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僕は、通学路に美しく咲いている、この朝顔のようで、ハイビスカスみたいにも見える花の名前を知らない。 ただその花が咲いている家から、ユリの花に似た痩身の美青年が出てくることは知っている。彼の髪は墨汁を垂らしたように真っ黒くて、ペタンとしており、その髪の黒が肌のこの上なく白いのを際立たせている。身長は180くらいありそう で、だから僕より少し高いくらいだろうか。そして目はスッと切れ長の一重で、でも全然まぶたが厚ぼったくはないので、むしろ彼の持つ神秘的な雰囲気とそれは好相性だった。 僕はその人がポストを見に、朝、外に出る時間を見計らい、度々そこを通った。彼は目が合うと、うっすらと微笑むのだが、その唇が弧を描くさまは壮絶なまでの色気があった。僕に微笑みかけるのではない、そんな社交的で安っぽい人ではなかった。ただ面白いものを見たから、頬を緩めてしまった。そんな風に彼は時折、僕を視界の端に捉えながら、しかし対象としてまなざすことはしなかった。そんな風に、不思議な印象を与える目の使い方をするひとだった。 帰宅するときも、いつも僕は彼の家の前を通った。あのひとの家には白い花が年中咲いている。種類は違うけれど、僕は秋に咲いたこの正体不明の花が、一番美しいと思った。かれこれ、この冬で一年が経とうとしている。そんなに長くひとりのひとを見つめたことはなかった。だから戸惑ってしまう。僕は戸惑ってしまった。だってあの人が、帰り道に声をかけて来たから。 「あら、今おかえり?」 そんな言葉だったと思う。例の家先の白い花を見ていると玄関が開いて、中からぬうっとあのひとが現れた。幽霊、みたいだと思った。 あ、だとか、うとかいった僕の言葉を無視して、彼はあの謎の花を一輪手で千切った。その優美で、でも残酷な手つきを僕はくっきりと脳内に焼き付けた。あげる。不意にそう言われ、僕はそれを柵ごしに受け取ろうと手を伸ばした。花を受け取る瞬間に手が触れて、その手が恐ろしく冷たいのに驚きながら、僕は、ありがとうと言った。 「この花の名前、なんて言うんですか」 僕のやっとの震える発話に、彼はそやねとだけ返した。自分で知らはったほうがええよ、君はまだこの花と知り合うてもいいひんのやね。そう言って愉快そうにまた微笑むと、彼は、ちょっと待っといてと言って、家の中へ入っていった。そして、分厚い図鑑を持って再び現れた。これ、貸したげる。君、近くの大学生やろ、毎日ここ通るみたいやし、その子と、お友達になれたら、返して。 そう言って、ずっしりとした図鑑を再び柵越しに僕に手渡した。僕は純白の花と、分厚い本を持って、お礼を言うと、その場を後にした。これ以上ここにいると本に強く移っている甘い香りに当てられると思ったのだ。あのひとは、ひらひらと手を蝶のように振ると、また家に戻っていった。 花の名前は、なかなかわからなかった。それというのも、僕が春の花から順に全てのページに目を通していたからだ。たくさんの花のなまえが刻まれていった。それは、心地よい時間だった。秋休みだったので、しばらく家にこもり、日課であったあのひとの家の前を通ることもしなかった。 秋休みの終わりに、風邪をひいて、それが長引いた。微熱が下がらず、持病の喘息がそれに続き、随分とつらい思いをした。けれど、僕は体調が許せば、図鑑を読んだ。そしてついに、僕はその花の名前を知った。もらった花はとうに枯れていた。 それを伝えようと、風邪が治った頃に、いつもの時間にあのひとの家の前に行った。すると、引越し屋のトラックが止まっていて、あのひとは業者の人の作業を見つめていた。またあの見ているのに見ていないような、不思議な目の使い方。あの花たちはいつのまにか玄関からなくなっていた。 あの、と僕が声をかけると、あのひとはこちらを見た。花のなまえ、わかりました。わかった頃にはとっくに枯れちゃってたけど。あの、本、面白かったです。僕、花とか興味なかったけど、でもあれ読んだら——。僕の言葉を引き取り、あのひとは言った。 「そう、それはよかった。けど残念やねぇ、僕今から引っ越してしまうん。そやからもう、会われへんね。本、よかったらあげる。あんた、おもしろそうな子やから、もっと早よ声かけとけばよかった」 呆気にとられている僕を尻目に支度は着々と進んでいる。何か言わなければいけないと思うが、言葉は何も浮かばなかった。 そやから、さよなら。 あのひとがそう言って小首を傾げて、こちらを見たとき、僕は思わず泣いてしまった。そんな僕を初めて見つめながら、あのひとは、「明日には忘れてしまえる、みんなそうやって生きてるん。あんたにもいつかそれが分かるわ。僕はそれに気づくのに随分時間食ってもうたけど」と言った。彼の不思議な目線の使い方の意味がわかった気がした。彼は、もうここにはいない誰かを見ていたのだ。常に。 「それに気づいたから、引っ越すんですか」 「そう、察しがいい子やね」 彼はにこりと微笑みながら、そう言って僕の茶色い猫っ毛を撫でた。 「ああ、そろそろ行くわ」 「さようなら」 「さようなら、元気でおってな」 引越し屋のトラックに近づきながら、そう言ってあのひとはまた独特の優雅な手の振り方をした。 トラックはやがて去っていき、僕は一人取り残された。あのひとは、人間の生の本質は忘れることだと言ったが、僕はあの花の名前を忘れてしまうくらいなら、人間は、なんてつまらない存在なのだろうと思う。あの花とそれを育てていた美しいひとを忘れたくないと、いや忘れまいと僕は深く息を吸い込み、瞳を閉じた。

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