だと偽り、職と住む場所を転々としながら一人で生きていた。 ミケルは明日から、山を一つ越えた先のとある屋敷の使用人として住み込みで働くことになっている。初日から発情期にあたってしまってツイてないと嘆きながら、明日に備えて薬を飲み早く体を休ませようと床についたのだった。 ミケルの発情期は他のそれと比べて症状は軽い方だ。薬さえ飲んでいれば、そうでない時と同じように体も動くし誰にもバレずにフェロモンを抑えることができる。少しだけ気を使い体力を温存しておけば、ひと山越える事だって容易いことだった。 早朝、目を覚ましたミケルは小屋の外にある水道で顔を洗う。まだ霜が降りる冷たい空気の中、一気に目が覚め体を摩りながら小屋に戻った。 昨日の残りのパンを齧り、ミルクを鍋にあけ温める。これからここを旅立つのに沢山の荷物などもなく、少しの衣類と大切な薬を薄汚れた鞄に詰め込み身支度を整えた。 「昼食は道中適当に済ませるか……」 食料の保管してある棚を覗き、もう何も残っていないことを確認すると、ミケルはそう独り言を呟き溜息を吐く。 古いベッドと傾いたテーブルくらいしかないガランとした小さな部屋。新たな寝床となる屋敷の離れの部屋はきっとここより広くて暖かいのだろう。住み込みの使用人とはいえ、仕事は敷地の奥にある殆ど誰も訪れることのないような小さな庭園の管理だけと聞いている。植物の知識が豊富なわけではないものの、枯らしても構わない、荒れない程度に手入れをしてくれればそれでいいと伝えられていたので幾らか気が楽だった。 この地に来てからこの空き家を寝床にして約一年。今まで長く同じ地に留まったことはない。警戒心の強いミケルは友人も作らずひっそりと生活をしいていた。 ミケルにとってこの旅立ちは未練も寂しさもない、けれども希望に満ちた出発だった──

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