1 / 1
上の階のきみ、下の階のぼく
1
おそらくは、柄にもなく舞い上がった自分が悪いのだ。
平日の真っ昼間。
バイト先のバーから二駅ほど先の自宅アパートに戻る道すがら、朝比奈連は百円ショップで包丁を一つ買った。
自分でも、何のために買ったかはわからない。
どうでもいいスナック菓子の間に突っ込んだ出刃包丁で自害するか、それとも自分を振った瀬戸颯太を刺して犯罪者になるか。
もしくは、殺風景な部屋のオブジェになるか。少なくとも、料理のためには使わない。
入居してからお湯を沸かす以外は使われていない台所に、包丁の居場所はなかった。
バイトがある日は賄いをもらっているし、昼は学食がある。腹が空いても、とりあえずインスタントラーメンを突っ込んでおけば眠れるほど、食にこだわりはない。
「いままで通りってことは、明日からも、颯太と顔をつきあわせて食わなきゃいけないのか。憂鬱すぎる」
秋晴れの空を見上げ、連は足を止めた。
右手に提げたビニール袋が、たいした物も入っていないのに、やけに重く感じられた。
颯太は、大学に入ってからできた友人だ。
故郷も違えば、貧乏人と金持ちと生活環境も天と地ほどのさがあるが、颯太は快活な性格で、誰に対しても分け隔てなく接する、模範的なまでのいい人だった。
頭も良くて、運動もできる。取り巻きは家柄の良い連中ばかり。
そんな颯太が、どうして連を友人枠に入れた理由はわからない。見目が良いだけが取り柄だったので、単に顔が好みだったのかもしれないが。
遠い田舎から、カツカツになりながらも東京に出てきた連にとって、嫌な顔をせずに受け入れてくれた颯太は頼もしく、あこがれの存在だった。
ふたたび閑散とした道を歩きながら、連は重い溜息をついた。
「冗談だからって、なんだよ。こっちは、本気だったんだぞ」
視界にかかる黒髪を書き上げ、唇を噛む。
思い出せば思い出すほど、忘れようと努めるほどに、胸が締めつけられる。
連は、颯太に恋をしていた。
連の恋愛対象は、女性ではなく男性にあった。
周囲とどこか違うと感じ始めたのは、中学生の頃。以来、連はどうしようもない孤独と折り合いをつけながらどうにか生きてきたのだが、神様は悪戯が好きなようだ。
「なにが、罰ゲームだよ。ふざけやがって」
先月、サークルの飲み会の席で密かに行われた悪事。
風邪で欠席した連に、颯太が嘘の告白をする。悪ふざけも大概にして貰いたかった。
連は髪をぐしゃぐしゃとかきむしって、叫んだ。ランニング中の年寄りが驚いて振り返ってくるのに、いらいらと睨みかえした。
(颯太は、俺の気持ちをわかっててやったのか? だとしたら、俺は)
ビニール袋の中にある包丁をのぞき込む。
告白をされ、舞い上がっていた姿を颯太はどんな思いで見ていたのだろう。
ひどいことをしたと、罪悪感に駆られただろうか?
ノンケの颯太が、男相手に告白だなんて、絶対にありもしないのに。信じてもいない神に感謝して跪く姿を、哀れだと嗤っていたのだろうか。
連はじわりと目尻が滲んでくるのに、シャツの袖で乱暴に擦った。二十二になって、失恋で泣くなんて思ってもみなかった。
颯太との偽りの恋人生活は、三週間ほどだった
手を繋いだり、キスをしたりなんて恋人らしい行為は何一つなかったが、肩を寄せて隣を歩いているだけで、連は幸せだった。
誰かに恋をしても、実る可能性は低いと思っていた。
だから、颯太への思いも友達のままにしておこうと固く誓っていたのだ。
告白して嫌われるならば、まだいい。軽蔑されたり馬鹿にされたり、一瞬でも好きになった相手に踏みつぶされるのはとても辛い。
(馬鹿だよなぁ、俺。どうして、信じたりしたんだよ。どうして、奇跡だって思ったんだろうな。……都合が良すぎるよ)
すぐ隣を過ぎ去る自転車に飛び出したくなる衝動を抑え、連は家路を急いだ。今日も大学で授業があるが、さすがに出る気分ではない。
『ごめんな、連。以前と同じように友達でいてくれよ』
悪ノリが洒落では済まない内容だったのに気がついた颯太は、ひたすら謝った後にそう締めくくった。
たぶん、颯太ができる精一杯の誠意だ。
わかってはいるが、気持ちをもてあそばれた連からすれば、ただの定型文のようにしか受け取れなかった。
以前と同じような、友達。
そんな、都合の良い関係は男女間であってもなり立たないだろう。
だんだんと腹立たしくなってきて、連は側にあった電柱に思いっきり蹴りを入れた。痛いのはもちろん自分のほうだが、なにかに八つ当たりしなければ、正気を保てそうになかった。
「馬鹿だよな、俺。こんなに、颯太のことを引きずるなんて思ってもみなかった」
思いが通じたと舞い上がった分だけ、墜落した衝撃はすさまじいのかもしれない。
ついこの間まで、殺風景な家路はバラ色に輝いていた。
颯太を抱く妄想に耽り、盛りのついた高校生のように自分を慰めていた。
なんて、滑稽なんだろう。連は拳を握りしめた。
恋なんてしない。
ずっと、一人で生きてゆく覚悟を決めていたはずなのに、あっさりと揺らぐ弱さに震えが走る。
本当に、このまま一人で生きて行けるのだろうか。
愛しいと思う相手を友人とごまかし続けて、満たされる日は来るのだろうか。
「もういい、どうだっていいんだ」
ぶんぶんと頭を振って、路地を曲がる。
連が下宿している、二階建てのアパート。
築四十年、駅から十五分。先月、外壁を塗り替えているので、さわやかな青色の壁が連を出迎えてくれた。
敷地内に入ろうとしたところで、不意に煙草の臭いが漂ってきて足を止める。
「ああ、ごめんね。苦手だったかな」
「いいえ、お構いなく。吸い殻をきちんと片付けてくれるなら、特に文句はありませんよ」
いっそ、立ち上る副流煙で死んでしまえないかと思いつつ、連は玄関先に座り込んで煙草を吹かしている男をじいっと見つめた。
「怪しい者じゃあないよ、一○一号室の薬袋正吾。めったに外に出ないから、初めましてかもしれないね。君は大学生? このアパートに住んでいるの?」
「朝比奈連です。すぐ上の、二○一号室に住んでいます」
ぼんやりと煙草を吸っていたくせに、きっちりとしたスーツ姿の正吾は「連くん、朝比奈連くんね」と、何度も繰り返しつつ、胸ポケットからとりだしたメモ帳に万年筆で書き留めていた。
「職業病でね、なんでもメモしていないと気が済まないんだ。漢字は《朝比奈連》でいいのかな? 今時の子っぽい名前だね、かっこいいな」
「薬袋さんは、どんなお仕事をしていらっしゃるのですか?」
とどまり続ける連に、正吾は「作家だよ」と答えて、煙草を携帯灰皿へ押し込んで立ち上がった。
「しがない、歴史小説家。……連くんは、読まないジャンルかな?」
「すみません。もっぱら、読むのは参考書ばかりで」
「いいんだよ。いいの。君、素直な子だね」
少し猫背気味でも、背の高さを感じさせる薬袋は伸ばしっぱなしの白髪が少し交じる髪を手ぐし整え、スーツ姿の自分を指さした。
「らしくないでしょう? これ、今日は特別な日だったからね。いつもは、もっと楽な格好をしているんだよ。ずっと座りっぱなしの仕事だから」
目元のしわが、緩い口調をさらに柔らかくさせている。
色恋ごとがなくとも、他人と無意識のうちに距離を置きがちな連だったが、風に揺れる薄布のような、つかみ所のない正吾の雰囲気にいつのまにか飲まれていた。
颯太への怒りがしぼみ、だるさと空しさだけが胸に残った。
「どうしたの、連くん?」
正吾はのそのそと、スーツには不釣り合いのサンダルで連へと近づいてきた。まるで、幼子にするように、暖かい掌に頬を包まれる。
「何でもないです。って言いたい所なんですけど、ごまかしきれないほどの悲しい出来事があって」
ご近所さんとはいえ、たった今、出会ったばかりの男に縋るなんて、相当へこたれているようだ。連は自虐的に笑って、正吾の手をそっとはがした。
泣き出す前に、部屋に戻るべきだ。
連は正吾にもういちど、形ばかりの挨拶をして二階に登るための階段に足をかけた。
「あの、連くん」
「なんですか、薬袋さん」
正吾は連の手元を指さした。
「それ、君のお昼ごはんかな?」
包丁と、スナック菓子。派手なパッケージの袋麺。連は頷いた。
「今すぐ食べなきゃいけないものじゃあなかったら、僕と一緒にご飯を食べないかい? ちょっと、作り過ぎちゃってね。捨てるよりは、誰かに食べてもらいたいんだ」
どうかな? と、小首をかしげる仕草は年甲斐もなく……どうしてか、愛らしい。
断れば、ぜったいに罪悪感を覚えそうな悲しい顔をするに違いない。嫌だと言えず、連は頷いた。
「シャワーを浴びてから、お伺いしますよ」
「ありがとう! 鍵は開けておくから、勝手に入っていいよ」
満面の笑みに面食らって、連は階段を踏み外しかけた。
正吾の詳しい年齢はわからないが、三十代後半、もしくは四十代前半だろう。バイト先のバーに来る壮年の男たちとは、また、ずいぶんと違う雰囲気の大人だ。
「残飯処理にいくだけなのに、大げさだな」
鞄から鍵を取り出し、ずっと締めっぱなしだった部屋に入る。
傷心の連を出迎えたのは、少しかび臭くなった空気。電気の点いていない室内は、ただひたすら暗く、気分をさらに滅入らせた。
正吾の誘いがなかったら、包丁を自分に使っていたかもしれない。
スナック菓子と袋麺を台所に放り投げ、包丁は袋に入れたままゴミ箱に突っ込んだ。
冷蔵庫からミネラルウォーターのはいったペットボトルを取り出し、ソファに座る。ポケットからスマホを取り出せば、颯太からの着信がずらっと並んでいた。
告白は嘘だったと暴露された翌日だ。無断で講義を休んでいるのを、心配しているのだろう。
「悪かったって、思ってはいるんだろうな」
うれしいのか、腹立たしいのか。ぐちゃぐちゃにこじれた胸中では、判断しがたい。
連はスマホをソファーに投げ、シャワーを浴びにバスルームへ移動した。
呼び出し音ををかき消すように、蛇口をいっぱいに開ける。
2
「誰かの、誕生日だったんですか?」
冗談のつもりで言ったのだが、当たっていたようだ。
「僕の娘、涼花の誕生日パーティーをするはずだったの。すっごく、頑張ったんだけどねぇ。予定が変わっちゃって。さあ、座って」
スーツを脱いで、着物姿になった正吾に背中を押され、連は靴を脱いだ。
「これ、薬袋さんがお酒を飲む人かどうかわからなかったんですが、一応、手土産です。よろしければ、どうぞ」
「わぁ、ありがとう。じつはね、お酒大好きなんだよ。日本酒? 渋いねぇ」
正吾は、上がって待っていて。と言い残して、連が持ってきた日本酒の瓶を抱えたまま台所へ走っていった。
「ちょうどいい、グラスがあるんだ。これで飲もう」
すぐにご機嫌で戻ってきた正吾に「はやく、はやく」と促され、連はこたつの上布団をめくった。
小さな台の上には、意外と手の込んだ料理が並んでいた。
和食ではなく、洋食が多い。
「ワインを持ってくればよかったですね」
「大丈夫。問題ないよ」
正吾は持ってきたガラス製の華奢なグラスに、日本酒をとぷとぷと注いだ。独特の甘い匂いが、ふんわりともの寂しい部屋を飾る。
「これ、薬袋さんが作ったんですか?」
野菜と鳥のトマトソース煮。
とろとろのチーズが絡んだリゾット。
一番、食指を動かされたのは、ローストビーフだった。
「ぼくの、唯一の趣味かなぁ。外に出るのがあまり好きじゃなくてね。でも、美味しいものは食べたいから、自分で作ってしまおうと思ったんだ。最初はおにぎりとお味噌汁ぐらいだったんだけど、作っているうちに……こんなになっちゃった」
外食と言えば学食とバイト先しかない連にとって、正吾の料理は高級レストランにも等しかった。
「本当に、これ……食べて良いんですか、全部?」
ないと思っていた食欲が、戻ってくる。鳴り出す腹の虫に、正吾はにこにこ笑った。
「お腹を壊さない程度にね。好きなだけ、食べて良いよ」
「乾杯」と、グラスを持ち上げた正吾に習って連もグラスを持ち上げ、一気に飲み干した。 驚く正吾に、空になったグラスを突き出す。
「バイト先でもらったお酒なので、味は保証されていたんですが……おいしいです。薬袋さんもどうぞ」
「うん、ありがたくいただくよ」
薬袋は舐めるように日本酒をちびちびと飲み、頬をほころばせた。「おいしいねぇ」と溜息をつく姿を見ていると、さめざめしていた胸中が暖かくなってゆくのを感じた。
「もったいないですね。こんな、すてきな料理を食べられないなんて」
みずみずしいサラダを取りながら、連は本来座るはずだった正吾の娘に思いを馳せる。「涼花はね、あたらしいお父さんに誕生日を祝ってもらうんだって」
正吾の皿にサラダを取り分けようとして、連は手を止めた。
驚いて顔を上げると、正吾もまた驚いた顔をしていた。口が滑ったらしい。
「隠しても、しょうがないか」
正吾は頬を赤くして「もう、酔っちゃったみたい」と笑って誤魔化した。連はただ黙って、サラダを取り分ける。
「涼花はね、一昨年に離婚した奥さんとの間にできた娘なんだ。親権は、奥さんが持っていて、ぼくは年に数回、面会が許されていたんだ」
「過去形なんですか?」
「再婚するから、涼花とはもう、会わないで欲しいって。もう五歳だから、お父さんが二人いると、混乱するだろうからってね」
お手製のドレッシングをかけると、グリーンサラダは花が開いたようにきらきらと美しく彩られる。
「なんですか、それ。勝手な話ですね」
「連くんが、怒らなくてもいいんだよ。ぼくのほうも、なんだかんだで勝手な男だったから。彼女の仕打ちは、因果応報なのかもしれない」
生野菜を食べたのは、いつぶりだろう。あまり好きではないはずなのに、連はかぶりつくようにしてサラダを口に掻き込んだ。
「男の子だねぇ。気持ちの良い食べっぷりだ」
重い話をしたとは思えない穏やかな顔で笑う正吾に、「おいしいです」と答え、レタスをほおばる。
「うれしいなぁ。小説を書くか、料理をするしか取り柄がないからね。取り寄せる食材に懲りすぎて、よく怒られていたのを思い出すよ」
「一人になって、実のところ清々しているんじゃあないですか?」
「そうだね。正直に答えれば、半分くらいは」
グラスを空にして、正吾は連のグラスも酒をつぎ足した。
「率直な子だね、嫌いじゃないよ。さあ、サラダで満足していないで、他のも食べてよ。全部、ぼくの力作なんだから」
五歳の女の子を招待するには、多すぎる量だ。正吾がどれほど楽しみにしていたのか、箸を動かしていればよくわかる。
ローストビーフをワインベースのソースで絡めながら、連は玄関先でもの寂しく煙草を吹かしていた正吾を思い出す。
偶然顔を合わせていなかったら、この手の込んだ料理はゴミ箱に直行していたのだろうか。
「連くんは……あ、名字のほうで呼んだほうがいいかな? ごめんね、馴れ馴れしかったよね」
「別に、名前でかまわないですよ」
「よかった。そうだね、じゃあ連くんもぼくのことは名前で呼んでくれてもいいからね」
下手をすれば、親子ほど年の離れた相手をおいそれと名前では呼べない。連は曖昧に頷いて、話の続きを促した。
「連くんは、どうして泣きそうな顔をしていたんだい?」
酒は好きだが、強くはないようだ。頬だけではなく、すこしはだけた首元までほんのり赤くして、正吾はじいっと連を見つめてくる。
「泣きそうな顔、していました?」
「うん。まあ……人のことは言えないけど」
口に入れたローストビーフを日本酒で流し込み、連は部屋に置いてきたスマホを見上げるように視線を天井へと向けた。
「失恋したんです」
思い出せば、涙腺が崩壊しそうになる。
泣き出しても、正吾は馬鹿にして笑うような人間ではないだろう。けれど、出会ったばかりの相手の前で泣くのは、恥ずかしすぎた。
「失恋か。それは、とても悲しいんだろうね」
人ごとのように言う正吾に、連は笑った。
自分のことのように同情でもされていれば、頭にきて席を立っていたかもしれない。
連の恋は、世間一般で言うところの普通の恋ではない。
おまけに望んでいない形で思いが颯太にばれたうえ、ほんの一握りの可能性がないと突きつけられ、哀れまれた。
悲しくて、悔しくて、腹立たしくて。
生きているのすら、辛かった。
「俺が恋していたのは、男です。大学の同級生。一目惚れだったけど、思いを告げる気はなくて。諦めがつくまで、せめて友達のままでいれたらいいって思っていたんです」
正吾は少しばかり驚いて見せたが、連の告白をじっと、黙って受け入れてくれていた。
飲み会の席で持ち上がった悪巧みで、連の秘めていた思いがすべてさらけ出された。
「無自覚の悪意は、辛いね」
「あいつは、颯太は、今まで通りに友達でいようって言ったけど。無理なんです。どう頑張ったって、友達にはもどれない。ずっと、友達の振りをしてるなんて、そんなばかばかしいことしたくはない」
「連くん、使って」
そっと、差し出されたハンカチを受け取り、涙を拭った。
「その、颯太って子。とんでもないぼんくらだね。まるで、ぼくみたいだ」
正吾はちびちびと舐めていた酒を一気にあおり、熱い吐息をはいた。
「ぼくの元妻はね、ぼくのファンだったんだ。うっかり関係を持っちゃって、子供ができてしまった。ぼくは責任を取らなきゃいけないと思って、結婚したけれど。結局、夫にも父にもなれなかったな。子供は可愛かったけど、育てられる人間じゃなかった」
グラスに注がれた日本酒が、昼の強い日差しをきらきらと反射し、狭苦しい部屋を飛び回る。
「どうしようもない、だめ男ですね」
「反論の言葉は、かなしいかな。ひとつもないよ。言ったでしょ? 取り柄と言ったら小説を書くか料理をするかだけって。人として、欠点だらけなんだ」
連のグラスになみなみと酒をついで、飲むように促してくる。
「薬袋さんは、娘さんとの面会、素直に諦めるんですか?」
「子供のためといわれたら、ぼくには何もできないよ」
正吾は「とても寂しくなるけどね」と、未練を断ち切るように瞼を閉じた。
連は再び箸を持ち、ローストビーフを摘まむ。
傷を負った心を慰めるには、ちょうど良いご馳走だった。
◇◆◇◆
昼からぐだぐだと飲んで食べ、ふと目を覚ました頃にはすっかり日が落ちきっていて、月の光で室内は蒼白く照らされていた。
民家と接しているせいか、正吾の部屋は高い壁に囲まれているような狭苦しい印象を覚えた。
(あのまま、寝ちゃったのか)
時計を見やれば、二十三時にさしかかる頃だ。
酔い覚ましにシャワーを借り、自室に帰ろうとして「もう少し大丈夫かな?」と引き留められた。断れなかったのは、寂しさがあったからだろう。
手作りのデザートを肴にして、連は普段は見ないバラエティ番組を正吾と肩を並べてぼんやり見ていた。
酷く酔っていたので、何を話したかまではわからない。
とはいえ、食事の席でカミングアウトしているのだ。いまさら、正吾相手に何を話したところで困るような話題はない。
「怠いなぁ。明日も、休もうかな。いっそ、このままフェードアウト……ってわけにはいかないか。さすがに、失恋で将来を棒に振りたくないな」
連は、布団の上に寝ていた。正吾が敷いてくれたのだろうか。薄暗くてよく見えないが、女物のようにも見える。元妻のものだったのかもしれない。
子供の頃からベッドで寝ているので、慣れない堅さにうめきながら連は上体を起こした。
隣には、正吾が寝転がっていた。
寝相はあまり良くないのか、かろうじて帯で止まっている状態の着物は、あちこちがくしゃくしゃになっていてた。
「顔はいいのに、だらしない人だな」
まだ酔いが残る目を擦り、正吾の着物に手をかけた連は息を止めた。
窓から差し込んでくる月明かりに、ぼんやりと浮かび上がる白い足はなまめかしく、性的な興奮を覚えるほどだった。
(こんな、年上のバツイチ相手に……悪酔いしているな)
体に残るアルコールが判断をおそろしく鈍らせているようで、着物から手を離し、そっと、正吾の太ももを撫でてから、連は己の行動に驚いていた。
(やばいな、気持ちがいいなんて)
自称引きこもりだという正吾の足は、女ほどには細くないが男らしいというほどごつごつしていない。
滑らかな肌の感触は、男と思えないほどきめが細かい。軽い手付きで撫でれば、すりすりと小気味いい音が返ってくる。
連が寝ている間にシャワーを浴びたのか、同じ石鹸の香りがして、心臓がどきっと跳ねた。口の中に溜まった唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえる。
起きる気配もなく寝入っている正吾に、連は調子に乗って太股だけでなく、肉のない腹や頬、着物から覗く素肌の至るどころに触れてゆく。
「……ん、ぁ」
びくん、と正吾の体が震え、甘い声が漏れた。
連は驚いて手を引っ込めたが、正吾の目蓋は閉じられたままだ。ほっと胸をなで下ろし、止めておけば良いのに、細い紺色の帯を引き抜いた。
「正吾さん、いくらなんでも、無防備すぎますよ」
着物をわり開けば、下着を着けてない全裸が眼前に露わになった。
「俺よりだいぶ年上だからって、何もされないって思ったんですか?」
「我ながら、勝手な言い分だ」と呆れている理性を無視して、連は正吾に覆い被さった。
颯太に甘い恋心を抱いてはいたが、男との性的な関係はすでに経験済みだ。
叶わぬ思いに燻る心を慰めるためにも、せめて、体だけは満足していたかった。盛りの付いた年代だ。自分の手だけでは、どうしたって物足りない。
夜のバイトは、一夜の相手を探す目的もふくまれていた。
(ちょっとだけ。ちょっとだけなら)
連は正吾の背中に腕を回し、そっと抱き寄せた。
飢えた心が、人肌に少しだけ満たされる。連は迷いながらも唇を正吾の胸に寄せ、骨がうっすらと浮いて見える胸に吸い付いた。
石鹸の香りが、甘い香水のように感じられる。
失恋をする度に、人肌を求めて夜の街を彷徨った。いっときの快楽は、麻薬のようにどうしようもない寂しさをかき消してくれる。
後に残る燃え滓がどんなに醜かろうと、誤魔化さなければ生きてはいけない。馬鹿な真似だとたしなめられても、連には他に方法がなかった。
(だからって、こんな。ノンケのバツイチに手を出すなんて)
酔っているから、なんて、ただの言い訳だ。
颯太の裏切りが、思っているよりも堪えているようだった。
側に居るのなら、誰だっていいだなんて。身勝手にも程がある。
正吾が目覚めて、平手打ちの一発でもかましてくれないか。罵られるのもいい。自分の意思では、どうしても止められそうにない。
連は唇で正吾の薄い肉を挟みながら、胸から臍へと降りてゆく。だんだんと、己の下肢に熱がこもっていく。
性的な興奮に吐く息が荒くなり、肌を撫でる指は影が落ちるほどに食い込んでいた。
「……れ、れん……くん」
嗄れた声に名を呼ばれ、連は顔を上げた。
上気した正吾の顔に当てられ、口の端から零れ落ちた涎を拭った。
「すみません」
正吾の視線が、勃起しかけた連の股間へ向けられる。
ぽっと、火が付いたように赤くなる顔に、連は、ばつが悪くなり視線を逸らした。
「ごめんなさい。すぐ、帰りますから!」
「待って、連くん」
せつなく震える声に、連はゆっくりと正吾に向き直った。
「してくれるの? 僕と」
「……えっ?」罵倒されるか、平手打ちを食らうと思ってばかりいたので、予想もしていなかった正吾の反応に、連は面食らった。
「その、セックス?」
体の下で身じろいぐ正吾の足が、興奮した下肢に触れた。
わざとではないのだろう、正吾は驚く顔をしていた。連としては、正気を保てないほどの刺激だった。
「したいんですか? このまま?」
どうにか、爆発しそうな欲望をなだめ。連は右往左往する正吾の視線を捕まえるよう、色っぽく濡れた目を覗き込んだ。
「俺は、男ですよ? 藥袋さんも、男。わかっていますよね?」
男女の性差への意識が薄い希有なタイプとしても、正吾はストレートなはずだ。
「わかっているよ。でも……気持ちよかったから。こんな感覚、とても久しぶりだから」
しゃくり上げるような甘い正吾の吐息に、連の理性は焼き切れる寸前だった。
「きちんとした格好をしていれば、女性にもまだまだモテるでしょうに。久しぶりって、いつからしていないんですか?」
会話をしていれば、淫らな熱もお互いに冷めるだろう。
連は正吾に覆い被さったまま、ものさみしそうに身じろぐ体を、意識しないようにつとめた。
「子供が、できたとき以来……かな」
正吾は「あの時も、気持ちよかったな」と、とろんとした目で呟いた。
「連くん。僕はいいよ、男でも」
「そんな、気軽に言わないでくださいよ。藥袋さん、あなた俺に寝込みを襲われたんですよ。もっと、他に言う言葉があるでしょ?」
先に手を出したのは連だが、あまりにもあんまりな正吾に呆れていた。
「正吾って、呼んで」
「ちがうでしょ!」
正吾は笑って手を伸ばし、温かい掌で連の頬を包んだ。
「連くんは、怒られたいの?」
優しく撫で、頭に回された手でそっと引き寄せられる。
「ごめんね、僕じゃあ連くんを怒れない。僕は適当に生きてきた人間だから、真摯な君を叱る言葉は持ち合わせていないんだよ」
硬く尖った正吾の乳首が、連の胸を擦る。
触れあった肌からは、心臓の鼓動が聞こえた。
「言ったでしょ、ぼくの元妻はぼくのファンだったって。彼女とはファンミーティングで出会ったんだ。調子に乗って飲み過ぎて、気付いたら同じベッドの上。子供まで、つくっちゃった」
「どうしようもない人ですね。薬袋さんも、その元妻も」
正吾は「言い返す言葉がない」と、連の背中に回した腕に力を込めた。
「責任を取るべきだって言い寄られて、籍を入れた。ぼくと妻と涼花。家族だったのは、三年くらいかな。妻は父親にも旦那にもなれない僕を見限って、出て行ってしまった。当然だろうし、最善の選択だと思える。けど……寂しくて」
正吾の目尻から、涙が零れた。
「他の誰かと触れあう気持ちよさが、恋しいんだ」
「良いんですか、俺で? 藥袋さんを慰めるために、抱きませんよ」
あえて冷たく突き放して見せるも、正吾は微笑んでいた。
「誰でもいいのは、連くんと一緒だ。僕に触れてくれるなら、構わない。でも、できれば名前で呼んで欲しいかなぁ」
「煽らないでくださいよ」
名前を呼ぶ代わりに、連は正吾の唇に噛みついていた。
溺れるようにじたばたともがく正吾に構わず、思うがままに貪った。
正吾の柔らかい唇は、甘い果実のようで。怪我をしないようにしっかりと両手で頭を掴み、甘噛みする。
「んあっ、はっ……はげしっ」
「泣いても、止めませんからね」
酸素を求め、大きく開いた口から舌を引っ張り出す勢いで吸い付く。出てきた舌に舌を絡め、さらに奥深く繋がった。
あまりの激しさに正吾が卒倒しそうだったので、連はくちゅくちゅとゆるく舌を愛撫しながら、掌で痼った正吾の乳首を転がした。
久しぶりだからか、もともと感度が良いのか。
正吾はすでに先走りを流すまで、高まっていた。
「三年も、本当に誰ともセックスしていないんですか?」
腹を擦られる感触の気持ちよさに、連は挿入時のように腰を緩く振っていた。正吾もたまらないのか、悲鳴じみた嬌声があがる。
「してない、よ」
照れくさそうにしながらも答える正吾に、連は目の前がくらくらと眩んだ。
同年代でもなく、まして年下でもない。
目尻や目元に年齢を感じさせるだいぶ年上の男の乱れた姿に、倒錯的な欲が、泥のように下肢に溜まっていくのを感じた。
(……あぁ、嘘だろ)
もう、悪酔いでは済まされない。
こみ上げてくる射精への欲求に、連は舌打ちをした。
「ごめんね。本当は、違う相手としたかったよね」
「――言わないでくださいよ」
連は体を離し、正吾を俯せにひっくり返した。
驚いて起き上がろうとした正吾を布団に押しつけるよう、後ろからのし掛かる。
「もう、終わりにしたんです。叶わないと知ってて恋する自分に、酔っていただけですよ」
連は閉じさせた正吾の太股に、勃起したペニスを一気に差し入れた。先走りに多少肌が濡れていたとはいえ、摩擦はキツい。
「れ、れんく……んっ」
「大丈夫ですよ。中には、入れたりしませんから」
処女膜を突き破るような抵抗感に、連は深く息をついた。
「あっ……こ、これ。なにっ? ひんっ」
「このまま、俺を締め付けてください。できるでしょ? ねぇ、正吾さん」
うなじを掻き分けキスをすれば、痛いほどペニスが締め付けられる。連はゆっくりと腰を動かしながら、感じ入った吐息を零した。
「どうですか、正吾さん」
「んっ、んぅ。なに、これ……いい。きもち、いい」
正吾の腰が、少し浮き上がる。勃起したペニスが布団に擦られて辛かったのかもしれない。
前に手を回し軽く握り混めば、とろっとした先走りが零れ出てきた。
「だ、だめ……いっちゃう」
「構いませんよ。太股さえ締めてくれたら、こっちも良いタイミングで出しますから」
手の中で切なく震えるものが、どうしてか愛おしくなってくる。
正吾はセックスはもとより、自慰もおざなりだったのかもしれない。亀頭を軽く指で擦っただけで、蜜が溢れ出てくる。幼いようで、娼婦のように淫らな反応に目が離せなくなる。
「れ、れんくんっ」
びくびくと震える正吾の腰に、連は乾いた唇を舐めた。
肩越しに振り返った顔は、今まで肌を重ねた男の誰よりも雄を刺激される。
中に出したい欲求をどうにか抑え、連は余裕ぶっていた腰の振りを早めた。
「俺も、もう、出しますから」
「あ、あぁっ」
連は指を濡らす熱い飛沫を感じながら、同時に自身も放っていた。
「んっ、んんっ、れん……くん」
涙と涎でぐしょぐしょになった正吾のイキ顔に、連は再び点る熱に呻いた。
正直に言えば年上はタイプではないし、正吾はそもそも年上過ぎる。おまけに、バツイチのノンケの男。颯太のように整った容姿をしているわけでもない。
なのに、どうしてこんなにもそそられるのか。
(フラれて、頭がおかしくなっているのかもしれない)
自棄になっているのだろう。
連は精子に濡れた正吾の下肢を見て、自虐的に笑う。もっと、したいだなんて、本当におかしくなっているに違いない。
「正吾さん。もう一度、シャワーを借りますね」
深夜だが、バスルームは隣と面していないので迷惑にはならない。
「……うん」
「一緒に入ります?」
冗談で言ったつもりだが、ゆっくり頷く正吾に連は頭を抱えた。
3
次に目を覚ませば、時刻は昼を過ぎていた。
バスルームでもう一度体を摺り合わせ、なかなか冷めない興奮に悶々としながら床についた。
「今日も、サボリだな」
昨日の残り物をもそもそ食べながら、連は正吾の残した書き置きに目を通す。
〝たぶん、最後の面会に行ってきます。合鍵はポストにいれておいてくれるか、次に会ったときに手渡ししてください〟
ゆるい見た目と反して、きっちりとした字だ。
正吾がいつごろ家を出たのかわからないが、連が目を覚ますよりもすこし前だろう。整髪料の匂いが、まだ部屋に残っている。
連は皿を洗って布団を畳み、正吾の部屋を出た。
書き置きと一緒に置いてあった合鍵には、可愛いウサギのキーホルダーがぶら下がっていた。元妻が使っていたものかもしれない。
相変わらず、気分を無視した晴天に舌打ちをして、階段を上って自分の部屋に入る。
テーブルの上に置いていたはずのスマホが、床に落ちていた。
「いくら罪悪感があるからって、架けすぎだよ、颯太」
ディスプレイに表示された着信履歴は、すべて颯太からのものだった。
冷蔵庫からペットボトルを取り出し、半分ほど残っていたミネラルウォーターを一気に飲み干した。
若干、酔いが残ってる気がする。
「……なんで、あんなにエロかったんだろう」
昨晩の悪ふざけを思いだし、連は正吾の肌の感触が残る手を握った。
「くそっ」
連は空になったペットボトルをゴミ箱に突っ込んで、ベッドに腰掛けた。
スマホのロックを解除して、颯太へ電話を繋ぐ。
一度、二度、三度目の呼び出し音の後、慌てた様子の颯太が出た。
『連か! なにしてたんだ、今まで』
「なにって? ふつうに飯食って、今まで寝ていたんだよ」
戸惑う颯太に、連は肩から力を抜いてベッドに倒れ込んだ。
「自殺でもしたと思ったか? それとも、フラれた腹いせに刺されるかもって、ビクついていたか?」
使いどころのなくなった包丁。
実際に行動に移すなんて絶対にあり得ないが、頭の隅にはあった。今思えば笑えるほど、颯太を本気で好きだった。
「安心しろよ、どっちもしたりはしない」
『なあ、連。本当に、悪かったって思っているんだ。何度でも、気が済むまで謝るし償うから、また友達として付き合ってくれないか?』
「――無理だな」
息を呑む颯太に、連は笑った。
「許す、許さないとかじゃないんだよ」
追いすがろうとする颯太を押しのけるよう、連は続けた。
「友達のふりをして今まで通りに過ごす? 手首を切るよりずっと自傷行為じゃないか、そんなの。俺には無理だ」
連は「サークルも抜けるから」と、押し切った。
「友達が欲しいなら、別の人間をあたってくれよ。友達なんて、その気になれば何人だってつくれるだろ?」
その他大勢の友人も、特別な友人も。連にとってはどうでもいいカテゴリーだ。
颯太の恋人になりたかった。
叶わなくとも、夢想するくらいはしたかった。
『待って、連。俺は――』
「バイバイ、颯太」
通話を切って、連は天井を見上げた。
「涙の一つくらいは、出ると思ったんだけどな」
しつこく架けてくる颯太に苦笑を零し、連は迷わず着信拒否の設定をした。
◇◆◇◆
都心の田舎の利便性は家賃の安さと思っていたが、もうひとつ、連は気付いた。
降り口が、二つしかないということだ。
「どうしたの、連くん」
ぱらぱらと駅から出てくる人々の中に正吾を見つけ、連はスマホゲームを閉じて顔を上げた。
「どうでした? お別れ」
「涼花? うん、とっても可愛かったよ」
ほろり。零れる涙に、連は手を伸ばして親指で拭った。そのまま、正吾の頬を撫でるとくすぐったそうに目尻が緩む。
周囲からちらちらと視線が向けられるが、正吾も連もまったく気にすることなく向かい合った。
「ちゃんと、お別れできた。会わない代わりに、写真を送ってくれるよう頼んだんだ」
「お願い、受け入れてもらえたんですね?」
こくんと頷く正吾に、連は「よかったですね」と笑い返す。
「まあ、正吾さんがなにか犯罪的な報復をするような人とは、思えませんしね」
「するもんか」
むっと頬を膨らませ、声を上げて正吾が笑う。
いきなり涙を流したので驚いたが、大丈夫そうだ。
「連くん、今日は何食べる?」
時刻は四時過ぎ。
夕食をとるには少し早い時刻だが、昨日の残りものを腹に入れただけなので、空腹感はある。
「正吾さんの手料理がいいです」
冗談半分で言えば、正吾は照れたようだ。
「美味しかったですよ。正吾さんの料理」
「ありがとう。うれしいなぁ」
言葉以上に感情を表現する顔は、子供のようだ。
「でも、さすがに今から作るのは嫌だよ。ねえ、どこか食べに行こうよ。待っていてくれたお礼にぼくが奢るから、連くんが好きなお店に行こうよ」
「じゃあ、回れ右。ですね。さすがにここいらじゃあ、良いお店はないですから」
近場のファミレスでも正吾はじゅうぶんそうだったが、奢って貰うのなら、もう少しオシャレな……正吾が立ち入らなさそうな店が良い。
「スーツを着て、髪をセットして。きちんとした格好をしているんだし、すこし高いお店でも行きましょうよ。良いでしょ、売れっ子の作家なんだし」
「奢りだからって、遠慮がないんだね。まあ、いいかな。若い子と一緒にご飯を食べるのも、楽しいから」
アパートがある方角に背を向けて、閑散とした駅へと戻る。
「ねえ、正吾さん。合鍵なんですけど、もう少しの間、俺が持っていてもいいですか?」
「別に、構わないけど。どうして? 食べ物くらいしか、連くんの気を惹きそうなものはなさそうなんだけど」
「俺を、食いしん坊キャラにしないでくださいよ」
改札を抜けてホームに立つと、涼しい風が吹いていった。
「もう少し、正吾さんといいことしたいなって」
「れ、連くんっ」
人気がないのを良いことに、連は正吾の腰に手を回して尻を揉んだ。
「外だから、ね。駄目だよ」
外でなければして良いのだろうか。なんて、考えは意地が悪いだろう。連は身じろぐ正吾に構わず、尻をなで回す。
「二駅先に俺のバイト先があるんです。美味しいものを食べたら、美味しいお酒を飲みに行きませんか?」
細い腰を引き寄せて、耳元で囁く。
耳朶を甘噛みしたい欲求を抑えつけ、ゆっくりと体を離せば、正吾は頬を真っ赤にして、俯いていた。キツそうな股間に「すみません」と言葉だけで謝る。
「嫌ですか?」
問えば、正吾はプルプルと首を振った。
「昨日のお酒、すごく美味しかった。また、良い気分になりたいな」
「正吾さんがいいなら、何度でもして良いですよ」
驚いて顔を上げた正吾に、連は顔を寄せて唇を吸った。
「……えっ? あむっ」
唇を重ねたまま抱き寄せると、早鐘を打つ心臓の音が聞こえてくる。
このまま、奥の奥まで貪りたい。伝ってくる唾液すら甘く感じるのだから、もう、どうしようもない。
トイレに連れ込んで、このまま欲望を吐きだしてしまいたいが、さすがに連も見境のない獣にはなりたくなかった。理性をどうにか保ちつつ、それでも、正吾の感触が名残惜しくて、連は舌を吸いながら唇を離した。
「大丈夫ですか、正吾さん。帰ります?」
余韻なのか驚いて固まっているのか、正吾は連にしがみついたまま、正吾はぜえぜえと肩で荒い息をしていた。
「だい、じょうぶ」
正吾は首を振って、もう一度「大丈夫だよ」と連のシャツをぎゅっと握りしめた。
濡れて光る目が、色っぽくて目眩がしそうだった。
「じゃ、行きましょう。嫌いな食べ物とかあるなら、遠慮しないで早めに言ってくださいね」
「うん」
頭上のスピーカーから案内の放送が入る。
程なくして、乗り入れてくる電車。
「あのね、連くん」
先に乗ろうとして、呼び止められた連は正吾を振り返った。
「今夜も一緒に居てくれて、ありがとう」
「俺も、感謝してますよ。正吾さんと一緒にいると、寂しさを忘れていられますから」
発車の軽快なベルが鳴る。
連と正吾は互いに微笑みあい、電車に乗り込んだ。
丁
ともだちにシェアしよう!