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溢れて止まらない11

「こちらでバイトの募集ってことは……仕事は仙台でやっていくのか?」 カーテンの向こうを気にしながら箸を動かし始めた薫に、樹は頷いて 「うん……一応、こっちにも事務所をって思ってマンションを買った。基本、ネットさえあれば何処ででも仕事は出来るから」 「なるほどな。おまえの方が時代の先端をいっているな。にいさんにはそういう発想はなかったよ」 苦笑する薫に樹は首を傾げて 「そういうの、アメリカの方が進んでるから。僕のお義父さまはその方面に詳しい人なんだ。だから、いろいろ教えて貰ってる」 「養子になったってことは……おまえ、名前も変わったのか?」 「うん。戸籍上はね。朝霧(あさぎり)樹。朝の霧って書くの」 「朝霧……樹。そうか……綺麗な名前だな。おまえにぴったりだ」 ゆっくりと噛み締めるように発音して、にこっと笑う薫の顔が眩しくて、樹はふいっと目を逸らした。 ……綺麗なんかじゃ……ない。僕は…… 「でもちょっと寂しいな。おまえと苗字が違うのは」 樹はハッとして、横目で薫の顔を盗み見た。さっきの拗ねたような表情も気掛かりだったが、薫はなんだか元気がない。 「でもっ、戸籍上、だから。新しい苗字、慣れなくて、今もずっと藤堂樹って名乗ってるし」 思わずそう言うと、薫はまた箸をとめて 「そうなのか?」 「……うん。お義父さまはそれでいいって言ってくださったから、仕事でも藤堂って名前使ってる」 だんだん語尾が小さくなる樹に、薫はひょいっと腕をあげ 「いい人なんだな。朝霧さんは。おまえの気持ちをちゃんと考えてくれている。大切にしてもらってるんだな。……よかった」 言いながら、遠慮がちに手を伸ばしてきて、そっと髪を撫でてくれた。 ……あ……ダメだ。 さっきから、何度も堪えていた涙がまた滲みそうになり、樹は頬にぎゅっと力を込めた。 離れて過ごしてもう7年も経つのに、兄の優しさは相変わらずだ。何よりもまず、こちらの気持ちを考えてくれる。そして、まるで自分のことのように喜んでくれる。 「にいさんは、仕事、順調?」 「ああ。バリバリ働いているよ。出来れば来年辺り、独立に向けて動こうかといろいろ準備もしているんだ」 樹は頬をゆるませた。 あの時、兄の勉強や将来を邪魔することになるのだけが嫌で、自分の想いを必死に封じ込めて薫から離れた。 苦しくて哀しくて何度も泣いたが、あの時の選択はやっぱり間違っていなかった。 薫は夢に向かって着実に歩んでいる。 薫の幸せだけを願って生きてきたのだ。 その想いは報われた。 そのことが何よりも嬉しい。

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