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作家の恋
約束の時間に三時間以上も遅れた。短い廊下を歩いてダイニングに入ると、ふわりと暖房の風に迎えられたが、いるべき男がいない。
靴は、あった。四人掛けのダイニングテーブルには、書きこみがされているゲラ。開きっぱなしのノートパソコン。それに小さなケーキの空き箱と飲みかけの紅茶が、置き去りにされている。
勇 はダウンジャケットを脱ぎながら、テーブルの上のゲラに目を落とした。相変わらず、真梧 が描く世界には、ガラスの雪が降りしきっている。一文一文が美しい。
すっかり冷めた紅茶をぐっと飲んで、勇はベッドルームのドアを開けた。
思ったとおり、真梧は眠っていた。毛布にくるまっている華奢な背中。かすかに香るのは、確か海外取材の土産として買ってきたボディーローション。
部屋に入った途端、甘く香る不機嫌な空気に取り巻かれ、勇は真梧が眠っていないことに気づく。あえて声はかけず、勇はベッドに入ろうと服を脱ぎ始めた。
「今、何時ですか」
勇に背を向けたまま、真梧は鞭のような声を出す。
「もうすぐ六時になるな」
真梧は大きなため息をついた。意に介さないふりで、勇はジーンズを脱ぐ。四十五という年のわりに引き締まり、よく日に焼けた身体。
「勇さんは、世間のイメージを裏切らないですよね」
インタビューには平気で遅刻する。たまに講演を引き受ければ、客に暴言を浴びせる。若い頃人を殺しかけたらしい。原稿を書くために、新幹線のグリーン車を一人で一両占領した。銀座でとある組の組長と、親しげに飲んでいた。
半分以上が出所も定かではない噂だったが、内藤勇のペンネームで活動している勇は、自身もアウトローなアウトロー物作家、と世間に認知されている。
「お前もな」
山内真梧。純文学界、期待の新星。色白で華奢な、いまだに学生に間違えられることもある三十歳。酒は飲めない。甘い物と紅茶、猫、それにアートを愛する。
「かわいいヤツだ」
それになにより、真梧は仕事をここに持ちこんでまで、律儀にいつ来るかも分からない男を待っていた。
「抱くぞ」
勇がベッドに片膝で乗ると、真梧はくるりと勇の方を向いた。
「いい加減にして下さい、なんで遅れたんですか」
怒った顔もかわいい、と思う心理は本当だ。真梧を見下ろしながら勇は、真梧の細くやわらかな茶色の髪を、犬を撫でるようにめちゃくちゃに撫でてやりたいような気がした。
そんなことを思う自分が、おかしい。
「なに笑ってんですか」
「お前、セックスするからって、風呂入ったんだろ?」
ぐっと勇をにらむ真梧の顔が赤らむ。
「ここの風呂は広いし、何日も入ってなかったからです」
生真面目に答える真梧。勇は声をたてて笑い、真梧が避けようとするのを押さえつけて無理やりキスした。
「あのな、俺は人を誘っといて平気で連絡もなくすっぽかす男だぞ」
「それはいばることじゃありません」
語尾に重ねるように即言い返す真梧。怒るとすぐ敬語になる。その分かりやすさがいい。
「嘘だと思ったら、それとなく周りに聞いてみろ。約束をすっぽかさないなんて、奇跡だって言われるぞ」
勇は楽しげに言い、真梧の髪をなでた。
「そんなの信じません」
そうは言いつつも、もう真梧は勇を許し始めている。髪をなでる勇の顔をちらりと上目遣いでうかがう、大きな切れ長の瞳。
「テーブルに置いてあったゲラ、雑誌か?」
「はい、明日までです」
そうか、とだけ言って、勇は真梧を組み敷いた。かわいいヤツだ、とまた思った。
ボディーローションの甘すぎず涼やかな香りは、真梧によく似あう。その香りを、勇は真梧の首筋を舌先でなぞりながら味わった。何度も、しつこいほど舌先を往復させる。
「ん……」
もそもそと恥ずかしげに抱きついてくる真梧。Tシャツ越しに、胸の突起のささやかな硬さを感じる。
性欲とは距離を置いていそうな顔をして、その実真梧の身体は、快楽に敏感で貪欲だ。奥底に潜んでいた情欲を引きずり出した本人である勇も驚くほどに。
「キス、して……」
したたる声。望むままキスしてやると、真梧は身体を勇に何度もこすりつけるように動きながら、激しく求めてきた。押しつけられる欲情はすでに、硬く熱くなり始めている。
決して世間が知ることのない、このギャップがたまらない。勇は乱暴にTシャツを脱がせ、真梧の胸の突起を両方同時に責めた。
「あ、あっ……」
胸を責めながら、勇は耳や首筋への愛撫も執拗に繰り返す。
「ああ……。勇さん……」
うっとりと幸せそうにつぶやいて、真梧は勇の欲情に手を伸ばす。勇の顔を甘えるような瞳で見ながら、それを扱く。目があうと、どちらからともなく軽いキス。
「久し振りで、ここは大丈夫かな」
真梧が与えてくれる快感が、羊水のように身体を包む。安らぎさえ感じながら、勇は真梧の後ろに手を伸ばした。
「そうだよ、やっと会えると思って、俺……」
ようやく聞こえる声でつぶやく真梧。脚を開き、勇の武骨な指を最奥へと誘う。
「俺がなかなか来ないから、自分で慰めてたか?」
真梧は否定も肯定もしない。そこはすでに適度にしめってするりと勇の指を受け入れ、言うまでもないことだった。
「お前は自分でする時、いつも後ろもいじるのか」
勇は意地悪い笑みで訊いた。
あわてて小さく首を横に振る真梧。
「この部屋の、このベッドだからだと思う……」
恥ずかしげに顔をそむけ、素直でつつましい告白。
深くため息をつき、真梧は勇の指をさらに奥へといざなうように腰を動かす。
「そうか、楽しみは残してもらいたかったな」
しかし思いを顔に出さず、勇は深々と真梧の中へ指を埋め、動かした。
「っ、や、あ……っ!」
真梧の背中が反り、指先が力強く勇の肩をつかむ。
「いきなり深いのはキツかったか?」
ふるふるとかすかに真梧が首を振る。
「勇さんの指、すげえいい」
はにかんだ笑み。甘くかすれた声。うるんだ瞳。真梧は自分の豊潤な色気を知らない。無意識だからこそ、いい。
「お前は指の方がいいんだもんな」
開かれた脚の間をまさぐりながら、勇は真梧から少し身体を離し、その表情を視姦する。
「俺を見てろ」
目尻に涙がたまり、朝露のようだ。血色のいい唇が半開きになって、なにか訴えたそうにしている。そんな表情の下、快楽に貪欲なそこは別の生き物のようにうごめいて勇の指を締めつける。
「気持ちいいか?」
真梧は身体をしなやかにくねらせ、ため息で答えた。
「ちゃんと言葉で言え」
勇がそう言うと、真梧はいきなり勇に抱きついた。
「もっと激しくしてよ。こうして勇さんが興奮してくれるのを感じたい」
ぴたりと身体を密着させ、真梧はまた勇のそれをそっと握った。
「ねえ、早く」
「興奮を感じたいなら、しゃぶれよ」
本当にこの男が、静謐で清澄な、限りなく美しい文章を書いているのだろうか。勇はそう思うだけで、興奮してくる。
だがそれを、真梧には気づかせない。気づかせたくない。
真梧は静かな笑みを浮かべ、身体を下へとずらして愛しそうに勇のそれを両手で包んだ。ゆっくりと、しかしためらいなく先端を口に含む。
深々とため息をついて、勇は真梧の髪をなでた。さっきよりもはるかに強烈な刺激。真梧の舌が的確に感じるポイントを責めてくる。
「ああ、いいな……」
勇が言うなり、真梧は音をたてて先端をこれ見よがしにしゃぶった。張り詰めた熱をもてあそぶように、真梧の舌が這い回る。
その懸命さゆえに、たまらなくみだらだ。勇はより深く自身を真梧にくわえさせた。苦しげに喉の奥でうめく声も、いい。
「もう出すぞ」
そう言うと、真梧はできる限りの刺激を勇に与えようと舌を使い、すでに唾液と勇の体液でべたべたになっている根元も同時に指で扱く。
勇が思わずうめいた瞬間に、すかさず顔を離す真梧。真梧は自ら、勇の白をその顔に受け止めた。
「やってみたかったんだよね」
べったりと白で汚れた、罪のない笑顔。こいつは楽しんでいる、と勇は半分呆然としながら思った。周りが自分に抱くイメージと現実とのギャップを、たぶん本人が一番楽しみ、もてあそんでいる。それこそ猫のように。
「どうしたの?」
まつげについた白を気にしながら、首をかしげる真梧。
「いや……。いい眺めだ」
AVのようなセリフをようやく吐き出して、勇は笑ってみせた。
本当はすべて、見透かされているのかも知れない。無邪気ささえ感じさせる笑顔を見ながら、勇はぼんやりと畏れに似た気持ちを抱いた。
顔についた白を拭こうともせずに、真梧は甘えるように勇の手を握る。
「勇さんて、言うほど悪い人じゃないよね」
いかにも愛しそうにゆっくりと勇を抱きしめる、しなやかな腕。
「ね、続きは?」
やっぱり、見透かされているのかも知れない。真梧の文章が澄みきっているのは、優れた観察眼で純粋な本質だけを取り出しているからだ。
「ゲラのチェックはいいのか?」
真梧にティッシュペーパーを渡しながら、勇は言う。
あの文章が、才能があるからなおさら、勇は真梧に欲情する。だから時にはこうして、今腕の中にある肉体よりも、ダイニングのゲラが気になってしまう。
「なんで時々、そういう水差すようなこと言うの?」
澄んだ大きな瞳で、真梧は勇を甘えるように見る。勇がただ無言で苦笑してみせると、真梧は不服そうな顔で勇の手を両手で大事そうに握った。
「すっきりして、それからやるから大丈夫だから」
言いながら、子供のように勇の手を揺らす真梧。上目遣いの笑みがあやしげな色気をまとう。
セックスの後であの文章に手を入れる姿を、勇は真梧とこの部屋でそれなりに長い時間を過ごしていても、想像できなかった。というより、あまり想像したくない。
「まいったよ、お前には」
つい、本心が口から出た。あふれる苦笑を、勇は真梧の薄い胸に埋めた。
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