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◆12
ぼんやりと視界に映った天井は見慣れた白さで、あー俺アレだな倒れたんだな、めっちゃ喉痛いしなんか指先すーすーするし身体に力入らないしそんでリトル・ヒューストンまでお荷物よろしく運送されたんだな、と割合すぐに理解したものの、俺のベッドの横に座って雑誌を広げている男の横側を眺めてつい、反射でメンチ切ったみたいな怪訝全開の声を上げてしまった。
俺の声に気が付いた男が顔を上げ、こっちを見て珍しくふっと笑う。
グレゴリー・マッコートこと通称グレッグは、存分に気安い雰囲気で俺の毛布をポンポン叩いた。
「……おはよう、チャック。その顔はアレだろう。此処に座ってお前の看病してる奴が俺でびっくりした顔だ」
「……うるせーよそうだよだって珍しいだろ大体俺の部屋に居るのはノル……あー、旦那の相手で忙しいのか? え、つか今何時? もしかしてイー……ラティーフ帰った?」
「まだいるよ。今はチリが倒れた日の夜の十時。アブダビの客人は、今日はリトル・ヒューストンに泊まって明日帰る予定だってさ」
「え、異性と同じ家に泊まって大丈夫なのかよムスリム」
「フーはチリと一緒に病院に泊まるっていうから置いてきたんだ。だから今リトル・ヒューストンは野郎しかいない。多分ラティーフに気を使ったんだろうが、チリもたまにはフーに思い切り説教されるのもいいかなと思う」
グレッグはオフェリアの事を愛称でフーと呼ぶ事がある。俺とノルが同世代で仲が良いのと同じように、年長組の二人は妙につるんでいる事が多い。
オフェリアは同性愛者だから、二人の関係は恋とか愛とかでもないんだろう。微妙に不思議な関係だとは思うが、そんな事言ったら俺とチリだって恋とか愛とか関係なく最強の友人関係を築いているって断言できるし、まあ、誰が誰と友情育んでいてもどうでもいい事だった。揉めなきゃどうでもいいし、罵り合う訳じゃないならそれでいい。
ていうか俺は俺でそれどころじゃない。
明日帰るというアイルランド人の顔が思いっきり頭に過ってそれどころじゃない。
なんつった? 今二十二時? 今日もうあと二時間で終わるの? 俺一体何時間気を失ってたの? てか明日帰るって事はもうアレじゃん帰国時間カウントダウン始まってるじゃんマジかよ嘘だろって慌ててるのは顔に出てなかった筈なのに、グレッグはにやにやと俺を見下ろす。
「……なんだよきもちわりーな」
「いや。……チャックが誰かに懐くなんて珍しいからさ」
うるせー俺だってそう思うわ。ていうか個人的には懐いているなんて実感はない。なんていうか、煽りながらネットゲームしてた時の名残のまま、言いたい事言いまくって煽りあってるみたいな感じだ。でもそれってつまりは気を許しているって事になるんだろうし、何よりアレな事に、俺はアイツに甘やかされるのが結構好きだなんて頭の痛い事実に気が付いていた。
「俺が居ない数日の間に何があったのかわからないけど、いつの間にか仲良くなっててびっくりした。お前そんなガード薄かったっけ? なんか、誰に対しても三か月は本心なんて死んでも零さないって感じだった気がするけど」
「お前の中の俺どんだけコミュ障……あーいや……まあ、そうだわな。人間こえーし人間嫌いだしなんなら俺よりでかい男とか最高に嫌い」
「あの人お前より背高くないか?」
「三センチくらい。わかんない。俺の姿勢が悪いから五センチくらい上に見えるけどあんま変わんないのかもしんないけど俺の方が低い。腹立つし怖いしムカつくしデカいし男だし最低だよ」
「でも、あの人がいいんだろ?」
なんだその聞き方痒いからやめてくれ。
ゆっくり体を起こした俺はうっすらとした頭痛に耐えながら、思いっきりグレッグを睨んでやったってのに、むさ苦しいロック男はオフェリアみたいな慈愛に満ちた目で微笑ましく見つめ返してくる。くそ。一緒に居ると似るってのは多分本当だ。俺はノルと喋ってるとどんどん煩くなるし、チリと居るとどんどん声が高くなる、気がする。絶対にオフェリアとグレッグに感化されたくない。優しい俺なんか気持ち悪くて笑えもしないし。
最高に優しい顔しややがったグレッグは、偉そうに俺の頭をポンポン叩くと、今日はありがとうと呟く。
「……なんだそれ。俺何かしたっけ?」
「しただろ、今日の功労者は間違いなくお前だよチャック。チリの為に走ってくれてありがとう。みんな感謝してる」
「今日どうしたんだよそんなペラペラしゃべるキャラだったか?」
「チャックは照れた時床を見るってフーが言ってたけど、アレ本当だったんだな」
「うるせー出てけロッキン野郎俺の部屋がむさ苦しくなる」
可愛くない罵倒と浴びせても、慈愛満点のグレッグは怒らない事を知っている。完全に生意気な弟扱いされている。まあでもいつも大体こんな感じだから、俺もグレッグもお互い嫌な気持ちになる事もない。
素直に席を立ったグレッグは『ゆっくり休め』と言って部屋を出て行った。
まだ、指先がむず痒い。
俺はあんまり誰かの為に何かをするなんて事はなくて、だから面と向かって感謝されるような事も少ない。ありがとうなんて言葉、久しぶりに浴びせられた。別に、感謝されようと思ってやったわけじゃない。俺は俺の為に、チリが死んだら絶対に困る俺の為にただ無心で世界に立っていただけだ。
感覚が怪しい指先をぎゅっと握って開く。皮膚が冷たいし色も笑えるくらいに白い。絶対に俺は寝るべきなのに、つい時計を見てしまってなんとも言い難い焦燥にかられた。
二十二時半。今日が終わるまであと一時間半。
明日になったら、アブダビの住人は帰国する、らしい。朝一か昼か夜かくらい聞いとけばよかった。何時間のフライトで着くんだっけ。どんだけ離れてるんだっけ。時差はすっかり覚えたけど、距離なんて興味もなかったから知らない。
とりあえず携帯を探しているタイミングで、俺の部屋のドアが軽やかにノックされた。
トントントン、と小刻みに音が零れる。
ノルもグレッグも、もっと馬鹿みたいに力入れて叩く。ドア壊れるからやめろ馬鹿力野郎と注意しても気にせずドンドン叩く。仕事中の俺は音楽流しっぱなしだったり集中しすぎていて周りの音が聞こえないから、そのせいではあるんだけど。
こんな軽快なノックをする人間は、たぶん一人だけだ。
開いてるけどと声をかけると、シャツとスラックスに身を包んだアイルランド人がそっとドアの隙間から滑り込んできた。
昼間ではダサいティーシャツとダサいチノパンだったのに、髪の毛までしっかりと撫でつけた男はすっかり大富豪の秘書だ。夜中に雷が怖いとか言って抱き着いてきた三十三歳とは思えない。
「……何、もう仕事モードなの?」
「仕事モード? ああ、私の格好ですか? いえこれは、午後にチケットの手配で外出しましたのでその時に着替えたままです。私は別に、どんな格好でもかまわないと思っておりますが、一応ラティーフに関わる用事は仕事扱いで身なりにも気を遣うようにと心がけておりますので。……あと大変心外ですがノルとラティーフが『そのティーシャツは流石に似合わない』と連呼するものですから」
「ノルに言われるとか相当だろ……あいつ他人が何着てても全然気にしない筈じゃん。星と宇宙の話できれば相手が原始人でも素っ裸でも全身タイツでも気にしないのがノルなんじゃねーの……?」
「私もそう思っていたのですがどうやら彼は私の事を『話を聞いてくれる人類』という括りではなく単純に友人だと認識してくださっているようですね。ありがたいことです。……昼間の私の格好はそんなにひどいものでしたか? 休日のラティーフと似たようなものだと思っておりましたが」
だらだらと言葉を重ねながらイーハはさっきまでグレッグが座っていた椅子にスッと腰を下ろす。パリッとした服を着ていると、なんだか不思議だ。最近はだらっとしたダサい服と洗いざらしの髪型だったから。
「あー……旦那なぁ。旦那はなんつーか、ズルいよな。ラフなダサいシャツとかでも、嫌味なくハンサムに見えるもんな。別にアンタが格好悪く見えるってわけじゃないと思うけどたぶんその恰好が一番似合うんじゃね?」
「貴方も、この格好の私が好ましい?」
「……いや俺は別に。パリッとしてるのは、まあ、あー……格好良い、と、思わなくも、ないけどだらっとしてるダサい服もまあ……つか、外見は、別に、わりとどうでも……」
「チャールズ」
「え、はい。何……」
「少し寝たら随分と顔色が戻りましたね。どこか違和感があるところはありませんか? 医師の診断は軽い貧血とのことでしたので、しばらく休ませてからリトル・ヒューストンに運搬してしまいましたが」
「ああ、うん……まあ、普通……。くらくらしなくもないけど、大体こんなもんだろ倒れた後なんて、って感じ。特別しんどいとか息ができないとか苦しいとか痛いとか、そう言う事はないけど」
「そうですか。それは良かったです。では――」
キスをしてもよろしいですか。
と、結構な至近距離で大真面目に言われて俺は、どんな顔したら良かったんだろうマジで。
思わず息飲んじゃって、その後にぶわっと一気に熱くなって、心臓がぐっとした。こいついきなり何言っちゃってんのってちょっとしたパニックになりながらも、そう言えば倒れる前交わした会話をふわっと思い出す。
キスして、なんてねだったのは俺で、くそ真面目で判断を間違えないイーハは今は駄目だとお預け食らわせてきた。ほっぺにチューとか、冷静に思い出すと痒すぎる。
逃げ出したいような気持を、どうにか押さえつける。あと一時間半で今日が終わる。そしたら明日が来る。その意味をぐるぐると考える。
ほだされた訳じゃない。流された訳じゃない。そう言い訳をしてしまうと今度はじゃあ自分の意思で選んだって事になるし、それもどうなんだと思ってしまう。人間に触ると吐くレベルだった俺が、四年ぶりにキスした男がコレだなんて本当にどうなんだ。……考えれば考えるだけ動けなくなりそうで、俺は頭を振ってタイムリミットの事だけを考える事にした。
腹に力を入れる。息を吸う。それでも前は見れなくて、仕方なく両手を曖昧に開いた。
「……さっさとしろよ馬鹿。どろっどろに攻め立ててくれんだろ?」
「私はそこまでのテクニシャンではないと思ってはおりますが……キスは、お好きですか?」
「わかんない。前は、面倒くさいって思ってたかもしんない。女の子はキスねだってくるけどさ、こっちとしてはそんなんいいからさっさと突っ込んで気持ちよくなりたいわけじゃん……でも、アンタのキスは、あー……好き、かな。なんかいろんなことどうでもよくなる」
「思考能力を奪う事は果たして良い事なのかどうか若干疑問ではありますが、私は今素直に浮かれております。貴方の言葉は私の思考能力を奪いどろどろに溶かしてきますね。悪くない心地です。チャールズ、口を開いて。……その顔は大変よろしくないですね。私の理性がぶちのめされてしまいそうです」
「おねだりされてバードキスぶちかます理性の主が何言ってんだ…………、ん……ふ…………っぁ、……それ、すき……」
「……どれ? …………ああ、下唇?」
「ん……ぞくぞくする、し、きもちいい…………、……」
もっとして、と背中に回した指先で肩甲骨の間をひっかく。ちょっとだけびくっと身体を揺らした男は、ふ、と息を吐いてから俺の腰に手を回して引き寄せて何度も飽きることなく俺の舌を嬲って甘やかして貪った。
口ん中が溶けそう。段々どっちの唾液かわかんなくなってきて、そのうちホントに溶けて混ざっちゃいそうだった。混ざっちゃえばいいのにと思う。そしたら明日、玄関先でコイツを送り出さなくていいのに。
帰んないでなんて言う度胸もないし、なんなら顔見てからまだ一週間も経ってないのにアホかよと思う理性は残っていたし、離れたら離れたで落ち着いたりどうでもよくなったりすんのかもしんないと思わなくもない。
浮かれてるだけだ。あとたぶんパニックになってるだけだ。
そう言い聞かせて言葉を全部飲み込んで、代わりに何度も馬鹿みたいにキスをねだった。
お互いの体温が同じくらいに熱くなる頃、名残惜しく身体を引いたイーハは俺の額に自分の額をくっつけて息を吐いた。
深くて、重いような、なんかいろんな感情が溶けてそうな息だった。
「……会いに来ます。私が勤める会社はかなりホワイトですが、流石に週末ごとに飛行機に乗り込む体力があるかどうかは、保証しかねますが」
「いや無茶すんな死んだらどうすんだ……別に、ネットもあるし、時差だってたった五時間だろ。地球の裏側に居る訳でもないし」
「私が貴方に会いに来たら、迷惑ですか?」
「……迷惑だって言われたら飛行機に乗らねーの?」
「いいえ、乗ります。顔を見ると吐く、と言われたのならば自重するかもしれませんが、貴方が私にキスを許していただける限り私はリトル・ヒューストンの扉を存分に叩きます」
「ほら、そういうさ、俺の話なんて全然聞いてないじゃん」
「そんな事はありません。死なない程度に自重は致します。命が無くては元も子もありません。人生は健康であるからこそ謳歌できるものですね。ああ、そういえばチリから伝言がありますよ。貴方にぜひ伝えてほしいと」
「チリから?」
「はい。『お礼は退院してから死ぬほど言うけどとりあえずジョギングしよう』と仰っていました」
「……なんだそれ」
「なんでも、健康であることの素晴らしさを再認識したそうですよ。彼女は貴方と同じく割合ネガティブな方ですね。好きな事して死んだらいいと思っていた節があった、と告白しておりました。そしてその考えを改めた様子です。……人生楽しいのだから、リトル・ヒューストンは友愛で満ちているのだから、健康になろう。走って食べて寝て、健康になって、楽しくどうでもいい毎日を送ろう、と、チリが……チャールズ、ハンカチが必要ですか?」
「いい……泣いてない……」
「いや泣いていますよ。本当に貴方は、驚くほど愛おしい人だ」
ふと笑いを漏らしたらしいイーハは、ぐずぐずと鼻をすする俺を気にせず抱きしめる。
とりあえずジョギングしよう。そんなジョークみたいな言葉に感動する日が来るなんて思ってもみなかったし、なんかいろんな感情ごった煮すぎて何て言ったらいいかわからなくなった。
死ななくてよかった、と思う。
チリが、死ななくて良かった。生きていて良かった、って言ってくれて良かった。死んだ方が楽だったのになんて言われたら、俺は絶対に立ち直れないと思うから。だから俺は自分の弱すぎる言葉を顧みて、結構マジで反省した。
俺なんて死ねばいいのになんて言葉、チリは、オフェリアは、ノルは、グレッグは、どんな顔して聞いてたんだろうか。自己嫌悪で叫び出したくなるから一旦考えるのをやめる。
人生わりと楽しい。死ぬのは勿体ない。単純にそう思えるからやっぱり俺は自虐ぶって人生蔑ろにすんのはやめようと思った。
ジョギングするかどうかは置いといて。……別に俺は、外に出れる身体に生まれ変わったわけじゃない。今日だって無理して歩き回って騒ぎまわって結局ぶっ倒れた。全然、何も、何一つ克服していない。同居人の命が関わればどうにか救急車を呼ぶくらいは出きる、とわかっただけだ。
運動が嫌だというのも本心だし、外を走るなんてバカかよと思う。素直にそれを口にすると、俺を抱きしめたままの男がポンポンと背中を叩いた。
俺の周りの男どもは、いつも俺の事を子ども扱いする。
「外の空気にアレルギーがあるわけではないのでしょう。人間が駄目だというのならば、深夜に出歩いてみては? あとはそうですね、恐らく貴方はリトル・ヒューストンの面々に囲まれていれば息が出来る筈です。貴方方は私とラティーフが羨む程の親友だ」
「……真夜中に、チリとオフェリアに挟まれて走れって? マジで? 何その絵面、完全にギャグだろ……ていうか俺絶対オフェリアに置いていかれる。運動なんてこの四年どころか、ガキんときからやってない」
「彼女は面倒見がいいですから、貴方とチリに合わせてゆっくりと走ってくれることでしょう。中々良い提案だと思いますがね、真夜中ジョギング。ご検討いただけたら幸いです。私も、貴方とチリにはぜひとも健康でいていただきたい。他人の健康状態などどうでも良い筈なのですが、どうしてでしょうね。お二人の食が細いと心配になりますし、少し転寝をしているだけでも息をしているかと窺ってしまいます」
「まあ……友達ってそういうもんだろ」
「……貴方に対しては、それだけではないのですが」
「わかってるよもう意識させんな馬鹿黙れ馬鹿」
「黙るのは結構ですがそう言えば私はこちらに同衾のお願いをしに来た事をすっかり忘れていて今思い出しましたので、あと少し口を開いていてもよろしいでしょうか」
唐突な『お願い』に、なんかしんみりしていた俺は一瞬で我に返って眉を寄せる。
「は? 同衾……え? だってあんたリビングで寝んじゃねーの?」
「リトル・ヒューストンの寝心地の良いソファーは我が主人に譲ってしまいました。ノルはラティーフを自室に連れ込もうと三十分程格闘しておりましたが、頭の固い神の下僕をそそのかす事は出来なかった様子ですね」
「いやだってこの数日あいつら同衾してたんじゃん……?」
「ホテルは全てツインをお取りしました。どう過ごしたかは私の知るところではありませんし、個人的には一つのベッドは手つかずでいてほしいとは思いますがお二人の関係に口を挟むつもりはございません。しかしながらそれは旅先での事。リトル・ヒューストンは友人達の家です。友人の家でもあるこの場所で、神に背きたくないと恋人の部屋に入る事をかたくなに拒んだ主人の悪口は慎みますが、よって私が寝床を奪われました」
「……ノル、まじ、どうやって付き合ってんの……?」
「私も甚だ疑問ですね。とんでもない理性と寛容があの方々の長所であり短所でもあると思いますよ。私は我慢が出来ずにすぐに動いてしまう。頑固になりたいとは言いませんが、少々見習うべきかとは思っております。勿論、病み上がりの貴方に不埒な事は一切しないとお約束――」
「いや、べつに、それは、お約束しなくても、いいけど……」
「……二人きりならばもう一度キスをしていました。危ないところでした」
「アンタも十分理性的じゃん」
オフェリアはコイツの事をアブダビの紳士って呼ぶ事がある。確かにジェントルだ。ちょっとわけわかんない事で突っ走ったりするけど、誰かに暴言を吐いたり、理不尽に怒ったりしないし。いつだってイーハの頭の片隅には理性が居座っている。
だから俺は、安心して身体を預けられる。こいつは嫌って言えばちゃんと聞いてくれる人だから。
「……俺だってさ、トモダチと一緒に住んでるところでなんかこう、アレな事したくないけど……でも、もっかいくらいキスしてもいいとは思う」
床を見ながら言葉を零す俺に、イーハは殊勝な声で『承知いたしました』と返した。
浮かれているだけかもしれない。パニックがまだ続いているだけかもしれない。冷静になったら全部忘れてしまう感情かもしれない。時差とか距離とかわりとあるし。仕事も歳も人種も生活環境も違う。
でもとりあえずそういうの全部忘れてキスしたいと思った。
人生は悪くない。俺には友達がいるし、仕事も結構楽しい。悪くない人生なんだから、俺なんか死んだらいいのにな、なんて落ち込む思考回路の見直しをしなきゃいけない。
我儘な王様に忠実なプラスチック野郎は、恭しく俺の顎に手を掛けると、馬鹿みたいに甘いキスをした。
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