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第1話

   *  猫になりたいと思ったことはありませんか? 縁側でゴロゴロ鳴き、人間に可愛がられ、我が物顔にふるまっても文句ひとついわれない、そんな生き物に?  神話でのみ可能だったそんな夢をナノテクノロジーは叶えました。「モフスキン」を使えば、あなたはお好みの動物に変身できるのです! ご安心を、「モフスキン」による変身は完全な合法の上、アフターサービスは完璧です。変身マニュアルはもちろん、緊急時のインフォメーション・ヘルプセンターとなる指定動物病院やアニマルカフェも用意しています。  あなたの望み次第で、変身中は当社が運営する猫カフェで思う存分可愛がられることも可能。週末の時間は動物に変身して自然のままにリラックスし、月曜からの忙しい毎日に備える、こんな生活を想像してください。しかもこの「モフスキン」が購入できるのはまだ、ごく少数の選ばれた人だけ! あなたの体質を完全に把握したうえでの完全オーダーメイドです。  安心のクーリングオフ期間はモフスキンがお手元に到着してから三十日。ご不明の点はトランスアニマルナノシステム(TRANS)のスペシャルコーディネーター、椿慎一までどうぞ。    *  はやる心を抑えながら俺は段ボールの梱包をはがした。たったいま宅急便で届いたのだ。箱の中身は白い繭型の容器と携帯用のポーチ、TRANS社のロゴが光るクリアファイルだ。繭は意外に小さく軽く、赤ん坊のように俺の両腕におさまった。今日に備えて片付けた茶の間の真ん中にうやうやしい仕草で繭を置き、蓋をあける。ついに俺の「モフスキン」と対面だ。  モフスキンは皮膚のような肌色で薄く、感触はヌメ革のようだった。本当にこれで? という疑問が頭をよぎるが、まずはやってみることだ。クリアファイルにはマニュアルや保証書が入っているが、電子マニュアルは事前に渡されていたし、俺は今日までの間に熟読していた。うまくいかなければ返品すればいいし、クーリングオフ期間は三十日ある。  俺は部屋の真ん中で服を脱いだ。モフスキン着用のためには裸になる必要がある。なんだか心配だったので、あらかじめウオッシュレットと風呂で全身を念入りに洗っておいた。服を部屋の隅に重ね、マニュアルの通りに鏡を設置して、その前にモフスキンを広げる。まずは裸の腰をいれ、つぎに足と腕、肩と合わせるのだが、途中からモフスキンの方が勝手に体にフィットして、吸いついてきたように感じた――とたんに変身がはじまった。  むずむずする。なんだこれ。叫びそうになるのをこらえ、俺は呼吸しながら数をかぞえた。マニュアルにも「最初の変身の時はとても驚くはずですが、大丈夫です。ゆっくり二十まで心の中で唱えてください」と書いてあった。十五、十六、十七、十八、じゅう――  俺は姿見をみた。うわっうわっうわっ――  猫が映っていた。ごく普通サイズの、全身真っ黒の猫だ。毛並みはつやつや、金色の虹彩に黒の眸。  たしかに猫だ、と俺はいおうとした。耳に聞こえたのは「にゃあ」という音だ。え、これ俺が喋ったの? ていうか喋れてないけど。俺はあたりをみまわす。生まれてこのかた見慣れた茶の間はやたらと大きく広くみえる。上をみると電灯の紐が誘うように揺れている。体がぴょんと跳ねた。うわっなんだこれ! なんだこれ! 俺跳べる! 跳べる!  電灯の紐には届かなかった。だが勢いがついた俺はそのまま部屋を走り回った。畳んだ服をけちらし、いつも飯を食っている座卓に飛び乗り、梱包のテープを蹴散らす。窓のむこうに薄青く霞んだ空がみえた。俺はトコトコ歩いて縁側に出た。尻尾を動かせるのが面白くて仕方がない。ひなたにごろんと寝そべって、黒い毛に覆われた俺の手――前足に頭を乗せる。至福で頭がぼうっとしてくる。ああ、気持ちいい……。  ピピッピピッピピッ  音が鳴った。なんだっけ? そうだ、アラームだ。最初の変身は一時間とマニュアルにあったのでセットしておいたのだ。  俺は名残惜しく縁側を離れた。茶の間に戻って「猫かぶり終了」と唱える。あらかじめTRANSに届けておいた解除ワードである。たちまち逆変身がはじまって、鏡をみると元の俺がいた。黒猫のかわりに中肉中背、腹は出ていないが引き締まってもいない体がひとつ。  志賀彰(しがあきら)、株式会社マキタード社員、マーケティング部二企画チームリーダー、三十五歳独身、両親の遺した一軒にゃ――じゃない一軒家で独り暮らし。夢は「猫になって縁側でおじいちゃんに撫でられてすごすこと」――嘘ではない、小学生の頃の作文にそう書いたのだ。先生には「それでいいの?」といわれたものだが。  それでいいじゃないか! 俺はテンション高く脳内の教師にいいはなった。先生、俺は夢を叶えたよ! ローンだけどな!  脱いだモフスキンは蛇の皮のように俺の足元にのこされていた。拾い上げて繭におさめ、服を着ると俺はあらためて変身マニュアルを開いた。図解入りの初心者用マニュアルのあと、長々と小さな字で諸注意事項が書いてある。着用時の注意、禁止事項、免責事項、緊急時の連絡方法、最後に外部から変身を解除するための手順と緊急ワードが書いてある。ん?「チャックが開いてます」だって?  部屋の中はぐちゃぐちゃだ。畳や柱には爪のあとがあるし、ちぎれた紙切れが散らかっている。俺はいきなり笑い出した。なぜだか可笑しくてたまらない。これは俺がやったのだ。モフスキンで猫に変身した俺が! 笑いながらマニュアルをめくると『重要! 初回から五回目は、変身の間隔を必ず十二時間以上あけてください』という大きな文字が眼に入った。俺は時計を見た。午後四時、ということは次の変身は明日の朝か。今日は春分の日で休みだが、明日は仕事がある。でも出社前にちょっとだけ猫になったっていいんじゃないか?  出社前にちょっとだけ猫になる。なんていい響きなんだ。  わくわくしながら俺は散らかった部屋を片付けた。最初にトランスアニマルナノシステム社のセールスマン、椿慎一に出会った時を思い出しながら。

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