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 薄い氷を踏むとき、思わず息をのむようなあの緊張感が、生活全体を侵している。 綺麗に切りそろえられ、磨かれた手の爪をぼんやり見ていた。その爪は、俺が切ったり磨いたりするのではない。同棲している同い年の恋人が、それをしてくれる。今思うと、ひょっとしたら恋人は、自分の爪を磨くよりも長い時間、俺の爪を磨いているかもしれない。高い美意識をもっていなければならないモデルという仕事をしていながら、まだ何者にもなることができていない詩人の爪を殊更丁寧に磨くことが、誰のための何になるのかわからないまま、俺は黙って、男にしては白い自分の手をいつも恋人に差し出している。 そういうことを考えながら、自分にしては珍しく、合評会での自作についての評価を熱心にメモしたA4のコピー用紙を眺めていた。『技巧はあるが、伝わってくるものが少ない。』という数日前の自分の殴り書きを見て、多少気が沈む。一つ年上の男がそのように俺の作品を評したのだった。その男は、詩が全くというほど書けない。しかし、批評は抜群にうまかった。一度、彼と二人きりで酒を飲んだ時に、「宗、おまえの作品はつまるところ、一人の女から思いつくことを書いていることが多いんだろう」と核心を突くことを言ってきたことがある。「ええ、まぁ」と俺が濁すと、「母親だろう」と、これまた正鵠を射てきた。「マザコンか、まぁでもそうだとしてもお前の作品は好きだよ」と彼は赤ら顔で褒めてくれた。俺は創作物以外で、何か自分が褒められても、つまらないことを言うやつもいるもんだ、程度にしか思わない。一方で、自分が書いたものが褒められるのは、とても好きだった。俺は普段から、無表情だといわれるし、自分でもめったに顔に感情が出ないたちだと自認している。けれど、作品を褒められると、思わず口角が上がりそうになり、そのことに気付いて、慌てていつも通りの表情を取り繕っているのだ。「シュウのかわいい顔を知ってるのは、俺だけでいいよ」。恋人の言葉と声が眠気でぼやけた頭に浮かぶ。昨日は久しぶりに徹夜をして詩を書き、今日そのまま大学に行ったので、さすがに眠かった。眠りの世界にいざなわれるとき、いつも、ああこのまま死んでしまえればいいと思う。人生に挫折や衝突、落胆や絶望はつきものだから。でも、そう思って眠りに落ちる瞬間、必ず自分を呼ぶ恋人の声が聞こえる。俺は手からコピー紙が滑り落ちるのと同時に、その声を聞いた。 「シュウ」 遠くに聞こえる優しい声で、目を覚ます。俺は目をゆっくりと開け、そして目の前にしゃがんでいる、ブロンドに染め抜いたやや長い髪、小さく美しい卵型の顔、光の加減によっては輝くような色素の薄い茶色の瞳を見た。恋人の、シンだった。 「帰ったのか。撮影はどうだった」 「まあまあだよ。ベレー帽をかぶらされたから頭が痛いこと以外は問題ない」 眠気を払うように、頭を振ると、髪をなでられた。俺はその手に触れた。シンの手は死人のように冷たい。冬になると、それはほとんど氷のような冷たさで、彼が撮影を終えて深夜に帰宅して寝床に潜り込むとき、俺の足先と彼の足先が触れた途端、思わず目を覚ましてしまうほどだ。 「相変わらず冷たい手だな」 「相変わらず、こんな批評なんかメモして家で何度も読み返すなんて、シュウはやっぱりマゾだね」 美しく片頬だけを上げてシンは笑った。その表情が加虐的なのを見て、眠気に再び誘われるがごとく、俺は頭がぼんやりとする。

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