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第1話

 クリス・ハワードにはかつて愛する妻と息子がいた。  美しき妻ジェニファーは慎ましやかに夫を支え、ひとり息子のジャックは強い正義感の持ち主で幼いながらもハワードのような警官になりたいと彼の父を尊敬していた。  ハワードはNYPDに籍をおく優秀な捜査官だったが、彼の不幸はある日突然訪れた。ハワードの妻子は彼の寝室で変わり果てた姿で発見されたのだ。  検視の結果、ジェニファーの死因は失血死。下腹部を複数回刃わたり五インチほどの鋭利なナイフで刺されていた。ジェニファーに防御創はなく、また首の後ろにスタンガンによる火傷の痕が見受けられたため、彼女はほぼ無抵抗の状態で無惨な死を遂げたことになる。だがハワードを苦しめたのはむしろ息子であるジャックの死因だった。九歳でこの世を去ったジャックの肛門は引き裂かれ、さらに背後から首を絞められて殺された。幼い息子は性的暴行を受けた上、もっとも苦しむ方法で殺されたのだ。  ハワードには確信があった。犯人はJ・ミラーであると。母親の子宮をえぐり、男児に性的暴行を加えた上で絞殺する一連の事件は、ハワード家で四件目だった。ジャックの直腸から検出されたカードにはジェニファーの血で次のようにメッセージが残されていた。  いとしい坊やに、安らかな眠りを  J・ミラー  ミラーが起こした一連の猟奇殺人はニューヨークを震え上がらせた。刑事であるハワードの家族も被害にあったことからミラー逮捕に捜査官たちは総動員された。懸賞金もはね上がった。少しでも手がかりがほしかった。だがそんな警察をあざ笑うようにミラーは犯行を重ね、やがて世論は市警の怠慢をなじり始めた。悲劇の捜査官の名が再び世間を賑わせたのは妻子の葬儀が終わってしばらく経った頃。クリス・ハワードは住居侵入と傷害の現行犯で逮捕された。  ハワードが手を出したのはJ・ミラー事件の第一容疑者であるマイケル・J・ミラーという壮年の男であった。犯人が現場に残したカードに書かれた名前と一致する人物というつまらない理由であったが、ハワードはこの男が怪しいと最初からにらんでいた。殺人鬼がわざわざ本名を現場に残さないだろうとチームのみんなは口を揃えたが、どんな手がかりでもほしい市警はひとつひとつ可能性をつぶしていく必要があった。  J・ミラーが犯行を重ねていくうちに容疑者は絞られていき、やがて九人になった。その中にマイケルの名もあった。彼は依然第一容疑者のままだった。  彼は完璧すぎた。マイケル・J・ミラーは複数の企業の株を有する実業家であり、多方面に顔の効く男でもあった。  年齢に見合う洗練された容姿のハンサムな男であり、恵まれない子らの施設に多額の寄付を施す慈善事業も手がけていた。殺人鬼と同姓というふざけた理由で聴取を受けても、マイケルは紳士的な態度を崩さず、捜査官の質問にすべて答えてみせた。  この時点でJ・ミラーの犯行は五件目であったが、彼はすべての犯行時刻にアリバイがあった。たとえ深夜の犯行であろうとも。完璧すぎて不自然さが目立ったが、それを追求できるだけの証拠もなかった。  聴取を終えたマイケルを送ったのはハワードだった。一緒にタクシーを待つこの男が殺人鬼である可能性は限りなく低い。  だがハワードはマイケルに初めて会ったときから、彼の底知れぬ裏の顔を感じていた。 「ハワード刑事。君はドラゴンを倒すために警官になったのかい?」  マイケルは人々の往来を眺めながらハスキーな低音で問うた。「だって君はハワード(勇者)だろう?」 「また何かあれば連絡する。今日のところはまっすぐ家へ帰れ」 「私を気にかけてくれるのかい? 嬉しいね。君は私を見ていただろう。いつも。ずっと前から」 「あんたに会ったのはこれで二度目だ」 「君が気づかなかっただけさ。でも、最初に私を見たのは君だよ、ハワード刑事」 「迎えが来たぞ。ああ、そうだ。この間は殴って悪かった。まだ痛むだろ」  マイケルの左の頬骨は青く変色していたが、それが彼の品位を落とすようなことはなかった。ハワードは謝罪を口にしたが、本心ではなかった。 「平気さ、クリス」  マイケルはハワードを怒らせようと、わざとファーストネームで呼んだ。「このくらい痛くもなんともない」 「考えなしに手を出したことは謝る。次は令状を持って行くよ」 「嬉しいサプライズは内緒にしておくべきだったね。楽しみにしているよ。ハワード刑事」 「じゃあな、ミラーさん」 「近いうちに会おう」  タクシーに乗りこむ際、マイケルの目がハワードを一瞬捉えた。視線が合い、ハワードは確信を強めた。マイケルこそ連続殺人鬼、J・ミラーであると。優美な口元とは裏腹に、マイケルの灰色の瞳は獲物をいたぶる猛禽類のように鋭かったのだ。

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