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「真理ってマザコンなんだよなぁ」
俺は煙い喫茶店で妹相手にそうこぼしていた。真理と言うのは俺の同居人で、非常に整った顔をしたマシンのように無感情な男のことだった。もちろん俺は真理のそういうところが嫌いなわけではない。本当に、偽りなく、あいつの冷静なところが嫌いではないが、彼は人間と言うよりむしろ機械に近いように思う。そんなふうに他人に対して無関心無感情を貫く彼はいつも恋人にこっぴどく振られる。心抉る言葉で毎回派手に振られてくる真理だが、彼はおそらくそのことばにもあまり関心がない。おそらく彼の関心ごとになりえるのは、自分のこと、あるいはそんな自分を捨てていった母親のことだけなのだ。そんな真理だから、俺は一度も彼の情緒が揺れるというか、不安定になるのを見たことが無い。
「お兄ちゃんも十分マザコンだと思うけどね」
俺は妹の核心をついたような言葉にたじろぎながらも平静を装ってトーストをかじった。
「そうか?俺別に真理みたいに始終母さんのことなんて考えてないけど」
「お兄ちゃんが真理君といるのは真理君が冷静でヒス起こしたりしないからでしょ。母さんと真逆じゃん。お兄ちゃんは自分で気づいてないだけである意味お母さんに執着してるんだよ」
妹の言葉をあいまいに濁しながら俺はハハと笑った。
「真理君とお兄ちゃんは似てるよ。二人ともマザコンで、意気地なし」
意気地なし、意気地なし、意気地なし。何度もその言葉が頭の中で反響している。恋人の京に振られた時に言われた言葉だ。
俺は目を覚まして、キッチンへと向かった。トーストの匂いがしていて、だから喫茶店でトーストを食う夢なんて見たんだなとぼんやりと考えた。
お前まで母さんみたいに怒鳴らないでくれよ。総は俺と向き合いたくないんだろう。母さんと真逆の人間ばっか求めて、そうやっていろんなことから逃げてる。意気地なし!
俺は京のその言葉に一つも言い返すことが出来ずに、ふたりの恋は終わった。
けれどいまだに俺は京のことが好きだし、たまに会うと嬉しいし、彼からのLINEの返信が早いとそれだけで幸せな気分になる。
そういうの、こいつにはわかんないんだろうなぁと思いながら、トーストを齧りながら雑誌を読んでいる真理を見た。
「おはよう、今日は早いな」
「俺もたまには早く起きるよ。おっ、目玉焼き半熟にしてくれたの?お前ほんとやさしいな」
「別に、僕も今日は半熟で食べたかったからそうしたまでだ」
かわいげのかけらもない真理のことばを適当に受け流しながら俺はトーストにバターを塗った。
バターを塗り終えてトーストにかじりついたとき、携帯の液晶画面に京からのLINEのメッセージを知らせる通知が届いた。真理の前でそのメッセージを開くのが躊躇われて俺は携帯をひっくり返した。
俺は京との同棲が破たんして、友人である真理の暮らす広いマンションの一室に転がり込んだのだった。だからこそ俺は京との関係が再び好転し始めたことを真理には言いづらかった。もちろん真理は聡いのでそこら辺はお見通しだろうが、俺は自分から言いたくなかった。真理は京との復縁に否定的だった。
「京くんからだろう?」
真理の言葉に俺はぎこちなくうなずいた。真理はそんな俺を鼻で笑った後、冷たい目で言った。
「いい加減に忘れたらどうだ。おまえを傷つけて捨てていったような人だぞ」
「まぁ人間関係なんて結構そんなもんだよ。俺は真理みたいに一回ケチがついたからって次にいけないの」
「僕を遊び人みたいに言うな」
真理はそう言って食器を片付け始めた。真理は捨てるとか捨てられるということに過剰に反応する。母親に捨てられたことが彼の人生や考え方に濃い影を落としているのだろうが、いかんせんその影響が強すぎて彼は裏切りとかそういうことに過剰に反応しすぎるきらいがある。そういうところが面倒くさいが、そこが彼に唯一人間味を感じるところでもあるので俺は放っておいている。彼はさっさと皿を洗うと、ベランダに植えてある薔薇に水をやり始めた。
『母さんが薔薇を好きだったからな』
いつか真理に薔薇を育てる理由を聞いたときに彼は言った。
『薔薇は、というより植物は人間とは違って扱いやすいから好きなんだ』
それは薔薇がおまえの母さんみたいに、お前を裏切ったりしないから?俺は当時そう聞くのをためらった。真理が彼の母親を憎んでいるのか何なのかが俺には理解できなかったからだ。
俺は家族を捨てていった自分の父親をひどく恨んでいて、真理と父親が少し似ていることさえ許せないときがある。そう、真理と俺の父親は少しだけ似ている。父親もあまり感情が無くて他人に無関心だった。父親を心底憎みながらもそいつと似た真理と一緒に住んでいるのはどういうことなんだろうか。俺は水やりを終えて身支度を始めた真理の背中をぼんやりとみていた。
京は俺が初めて心の底から愛した人間だったので、俺にとっては特別だった。京はなんというか俺の理想の全てを体現したような存在だったので俺は彼の全てに惚れ込んでいた。別れるその日に京が涙ながら俺への不満を口にするまで俺は彼にゆるせないところなど一つもなかった。俺は京が泣きながらだらだらと俺別に不満を述べるのを聞いて、なぜか母親を思い出して幻滅した。でも最近は、そういうところも含めて京なんだと思えるようになったし、母さんは母さんで父親に捨てられて本当に悲しくて悔しくてあぁなってしまったのだろうと思えるようになった。俺はそういう意味でマザコンと言うかそういうのを克服しつつあったし、真理もいつか素敵な人と出会ってマザコンを克服できればいいのにと思う。
○
「真理君と三人で飲まねえ?その時にまた二人で暮らすこと言えばいいだろ」
人間同士とは不思議なもので、あれよあれよという間に俺と京の仲は修復されていき、ついにもう一度一緒に暮らそうということになった。俺と京の復縁が進むにつれて、真理の機嫌が悪くなっているように思えたが、それも仕方ないことだと思って俺は何でもない風に過ごしていた。三人で飲みに行こうよと誘うと真理は明らかに機嫌を悪くしたが、最終的には折れてくれた。
明るくにぎやかな店内で真理だけが静かで落ち着いていた。真理は京に対して穏やかに振る舞っていたが、俺はその日真理の機嫌が悪いのを知っていた。前日に真理の母親から、真理に手紙が送られてきたのだった。真理は母親からの手紙をきっかけに明らかに冷静さを失っていたけれど、京の前でそんな様子はみじんも見せなかった。俺から同棲を再開することを真理に言う約束だったけれど、今日言うと真理に負担になるだろうと思って俺はその事を言わないことにした。それに、京には後で事情を説明しようと思っていた。
けれど穏やかな時間は京の一言で破られた。
「総が言わないから俺が言うけど」
やめろ、と俺は思ったがもう遅かった。俺たちもう一回一緒に暮らそうと思ってて。京はそう言って真理を見つめた。俺はどうするべきかわからずに真理を見つめるしかなかった。真理は明らかに苛立った後に完璧な微笑みでこう言った。
「好きにすると良い、僕には関係のないことだ。自分から大切な人を捨てたくせに何もなかったかのようにまた一緒にいられるような人間のことなんて僕には分からないからな」
「俺も別れたくらいで捨てたとか捨てられた、なんて騒ぐやつの気はしれないね」
「そうだろうな。京くんには生涯わからないだろう」
真理は無感情にそう言うと、一万円札を置いて席を立った。そしてそのまま帰っていった。
○
それから日付も変わった頃に、真理と暮らす部屋に帰ると、彼はベランダでたばこを吸っていた。俺は自分が怒りたいのか謝りたいのかわからなくて途方に暮れてカーテン越しに真理の前に立った。
「引越しの準備が終わったら鍵、置いて行ってくれよ。お幸せにな」
真理は無感情にそう言っただけだった。俺はその一言で頭に血が上ってしまった。
「なんで何にも言わねぇんだ、お前いつまでそんなロボットごっこしてんだよ!むかつくならむかつくって言えよ!!」
「五月蠅い。近所迷惑だ」
真理はそう言って俺を冷たい目で見据えた。俺はこんな時にまで平静な真理がゆるせなくてベランダへ入り、真理の足元にあった薔薇の鉢植えを持ち上げ床にたたきつけた。こうすれば真理が反論するなり感情を見せるなりすると思ったからだ。
しかし真理はそんな俺を鼻で笑っただけだった。俺は言葉を失った。そして頭が急速に冷めていくのを感じた。自分のしたことの最低さを思い知ったのだ。
「おまえも俺も腑抜けだよ」
「そうだな」
俺は背中で真理が俺の言葉に同意するのを聞いて、黙ってベランダから出た。引っ越しの準備なんて真理は言ったけれど、俺が彼の留守の間にそう言ったことをすべて終わらせていたのを知っていて言ったのだろう。どこまでも無関心無感情な男だった。俺は自分の部屋だった場所からまとめてあった荷物をつかんだ。そして合鍵をテーブルに置いて「じゃあな」と言って真理の部屋を出た。玄関は大きな音を立てて閉まった。
○
ひどい音がして玄関のドアが閉まった。僕はまた捨てられたのかもしれない、ぼんやりとそう感じた。けれど、いや僕が捨てたのだと思い直して自分の心の平安を保った。1秒ごとに、僕の中で総が価値を失くしていく。彼はじきに、僕の知らない人になるのだろう。
総のいうところのロボットである僕が、知らない人にできない、唯一の存在が母だったから。それ以外は、みんな泡のように、消えていく。そのことをさみしいと思う感受性も僕にはなかった。
母さんあなたは僕といて幸せだったのか。それとも、僕といるのが辛くて苦しくて憎いからあなたはどこかに消えていったのか。だからあなたは僕に手紙しか寄越さないのか、あの他人行儀な文字の羅列。そこに愛を見出すべきなのだろうか、それとも別の何かを見出すべきなのだろうか。愛を、憎しみを、あるいは無感情を見つけて僕はそれを喜んだり悲しんだりするべきなのにそう出来ない。そうすべきだ、と僕は何でも義務にしてしまう。人を愛することも、薔薇を育てることも、誰でもいい誰かとの恋愛も何もかもすべて。僕はあなたのようになりたいと思っているのにそう思えば思うほどあなたから遠ざかっていくのだった。あなたのように明るくて優しくて強くて、それでいて子どものような人間になりたいのに。僕は彼があなたに似ているから総と暮らしていたのに。僕はあなたに強烈に憧れ、それでいて激しく憎んでいる。あなたが僕を捨てたから。僕はあなたに捨てられたから。僕があなたにとっての一番でなかったから。僕が一番になれなかったから。それでも僕はあなたからの手紙を一通たりとも捨てることが出来ない。
僕は総の言ったとおりの腑抜けだった。もう21歳にもなってまだ母親に捨てられた自分の価値とその母親のことばかり考えている。
知らない人や物ばかりで作られた世界に一人だと母さんに捨てられたことばかりを思い出してしまうから。自分が独りぼっちなのだと嫌でも思い知らされてしまうから。でも総という同居人が、「喋る薔薇」がいれば、誰かが僕を見てくれていればこんな僕も価値や意味、理由を持つことが出来ると思ったから。だから総は僕にとって大切だった、価値があった。
『ひとを承認の道具にするのはやめなさい。あなた本当は僕を好きじゃないでしょう』
いつか昔の恋人にこう言われたことがあった。僕はもう彼のなまえも覚えていない。年齢さえも。おそらく彼のことも総と同じ風にしか好きになれなかったのだろう。もう当時のことは、すべて忘れた。強がりでなく、本当になんの記憶もないのだ。
僕には自分の感情と言うものが分からないので、それほど好きでなかったとしか言えない。僕はたくさんの言葉を知っているが、その言葉は勉学の場でしか生きない。誰かに自分の想いを伝えるための言葉を僕は持たない。だから恋人の後を追えないし、総の言葉に反論することも出来なかった。僕はまさしく総の言うように腑抜けた人間だった。ロボットだった。
僕は新しい煙草に火をつけ、そして足元に崩れた薔薇たちを見た。
「おまえたちは僕と同じだな」
僕は煙を吐きながらそう言った。美しかったはずの薔薇は土を被り、今朝見たのとは全く違うもののように思われた。
「おまえらが醜いのは、捨てられたからだよ」
僕はそう言って薔薇を踏みつけた。この薔薇も、それを踏みつけた自分自身もひどく醜悪なもののように思えた。もう僕はこの薔薇を捨ててしまえるだろう。母が僕にそうしたように。
「生まれてきたくなんて、なかった」
そう口にして、初めて僕は今までに感じたことのないような深い絶望の中で、煙草の火を使い、薔薇の花びらを燃やしていた。じゅわと燃えていく薔薇の花びらが黒くなってゆくのを見た。それはまぎれもなく死体だった。
なるたけかわいそうな死に方をして、母さんを僕のためだけに泣かせたい。
ふとそんな考えが頭をよぎり、僕はマンションの7階のベランダ——今自分がいる場所から、飛び降りることを決意し、煙草と薔薇を投げ捨て、転落防止柵を強く両手で握りしめた。
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