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第66話 さよならの声
「ニール、船が去るのを見ていなくてよろしいんですか?」
「ああ、別れは言った…」
船に乗るアサを見つめていることができなくて俺は船に背を向けた。
握りしめた拳から痛みが広がる。
最後の最後まであの漆黒の髪を、透き通る肌を、風になびくキモノを目に焼き付けておきたかった。
それでも船の中へと消えていくアサを見ていたら、頼りのない華奢な体を抱きかかえ攫って行きたくなる衝動に駆られ後ろを向くしか俺に術はなかったんだ。
「アサー!!!!大好きだよぉぉぉ!」
至近距離でケンの叫ぶ声が聞こえ振り返ると、船の上からアサが顔をのぞかせた。
「アサだぁぁぁ!!!!! アサァァァ!!!!!!」
「おい、ケン。そんなに叫ばなくても聞こえるだろ」
「そうですね、ケン。周りの方に迷惑なので少し音量を下げてください」
「ブー。やだ。僕は船が行っちゃうまでずっとアサの名前叫ぶのっ」
「はぁ。頼むからやめてくれ。ただでさえ頭痛がひどいんだ」
「頭痛ですか?」
「ああ、朝からズキズキしてんだ」
「体が何かを伝えようとしているんでしょうね」
「かもしれないな」
「ずいぶん素直ですね」
「今強がってもしょうがないないからな…」
目の前の舳先に視線を移すと先ほどまで俺の胸に抱きついていたアサがこちらを辛そうに見つめていた。
「ケンッ!!」
アサの名前を叫び続けたケンにアサはいつも以上に大きな声を上げて大きく手を振った。
「アサ!!!!!!!あぁぁぁさぁぁぁぁ!!!!!!!!僕、アサのことぜえええええええええええったい忘れないからね! アサも忘れちゃいけないんだからね! 絶対絶対ぜえええったいいつか、ぼくっアサに会いに行くから!それまでっお願いだから、絶対僕のことっ忘れないでっ」
勢いよく言い終えたケンは地面にしゃがみ大声で泣き声を上げた。
周りのことを気にしないケンがこういう時だけは羨ましい。
大声で素直に自分の思いをさらけ出せないのは、俺が年を取りすぎたからか、元々の性格だろうか。声に出せなくても、ケンのように忘れるなと伝え、思うままに涙を流したい気分だ。
「ケン、向こうのほうに座りに行きますか?」
「やだ!ここにいる!アサが行っちゃうっまで僕、どこにも行かない!」
未だに船の上で俺らを見下ろしているアサに視線をやると、騒がしい二人の声が段々と周りの騒音に溶け出した。
ここ数か月間、俺の近くにいたかけがえのない存在が今遠くへと出航しようとしている。
ケンが言ったように会いに行こうと思えばいつか会いに行けるのだろう。このまま自分たちの船に何年も乗っていれば、またアサの島国に辿りつく可能性だってある。
それでも、それは単なる可能性だ。
今確実なのは、アサが去ってしまうという事実。
視線が合うとアサの唇が動き言葉を紡いだ。
あまりにも小さくて何を言ったのかは分からない。
「さようならだったのかもしれないな…」
「そうですね…」
眉間にしわを寄せこちらを見つめたアサはくるりと後ろを向き船の中へと消えていき、戻ってくることはなかった。
「アサァァァ!!!!!!!!!!!!!!!!」
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