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出逢い

「ふ……、ぁん……」  にゅるりと唇の間から、熱いものが入り込む。……舌だ。  いきなりの深いキスに、腰砕けになって座りこみそうになった俺の腰を、獣人の大きな手が支える。  まだキスを終わらせるつもりはないらしい。拒みたいのに、動けなかった。初対面の相手にキスされているのに、なぜだか不快にはならなかった。 (どう、して……)  俺は初めて会った獣人に、出会ってすぐにキスされてるんだろう。そして、なぜたかがキスくらいで、俺はこんなに感じてしまっているのだろう。一人では、とても立てないくらいに。  俺の平凡な日常が、崩れ去った瞬間だった。  俺、ヴェルトリーは今年十八になる純血の人間で、さらにオメガだ。本来ならば、性が分かった時点で、施設に行くはずだった。  稀少な存在である人間のオメガは、施設に集められ獣人に加護されて生きている。なぜか獣人にはアルファとベータ、二つの性しか生まれないため、彼らを生むことができるのは人間のオメガだけだからだ。  捨て子だった俺はオメガだという診断を下された時に、育ててもらっていた孤児院を抜け出した。  だって獣人に囲われて、お人形のように暮らすなんて、まっぴらごめんだから。生活に困ったとしても、自分の力で働いて生きていく方がずっといい。  人間は獣人に比べて非力なため、雇ってくれるところは少ない。俺はどうにか親切なネズミの獣人の親父さんのいる宿屋で、ベータだと偽って下働きとして雇ってもらっている。賃金は安いが、住み込みで食事も出してくれるため、どうにかやっていける。 「ヴェルトリー、表に水を撒いておいておくれ」 「分かりましたー!」  木で作られたバケツに水をくみ、しゃくしを持って店の前に出て行った。  しゃくしを使って入り口の前の石畳に水を撒いていると、甘い香りが漂ってきて鼻をくすぐった。 「何だ……?」  鼻をひくつかせ、香りのする方を見ると、 「……見つけた」  腰にまで響くような重低音。 「は?」  いきなり「見つけた」なんて言われても、全く訳が分からない。  びくりと顔を上げると、背の高い獣人が立っていた。獣人と言っても、尻尾と耳以外は人間と変わらない。完全な獣体になることもできるらしいが、俺は見たことがない。  頭の上には髪と目の色と同じ、黒い耳がぴんと立っている。そしてぱたぱたと上下している、ふさふさとした尻尾。  恐らく三十歳前後だろう。精悍な顔立ちだが、仏頂面のせいで台無しだ。  種類は大型の狼だと思う。つやつやとした、黒壇のような美しい毛並み。堂々としたオーラ。  多分アルファだな。そして、質の良い服装からして貴族だろう。 (さっきの甘い匂い)  先ほどの香りは、彼から漂っているようだ。  目が合った瞬間、俺はぎゅうっと心臓をつかまれたようになった。  こんなことは初めてだ。医者にかかる金などないのに、病気だろうかと心配になった。 (なんだこれ……俺、おかしい。心臓が、苦しい)  胸の上から心臓のあたりをおさえていると、がしっと手首を掴まれる。振り払おうとするが、できなかった。獣人と人間の力の差は歴然なので当然だ。  獣人は、俺を射貫くような鋭い目で見つめた。 「お前は、俺の運命の番だ」 「つが、い?」  聞き慣れない言葉に、首を傾げる。その途端。 「んぐ……っ!? ふぁ……」  いきなり唇を奪われた。  初めてのキスを、初対面の獣人に奪われるなど、大変不本意で。  けれど、獣人の胸に手を突っ張って唇を離そうとしても、その立派な体はまったく微動だにせず。  だんだん深くなるキスに、腰が抜けそうになったのを、獣人が支えてくれる。 (いや、キスを止めてくれればいいのに)  ようやく獣人は満足したのか、しばらくしてやっと唇が離れる。けれど手はつかまれたままだ。 「なに、すんだよ。いきなり」  俺はバケツを石畳において、服の袖で唇をごしごしと痛いくらいに拭った。 「……お前には俺が分からないのか? ああ、ヒートは?」 「分からないのか、って初対面だし……。ヒート?」  聞いたことのない言葉だった。分からない、と首を振る。 「ああ、まだなんだな。だから俺が分からないのか。来い。説明ならゆっくりしてやる。馬車の中でな」 「ちょ……!」  ぐいっと引っ張られ、俺は慌ててその場に踏ん張った。  会ったばかりの怪しい獣人に、連れて行かれるわけにはいかない。どこに連れて行かれるのか分かったものではない。それに、 「だ、だめだ!俺、今仕事中だから!」 「仕事?」  獣人が引っ張る力を緩める。 「そこの宿屋か?」  そこ、とあごでしゃくって見せたので、俺はうなづいた。 「そうだけど」  放してくれるのかと思いきや、 「クレマン」  後ろに控えていたらしい従者を呼びつける。小柄な獣人だ。頭の上の白い耳と、ふさふさとした大きな尻尾からキツネの獣人だろうとあたりをつけた。髪と目の色は茶色だ。  彼は恭しく頭を下げ、 「はい。旦那様」 「こいつをもらい受ける。宿の主人に、適当に金を握らせて話をつけてこい」 「かしこまりました」  さっさと宿屋に行こうとするクレマンに、俺は慌てて声をかける。 「ちょっと待てよ!俺、あんたについていく、なんて言ってない!」  獣人が俺に鋭い目線を向ける。 「では、施設に行くか? オメガは等しくそこに入らなければいけないということまで、知らないというわけではないだろうな?」 「……!」  俺は息を飲んだ。  このままこの男が俺を見逃すなどありえないだろう。ならば、俺の行くところは施設かこの男の元以外にない。この男の家がどんなものかは分からないが、施設よりは抜け出せる可能性があるかもしれない。  俺は嫌々ながらに了承した。 「……分かったよ。あんたと一緒に行く」  言葉にした途端、仏頂面だった男がほっと顔を緩ませたので、俺は戸惑った。 (なんだよ。そんなに俺が家に来るのが嬉しいのか?) 「でも宿の親父さんに挨拶させて。世話になったし、これ返さないと」  これ、とバケツを顎でしゃくって見せる。 「あと、俺がオメガだってことは親父さんに言わないでくれ。ベータだって偽って働かせてもらってたんだ。親父さんに迷惑かかったらいやだから」  施設に入っていないオメガを見かけたら国に報告する義務がある。それを怠ると罰せられてしまうのだ。ましてや、保護対象であるオメガを労働させるなどもってのほかだ。  気のいい親父さんは、俺を『ベータ』だと信じて雇ってくれた。そんな親父さんが罰せられるなど絶対に嫌だ。   「いいだろう」  そんなこと知るか、と言われるのを覚悟していたが、獣人は意外にもあっさりと了承した。

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