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はなのゆにわ
軍華、ついに国を傾ける。
人が軍神になるなど、とうてい夢に過ぎない。
ゆえに、儚くなるのだ。
――芙蓉国史 第二節 傾国の軍神
「陛下、ここへきて貢物を変えるとおっしゃるのですか?」
「ああ……見てみろ、こやつは、敵国に渡すにはあまりにも惜しい」
粉をはたかなくても澄んだ肌の血色をし、産毛さえ目立たない顎を、あまりにも恍惚とした表情でくいと持ち上げる男には狂気の翳りが見えていた。そうして耳と髪の狭間に酔芙蓉の花を活けて――芙国の王である男は、満足そうに瞳を光らせ笑った。
「し、しかし陛下……」
「くどいぞ。しばし、後宮の一室に留めておけ」
次第によっては暗殺に使われる筈であった、懐に忍ばせた飾り刀が、無用の長物となり果てた瞬間だった。
芙国・宮廷。とある宦官がいた。その者は特別な才を発揮したわけではなかったが、誰もが目を引く美しさを持っていた。幼き頃に自宮をしたため体型は中性的でしなやか、黒曜石のように艶やかな髪、どこか愁いを帯びた瞳、そして嫌味にならない厚さの唇――その者のどの部位を見ても宮女らは溜め息をもらし、武官文官もすれ違えば一度は振り返ったものだった。そんな彼に目をつけたのが、先王の時代より側近くに仕える老いた参謀であった。
隣国であり、敵国でもある蓉国。神話由来によれば、元は芙蓉国と名前を並べたひとつの国であったそうだ。酔芙蓉の化身である仙女と人間の男が結ばれ、築かれた大国。しかし、双子の男子を設けたことが悲劇を呼んだ。ひとりは仙女と同じく酔芙蓉の花弁から授かったが、もうひとりは仙女の母体より産みおとされた。これにより国祖の子息らはいずれが王となるかを巡って対立し、やがて分かたれたのが両国だと言われている。神話の時代より幾年が経とうとも、この戦いは永劫に続くのだろうと誰しもが疑いもせず、もはや双子の王子より意志を継いだかのごとく、人々は日々戦に明け暮れていた。
また、その国号が分かたれたことにより、芙国の人間が蓉国で、蓉国の人間が芙国でその本名を口にすると体がふたつに裂けるという伝承まで語り継がれる始末であり、それを強制させることはたとえ拷問であっても人道にもとる行為とされ『黄泉の名乗り』として根深く忌み嫌われている。
芙国、蓉国の戦力は長年を互角で保ち、国境付近での一進一退の戦が続いていた。しかし幾月か前、兵糧の減った不意を突かれ、蓉国に国境の一部を突破されてしまったのだ。永い永い戦いに、ついに動きが見え始めた瞬間がやってきた。その上、突破を許した国境は、王が座する王都にほど近かった。いくら兵士たちが必死に侵攻を防いでいたところで、芙国の民たちの動揺が見られない筈がなかった。
そこで老いた参謀は最後の知恵を振り絞り、そして最後の忠誠を国へ捧げるため、策をたてた。『蓉国へ、停戦を申し入れましょう』と。この永い戦いの中、停戦などどの世代の王も考えもしなかったことだ。無論、王をはじめ、将軍も高官吏も猛反対をした。しかし、老いた参謀の策をついに皆が受け入れることになったのは、賭けるだけに値する、そう思うに値する代償が、彼の手札にあったからであった。
策は表向き、簡単なものであった。玉を百個、金を五十片、そして芙国の特産品である絹を要求する分だけ――そして、美人を一名差し出すことを約束する。芙国の王は妃のみを愛す控え目な男であったが、蓉国の王は色を好むとの噂を利用したものだった。そこで槍玉に挙がったのが、彼……とある宦官だ。性別を超越した美貌をたたえた彼であれば、きっと蓉国の王も興味くらいは示すだろう。
そしてここからが、隠された陰謀である。
『よいか。蓉国の王へ近付く機があれば、情に訴えかけ身を寄せて、その腕の中でこの飾り刀を抜くのだ。そして命を奪ったのち、お前も自害をするがよかろう』
一介の宦官である彼に拒否権などはない。みるみるうちに着飾られ、参謀より刀を賜った。色を好む王の暗殺、そして死人に口なし、と彼を自刃させるための刀を。
そうして芙国王に貢物の確認をさせるため、とある宦官は初めて王と謁見をした。その結果が、「後宮の一室に留めておけ」であった。参謀は唇を切れんばかりに噛み締めて、老体を震わせながらとある宦官を、まるで化け物を見るかのように睨み付けた。
そこからの王の、とある宦官への傾倒ぶりは異常なほどであった。いままでたった一人の妃を愛し、王子、王女を慈しんだ男とは思えない変貌を遂げてしまった。
暇があれば、とある宦官のために改めて用意させた後宮の豪奢な一室へ足を向けて戯れた。さすがに体の触れ合いこそはなかったが、茶や酒の相手をして、妃に贈る予定であっただろう最上級の絹の衣、玉の装飾品で一層に身を着飾らされた。それだけで王はいつも、恍惚と目を細めてとある宦官を眺めた。さすがに、観賞用の玩具にでもなった心地を抱かずにはいられない。いつになれば平凡な宦官の勤めへ戻れるのだろうと心の片隅でぼんやりと思いながらも、それでも玩具として、王の命にはなんでも応えた。
まさに骨抜き。臣下たちは国の危機に王が乱心したと騒ぎ、そして呆れ果てた。妃にいたってはもはや心痛に耐えられず、王子と王女を連れ、一時的に生家へ帰っていった。
――そしてついに、王は戦の行軍にまでも、とある宦官に共を命じた。
そこからであった……とある宦官が、一介の宦官でなくなってしまったのは。
◆
「おお、無事に戻ったか。……三十四」
芙国・陣営――捕虜の押し込められた陣中に、一人の男が暗闇と共に侵入、いや、帰還した。
「俺が抜け出していたこと、気取られていないか?」
「まだ確認は来ていない。安心しろ、それより……」
「ああ、そうだな」
三十四と呼ばれた男は、ぼろ布のような衣の懐から、裂いて丸めた布地を取り出した。そうして捕虜陣営に唯一灯された火の傍へと近寄り、それを広げながら小指の先のような黒炭で指し示す。
「ここと、ここ。二つの武器庫の横に隙がありそうだが、さすが一変した芙国の軍団だ……」
やけに士気が高い。現状での突破は困難だろう。
声を潜め、布地――芙国陣営の構造を書きだした途中の地図――を睨む三十四に、周囲の顔色も夜に沈む。三十四。それは勿論、彼本来の名ではない。捕虜としての認識番号である。彼の周りに集った仲間たちも、すべて番号に縛られている。……蓉国出身の若き武官。それが少し前までの、彼の肩書であった。武術に優れ、将来を有望された彼は、軍の訓練兵長にまでのぼり詰めていた。
その面構えは一見険しそうに見えるが、眉間へ皺を寄せるという癖があるだけで、実質は穏やかな好青年であった。いまや、その穏やかな面影はうかがえないが。
彼ら捕虜の兵士たちが生きるには戦うしかなく、戦うには生きるしかない。いつか祖国へ帰れることを信じて、たとえ同胞と刃を交えようとも、がむしゃらに戦い生き抜くしか術はなかった。祖国である蓉国への愛執、忠誠、誇り故に、むざむざと敵国で命を落とすわけにはいかぬのだ。
「捕虜兵、人員確認をするぞ」
兵卒の影が、捕虜の陣に差した。
十二、十三、十六……儚く散った仲間の番号を飛ばしながら、順調に数えられていく。
「三十……――『猛虎』」
「……ああ」
三十四はその呼びかけに短く答える。どんなに過酷な状況下で盾として利用しようとも、その身に傷ひとつ付けず、返り血を浴びて帰陣する。そんな獰猛な戦いぶりに畏敬の念を込め、芙国の兵たちはいつしか彼を『猛虎』と渾名していた。三十四、そして猛虎。それが彼の、今を生き抜く名前だった。
捕虜の確認も済み、灯りが強制的に消される。改めて布地を丸めてしまいこむと、すっかり生えてしまった無精ひげを指先でざらりと撫でる。兵の干渉もなくなった今、もう一度偵察に出て行くべきか、少し考え込んだところで、耳の表面を澄んだ音が撫で付けた。冷え切った夜の、流星の一粒のように切ない笛の歌声が。
「……例の軍神様か」
捕虜の誰かが呟いた。芙国の軍神の噂は、蓉国の彼らにまで知れ渡っていた。――ついに戦況が動いた。国境の一部を突破した瞬間、誰もがそう思った。その戦には、果敢に戦う武官であった頃の猛虎の姿もあった。しかしそれが突如、芙国王の出陣により、押し返され始めたのだった。
――猛虎は不意に耳を傾けた。この楽は、誰に向けて奏でているのだろう。なぜこれほどまでに、美しく澄み渡った音色をしながらも、その核は泣き声のように聞こえるのだろう。
あの瞬間、確実に芙国の兵士たちの士気は落ちていた。それは戦うさなか、相手をしていて目に見えていた。一度目の芙国王の出陣後、そこで僅かに士気があがったかのように思えたが、王が出てくればこそそうなるのも当然であろう。しかし二度目、不思議なことに風向きが変わり、芙国陣営から射かけられた火が、またたく間に猛虎たちを混乱に陥れた。そして三度目、疲弊した蓉国の兵士たちは急襲を受け、突破した国境をなすすべなく撤退することとなったのだ。そこで殿を努めていた猛虎の軍団は、まとめて生け捕りにされ、彼を除き番号で呼ばれるだけの存在と成り果てた。
その三度の戦いのすべて、芙国王の側には、一人の美人が控えていたという。その人こそ、かの国の流れを変えた軍神であり、また、美しさを称え『軍華』と崇められる存在らしい。聞こえくる噂では、その目を見たものはあまりの美しさに惚れ込んだ末、体が動かなくなってしまうだの、実は芙蓉の花を人と見立てているだの、王でさえ直に会うことは許されず布を隔てて会話をするだの、捕虜たちにとっては心底どうでもよいことだった。それでも事実、芙国の兵の士気は、軍華が現れてからというもの天を衝く勢いなのだから、存在はしているのだろう。
……確かめてみようか。そんな思いがふと、猛虎の胸中に芽生えた。どちらにせよ灯りが消えた状態では陣の地図作成はできない。であれば、この笛の音の主である軍華とやらの存在を確かめてみるのも悪くはないかもしれない。
「少しだけ抜けるぞ」
「おい、気をつけろよ」
「……ああ」
息と気配を殺して、するりと陣幕を抜け出し、音の方へと慎重に駆け抜けた。音曲はまだ続いている。兵を鼓舞するにはあまりにも物悲しい色の歌。対して、猛虎の心の臓は早鐘を打っている。やはり敵陣営の中を捕虜が歩き回るというのは、死を覚悟した上での行動ゆえ、悠長に耳を傾けている場合ではない。鳴りやまぬうちに、方角を聞き定めなければ。
(ぐ……思っていたより見回りが多いな)
松明を揺らめかせた兵と接近する度、歩みを止めては物陰に隠れ闇にまぎれる。冷たい汗を額ににじませながらやり過ごしては、同じようなことを繰り返す。……そのうち、ぴたりと笛の音が止んでしまった。まだおぼろげにしか、方向が分かっていなかったというのに。
ここまで来て、引き返すか? 猛虎は自問した。しかしいつもの偵察よりも、歩みの範囲を進めているのは事実だ。ここは一気に行くか、戻るか。
「誰だっ!」
(見つかった……!)
背後から松明の灯りが照らされるが、間一髪それを避け、素早く身を翻し逃げる。その様も、狩りをする虎のようにしなやかだ。
「待て!」
「どうした?」
「怪しい奴がいる! 追えっ!」
まずい、まずい、まずい。こんなところで捕まってみろ、国へ帰る悲願を果たすどころか、同じく捕虜の同胞たちまでも咎を受けるに違いない。息をすることも忘れて、見回りを振り切ることに徹する。笛の音のこと、いや、既に軍華の存在を確かめようという思考すら彼の頭の中から消え去っていた。今はとにもかくにも逃げ延びねば。……生き延びねば!
松明の灯りから暗闇の方向へ逃れていると、ぽつんと立った天幕が目に入った。ほのかに灯りがもれている。ということはそこにも芙国の人間がいるということだ。ここも危険か、そう足の向きを変えかけた瞬間、不意に、彼の鼻孔を甘い香りが撫ぜた。これは香だ。きっとあの天幕から漂っている薫りだろう。ということは、あそこは『女』の控える陣の可能性がある。人数は分からないが、女性であれば軽く気絶させることも容易い筈だ。猛虎は咄嗟の判断で天幕の入り口をまくり、飛び込んだ。
「はあ……」
やはり薫りの出所はここであったらしい。柔らかな香が焚きしめられているのが、息を整えているとよく分かる。何やら天幕の中央には祭壇のようなものが飾られ、左奥には簡易的だが天蓋の設けられた寝台が一人分置かれていた。
「何者だ? 陛下や巫女以外の来訪者とは珍しい」
細く高い、しかし女性的ではない声が響いた刹那、部屋の四隅に配置された灯火が揺らめいた。天幕内を見まわすことに必死で気が付けなかったが、祭壇の前は紗に覆われた小部屋のようになっている。その中に、細い背中が見えた。場の雰囲気からして、巫女の祈りの場か。
『おい! あまりこっちで騒ぐな、ここは……』
外には追いついたらしい兵卒の声が、そして、天幕内には巫女らしき者が一名いる。ここはこの人物をやり過ごして、天幕の裏側から逃げるか、それとも――
「ふむ……」
紗の薄布をたくし上げると、巫女らしき者はその柔らかそうな唇に人差し指を軽く押し当て、彼に黙っているよう指示をした。猛虎は驚いた。それは指示をされたことだけではない。確かにかの人の視線は猛虎を見ている。しかしその人物の視界は、細い白絹の布で幾重にも巻き隠し、閉ざされていたのだ。
『あ、あの、夜分に申し訳ございません』
天幕の外から、兵卒の声がする。猛虎はごくりと喉を鳴らした。
「どうしたというのだ、騒々しい」
どちらの話者も、出入り口まで近寄るが、決してそこを開くことはしなかった。まるで互いにそれが許されていないかのように。
『先ほど、怪しげな人影をご覧にはなりませんでしたか?』
やはり閉ざされた視線で猛虎を一瞥してから、その人は答える。
「ああ、何やら慌ただしい足音が、この前を通り過ぎていったようだが……」
『この前を……まだ近くにいる筈だ! 探せ! も、申し訳ございません、助かりました、軍華様』
軍華様? ……いま、確かに聞こえた。まさか、この人物が……。
「……これで、逃れられるだろう」
鎧をまとった独特の足音が徐々に遠ざかっていった。しかし驚きのあまり、猛虎はすぐには口をひらくことはできなかった。深い宵の色をした長髪を腰下まで伸ばし、こちらにも白い絹で仕立てたであろう被り布をつけている。かんばせには薄く化粧が施されているのか、白い肌に杏色の唇がやけに艶めかしかった。髪飾り、首飾りなどで飾り立てながらも、着衣は控え目な色をしているが、巫女にしてはやや派手な……まるで後宮にいる人間が好んで着るような衣だ。そして肝心の瞳は、やはり目隠しの奥に閉ざされている。この人物こそが、噂にとどろく芙国の軍神――軍華だというのか。だが。
「ふむ……汗と泥、そして微かに残る血のにおい」
「なぜ、」
「ふふ。私の目を見ると死に至るという世迷言があとを立たずな……気が悪いゆえ、自ら視界を絶っている。においや気配には、そのうちに敏くなった」
「いやなぜ、俺を救うような真似を」
「さあ、分からぬ」
首を傾げる軍華の艶髪が、肩を辿ってさらりと揺れる。確かに、目を見ることはできなくとも、美人であるということはうかがえた。しかしさまざまに飾り立てられてはいるが、その美しさ以外、軍華本人からは何の神々しさも特別な気配も感じられない。軍神とも呼ばれる立場の人物が……まさか、こんなにも普通の人間……その上、この出で立ちからして、宦官、だとは一切も想像はしていなかった。
「……そなたこそ、ここに何用か」
「…………笛の音が」
「ああ……弔いに一曲奏でていた。今宵は月が綺麗ゆえ、外で吹くのもよかろうと」
(……見えないのに、か?)
「この布をしていても、通して月光を感じることくらいはできるのだぞ」
猛虎の心中を察したのか、少しむっとしたような言い方がなんだか幼く感じられて、これが芙国で崇められ神格化されている軍華とは、やはり信じがたかった。
「まあよい。しばし待て」
そう言うと軍華は床布に衣の裾をすりながらも、安定した足取りで天幕内を歩き始めた。何かを探しているのか、時折空中へ両手を躍らせながら。そんな様まで『美しい』と思わせてしまうのが、軍華という名の由縁なのか? とは言っても、この人間が本当に戦況を巧みに変え、兵の士気を上げることができるのだろうか。
「おい」
空気を撫でる白い指先を、武骨で、ぼろぼろで、泥だらけの猛虎の手が掴んだ。
「何をやっているんだ?」
「……すまぬ、水差しを」
「水差し? ああ、こっちか」
天幕の隅に、いくさ場に置くにはあまりにも不釣り合いな飾り棚が設置されている。そしてその上には、やはり上質な、玉を削って造られたであろう水差しが乗せられていた。猛虎は導くように、軍華をそちらへ連れて行ってやる。
「ふふ、まさか不審者に案内されるとはな」
考えてみなくとも異様な光景だ。まるで民家へ侵入した賊が、その家人に奉公しているようなものなのだから。
飾り棚まで辿りつけば、軍華は慣れた手付きで白い磁器の椀へ、澄み切った淀みのない清水を注ぎ込む。喉がかわいていたのか? 手を離した猛虎がその様を見ていると、不意に、その椀が差し出された。
「なんだ?」
「逃げ回り、疲れているだろう。潤おすといい」
こんなにも綺麗な飲み水を見たのはいつぶりだろうか。捕虜になってからというもの、支給される水は飲み水とも呼べるものではなく、死なない程度に与えられるだけ。白い椀を見下ろして、猛虎はごくりと喉を鳴らした。そして。
「……いらん」
眉間の皺を一層深くして、そう答えた。
「毒は入っていないぞ? 私の水ゆえな」
「…………俺は、捕虜兵だ。他の仲間を差し置いて、清水など口にできるものか」
同じ苦労を重ねた捕虜の仲間が、国の同胞が、この陣営の中にいるのだ。皆、戦の度に泥水をすすってまで生きている。一人で、こんな真似はできない。
「はあ……なるほど。では、ここで私を討てば、そなたは祖国へ帰ることができような」
それが目的であったか? と軍華は椀を棚へ置き直すと、見えない視線で猛虎を見据える。
「…………」
「心の臓が鳴ったな。図星か?」
「いいや、そんなくだらないことを考えたことはない。俺は、……俺たちは自力で帰ってみせる」
「ほう……」
ここへは噂に聞こえる軍華の存在を確かめに来ただけである。確かに彼の言う通りにすれば、芙国の陣はたちまち乱れるであろう。しかし捕虜兵たちは、まだそこまでの計画を企ててはいない。独断で動いて、どうなるかなど、誰にも分からない。そんな賭けに出るほど、猛虎も愚かではなかった。
「…………祖国を、愛しているのだな」
静かに、軍華の声がこぼれ落ちる。切なそうな、寂しそうな、まるであの笛の音と同じ色をして。
「捕虜兵ということは、名を尋ねるわけにもいかぬか。かといって、数字で呼ぶことは好かぬ」
「――猛虎だ」
「……なんと言った? おぬし今、こちらで名を口にしたのかっ?」
黄泉の名乗り、それをしたのかと軍華は猛虎の方へ詰め寄る。芙国、蓉国ともに禁忌とされる行為。やはり軍神であろうとも恐れているのは変わらないようだ。
「猛虎。捕虜になってからついた渾名だ。猛き虎、それがいまの俺の名のようなものだ」
「渾名……そういうことか……。まったく、危うく心の臓が止まるかと思ったぞ」
む? まさかそれを狙って……? などと、軍華は言っている。猛虎は思わずふき出して笑った。軍神とも呼ばれる生きた華が、こんなにも純粋で、少し抜けていて、あまりにも普通で。なんとも言えない気持ちだ。
「もうよい。どうせまた、蔑んでいるのだろう?」
「ははっ、そんなことはない」
捕虜となってから、こんなに人間らしい感情を持ったことがあっただろうか。ただ生き抜くことに必死で、また、笑うことがあるとは思ってもみなかった。
「もう、追っ手も諦めた頃合いだろう」
「あ、ああ……そうだな。助かった」
猛虎ははたと我に返る。何を思っていたのだろう。敵国の核とも言える人を目の前にして、その上に、命まで助けられて。これでは蓉国へ戻ったとしても笑い物だ。
「私が表で笛を吹こう。その隙に、」
軍華の指先が寝台の脇を差した。
「あちら側の幕は少しだけ開けるようになっている。もしもの時に、私が逃げられるようにな」
そこから出ていくといい。そんなことまで、捕虜兵にする必要があるのだろうか。
「そのかわり、またいつでも来るがいい。ここは神殿も同然……尋ね人おろか、近付く者もそうそうおらぬ。危険かもしれぬが……私も退屈なのだ」
懐から笛を取り出して、天幕の入口へと歩みを進めて軍華は猛虎へ語り続けた。
「おかしいだろう? 神殿の主といえば清らかな巫女だ。だというのに、この国ではもはや、私が神殿の主も同然なのだ。……まあ、男としての機能を持たぬゆえそれはそれで間違ってはおらぬのか……」
ぱさりと幕を開き出て行くと、すぐにまたあの笛の歌が夜の陣営を包み込んだ。
流星に共鳴するような、澄んだ音色が。
神格化されるというのは、まさにこのことなのだろうか。戦とは本来無縁であろう宦官が、あんな風に飾り立てられて、軍神と呼ばれている。あの口調も、それらしい言い回しを演じているように思えてならない。……であれば、神と崇められなくとも、『猛虎』の異名をとる己も同じか。しかし猛虎の場合は、その所以の自覚も自信もあるものの、さて、軍華の場合はどうであろう。近いようで遠い、そんな存在なのかもしれない。しばし思考を闇夜に溶かしながら、音曲に聞き惚れる兵たちの不意をつき、猛虎は捕虜の陣へと一目散に走った。
◆
「ほう……? 蓉国では夏に祭をするのだな」
幾日かが経過し、結局また、兵士たちの監視を潜り抜けながら、ここへやって来てしまった。今夜もまた、あの笛の音が聞こえたのだ。美しくも切ない旋律。しかしどこか、先日とは異なる慈しみの念がこもっている……と感じたのは、軍華という宦官の人柄に少しだけ触れてしまったからだろうか。
酒を用意してやったぞ、としたり顔(目元は相変わらず見えないが)をした軍華に断りは入れたのだが、
「軍華命令だぞ」
「…………」
と、権力を思うがままに振りかざされて、ついに杯をあおってしまった。捕虜の仲間たちにはついに、軍華と接触したことを話せていない。……皆、すまん。そう心の中で思いつつも、猛虎も酒自体は嫌いではない。ついつい、唇を湿らす回数が増えている。
「そなたが知ったことではないと思うが、……」
そんな猛虎の気配を察すると、軍神とも呼ばれる彼は自ら酌をしてくるのだ。すこし手元は覚束ないが、それでも零れるということはない。杯に乳白色をした色水が満たされる。
「これくらいか?」
「あ、ああ……」
「どこまで話した? そうだ、芙国では秋に祭を行うのだ。……今時分であれば、本来はやっていたであろうな」
空を飛ぶ、願掛けの提燈。香ばしい焼餅や蜂の蜜をたっぷりとまぶした甘味の露店が並ぶ通り。家族は集って芸人の踊りを見に行き、恋人たちはそろいの物を贈る。そんなささやかな平穏の一夜が、戦を運命つけられた芙国の民にも用意されている。
「お前」
「む?」
まるでその場にいるように、楽しそうに語る軍華の声を遮って、猛虎は杯を卓へ置いた。
「なぜ俺に酒まで飲ませ、そんなくだらない話をする?」
「……退屈ゆえ」
「それなら、お前に従う巫女にでも頼めばいい」
「この国の者でない方が、気が楽だ」
珍しく冷えた返事がされる。自国の人間よりも、敵国の捕虜兵――それも脱走している――と語らうことこそ、まさに不自然な状況である。
「おかしくはないか?」
素直に、猛虎は簡素な感想を述べた。
「そなたは、私を崇めぬだろう」
「ただそれだけか」
「帰ってしまうのか?」
がさがさの、粗末な衣擦れの音がして、軍華は慌てて立ち上がる。恐らく猛虎がいる方向へ、手を突き出しながら。
「……ならば、また」
「――もう会うこともないだろう」
「なにゆえ」
「俺に利がない」
「ある」
――ある。復唱するように断言する軍華の声色には、一変してはっきりと斬り落とされるような鋭さがあった。猛虎は既に幕に手を掛けかけていたが、取りやめ、軍華を振り返る。軍華は開いた右手をそっと、己の心臓辺りへ置いた。
「忘れたか? 私は軍華と呼ばれるこの国の軍神だぞ。……丸腰の私に、ここまで近寄れる捕虜兵などそうそういないと思うが」
「お前……なにを言っているんだ?」
まさか、殺せとでも言っているつもりか……? 確かに、初めて出会ったあの時にも、そんな話はしていた。していたが、そんなつもりは一切ないと、彼にも伝えている筈だ。それに。
「ふふ、随分と心音が荒いな、猛虎」
するすると裾を引き摺りながら側へ寄って来たかと思えば、余った左手を猛虎の胸元へとあてた。被り布に見え隠れする彼の顔を覗いてみると、なんとも穏やかな表情をしている。ああ、やはり、この人は――ただの人に過ぎないのだ。
「座ろう」
大人しく再度卓の方へとつくと、先ほどは向かい合って座っていた軍華がすぐ隣へと腰を下ろした。そうして両手を突きだすと、
「………………ほう、なかなかに精悍な顔つきだな」
ぺたぺたと猛虎の顔面に触れ始めた。その上に、額の皺を伸ばすような触れ方までして。
「なっ、や、やめろ!」
「ふふふ、照れているのか? 顔が熱いぞ。ああそうだ、髭を落として差し上げようか」
視界を閉ざした男に髭を落とされる? 冗談ではない、とんだ出血騒ぎになるのが目に見えている。猛虎は青ざめながら、別の意味でやめろ、ともう一度口にした。そんな風にしばしじゃれていた軍華だが、不意に顔を落とした。被り布と長い前髪で、その表情は見定めにくい。
「……好調であった我が軍も、行軍を焦りすぎ思わしくない。それは、前線に置かれるそなたたち捕虜兵も感じていよう……」
暗闇に水滴がぽつりと落とされたような声を吐き出しながら、軍華はその額を猛虎の鎖骨辺りへと預けた。泥や血にまみれた猛虎の衣に、酒の薫りが加わっている。
「我が国は……そう遠くないうちに傾く。陛下は偶然の勝利を『私』の力と信じ切っている……確かに、その夢を見させたのは、私なのだがな……」
「軍華……」
猛虎はゆっくりと腕を上げた。敵国の軍神、その男の肩を抱きすくめんが為に。
「軍華さま?」
天幕の外から唐突に巫女の声がする。二人は慌てて互いに距離を作った。
「お休みのところ失礼致します。陛下がお目見えで……」
「ほう、そうか、しばし待て」
猛虎に寝台の傍ら、非常時に抜け出せる幕の側へ行くように手の甲を振ってみせると、軍華は突如、杯を地面へと叩き落とした。粉々に割れた器は、猛虎が使用していたものだ。他者の来訪を隠すためだろう。
「どっ、どうなされましたかっ?」
「陛下のため、杯を用意していたのだが手を滑らせてしまった」
「かしこまりました。ただいま片付けの道具を取って参ります」
「ああ、頼む」
その隙に、いままで卓に並べていた干した果実や魚やらを適当な布に包むと、軍華はそれを猛虎へ手渡して「捕虜の皆で食すがよい」そう静かに微笑み、彼を送りだした。
芙国王と、どのような会話をするのだろう。軍華自体に何の力もないのは事実で、あの三度の神がかった勝ち戦は、本当に偶然のものなのだろう。ただその場にいたというだけで、彼はあのような演技をさせられ、あの場へ、あの地位へ縛り付けられている。なんと、哀しいことだろうか。
次の戦、やはり戦果は芳しくなかった。激戦で、盾にされた猛虎たち捕虜の幾人もが死んでいった。どうやら芙国の兵糧や武具も不足してきているらしい。また、戦線を進めることに重きを置きすぎ、傷病兵の回復も待たぬまま出陣させたせいで、芙国の兵にもついに逃亡者が出た。もはや時間の問題かもしれない。
――その夢を見させたのは、私なのだがな……――
なんとか生き抜いた猛虎は返り血も拭いきらないままで、つい、かの人の天幕に足を向けていた。この芙国の行く末の責を負っている、神格化された平凡な宦官・軍華。
(雨、か……)
静かに、霧のような雨が降り始めた。
幕をくぐり中へ入ると、軍華の姿は初めて出会った時と同じく、紗の布に覆われた小部屋にあった。しかし、様子がおかしい。ぐったりと横になっており、息を荒げている。
「おい! 軍華っ?」
紗の幕へ近寄ると、頭がぐらりとした。今日はやけに、香が強く焚かれている。おまけに、妙にきつい匂い。吸い続けていると、意識が朦朧としてしまいそうだ。猛虎はこの薫り、いや臭いの源を見つけると、飾り棚の水差しから直接それを湿らせ、息の根を絶った。煙が燻り、一筋の線を描いて宙を舞った。
そのまま水を持って、幕の中の軍華に近寄る。彼を飾る品は引き千切られ散漫し、また、着衣も大きく乱れている。
「お、おい……」
「……そなた、か」
「とにかく水を……どうした、一体なにが……っ!」
起き上がらせようと腿のあたりに手を添えた瞬間、どろりとしたものが触れる。白濁とした液体とそれに混じった血液だった。本来宦官である彼に、このようなことは成せない筈である。猛虎は驚きに、眉間の皺を深く刻む。
「…………軍華、これは」
「陛下も……ご乱心なさったのだろう……この身を抱くなどということまでは、しなかった。……私の気を取り込み、出陣するとおっしゃった……」
ぜえぜえと喘ぎながら、軍華は途切れ途切れに呟くように語った。猛虎は背中を支えつつ、そのまま横抱きにして紗の幕をくぐり、軍華を寝台へと運んだ。
「……もとより、私に軍神の気などないというのに……すべてが飾り立てあげられた偶像に、過ぎないと、いうのに……」
『陛下、今、何とおっしゃったのでございましょう』
『何、だと? おぬしはこの国の軍神だと申したのだ』
『そんな! 滅相もございません! 私は一介の宦官。陛下の行軍にご一緒させていただいただけで……』
『いいや。見てみろ、この戦果を……! これを目の前にして、おぬしが軍神でない筈がなかろう!』
高台に設けられた王の陣より、かつての宦官はそれを目の当たりにさせられた。芙国の兵の後ろを抵抗しながらもついて歩く、蓉国の捕虜。風向きが変わったことにより焼け野原となった敵陣営。並ぶ屍。
『……陛下、私は…………ただの……』
もう何も見たくない。ましてや、その惨い光景を己が作り出したなど考えたくもない。彼が目隠しをして王の前に出るようになったのは、それからであった。目に関しての噂が流れたのは、きっとそのせいであろう。
「実に力を伴った、猛虎、そなたとは違うというのに……!」
寝台へ置かれながら、軍華は猛虎に胸に縋りついた。肩と声を震わせ泣いてはいるが、目隠しの布がその水分を受けているのか、涙は伝ってこなかった。
「もう……、限界だ…………終わらせよう、猛虎よ」
手探りで枕の下を漁ると、軍華は綺麗な飾り刀を猛虎の掌へ握らせた。これこそ、もとは蓉国王を暗殺する筈だった、飾り刀だ。
「なんのつもりだ」
「刺すのだ、……この胸を」
「なぜ……!」
「刺して、捕虜の兵たちを煽れ。軍華が死んだと。さすればこちらの士気は更に下がり、祖国への帰還も容易になる」
そう言った刹那、ふわりと、軍華の唇が穏やかに笑んだように見えた。まるで芙蓉の花が咲いたごとく。
「……この永い戦を終わらせるきっかけを、ずっと探していた。そこに猛虎、そなたが現れた。捕虜として、猛虎と渾名されたお前に。――……私のように、名を上書かれた、そなたに」
猛虎は目を見開いた。そうだ。軍華も、元は宮中に勤める宦官。とすれば、本来の名がある筈だった。それにこちらは芙国領、彼が名乗っても、何の問題もない。しかし、一度も彼は名乗ることはせず、そして周りも彼を軍華としか呼ばない。互いに、同じ傷を負っている、猛虎もそれを悟った。
「……そなたを国へ帰すことが、最後の私の希望だ」
そうして軍華は目元に手を遣ると、王でさえ外さなかったであろう目隠しを外した。
「これを、証として持っていくといい」
遂に明かされた軍華の視界。その瞳も、やはり息をのむほど美しかった。にじむ汗で化粧はほとんど落ちているが、それでもそんなことは何の弊害にもならない……性別など超越した美しさ。しかしその風体よりも、猛虎にとって何よりも美しいものは、軍華の見えぬその心だった。
「『柳風』……つまらぬ名を、取り戻したい。宦官として平凡に終わるはずだった私を……取り戻したい」
「……いい名を持っているな……力強い柳を思わせる……そうだ、風に揺られながらも、またしなりその姿勢を正すような。お前に相応しい名だ」
「ふふ、ありがとう、猛虎」
その一瞬、本来の彼が見えたような気配がした。
「俺の名は、」
「閉ざせ」
「え?」
「口を閉ざせ……国へ戻り、そこで高らかに言え、そなたの名を。皆に、そなたが帰ったということを知らせるために。ここで……言ってはならぬ、絶対にだ」
強い口調で命令する軍華には従うしかない。しかし、猛虎にも知らずうち、火が着いていた。己の名を、彼に、柳風に知ってもらいたいという、欲が迸っていた。
「それなら、」
――俺と一緒に、この国を出よう。
猛虎自身、何を言っているのか、もはやよく分からなかった。軍華ははっとした表情を浮かべたかと思えば、みるみるうちに瞳に涙を浮かべ、なめらかな頬に雫を伝い落とした。そして首をゆっくりと、……横に振る。
「聞かなかったことにする」
「軍華、俺は」
「…………私は何も聞いていない」
その後のことはあまり覚えていなかった。決して手放さぬようにと、飾り刀を目隠しの布でぐるぐると右手に留め固定をされた。そしてそっと抱き寄せるように、軍華は胸元へ、猛虎の右手を導いたのだった。それ以外は、覚えていないのか、覚えていたくないのか、もう分からない。
捕虜の仲間と芙国の軍を離れ、蓉国の者と合流を果たした頃には、既にあの国は雪崩れるように瓦解していた。聞こえくる噂は、傾国の美しさを持つ軍神……軍華が死し、まさにその言葉通りに国を傾けたというものだった。
いつの間にか雨が止み、雲の切れ目から太陽の光が戦場を照らし出す。
芙国を振り返り、息を深く吸い込んだ。
「俺の、俺の名前は――」
気がつけば、『猛虎』と呼ばれていた武人の頬を、落涙が伝っていた。
それは祖国へ帰れた喜びゆえか、かの人を想ってか。
◆
敵国の軍神を討ち、捕虜となりながらも国を救った功労者として、猛虎は将軍職を賜ることとなった。彼の武力は過酷な状況下からの帰還を思わせないほどに目覚ましく、芙蓉国の統一に於いても誰よりも功績をあげた。その後も、各地に散らばる芙国残党の征伐、芙蓉国統一の隙を突かんとする隣国の奇襲の迎撃など、彼は芙蓉国に在っても猛き虎のようであった。
元・蓉国王であり、現・芙蓉国王は、多くの妻に産ませた娘より、好みの者を一人選ぶようにと彼にすすめたが、猛虎はそれを慎ましく辞退し、戦の孤児たちを養子として迎え入れ、育てた。息子には武術、娘には舞歌と各々に合った才能を開花させ、孤児として儚く命を散らしてしまったかもしれない子供たちを、立派に育てあげ世に送り出した。
目まぐるしい数十年が経ち、前線を退いて訓練兵長へと戻ったが、やはり体の限界は近く、また、彼は充分に国に尽くしたと、隠遁を選択した。老いてなお体はたくましくあるが、武人として自らの武術を教え込んだ息子にすらもはや勝てないだろう。
「義父上、どちらに参られるのですか?」
「少しだけ散策をな……思い出の地だ。共を頼む」
ずっと、一度は様子を見てみたいと思っていた地――捕虜となっていた陣地があった場所へ、隠遁生活の前に行っておこうと、息子の一人を共に連れて行く。ほぼ国の中心部であったから、都からもそう遠くはない。馬をゆっくりと走らせ、途中で休息をとりながら三日ほどで到達した。
「ここは、花畑なのですか?」
「……これ、は……」
不思議なことに芙蓉の花が群生しており、その中央に、一本の小道ができている。背より少しだけ低い芙蓉の木が群がる様子に、息子はやや慄いた様子だった。
「息子よ」
「はい、義父上」
「先に帰れ……」
「えっ?」
「しばし、知己と語らってくるゆえな」
心配だとごねる息子をなんとか先に帰し(とはいえ、近くの宿にでも滞在しているとは思うが)、自分が乗ってきた馬の尻を叩き、野生へ戻した。
「すまぬな……我が息子よ」
己の死期は分かっていた。死ぬならせめて、あの場所でと決めていたのだ。もう隠遁しても、余命もいくばくか。それならば、無理をしてでもここへ来たかった。はじめから隠れて居するつもりなどなかったのだ。
花の多さに圧倒されながらも、芙蓉の小道に足を踏み入れた。一歩、また一歩。進んでいくうち、不思議と体が軽くなっていくのが分かった。ふと見れば、老いによる手の皺は消え、目に入る前髪のおくれ毛も黒々としている。まるで、あの時の、捕虜となる寸前の体に戻ったようだ。いや、実際にして、これは――。
やがて小道が開けた。芙蓉に囲まれた広場。中央には、一本の柳の木が立っていた。猛虎は足取りも軽くそちらへ近寄ると、背中をもたれ座してから、そっと瞼を閉じた。
「ふふっ、やはり、精悍な顔つきだな。髭がないと、よく分かるもの……だっ?」
目前から笑い声がする。目を開けば、まさに初めて出会った時の、しかし目隠しはしていない軍華が、虎の顔を覗きこんでいた。だが猛虎も立派な武人だ。気配を察することには長けている。目の前に立っていたであろう軍華の手を瞬時に掴むと、その脚の狭間へと座らせた。
「やっと、捕えたぞ、柳風」
「今度は私が捕まってしまうとは……ふふ」
猛虎の腕が柔らかく軍華の背へ回る。軍華もならうように、猛虎の背に腕を回すと、彼がまとう衣ごと両手を握った。被り布を少しずらして、額に口づけが一つ落とされる。それから、唇にも、一つ。
「ああ……ようやく、ようやくそなたの名が呼べる。ずっと遠くから聞こえていた、そなたの名が」
――「楊雲」。
そこに国の隔てはなく、忌み嫌われる風習など存在しなかった。神話では花と人の双子が国を分かちたと言うものだが、一時であれど、華と呼ばれた美人と、人としてがむしゃらに生き続けた武人が、芙蓉国を再度誕生させたと言っても、過言ではあるまい。
もう一度、柳風がその名を呼ぼうと唇を開きかけたが、瞬く間に楊雲の唇により深く閉ざされてしまった。芙蓉の花だけが、そんな彼らを優しく知っていた。それだけで、もう充分だった。
そして子供たちは、意味も知らずに歌うのだ。国史に刻まれることのなかった、伝承のわらべ歌を。
芙蓉の小道 抜けた先 並んだやなぎの樹が二本
風に吹かれて 絡む葉先は まるで仲睦まじく手を繋ぐよう
了
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