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第3話

 定時をすぎたフロアはすでに閑散としていた。昨日は春分の日で祝日だったし、今日は金曜日で明日は休み。というわけで俺のチームには有給を使って連休にした者もいるし、時節柄よそのチームには今日が送別会というところもある。決算で忙しい業界も多いらしいが、うちの決算は五月なのである。 「志賀さん、晩飯でもどうです?」  トイレで手を洗っていると西野が横に並んでいう。 「悪い、用事があるんだ」  俺はそう答えたものの、そっけなさすぎたかと反省した。 「今日は急ぐけどまた今度――来月とかどうだ?」  ところが西野は鏡の中の俺に向かって口をとがらせる。 「僕がマキタードに来て半年なんですよ。半年たったら一度飯に行こうっていったの、志賀さんじゃないですか」  俺はぽかんとした。 「そうだったっけ? いつ?」 「歓迎会のときですよ。半年たてば慣れてるだろうし、今の状況が笑い話になってるから、そのタイミングでまた飯を食おうって」  とたんに思い出した。歓迎会がひらかれたのは西野が入社して一週間かそこらだったが、当時の西野はまだマキタードの社風になじめず、やりにくそうな雰囲気をかもしだしていた。業界大手からわざわざ転職してきたというので、警戒されていたようなところもある。しかしあの会は結果として成功だった。何しろ西野は女性陣への完璧な気配りを示した上に話も面白く、俺はいろいろ感心したり笑ったりした。唯一まずかったのは、俺が飲みすぎたことだ。 「あ――すまん。それって俺がけっこう酔った日? なんか迷惑かけたんだよな……思い出した。西野に途中まで送ってもらったんだよな」 「方角が同じでしたから。その時に約束したでしょう」 「約束っていうか……まあ、そうだな」  うろ覚えだが「半年後にどう変わったか話そう」といった記憶はある。しかしまあ、大学生じゃあるまいし、三十男がよくそんな話を覚えているものだ。いや、こんな些細な話を覚えていられるからこいつは優秀なのか。  何を考えて俺がそんなことをいったのか今は思い出せなかったが、酔っていたからあれはなしだ、なんていうのは俺の流儀ではなかった。 「忘れててごめん。でも今日はちょっとダメなんだよ。来週とか」  鏡の中の男前は俺をじろっとみる。「デートですか?」  俺は笑った。「まさか。なんで?」 「ウキウキだから」 「西野こそ、約束とかありそうなのにな。気配りの男だろ?」 「気配りって……」西野は困ったような顔をした。 「そんなことないですよ。僕はどっちかというとストーカー気質なんです」  意外な言葉に俺は面白くなり、つい突っこんでしまう。 「へー西野みたいなのにストーカーされたら――まあ、怖いか。タッパあるし。でもカッコいいんだから、ちゃんと話せば好かれるんだろう? いい匂いするし」  西野は顔をしかめた。 「それ朝もいってましたよね。僕、何もつけてないですよ」 「そうかな」俺は西野の肩に鼻を寄せる。 「やっぱいい匂いだぜ。何の匂いかわからないが……あれだな、ほら――猫に鰹節みたいな」 「なんですかそれ」  西野は破顔し、ふいに腕をふった。空中にまたふわっと何かが香った。 「その天然が志賀さんのいいところですから」 「それなに? 和田さんにもいわれたことあるんだけどさ、俺そんなにアレ?」  和田さんというのは同じチームの女性で、てきぱきしたやり手である。 「ぽやっとしてるのに企画は鋭いのがチームリーダーのいいところなんですよ」 「おい、やめろって」  西野はハハハっと笑って先にトイレを出た。まったく、男前に褒められると照れる。  さて、いよいよ帰宅――そして変身の時間である。  飯を食って風呂に入り、全裸でモフスキンの繭をあける。三回目の着用は前よりもスムーズだ。というよりモフスキンの方が俺の体を覚えて勝手に吸いついてくる感じなのだ。あっという間に変身が完了し、俺は黒猫の姿で玄関をあけた。  小動物に変身した場合、事故の危険もあるので外出には十分注意するようにとマニュアルには書いてある。外出先で変身したければTRANS社が準備したアニマルカフェに行けという案内もあるのだが、二回の経験で俺は味をしめていた。猫の体は人間よりも素早く人間より軽い。それに耳も鼻もきく。そして俺は人間の知性を(多少は)持っている! だから用心すれば問題ないだろう。  猫の眼だと暗い道もよくみえた。明るくなるのではなく、単によくみえるのだ。遠出するつもりはもとよりなかった。近所を散歩するだけだ。俺は塀の上をたどっていく。植えこみのトンネルを抜け、側溝に降りる。なんかいる――虫だ! 虫! あまり得意じゃない。が、猫の俺はさっと上を跳びこえる。本物の猫なら跳びかかりたくなるのかもしれないが、今の俺は障害物競争の気分だ。しかしなんて楽々と走れるんだろう。俺はこの町内に生まれた時から住んでいるのに、こんなところに知らない抜け道があるなんて!  街は完全に暗闇遊園地だ。と、その時前方に黄色く光るものがふたつ見えた。 「にゃーにゃーん(なんだ?)」  UFO? いや、あれは――本物の猫だ!  俺は焦って横に跳び退る。さすがに本物、生粋、ネイティブ(?)のお猫様とガチ遭遇するのは不安だった。道の反対側まで行って、そっとお猫様の通る方をふりむく。そういえば、時々道端でこんな風にふりむいている猫がいると思う。  お猫様は俺をちらりとみたが、尻尾をゆらっと振っただけで悠々と歩いて行った。さすがに堂々としたものだなぁ……と俺は後姿を見送り、潮時とばかり家に帰った。  翌日の土曜、俺は椿のアフターケアを受けるためにモフスキンの繭を持ってTRANS社のアニマルカフェ「ふれあいわんにゃん」へ行った。ネーミングはどうかと思うが、犬フロアと猫フロアがある大人気の大型店だ。入場には会員登録が必要だが、契約書に同梱されていたバッジを見せると最上階のVIPフロアに通された。 「この奥にロッカー付きの更衣室があります。肉球をかざすと鍵が閉まりますから、服や貴重品を置いても安心です。人間のお客様とふれあいたい時は猫カフェの飾り窓に行ってください。お客様はモフスキンのことは知りませんから、本物の猫だと思っています。お相手をされた場合、チェックアウト時にお礼としてお食事券をお渡しします。もちろん変身せずに下のカフェでゆっくりされてもかまいませんよ。VIPということで料金は無料です」  椿はあいかわらず饒舌だった。店のシステムを早口で説明したあと眼をくりくりさせながら急にひそひそ声になり「それで、どうです?」とたずねる。 「いかがでしたか、変身」 「すごい」俺は語彙力皆無の言葉を発した。 「すごいとしかいいようがない」 「そうですか。それはよかった!」 「いやぁ、三十五歳にしてこんな経験が得られるなんて思わなかった。世界観が変わるね。いやすごいよほんと」  俺のにやけ顔と対照的に、椿は真剣な表情をしていた。 「異常は感じていませんか? 変身中もですが、解除したあとも。少しでもおかしなことがあればすぐに連絡してください。緊急事態には夜中でも対応します」 「よほどのことがあればね。でも夜中はさすがに」 「コーディネーターの仕事ですから。それにクーリングオフ期間はまだしばらくあります。契約を取り消す場合はいつでも連絡してください」 「クーリングオフか。今のところぜんぜん考えられないな」  俺は笑顔でそう答える。椿は力強くうなずいた。 「だとしたら嬉しいです。長くご愛用いただくのが我々の喜びですから。今日は変身していかれますか?」  俺は少し迷ったが、答えはすでに出ていたような気がする。 「そうだな。せっかくだから……ちょっとだけ」  あたりまえだが、猫カフェで猫として飾り窓に座り、お呼びとともに人前へ出ていく体験も人生初である。 「きゃー、あの子可愛いぃ」  俺の人生で妙齢の女性にこんな風に叫ばれたことが果たしてあっただろうか。もちろんない。 「にゃわん(えっと…)」 「まあ、この子愛想がいいわねえ」  母娘らしい二人連れのレディの、年配のマダムの方が俺の頭をそっと撫でた。 「にゃあ(そう?)」 「それに賢そうね。言葉がわかってるみたい」 「モフモフを充電するのはいいわぁ」  若いレディの方が俺を膝においてうっとりとつぶやく。彼女はまさか三十五歳のおっさんを膝にのせているとは思うまい。バレたら通報ものだが、今の俺は猫なんだ。猫だから別に……  丁寧に撫でられる指の感触が嬉しかったし、とろとろと眠気が襲ってくる。俺は眼を細めて喉をゴロゴロ鳴らした。ひとの膝は温かくていいものだなぁ…などと思う。こんなの子供のころ以来じゃないか?  ぼうっとしていたら、かすかな風がヒゲをふるわせた。いい匂いがする。  俺はぐるっと頭をめぐらせた。猫カフェの入口の方向である。背の高い男前が視界に入り、おやっと思った。西野だ。こんなところに来るのか。 「あっちが気になるみたいね。あら、ハンサムだわ」  マダムがいった。レディがふりむき、俺はその隙に彼女の膝を離れた。 「ああん、行っちゃった」  俺は気ままな猫の自由に感謝しながら壁のキャットウォークに飛び乗った。トコトコと飾り窓の方へ歩くが、そうしながらもつい西野の行方を追ってしまう。奥のソファに座った彼は誰かを待っているようにみえた。デートなのかもしれない。  その時だった。西野は顔をあげ、眼を細めて俺が立っているあたりをみた。 「おいで(しがさん?)」  たぶん空耳だったのだ。猫になっているから人間よりもたくさんの音が聞こえ、そのせいで妙な錯覚をしただけだ。しかし俺はあわててキャットウォークを走り、飾り窓の奥へ駆けこんだ。

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