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第1話
その森には大きな黒い獣が住んでいる。
黒は不吉な色。闇夜に紛れて死を撒き散らす、恐ろしい存在に相応しい色。しなやかな体躯は月の光を通さぬ漆黒。
重さを感じさせない動きで森を駆け抜ける姿は不吉な黒い影にしか見えない。
強靭な前足は獲物を捕らえて離さない。ずらりと並んだ牙は鋭く、一噛みで獲物の四肢をバラバラにしてしまう。
彼は狼。
森の頂点に立つ孤独な獣。
その夜は明るすぎた。
必死で逃げる仲間の俊足を追い立てる狼の群れは、疲れて足を鈍らせた者から順番に仕留めて行く。
無慈悲な死神の鎌が目の前で振るわれるのを止める手立ては無かった。
一瞬の隙をついて飛び込んだ茨の繁みのなかで、俺は震えながら仲間達が食われていくのを見ている事しかできない。震えながら、自分が食われる番を待つ事しかできない。
茂みの隙間から金色の大きな目が俺を見た。
足が竦んで動けない。恐怖で声も出せない内に俺は大きな前足に捕まっていた。
地面に押さえつけられて、息が苦しい。
あと少しでも強く押されたら潰れてしまう。
か弱い自分。小さな自分。
俺は自分を殺す相手を見つめることしか出来ないのだ。
「……お前……ちっせえなあ……!食ったら歯に挟まりそうだ」
黒い狼は俺を見下ろすと、そう言っていやらしく笑った。
俺は思わずムッとした。
小さいのは生まれつきだ。そっちが大きすぎるんだろうと思ったが、言えるわけもない。
プルプル震えながら睨んでいると、黒い狼はふっと笑った……ような気がした。
「お前も……真っ黒だな。そうだな……同じ色を持って生まれたよしみだ。狩りは上手くいったしこんなちっこいのを食べても腹の足しにもならないだろう。見逃してやるよ……さっさと行け!」
黒い狼は俺から前足を離すと、顎をしゃくり背後の道を示した。
なんで?
疑問が浮かんだが、気が変わって食べられるのも嫌だ。
恐る恐る足を踏み出すと、黒い狼は俺が見つからないようにさりげなく身体の向きを変えて狼達の視線から隠してくれた。
本気なのか?
吃驚しながらも、足はスピードを上げて死地から遠ざかる。
一刻も早く地獄から逃げ出したいという本能が、好奇心を上回った。
走って走って走り続けて、俺は漸く血の匂いの届かない場所まで来ることができた。
こうして……俺は黒い死神みたいな狼の気まぐれで九死に一生を得たのだった。
「おーい!寝坊助!早く出て来い!!」
ドカドカと後ろ足で木を蹴りながら叫ぶと「あーもう!うるさい!!何時だと思っているの!?」と頭上から顔を出した白い梟が文句を言った。
「朝だろ?いいから早く下りてこいよ!」
不機嫌な顔の梟を呼びつけると、「なんだかなー!」と言いながらもソイツは巣穴から出て地面に下りた。
バッサバッサとわざと羽音を立てる嫌がらせも忘れない。梟は羽音を立てない筈なのに。俺に対する嫌がらせだ。
現に俺は両足を踏ん張ってないと飛ばされそうになる。あと耳!耳が風に煽られてバタバタするのが気持ち悪いからヤメロ!
「はあ……!まったく君は……私は梟だよ?君達からしてみたらとても危険な森の生き物だって分かっている?」
「お前は森の女神の従者だろう。彼女は小さい生き物を愛でる性質だからネズミやリス。ウサギなんかを口にしたら機嫌を損ねるって分かっているのに俺を襲うワケないじゃん!ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
俺を羽でバタバタ扇ぐ性格の悪い梟。
福助という森の女神さまから名付けて貰ったと言うなんとも可愛らしい名前の彼は、俺の言葉にあからさまに面倒だなという顔をした。本当に失礼な鳥だ。
「君ってば……本当にうさぎにしておくのが勿体ないくらいの良い度胸をしているよね!狸か狐……狼に混じっても違和感なさそうだ。それで?聞きたい事って何?」
福助は、俺の態度を見てうんざりした顔をしたが話を聞いてくれるらしいのでホッとする。
よかった。
他に当てなどない俺なので、素直に感謝してあげよう。偉いぞ福助!
だが俺への過大な評価に、ちょっと苦笑してしまう。
「俺も前まではそう思っていたんだけど……そうでも無い事が判明したよ。無理!狼とかマジ無理!あんなの……怖すぎる。なにあれ……?戦力差が圧倒的過ぎるよ!!チートだよ。無双だよ?神も仏も居ないって心底思ったよ!!ってそれはもういいや。あのさ……福助は魚食専門だろう?どんな種類の魚が美味しいの?それ俺でも獲れる?」
俺はわざわざこんな森の奥深くまでやって来た用事を思い出して彼に聞いた。
草食動物である俺は、魚なんて食べたいとも思わない。種類の違いも味も分からない。
だがそれでは駄目なのだ。
「たしかに狼はこの森の獣の頂点だからね!翼を持たない君達からしたら圧倒的だろうさ!それにしてもなに?君……魚を獲りたいの?本気?」
当然のように疑問を持たれて俺は説明した。
先日俺が一応所属していたウサギの群れが狼の群れに襲われてほぼ全滅したこと。
何故か俺だけが見逃されたこと。
その俺を逃がしてくれたのが、この森で一番強いと噂される黒い狼だったことを。
「それでお礼に木の実を持って行ったら、こんなの食えるかって怒られた。肉寄越せって言われてもハイどうぞとか無理だろ?だから魚の獲り方を教わりに来たんだ」
「は?君……黒い狼に……会いに行ったの!?一度見逃されたのに?馬鹿なの?死ぬの?」
俺の魚獲りの動機を聞いて梟は思い切り馬鹿にした。
むう。
殆ど変わらない事を黒い狼にも言われていたが、コイツに言われると余計にムカつく。
馬鹿に馬鹿って言われるのは嫌なものなのだ。
「そうだよ!死ぬかと何度も思ったよ!正直ちびらなかった自分を褒めて上げたいよ!でもアイツ……俺を見てチビだから見逃してやるって言ったんだ!子ども扱いするなって文句を言いたかったんだよ。俺……もう成人してるのに。小さいのは……こういう個体だって女神さまもいってたじゃん!珍しい種族なだけじゃん!そう言ったら鼻で笑ったんだよ?って……まあもうそれはいい。とにかく俺はお礼をしたいの!大人だからちゃんと礼儀を尽くしたいの!だから魚の獲り方教えてよっ!」
俺はあの時の遣り取りを思い出してムカムカしながらも、福助に要求した。早くあの尊大な態度の黒い狼の鼻をあかしてやりたかった。
子供じゃないと言った俺を見て「へー」と、感情の籠らない声で呟いたあの金色の目の冷たさ。
せっかく見逃してやったのに、のこのこ現れるなんてお前は馬鹿かと呆れた顔をしたアイツをぎゃふんと言わせてやるのだ。
「……君はやっぱりちょっとおかしいよ黒耳。黒い狼はこの森で一番強い獣だよ?なんでそんな強気の対応が出来るのか……私には理解できないよ。君は森の女神さまのお気に入りだ。君が食われるのは、やっぱり彼女も悲しいだろうからあんまり無茶はしないでね?魚は君には無理だ。私が獲って来てあげよう。あんまり相手を挑発しないように、そのお礼参りとやらはそれで最後にしなよ?」
福助は心底呆れましたという顔をしたが、俺の為に魚を何匹か獲って来てくれるらしい。
それに素直にお礼を言うと、森の女神さまの愛情に感謝しろと言って飛び立った。
流石は森の女神さまの第一の従者。忠誠心が強い。
まあだから彼に相談したんだけどね!
福助が魚を獲りに川へ行っている間に俺は昨日の夜の事を思い出していた。
何日か前の満月の夜に、俺達を襲った狼の群れは小高い崖の上を根城にしている。
アイツは……黒い狼は、崖の先端で見張りをしていた。
群れの中で一番大きくて強いから、当然だ。
俺は熟れた木苺の枝を咥えたまま崖の下から彼に近づいた。
「……お前……?」
崖からひょこっと顔を出せば、すぐ目の前に黒い顔のドアップ!
危うく崖から転げ落ちそうになった。
「う……!うう」
バタバタと暴れる俺。
落ちなかったけど重い!!潰れるっ!!
転落する直前、俺を前足でヒョイっと崖の上に引き上げたまま抑え込んだ奴の顔に困惑が浮かんだ。
「なにしに来た」
低い唸り声。
ビビるな俺。怖くなんてないんだからなっ。
心では勇ましいことを言えるが、プルプルと震える俺はもう涙目だった。
だって狼だよ。無理だよ。
「……なあ……お前馬鹿なのか?せっかく逃がしてやったのに……なんで自分から狼の巣に来るんだよ?」
黒い狼は憐みの籠った目で俺を見ている。
金色の大きな目は、抑えつけた俺を見てギラリと光った。
怖い。逃げ出したい。助けて。
声にならない悲鳴を聞いたのか、奴は溜息を吐いた。
「そうか馬鹿なのか」と言われてカチンと来た。
俺は口に咥えていた木苺の枝をぺっと吐き出して「馬鹿じゃない!お礼に来たんだよっ!」と震えながら言った。
「は?お礼?お前が……俺に?」
黒い狼はぱちくりと瞬きをして俺を見た。
金色の二つの目が零れ落ちそうに見えて、俺は吃驚した。
だって……すごく間抜けな顔だったんだ。
「そう!お礼!俺が君にお礼をしに来たんだよ!だから離して!このままじゃ潰れちゃうからっ!」
俺が捲し立てると更に奴は驚いた顔をして、前足から力を抜いた。
俺は素早く体勢を立て直して、地面に落ちた木苺を相手に差し出した。
「……これはなんだ?」
黒いのは俺と差し出された木苺を交互に見て困惑した顔のままで訊いた。
「木苺を知らないの?甘酸っぱくてとっても美味しいんだよ!」
俺から渡された細い枝を見て、黒い狼はますます困惑している。
なんで?と顔に書いてある。
俺だって、あの時なんで?って思ったからお相子だ。
「……狼に礼を言ううさぎなんて……初めて見た。珍しいから……もう一回だけ見逃してやる。いいか?二度とここへ来るな。次来たら……お前を食うぞ!」
黒い狼はそう言って、「こんなもの貰っても、腹の足しになるわけがないだろう。肉寄越せ肉」と文句を言いつつ、木苺を咥えて背を向けた。
「ちょっと!俺は小さいから食べないって言ってたじゃん!嘘なの?ほら吹きなの?」
俺の声に黒い狼はぴたりと足を止めて振り返り、ギロリと睨んだ。
うわっ怖い!!
「……ああ?子供だと思って見逃してやったのに、良い度胸だなあ?いいか?お前はうさぎ。俺は狼だ。食料の分際で良い気になるな!いいからとっとと行け!他の狼に見つかったらお前なんてあっと言う間に食べられるぞ。いいな?二度と……来るな」
黒い狼は、噛んで含めるようにそう言うと「俺は子供じゃないよっ!」とピョンピョン跳ねて抗議する俺を馬鹿にしたように眺めて「へー」と鼻で笑って去って行った。
屈辱である。
馬鹿とか食料とか言いたい放題である。
おまけに成人しているのに子ども扱いされた!
ちょっと気にしているのに。
この姿は森の女神さまには、小さくて可愛いと大層評判がいいが……それとこれは別だ。
同じ雄として、負けたくないような気がする。
いやうさぎと狼では負け以前の問題だけど。
「おお~い!黒耳!魚獲れたよ~!!」
今度は音もなく飛んで来た梟が、俺の頭上からボトボトと魚を落とした。
「うわっ!なまぐさい!!これ……本当に美味しいの?」
「ちょっと!せっかく獲ってきてあげたのに失礼だな君は!!さっき森の女神さまの所に行って黒い狼の話を聞いてきたんだけど……多分アイツは君を食べたりはしないから安心するといいよ。ただし!他の狼には十分気をつけるんだよ?狼達は夜の王の眷属。普通の森の獣とは格が違うんだ。君のような森の女神の寵愛を受けたか弱き者をいたぶる事で、夜の王の歓心を買って強くなった者達だ。捕まったら最後……どんな目に遭うかは……君もよく知っているよね?森の女神さまは知恵と勇気を持った真っ黒なうさぎをとても心配していたよ。君が死んだら私の責任にされてしまうからとっても困るからね!ちゃんと生きて帰って来るんだよ!」
福助は、魚の匂いに顔を顰める俺の頭を羽でバシバシと叩いて心配そうな顔をした。
そんなに心配ならついてくればいいのに。
そう思ったが、それは無理だろうと気付いた。
森の女神さまの領域と、夜の王の領域の境目。あの崖が二つの世界の狭間にあることは皆が知っているのだ。
夜の王が選んだ番人が黒い狼。
彼は夜の王の領域を守る為にあそこにいる。
森の女神さまの従者である福助がそこに行く事は、夜の王のご機嫌を損ねることになる。
仕方がない。
俺は今夜も一人で黒い狼の許へお礼参りに行く事にした。
森を見下ろす小高い崖の上に、ぽつんと黒い影がある。
今夜も黒い狼は一人だ。
群れの中で一番大きくて一番強い黒い狼。
彼は……孤独な獣なのだ。
夜を支配する暗闇の王の眷属である狼達は、皆力も強くて知恵もある。
選ばれた彼らの中でも黒い毛皮を纏う彼は異質だ。
夜の力を持って生まれた狼。
黒い毛皮の狼は彼一人。故に彼は一人きりなのだ。強い雄が群れを率いるべきなのに強すぎる故に孤独なのだ。
母親から生まれた普通の狼と違い、夜の王の力が凝って狼の形を取った彼は異形。
狼でありながら、最も夜の王に近い存在。
仲間の狼達でさえ彼を恐れる。
生まれ落ちた瞬間から、彼は孤独に生きる定めなのだ。
「一人は……寂しい」
ポツリと俺は呟いた。
黒い狼はまだこちらに気づいていない。
頭上に掛かる月を睨んで……なにを思っているんだろうか。
魚を数匹ツルで縛った物を咥えて崖をよじ登っていると、上から声がした。
複数の話し声。
なにやら言い争うような……咎めるような声が聞こえる。
さっさと行け。次は俺の番だとかなんとか。黙っていてもいい雌を宛がわれるから羨ましい……?なんのこっちゃ。
こっそり伺うと、黒い狼は渋々という態度のまま大きな岩を軽々と飛び越えて岩穴の巣へ向かって行った。
残ったのは灰色の毛皮の狼二人か。
あの黒い奴と比べれば小さいが、こっちはうさぎ。体格差どうこうというレベルじゃない。
今夜は諦めよう。そうしよう。
素直に俺は今来た道……というか崖をそろりそろりと下り始めたが失敗した。
灰色の狼の前足になんなく捕まり、俺は崖の上にぽいっと放り出された。
「ああん?なんだこいつ……魚持ってなにしてる?行商か?」
灰色の狼は顔を見合わせ、俺が引き摺って来た魚を見て首を傾げた。
うさぎの行商人なんて聞いた事ないなと言っているが、俺も聞いた事ないから。
「……違う。黒いのに……あげようと思って持って来ただけ。明日また来るから……それあげる。じゃあ……そういう事で行ってもいい?」
ダラダラと冷や汗を流しつつダメ元で頼んでみる。緊張しすぎてカタコトになっちゃったけど笑って誤魔化す。根性!
すると灰色の狼は二人で顔を見合わせて笑った。
「あいつに魚をあげるとか!!マジ受ける!!」とゲラゲラ笑っている。
なんか良く分からないけど、機嫌がいいうちにさっさと退散しよう。
へらっと笑いながら機会をうかがっていると、灰色の狼は金色のあいつと同じ目で俺を見てニヤニヤと笑った。
嫌な予感に、身体がプルプルと震える。
今度こそちびる!
恐怖に声も出せない俺。
逃げ場のない俺を嘲笑い、灰色の狼達は俺の首筋に牙を押し当てて……酷いことをした。
「おい!チビ!黒チビ……黒マメ!!いい加減に目を覚ませ!!」
耳元で怒鳴らないで。
頭が痛い。割れる……あれ?割れてる?血が出てる?
「っ!目……そのまま開けてろ!あー……んだよあっちこっち血だらけじゃねえか!じっとしてろよ?」
金色の目が俺を見ていた。
さっきまでの色と違う。
心配そうな不安そうな色。
なんでそんな顔をしているの。どうして泣きそうなの。
「いたっ……!痛い……痛いよっ!やめて……やめてよぉ……!」
熱い舌がべろべろとキズを舐めた。
ズキズキと痛む場所をざらっとした舌で舐められるのは辛い。
泣きながら頼んでも、止めてくれない。
我慢しろ男だろと言われても泣いてしまう。
ぐずぐず泣いていると、ようやく舌が離れた。
そのままぽすっと俺は温かい毛皮に包まれて目をパチパチと瞬かせた。
目の前には黒い艶のある毛皮。
どうやら俺は黒い狼に捕まったらしい。
「……魚……取られちゃった……俺を食べるの?」
もう逃げられない。
足も痛いが、さっきまで雄の狼の性器を突きこまれた尻が痛くて身動きすら出来ないのだ。
疲れて身体に力が入らないので、俺を抱え込む大きな前足に頭を乗せてそう言うだけで精一杯だった。
「……来るなと言ったのに……お前の自業自得だ馬鹿うさぎ!俺は魚が食べたかった。お前は相変わらず小さすぎて食べ応えがなさそうだから……食わねえよ」
黒い狼はそう言って、俺の首筋をぺろぺろと舐めた。
痛みは大分マシになってきた。というか眠かった。
「そう……じゃあ眠ってもいい?疲れて……眠い……」
俺はもう目を開けているのも辛くてそう言った。
「ああ……寝ろ」
黒い狼はそう言って俺を抱き込んで顔を摺り寄せた。ぬくぬくとした温度に俺はふわりと笑って目を閉じた。
それから俺は黒い狼の傍で傷を癒すことになった。
帰ろうにも崖を下る事も出来ない。例え黒い狼が崖を下ろしてくれたとしても森まで帰れそうに無かったからだ。
昼間はアイツも岩穴の巣に戻らなくてはならないそうだ。
そりゃそうか。夜起きているんだから昼は寝ているんだろうな。
だからそいつは頑丈な爪で崖の端っこの岩をこじ開け、隙間に俺を押し込んで蓋をして隠した。
他の狼に見つかると、やっぱり食われるか酷い目に遭うらしい。だから俺は大人しくすると約束した。命は大切に!
岩の隙間は意外と居心地が良かった。傷が熱をもっているからひんやりとしていて気持ちが良いのだ。
昼間はうとうととしながら黒い狼の帰りを待つ。
夜になると戻って来た黒い狼は、その辺に生えてた草を適当に毟ったのをご飯だと言って寄越した。
もぐもぐ。
ちょっと枯れているけど、ないよりはましなそれを食べて俺は黒い狼に抱かれてうとうとする。
「……お前一日中寝てるな?傷は……まだ痛むか?」
黒いのは、俺を見ては顔を顰めてそんなことを言う。
痛いか。腹は減ったか。寝ててもいいぞ。
短い言葉だったが、以前と違って突き放すものではない。
だからつい口が滑った。
「……やっぱり寂しかったんだ?一人は……悲しいよね」
俺は言ってはいけないことを口にしてしまったらしい。
黒い狼は、身体中の毛をぶわっと逆立て歯を剥きだして俺を睨んだ。
今にも噛み殺されそうなその殺気に俺は気絶しないのが不思議なくらいに怯えて……ちょっとちびった。
「……お前……俺を何だと思っているんだ?」
黒い狼はそう言って、俺を崖の端に向かって蹴飛ばした。
多少の加減はされているかもだけど痛かった。
「何……って……狼?」
身体を起こして俺は目の前の黒くて大きな獣にそう言った。
疑問形なのは、なんか自信無くなったから。
まるで闇の中から抜け出してきたようなその姿。
夜の王の化身だと言われても納得できそうだ。マジで不吉。マジ怖い!!
「はっ!そうだ。俺は狼だ!お前は……?全身真っ黒な不吉なチビうさぎだ。食ってもまずそうなお前だから見逃してやった。魚にありつけなかったのは残念だが……もういい。二度とここへは来るな。夜の王の眷属が森の女神の寵愛を受けた黒いウサギを痛めつけるのは外聞が悪いから匿っただけだ。もう走って逃げられるだろう。間抜けなチビ黒助。あばよ!」
黒い狼は歯を剥きだしたままそう言って、俺を前足でトンとついた。
ぐらっと身体が揺れた。
落ちると思った所で、身体がふわっと宙に浮いた。
「もう!もうもうもう!!黒耳ったら……世話をかけないでよね!!」
俺は崖から転げ落ちた所を、福助に助けられて空を飛んでいた。
嘘!
助けに来てくれたの?
吃驚して福助を見ると、物凄い眉間の皺が見えて思わず俯いて……それが見えてしまった。
黒い狼はゆっくりと上昇していく俺達を黙って見ていた。
その口元に僅かな笑みが浮かんだのに気づいて俺は身体のバネを使ってくるりと反転。
白い梟の腹にケリを放った。
「うぐっ!?」
悲鳴と共に俺を掴む爪の力が緩んだ。
俺は更に腹をげしげしと蹴った。
「いたい!ちょっとヤメて!!落としちゃうよ!?」
暴れる俺に悲鳴を上げる梟。本当に痛そうで心が痛む。ごめん!本当にごめんなっ!
俺は心を鬼にして力一杯友人の柔らかな羽毛に包まれた腹を蹴り続けた。
「あっ!!」
梟の焦った声と共に、俺はぽろっと彼の爪の間から落ちた。
崖よりもさらに上。上空。
俺は真っ逆さまに落ちていった。
でも怖く無かった。
俺が落ちていく先に、黒い影が飛ぶように駆ける姿が見えたから。
ぽすん!!
間抜けな音を立てておれはフカフカした毛皮の上に落ちた。
着地成功。
俺はホッとして温かい毛皮の上でぐてっと伸びた。
暴れて少し疲れたのだ。
だがこの毛皮の主の息の方がずっと荒い。
黒い狼は俺を受け止める為に全力疾走で崖を駆け下りたのだ。
今度は何で?とは思わなかった。
俺は黒い狼の背中に乗っかったままぺしぺしとソイツの頭を殴った。
言いたい事があったのだ。
「俺は黒助じゃないよ!黒耳だよっ!」
大きな耳にそう言ってやった。
「……お前……馬鹿だろ?」
呆れた声に馬鹿って言うなと返した所に頭上から声が降って来た。
「この大馬鹿うさぎ!!人が心配してワザワザ助けに来て上げたのに!!もう知らないからねっ!!絶交だよ~っ!!ばーかばーかばーか!!」
バッサバッサとわざと音を立てて騒ぎ立てると白い梟は、滅茶苦茶怒りながら森へ帰って行った。
ああ……うん。
これは俺が悪い。どう考えても俺の責任だから絶交は受け入れてやろう。
数少ない……っていうか一人しかいない友人を失ってしまった。
しょんぼりしていると、背中から振り落とされた。痛っ!
「……おい。バカチビ黒助!お前……どういうつもりだ?」
俺を背中から落とした黒い奴は前足で俺を小突き回した。
やめろ。目が回る。
くるくると身体を回されてふらふらになった。
くそう。負けるか!
「違う!俺の名前は黒耳!!耳ついてんのっ!?」
俺はふらついてソイツの前足にしがみ付いて訂正するが、それが限界だった。
もう無理。気持ち悪い。
「あー!もう知らんぞ?何回も逃がしてやったのに、なんでお前は戻ってきちまうんだよ?なんで……俺から離れないんだよ?」
黒い狼は途方にくれた顔で俺を見た。
金色の目が月明りに輝いて綺麗だった。
他の狼よりもずっと強い。身体だって物凄く大きい。
なのにまるで小さな子供みたいな、そんな顔をする黒い獣を放っておけるわけがない。
「……俺は……俺と同じ色の君が俺と同じで一人切りなのが嫌だった。一人は寂しいよ。悲しいよ。夜の中で、君は迷子みたいだ。夜の王の眷属の癖に暗闇が君を一人ぼっちにする。俺は、小さくて弱いから夜の王の色を持っていても森の女神様の庇護下に居られる。あそこは力なき者には温かくて優しい所だ。さっき絶交されたけど友達も居た。でも……他のうさぎとは形も色も違うから、やっぱり俺は仲間外れだ。それが少し寂しい。君も同じだろ?こんなに大きくてこんなに強くて……優しいのに仲間外れだ。崖の端っこで君はいつも一人だ!そんなの寂しい。だから……俺が一緒に居るよ?嫌になったら食べればいいじゃん。それまで……一緒にいてもいいでしょ?」
俺は一生懸命に、自分がここに来た理由を話した。
今更森に帰れと言われても、尻尾に齧りついてでも嫌だというつもりで。
「……やっぱりお前は馬鹿だ。こんな……お前を酷い目に遭わせた俺の傍に居たい?嫌になったら食べればいい?黒豆くらいの大きさのお前を食って腹の足しになるか!くそう!この……チビ助が!いいか?お前が言ったんだからな。一緒に居たいってそっちが言い出したんだからな?今更嘘でしたじゃ済まさねーぞ。森の女神の従者を足蹴にしておいて、無事に済む訳もねーよな。仕方ないから置いてやる。だが他の狼には絶対に見つかるなよ?」
黒い狼はそう言って俺を咥えて走り出した。
俺は流石に今度はちびる訳にはいかなかったから、プルプル震えながら目を瞑って必死に耐えた。
それから俺達は一緒に暮らした。
崖の上で夜は二人で過ごして、昼の間は岩の隙間で俺は昼寝を。アイツは岩穴の巣に戻って眠る。
発情期になると狼達はそわそわして落ち着きが無くなる。
だから俺は殆ど岩の隙間から出られない。
大変だなあと思っていると、お前はなんで平気なんだと言うので困った。
だって発情期なんて俺達には無いし。っていうかいつでもどこでもOKな種族だし。
俺の答えにあいつは滅多に見せない馬鹿みたいな間抜け面を見せた。
「……ちょっと待て!じゃあ……お前……あの時も……?」
「あの時?どの時?」
俺の問いに急に口ごもる黒いの。
黒い狼は名前を頑なに教えてくれないので、俺はその時々で適当に呼んでいる。
一回「黒やん」と呼んで、前足で張った押されたからそれは止めた。「黒いの」はいいのになんでだろう?
「あの時だよ!お前が……その……あれ……あいつ等に散々ヤラレた時も実は平気だったとか言うんじゃねーだろうな?」
ああ!あの時ね。
「平気な訳ないじゃん!俺オスだよ?ケツにちんこ突っ込まれて大丈夫な訳あるか!!滅茶苦茶痛かったし、死ぬほど辛かったに決まっているだろ?馬鹿なの?俺の性別今更間違えてましたとか言わないでよ?」
呆れてそう言うと、何故か赤面する黒いの。
なんで?
「ケツ……とかちんことか平気な顔で言うなよ!!お前の性別なんて最初から知ってたわ!!そのちっさいのからションベン何回も垂らしてたの俺はちゃんと見てたからな!!」
「なっ!?この変態!!死ねっ!!今すぐ死んでわすれろぉー!!!」
ぎゃあぎゃあと騒いでいるが、ここまで来る奴は誰も居ない。
黒いのは群れと元々折り合いが悪かった。
強すぎるし大きすぎるしで、オスもメスもコイツを持て余しているらしい。
怖いから渋々従う。恐ろしいから嫌々交尾させてやる。そういう態度がつくづく嫌になったらしい。
そんなの面倒だ。俺でもそう思う。
だから黒いのは発情期が来ても巣穴には戻らなくなった。
でも相変わらず草を一杯詰め込んだ岩の隙間に俺を閉じ込めてどこかに行っている。
どこかに自分のメスを囲っているのだろうか。子供はもう出来たのだろうか。
そうしたら、俺はいよいよお払い箱だろうか。
そんな事を考えていたのに。なんだよ。うさぎは臆病なんだよ。ちびっても仕方ないじゃん。
狼が怖すぎるんだよ。
「くそ!そんな事が聞きたいんじゃねーよ。お前……いい加減据え膳食わせる気あるのか?」
とんでもない発言に、思わずちびりそうになった。
危ない。今のは本気でヤバかった。
「え!?もう飽きたの?もう食べるつもりなのっ!?」
プルプル震え出す俺を見て黒いのは物凄く大きなため息を吐いた。
えー!?マジ!?
「……据え膳は据え膳でも……違う意味の方だよっ!この馬鹿うさぎ!!」
黒いのは俺を前足でひょいっと引き寄せて、首筋に鼻先を擦り付けた。
「あっ……ああ……!!ああああああ!!そっち?え?そっち?そっちなの?」
安心と驚きで声が思いっきり裏返った。
黒いのは今度はオロオロしだした俺を見てニヤリと笑った。
肉食獣らしい……いやらしい笑い方だった。
結局俺は黒いのに食べられた。
サイズを考えろ。無理だと言っても後の祭りだ。
他の狼は平気で俺は駄目とかムカつくと言われてしまえば……仕方がないのか?
黒いのは、今日もせっせと俺の尻に自分の御立派すぎる一物をずぷりと突き刺して腰を振っている。
全部なんて入らないから、最初は先っぽだけ。
慣れて来たら……って慣れない筈なんだけど、真ん中くらいまでは何とか入るようになったのが相当嬉しいらしい。
押し潰さないように、物凄く神経を使って黒いのは俺と交尾をする。
項を何度も舐めては、荒い息を吐いて本当は噛みつきたいと唸り声をあげるから……正直やっている最中でも玉が縮みあがる。
そうするときゅっと中が締まるらしい。
黒いのは気持ちいいと、嬉しそうに教えてくれる。
うん。俺も気持ちいいから。
だから俺は黒いのと今日も交尾する。
そうやって黒いのと二人で暮らしている内に季節は移り変わり、時間は矢のように過ぎて行った。
黒いのは、仲間と狩りに行かなくなった。
昼間に川に行って魚を獲って食べていると本人から聞いた。
俺とこんなことをしているのに、俺の同族を殺すのが嫌なんだそうだ。
俺は別にそんなの気にしないのに。
無理すんなと黒いのは言う。少しでも怖がらせたくないのだそうだ。うん。俺愛されてる。
だから気づかなかった。
黒いのが元気が無くなっていくのがどうしてなのか。なんでそんなに悲しい顔で俺を見るのかが……俺には分からなかったんだ。
「……寒いか?」
目を開けると黒いのが顔を覗き込んでいた。
「ううん。平気。温かいよ?」
黒い毛皮はいつでも温かい。
前足に頭を乗せて俺は笑って黒いのの鼻先に鼻をくっつけて「好きだよ」と言った。
黒いのは、それに泣きそうな顔で俺もだと囁いた。
どうやら俺はもうすぐ死ぬらしい。
黒いのは俺がどんどん痩せていくので、心配になって俺を連れて森の女神さまの従者である福助を訪ねた。
そうそう。福助とは和解したよ。
俺が悪かったと詫びに行ったら、アイツはひっくり返った。
黒いのが俺を連れて行ったからだけど。ふふふ。
福助は俺を見て「寿命だよ」と悲しそうに言った。
俺はうさぎ。
福助は梟。
黒いのは狼。
それぞれに生きる時間がある。それはどんなに頑張っても越えられない壁なんだ。
寿命が来たら俺を食べていいよと、俺は言った。
一人で生きるのは寂しいけど、俺が君の血と肉になって生き続ける。だから大丈夫だよと言ったら……泣かれた。
物凄く大声で泣くから、もう言わないと約束をしたのだ。
死ぬまで一緒。
死んだ後まで一緒とか……言わされた。恥ずかしいなあもう。
黒いのは一日中俺の傍から離れなくなった。
それでも俺が目を覚ますのはほんの僅かな時間だけになっていた。
「黒助……寒くないか?」
「ううん……温かいよ」
黒耳。
黒耳……!
あいしている。
あいしている。
行くな!ここにいろ。どこへも行かないでくれよ。頼むから……頼むよなあ……目を開けてくれよ!
ああ。
声が聞こえる。
今になって何で俺の名前を普通に呼んでんの?
え?
恥ずかしかったの?
なにそれ。こっちが恥ずかしいよ。
黒いの。
なんで名前教えてくれなかったの?
名前が無い?誰もつけてくれなかったの……そうだったんだ。
早く言ってくれれば、俺がつけてあげたのに。
馬鹿だね。本当に……馬鹿な黒いの。君は……馬鹿だけど世界で一番カッコイイ狼だったよ。
吹雪が収まった夜だった。
崖の上に黒い獣が倒れていた。
小さな黒い毛玉を大切に抱え込んで微笑み息絶えた狼は、やせ衰えて骨と皮だけだったが漆黒の毛皮は美しいままだった。
黒いうさぎはぴょこぴょこ跳ねて、シロツメクサの若葉だけを選んで食べた。
贅沢三昧である。
ここは森の女神さまが管理する楽園。
あの世ともいう。
選ばれた森の生き物たちが住まうここには争いはない。
ぴょこんぴょこんと、黒いうさぎは嬉しそうに跳ねまわる。
自分の後ろからついてくる大きな黒いうさぎは、慣れない足取りでドスドスと必死な形相だ。
それが可笑しくて可愛くて笑顔になってしまうのだ。
「おい!黒豆!!ちょっと待て!!お前早すぎるんだよっ!」
黒い大うさぎは、小さなうさぎを捕まえられなくて地団駄を踏む。
早く捕まえて交尾をしたいのだ。
「うさぎは身軽さが身上だよ?そんなんじゃあ……いつまで経っても俺を捕まえられないよー?」
ぴょこぴょこと飛び跳ねる自分を、まるで射殺す目で見るがもうちびらない。
だって黒い狼は、自分と同じ黒いうさぎになったんだから。
なんでうさぎ?
聞いたら、黒いのはうさぎと同じものを食べたかったからと言った。
木苺を食べたけど全然美味しくなかったのが、悲しかったらしい。可愛い!!
それと動物を食べるのが嫌なんだって。
俺と同じうさぎになって、同じものを食べて同じように生きたいなんて泣かせるよね。
「それに……同じうさぎなら……全部入るだろっ?」
それだけは、聞きたくなかった。
なんでそれを言っちゃうんだと耳を塞ぎたくなったよ。
俺達は死んで、森の女神様と夜の王に召し上げられたらしい。
二人の神様は兄妹で、森の生き物たちを守護する偉い神様達だ。妹は弱い生き物達に勇気と知恵を。兄は強さと誇りを与える。
自分達の守護する生き物である俺達二人が心中したことに衝撃を受けたらしい。
心中って……!まさか自分が死んでそのまま黒いのが餓死したと聞いた俺の方が衝撃を受けたんだけどね。
とにかく二人は、このままじゃ余りにも可哀想だと俺達二人をこの楽園に連れて来てくれたんだ。
俺はそのまんまうさぎで来たのに、黒いのは何故かうさぎになっていたから吃驚したな。
聞けば、黒いのは出来ればうさぎになりたいと言ったそうだ。
俺はなんも聞いてないんだけど?
森の女神様は、俺の姿が可愛くて大好きなので敢えてそのままにしたと告白した。
それも聞きたくなかったなあ。
「こら!黒豆!!チビ助!!逃げるなっ!!」
背後から怒声が響く。
「やだよ~!!せっかく動けるのにじっとしてるなんて勿体ないよ!!死ぬ前は殆ど寝てたし久し振りに地面を走り回るのが楽しいから……どーしてもやりたいなら俺を捕まえられるようにもっと走りなよ!!」
俺は笑いながら黒いのを引き離すべくスピードを上げた。
「あっ!!くそう!!捕まえたら覚えておけよ!!突っ込んだら二度と離してやらないからな!!!」
とんでもない事を喚く黒い大うさぎ。
やれやれ。
相変わらず頭が悪い事を言うなあ。
俺は嬉しくなって、声を張り上げた。
「いいよ!!捕まったら……君の傍を今度こそ離れないと誓ってあげる!!だから……早く捕まえてよ?」
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