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◇09

 彼の話は唐突で、おぞましく、大変な秘密を知った際の感動などどうでも良くなる程に、私にとって胸の痛いものだった。  まず天井を眺めたチャールズは、三度ほど息を吸いこみ、軽く唸った後に、どこから話そうかと自嘲する。かさかさと音がしそうなほどに乾いた自嘲だった。 「なんてーか、あー……とりあえず最初から行くか。まずさ、俺にはねーちゃんがいてさ。これがまた俺もびっくりするくらい性格わりーの。陰気なオタク趣味の弟の事が嫌いだったんだろうなって今なら思うわ。でもさ、子供の頃なんて自分の家族の性格なんて客観視できねーじゃん。だから俺はあの女に『デブ』『不細工』『のろま』って罵られる度に、俺って醜くてデブでうすのろのオタクなんだなって思ってた」 「……幼少時のあなたは、今よりも太っていたのですか?」 「いや全然。俺身長も体重もガキの頃からあんま変わってないと思う」 「……肥満どころか痩せすぎじゃないですか。それでは『太っている』などという暴言は聞き流せたのでは?」 「俺鏡見るの嫌いだったし。写真撮るのも嫌いだったし。ついでに運動なんて死んでもしたくなかったし。顔だけは結構丸かったから、あんたはデブで愚図でのろまなオタクだってディスられたら、そりゃそうだよなって納得してた。まぁ、それは別にもうどうでもいいんだけど、だから不細工なデブだと思ってた俺は十四くらいの時に急に『あれ、俺ってもしかして割とイケメンなんじゃね?』って気が付いて、そっからがもうなんていうか、あー……壮絶に駄目だった」  つまりチャールズは己の見た目がそれなりに異性に受ける、と気が付いてから、お手本のような伊達男人生に足を踏み入れてしまったらしい。  思春期までコンプレックスだと感じていた容姿が思い違いであったとわかれば、確かに、人生が変わってしまうだろう。特に何事もやんちゃにやらかしがちな十代の半ばとあれば、足の踏み外し方も尋常ではなかったのではないかと想像できる。  私の主人であるラティーフも、物心ついた頃には精悍な顔つきだと持て囃される人ではあった。しかし彼は子供ながらに己の外見をきちんと把握し、世界との付き合い方を理解していたように思う。幼少時、ラティーフの事を不細工だと罵る人間はいなかったからだ。ラティーフは誰から見ても素直に美丈夫で、そして本人もそう言われて素直に受け入れて生きてきた筈だ。  環境の違いも大きいだろう。我々の住むアブダビはイスラム圏だ。いまだに自由恋愛とは言い難く、街中で男女が声を掛け合うこともほとんどない。欧州ではそれなりに若い男女が物陰で行為に及んでいる……というのは些か行き過ぎたイメージではあるだろうが、少なくともUAEよりは開放的な思春期を過ごせることだろう。  奔放な恋愛人生に足を踏み入れたチャールズの生活は、本人が『壮絶に駄目』と表現する通り荒れ果てたものだったらしい。この辺は言葉を濁して割愛された。  私もあまり深くは聞きたくない話だ。嫉妬を言うものを思い出した私は、ほんの少しでも濁った感情の尻尾を掴むと、つないだ右手をこれ見よがしに握りしめてしまいそうになる。そうすべきではないという理性はあったので、無駄な言葉は挟まずにチャールズの言葉にただ頷く役割に徹した。 「よく病気にならなかったよなーって感じの五年間だった。学校なんてほとんど行かなくても成績だけは良かったからさ、寝るか食うか女の子と遊ぶかあとはパソコン弄ってるか、みたいな青春。たぶん屑だったし……いや屑だわ、うん。屑だった。三人くらいと一気に付き合ってた事あるし、なんなら付き合ってないけどやることだけやる子とかもいたし。……そんである日、飽きたしちょっとうざいからもういっかーって振った女子から恨みの反撃喰らって男四人にかっさらわれてレイプされた」  チャールズの声は相変わらずひどく乾いていて、淡々と並べられる英単語はまるで温度のない軽い石のようだ。とん、とん、と床に置かれるような石のような単語。本来はとても重い言葉だろうに、あえて軽く並べられる言葉には感情が無く、それが彼の自衛なのだろうと思い当たると私の手にはおのずと力が入った。  誰が悪いか、という結論は、チャールズの中ではもう出てしまっているのだ。自分が悪い。そう思っているに違いない。確かに、チャールズの他人に対する扱いの軽さが全てを招いたと言われればそうなのだろうが。……だからと言って、彼の受けた辱めを罰などという言葉に置き換えたくはない。 「レイプつっても、なんてーか……リンチって感じよりはホント弄ばれて喘がされて辱められたって感じ。痛くはなかったよ。そういうとこほんとに丁寧で殺したくなったし死にたくなったし殺してほしかったしなんなら殴ってくれた方がマシだった。怖い方がマシだった。たぶん最初に薬ぶっこまれたんだと思うけどわけわかんなくて目の前ぐるぐるしてて気持ち悪いのに身体ずっとおかしくてさ。オンナノコってこんなしんどいの嘘でしょ男なんて気持ちよく出すだけなのに嘘でしょってずっとごめんなさいって思ってた。謝ったところで誰もやめてくんなかったしマジで一晩ずっとやられてたけど。そっから暫く、大体のものが駄目になった」  まず、背の高い男を見たら吐くようになった。赤毛の女性も駄目だった。薄暗い部屋のブラックライトも駄目で、ブルーのシーツの記憶のせいで青いものも駄目になった。そのうちに人に会うのも駄目になって気がついたら外に出れなくなっていた、とチャールズは言う。  とても簡単に言葉にする。簡単ではない筈なのに。喉から吐き出す音に今にも吐きそうな顔をしながら、チャールズは淡々と言葉を並べる。 「まーでもさ、十九? くらいの時の事だから、あー……四年前か。うん。四年でとりあえず、人間と喋れるくらいには回復したから時間ってスゲーよ。俺はボランティアに精を出して人格修復したわけでもないし、教会に通って懺悔しまくったわけでもないし、リトル・ヒューストンに引きこもってただけだから。ノルとか、オフェリアとか、チリとか、グレッグとか、ヘクセンハウスの奴らとどうでもいい事喋ってるうちに、ボディタッチくらいなら吐かなくなった。でも、まだ、リトル・ヒューストンの外には出れない」 「……そこには、ノルも、オフェリアも、チリも、グレッグも、ヘクセンハウスの方々も居ないから?」 「…………そう、かな。そうかも。外には俺の味方は誰もいないから。味方だなんて勝手に言うのもおこがましいけどな。外は怖い。人間が怖いし、人間の視線が怖い。俺が誰かに認識されんのは怖い。……チリなんかが特に怒るからあんま言わないけど、俺はいつも思ってるよ。俺なんか、世界に存在しなきゃいいのにって」  ああ、と私は静かにこみ上げる感情を飲み込む。カフェで無邪気に笑う彼女の声が、確かに耳に蘇った。  ――わたしもずっと、わたしたちはずっと、チャックにさ、俺なんていつ死んでもいいじゃんなんて言ってほしくないって思ってるよ。  なるほど、確かに、チリの言う通りだ。私は。……私も、彼に、世界に存在しなければなどと言っていただきたくはない。彼の足を掴み世界の外側から引きずり降ろし抱きしめたい感情を抑え込みつつ、ただ繋いだ手を離さぬように握った。 「あー。以上俺のえぐくて最低な昔の話。んで、俺がリトル・ヒューストンから出れない理由。わりとどうしようもないだろ? ほら、だからさぁ……俺じゃない方が良いと思うよ。アンタどうせモテんだから。チリとかも、結構気に入ってるみたいだし、アンタのこと」 「貴方は今の話を私に聞かせる事により、私の感情を無に出来るとお思いですか?」 「……だって俺結構アレな人じゃね? 節操ナシで馬鹿みたいに遊んだツケで強姦されてそれが理由で人間怖くて外出れないとかさぁ……めちゃくちゃ面倒な奴じゃん」 「面倒な人間には慣れていると自負しておりますが、貴方は私の手を煩わせるような難解な人ではないですよ。むしろ素直でわかりやすく真面目でその上頭も良い。友人との関係も良好ですから対人スキルも恐らく私より相当上だ。何と言っても私はデリカシーがないですからね。正直少々口が悪い事以外の欠点が思い浮かびません」 「………………アンタもしかして盲目になるタイプ……?」 「充分理性的ですよ、と言いたいところですがそうかもしれませんね。私にとって貴方は魅力的すぎる。赤く麗しい色の髪も、白いうなじも、美しい鼻筋も、淡い色の青い瞳も、少し姿勢の悪い猫背も、全て好ましいです。考え事をすると少し口が開くところなど正直言って最高です。実は今朝うっかり見惚れてミルクティーを零して火傷をする手前でした」 「待って。待て、あの、ほんと待てなんだこれ、ちょっと」  待ってと言いながらチャールズは少し体を引こうとするので、私はそれを許さず彼を引き寄せる。バランスを崩したチャールズの身体を抱きとめると、思いの外近くに寄った彼の頬の赤さに気が付いた。  相変わらず停電は復旧しておらず、外はとんでもない嵐だ。時折雷の閃光が部屋を満たすが、私は今それどころではない。 「いや……俺は、その、だから……俺なんか面倒くさいダメな奴だからやめとけって、そういう話をしていたわけでなんだこれなんで口説かれてんだ落ち着けマジで落ち着い、ちょ」 「今気が付きましたが照れると割合すぐに赤くなる人ですかね?」 「デリカシーまじでねえな!?」 「大いに自覚しております。いっそ私はデリカシーの無さを許容してくださる心の広い方か、同じくデリカシーの無い方とお付き合いすべきだと思っています。前者はラティーフとノルですね。あのお二人はとても心が広い。広すぎて正直意味がわかりません。確実に別のタイプの人間です。オフェリアとグレッグもおそらくは前者でしょう。チリは後者ですね。彼女の発言はいっそ清々しい。私は好きですよ、エドガワワード」 「じゃあチリでいいじゃん。なんで俺なの」 「わかりません」  きっぱりと言い切る。  確実に眉を寄せたチャールズは、私の腕の中で『は』と『え』の中間くらいの口の開け方をした。怪訝そうな顔をするとおそらく一般的には怖いと表現されそうな彼ではあるが、生憎と私の目は濁り切った感情を大いに反映しているので可愛らしいとしか思えない。なるほど、ノルが歩いているだけでもうっとりと見つめていたラティーフの謎が解けた気持ちだ。息をしているだけで愛おしいのだ。動いて喋っているだけでどうしても目を引く。注視してしまう。だから私は恋をしていると断言できるし、それが何故かと言われても明確な答えを提示できない。 「貴方がいい、と思った瞬間の事はご説明できますが、なぜ貴方なのかと問われると正直なんとも言い難いですね。思うに私はイギリスに乗り込む前にすっかり貴方に参っていたのだとは思いますよ。よくよく考えてみれば、私が自発的に海外に赴いたのは人生で初めての事です」 「え。嘘だろ。まじで? ……俺に文句言いに来たのが、自発的海外旅行初体験の動機? 馬鹿じゃないの? つか馬鹿じゃんなんだそれ」 「馬鹿ですね。馬鹿で結構ですし馬鹿だと思います確かに馬鹿です。私は馬鹿だ。プラスチックのように冷たくもなく、熱くもない、つまらない馬鹿です。けれど貴方にはぜひこの先も生きていてほしい。この際貴方が生きる場所が世界の内側だろうが外側だろうがどうでもいいです。生きていればいい。笑っていただけたらそれでいい。貴方が望むのならば私は出来うる限り貴方に尽くしたい。私は、貴方に傅きたいのです。私では、貴方の従者にはなり得ませんか?」 「……情報量多いよ馬鹿ちょっと、待って」 「待ちます。存分に待ちますので、少しよろしいですか?」 「何――、う、わ!?」  チャールズの腰に腕を回し、彼を膝の上に乗せる。またがるように尻を乗せた青年に見下ろされた私は、彼の腰に手を回す。とっさに逃げようとしたチャールズはバランスを崩して結局私に寄りかかった。彼がひ弱な引きこもりで良かったと心底思う。チャールズがもし健康的なマッスルだったならば、ほとんど身長の変わらない私は易々と引きはがされていたことだろう。 「なに、す……っ」 「実は薄々気が付いていたのですが、私はどうやら貴方に見下ろされると大変興奮するようです。……いまの顔も良いですね。貴方は眉を寄せた表情がとても艶やかだ」 「あんたドMなのかドSなのかどっちかにしてくれよ頼むから……つか、カミナリもう怖くねーのかよ怖くねーならリビング戻って寝ろマジで……」 「怖いです。大変怖いです。怖いので一緒に居てください、チャールズ。ああ、そういえばゲームの最中でしたね。ええと……次は貴方の番?」 「この状態でそんなんできるかよ馬鹿」 「私は構いませんが……では棄権とみなして私の不戦勝としてしまいますよ?」 「……もうなんでもいいよほんと……何なのアンタ……」 「アブダビ在住の恋するプラスチック男ですよ。ただし今だけは王様です。不戦勝の王様ですが……チャールズ、キスは嫌ですか?」 「――王様だったらもっと我儘に命令しろっつの」  馬鹿、とまた言われた気がしたが、すぐにチャールズの舌に唇を舐められて言葉は全て耳を通り過ぎるだけの音となった。  キスが初めてだとは言わない。当たり前のように、膝の上の青年も初めてのキスであるわけがない。  けれど私はこれほど愛おしく甘く余韻を残すキスの経験はなかったと思う。 「………、ふ……っ……、イーハ……あんた、ホントモテるだろ……」 「…………どうして?」 「キスうまい……ん、ちょ、やだばかやめ……こし抜ける、から、」 「キスだけで?」 「……四年間ほぼ禁欲生活だったんだよ善処しろ……」  何度も罵るわりに、下唇を舐めれば大人しく口を開けて舌を絡めてくるので私は、己の理性の端をひっかりとつなぎ止めただ彼に甘い余韻だけが残るようにと思った。  私は彼を嬲った男達と彼を恨んだ女達と、どう違うのだろうか。分類すれば欲情している、恋慕しているという意味では同じものなのかもしれないが。  私は貴方を傷つけない。  私は貴方を憎まない。  それだけは確かな誓いとして、口づけの合間におぼろげに言葉にして零して彼を抱きしめた。

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