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鼓動の旋律

 ──ドクン。ドクン。ドクン。  びょうびょうと髪を吹き乱すビル風を伴奏に、俺の鼓動の旋律が刻まれる。腹ばいになった視線の先には、六百メートルをカバーする照準スコープ。腕の中には、物心ついてから十六年間使い慣れた、SPR Mk12。  ターゲットは『悪い奴』だ。俺たちの組織と生活を脅かす、悪い奴。少なくとも俺は、そう聞いている。それが免罪符になるとは思わなかった。何故なら俺は、ここ数年それが自分たちに都合の良い正義なのだと薄々気付いていながらも、それ以上にターゲットの事を知ろうとしなかったからだ。  今日も、無表情に引き金にかけた人差し指を引き絞っていく。ターゲット以外は殺さない。パーティの行われているホテルの室内では、銃口とターゲットの間を何人かの人間が横切って、この人波が切れたら決行しようと思った時だった。  不意にスコープの中心に、一人の黒スーツの男が割り込んできて、俺を見て唇を動かした。 『避けろ』  確かに男はそう言った。懐から黒光りするオートマチックを取り出して、ピタリと俺をポイントする。一瞬の邂逅なのに、オールバックにした黒髪に数本混じる白髪や、鋭く切れ上がった目尻に刻まれた微かな小じわまで見て取れた。 「ハッ」  反射的に身体が避ける。でも考えてみたら、二百メートルは離れているのだから、向こうの弾丸が届く筈がないんだった。やられた。そう思って再びスコープを覗くと、もうターゲットも男も、跡形もなく消えていた。  失敗だ。俺は手早くSPR Mk12を解体すると、ギターケースに模した黒い鞄の中に粛々としまっていく。狙撃場所を見られている。早く撤収しないと。可能な限り急いで、俺はケースをかついで非常階段を駆け下り始めた。  ──ドクン。ドクン。ドクン。  まだ仕事は終わっていない。失敗した以上、痕跡を残さず組織まで無事に帰るのが、今の俺の任務だった。長い長い階段を降りて、地上に辿り着く。良かった。後はバイクに乗って逃げるだけ……。 「そいつだ!」  声と同時に、左耳に火箸を押し当てられたような轟音が轟いた。しまっ……。 「馬鹿、撃つな! 丸腰だぞ!」  そんな声が聞こえたけど、胸にも灼熱の弾丸を受けて、俺は意識を失った。     *    *    *  父さんは『仕事』を無事に終えて帰ると、いつも優しく頭を撫でてくれた。普段はまるで俺がいないみたいに振る舞ってたけど、『仕事』の後だけは別だ。額のあたりに、誰かが触れる感触がある。俺は薄らと瞳を開けた。 「父さん……?」 「気付いたか。急に動くなよ」 「! 触るなっ……!」  スコープの中で見た顔が、濡れタオルで俺の額を拭いている。叫ぶと、肋骨に鋭い痛みが差し込んだ。 「イッ……!」 「防弾ベストで弾丸は止まったが、あばらにヒビが入ってる。しばらくは安静にしてるんだな」  俺は眼球だけを目まぐるしく動かして、現状を把握する。そこは窓のない六畳ほどの狭い部屋で、セミダブルのベッドと机と小さな冷蔵庫だけが調度品の、ビジネスホテルのような一室だった。 「……俺をどうするつもりだ」 「プロだな。ここが何処だとか、必要のない質問はしないんだな」 「答えろ」  俺はイライラと繰り返す。『仕事』中に、こんなにイライラした事などなかった。敵である俺に対し全く殺気のない男の、のほほんとした態度が気に食わなかった。 「拷問して、雇い主を吐かせる」  俺は、男を睨み付けた。 「……とでも言えば、満足か? まだガキのお前に、詳しい事が知らされているとは思わねぇ。安心しろ。こっちの奴らは、お前が死んだと思ってる。ここは俺の隠れ家だ。取り敢えず、ゆっくり傷を治せ」  拷問は、責めるばかりが脳じゃない。俺は、実体験で知っていた。 「その手の誘惑も無駄だ。身体が目当てなら抱けば良い。だけどお前の知りたい事は、何一つ喋らないぞ」  男は目元で笑った。悲しそうに。クソッ……イラつく。 「お前、その歳で苦労してんだな。身体が目当てじゃねぇし、何も喋らなくて良い。そうだな……不便だから、呼び名だけ考えてくれねぇか?」  何を考えているか分からない。今までの経験値が発揮出来ない、こんな人種に会ったのは初めてだった。 「だんまりか。じゃあ、そうだな……そのタトゥから取って、エリカとでも呼ぶか」  俺は、左胸にエリカの花のタトゥを入れている。今は医療用のコルセットに覆われて見えなかったが、服を脱がせた時に見たのだろう。 「俺は叶(かのう)だ。食事は一日分を置いていくから、冷蔵庫から出して食べてくれ。大抵早朝に帰ってくる」  男……叶は、机の上に乗った洗面器でタオルを絞ると、そろりと俺の枕元にそれを置いた。俺は油断なく、その手の動きを目で追っている。 「じゃ、俺はお前の死体を始末した事にして、仕事に戻る。熱があるから、そのタオルで冷やせ。……じゃあな、エリカ」  叶は軽く肩越しに革手袋に包まれた手を上げると、部屋に鍵をかけて出ていった。  ……静かになった。少し痛んだけど、俺は起き上がって玄関を見に行った。内側から鍵を開けると、呆気なくドアは開いた。閉じ込めている訳でも、見張りがいる訳でもないらしい。試しに薄暗い階段を登っていくと、ビルの谷間のような裏路地に出た。喧騒が、ほんの数十メートル先にある。  このまま逃げたら、あの得体の知れない叶とかいう男はどんな顔をするだろう。胸の中に、叶の顔が浮かんだ。その顔が、さっきと同じように歪む。悲しそうに。俺はハッとして、出てきた道を逆戻りして六畳ひと間のセミダブルベッドに潜り込んだ。気に食わない……。  だけどその時、腹が盛大に鳴った。仕事の前は、不測の事態があっても吐いて痕跡を残さないように、一食抜くのが習慣になっている。恐る恐る小さな冷蔵庫を開けると、電子レンジで温めれば良いだけのスープや惣菜がぎっしりと入っていた。 「ハンバーグ……カレー……オムライス……。あいつは一体、俺を幾つだと思ってるんだ?」  その子供っぽいメニューに、俺は思わず独りごちていた。食べないでどれくらいの時間が経っているか分からなかったから、取り敢えず目についたスープを冷蔵庫の上の電子レンジにかける。漂ってくる美味そうな香りに、また腹と喉が鳴った。俺は野菜スープを掻っ込むと、酷く疲れて泥のような眠りについた。     *    *    *  ──トン、トン、トン。  『仕事』の時、ターゲットの事情によっては敵地で一晩過ごす事もある。今の俺はまさしくその状態で、階段から聴こえてくる微かな足音に反応して、浅い眠りから目を覚ました。  ──カチャカチャ……。  鍵穴を弄る音がすると、少しあって扉が開いた。俺は寝たフリを決め込んでいたが、叶はそれを簡単に見破った。こいつもプロだという事か。 「エリカ。何を考えてる。少しくらい外に出るのは構わねぇが、鍵を閉めろ」 「え……開いてたか?」 「参ったな。頭でも打ったか? しっかり開いてたぞ」  それで、鍵穴に鍵を差し込んだ後、すぐに入ってこなかったのか。 「分かった。今度から確認する。文句はそれだけか?」  端的に返して身を起こすと、叶は驚いたような顔をした。 「どうした?」 「……いや。もっと反抗的なのかと思ってた。食事も摂ったようだし、俺は嬉しい」  頭にポンポンと、掌が置かれる。俺はそれをやんわりと払った。 「やめろ。皮肉のつもりか? 『失敗』したんだ、褒美は要らない」  俺にとっては当たり前の事を言ったまでだけど、叶はまたポカンと口を開けた。いちいち価値観が合わなくて、イラつく。 「……お前、俺を親父と間違えてたな。ひょっとして仕事の報酬は、親父からの頭ポンポンだけか?」 「それ以外に何がある?」 「……」  叶は、難しい顔をして数秒考え込んだ。 「報酬以外に、頭を撫でられた事は?」 「ないに決まってる。報酬には対価が必要だ」 「いや」  きっぱりとした声を出して、叶が腕を伸ばしてきた。 「子供への愛情は、無償なのが普通なんだ。ガキを殺したくなくて咄嗟にかばったが、本格的に保護が必要のようだな。俺を親父と思っても良いぞ」  そう言って、怪我であまり動けない俺の頭をグリグリと撫でてくる。そんなスキンシップは誰ともとった事がなく、俺は戸惑ってやはり振り払った。 「やめろ。俺を幾つだと思ってるんだ。お前と対して変わらない」 「幾つだ?」 「二十二だ」 「なるほど。確かに思ってたよりは上だな。だけど俺は三十九だ。父子でもそう無理はない」  納得いかなかったが、叶がこの話題の終わりを告げるように背を向けたので、話は立ち消えになった。机の上に放ってあった、スープのプラスチック容器を片付けている。 「……何が目的だ」 「言ったろ。お前の保護だ。自分の息子をプロの殺し屋に育て上げるような男に、お前を任せてはいられねぇ」 「対価はないぞ」 「構わねぇ」 「……俺が帰りたいと言ったら?」 「帰さねぇ。縛り付けたりしねぇが、お前もここの生活に慣れるさ、エリカ」 「……英司(えいし)」  俺は何を言ってるんだろう。だけど父さん以外にも、この男にも名前を呼ばれたらどんな気持ちだろうとぼんやり思った。 「……ん? 名前か?」  俺はふいと目を逸らした。堪らなく恥ずかしく、取り消したい。だけど叶は、大きな掌で頭を撫でてくれた。 「そうか、英司。改めてよろしくな」 「……いちいち頭を撫でるな」 「英司が、殺さなくても撫でて貰えるんだって身体で覚えるまでな」  頬が熱い。俺は叶の手から逃れて布団に潜り込んだ。叶は、俺の欲しいものを惜しみなく与えてくれる。ここに居たら、いつまでもそうなのだろうか。『仕事』を終えた後の父さんの掌の感触は、叶のそれに上書きされていて、もう思い出すのは困難だった。     *    *    *  そんな生活が、一週間続いた。叶と少しずつだけど話した。叶はプロの用心棒(バウンサー)だという事、この仕事が終わったら俺の為に少し休みを取ってくれる事、二人でこの街から離れて田舎でのんびり暮らそうという事……。気付けば、俺たちは本当の父子のように会話を楽しむようになっていた。 「叶。たまには酒が呑みたいんだけど……」 「そうか……! お前、成人済みなんだったな」 「前から訊きたかったんだけど、アンタは俺を幾つだと思ったんだ?」 「そうだな。……十六か十七」 「それにしたって、子供扱いし過ぎだろ」 「ガキはガキだろ。目を見れば分かる」 「ガキじゃない!」  口をへの字に曲げると、叶が笑った。出会った時のあの笑顔ではなく、楽しそうに。 「俺にとっちゃ、二十二でもガキさ。諦めろ」  そう言って、わしわしと頭を撫でる。いつも黒革手袋越しなのが、少し不満だった。叶の体温を感じたい。そう思うのは、おかしな事だろうか。 「今日は良いニュースがある」 「何だ?」 「仕事が一区切りついた。この街を出よう」 「えっ……今日?」 「ああ。怪我も落ち着いただろう? 英司のいた組織が、お前を探してるかもしれねぇ。今すぐ行こう」 「荷物は?」 「何も。いつ死んでも良いように常に身辺整理をしてるから、持っていくほどのものはねぇ」  そう言われて、ハッとした。叶も、『こちら側』の人間なんだ。叶が死んだら、俺は独りになる。そう思うと、考えるより先に口に出ていた。 「叶……死なないでくれ」 「あ? ああ、安心しろ、ヘマはしねぇ」 「そうじゃなくて……死ぬ心配のない仕事をしてくれ。アンタが死ぬなんて、考えただけで……」 「ん? おい、大丈夫か?」  ガタガタと震え出す俺の肩を抱いて、叶は優しく俺と目を合わせる。ベッドの縁に腰掛けた叶を、俺は引き寄せるように抱き締めた。生まれて初めて、俺は『我が儘』を言った。 「叶……抱いてくれ。俺、アンタが……好きだ……」  厚い胸板に頬ずりすると、叶の鼓動が速くなるのが分かった。とても顔は見られない。断られたら、俺たちの関係性はもうお終いなんだという自覚はあった。  ──ドクン。ドクン。ドクン。 「英司……。まずは街を出よう。それから今後の事を……」  俺がこんなに乱れているのに、冷静な口調なのが気に食わなくて、叶のベルトを掴んで外そうとした。 「英司! よせ!」 「叶は俺を子供扱いするけど、俺だって男だ。我慢出来ない。今すぐ抱いてくれ……!」  不意に、唇を塞がれた。それが叶の唇だったと知るのは、触れるだけの口付けの後、ゆっくりと彼の顔が離れていく時だった。 「英司は、ガキだ。大人はこういう時、我慢がきくんだよ。仕方ねぇなぁ……」  冗談とも本気ともつかぬ顔でそう言って、革手袋の中指を噛んで外していく。待ち望んだ叶の体温が、俺の頬を包み込んだ。 「抱いてやるから……泣くな」 「え……」  俺、何で泣いてるんだろう。悲しいから? 嬉しいから? 答えは出ないまま、叶が覆いかぶさってきて、深くなる口付けに思考はショートしていった。     *    *    *  ──トスッ、トスッ、トスッ。  階段を密かに降りてくる足音に、叶の腕の中で目覚めると、彼はもう起き上がって枕の下からサイレンサー付きのオートマチックを抜いている所だった。間もなくして、ノックが響く。 「お届けものです」  こちらの返事も待たずに、ドアの外の男は声をかけてくる。叶は全裸の俺をベッドに残し、スラックス一枚でドアの横にピタリと張り付いた。その直後、サイレンサーで押し殺された銃声が二発、乾いた音を立てた。外から、鍵が壊されたんだ。蹴られたドアがゆっくりと開く。  そこには、何度か顔を見た事のある、俺と同じ組織の殺し屋が立っていた。ものも言わず、男は俺の眉間に銃口をポイントする。消される! そう思った瞬間、男のこめかみに叶のオートマチックのグリップが決まっていた。男が倒れる。彼を引きずって部屋の中に入れ、手錠でベッドの足に繋ぎながら、叶が言った。 「服を着ろ。出るぞ」  そこからは、目の回るような速さだった。車に乗せられ、車内で女性用のウィッグとメイクで変装させられ、三時間ほど走った。街中を抜けると、田畑の目立つ田舎に入る。やがて一件の古びた民家の前で、車は止まった。 「ここ? 新しいねぐら」 「ああ、そうだ」  叶が車にカバーをかけながら答えて、鍵を放り投げる。それを受け取ると、俺は早速鍵穴に差し込んだ。 「それはお前の分の鍵だ。なくすなよ」 「えっ……俺も鍵を持ってて良いのか?」 「ああ。『俺たち』の家だからな」  不思議な感覚だった。俺は今まで、自由に外出した事などなかった。すると隣の家から、車のドアが閉まる音を聞き付けた老婦人が、人の良さそうな笑みをたたえてやってきた。 「お隣へようこそ。早速、荷物を預かっているわよ」 「やあ、すみません。叶です。運びます」  そうやって叶が笑うと、まるで彼も普通の人のように見えた。俺だけが異質な気がして、やや気後れして眺めていた時だった。 「英司、家の中で待ってろ。彼は英司。パートナーです」 「えっ……」 「あら。若いお嫁さんで良いわねぇ。新婚さん?」 「そんなようなものです」  叶が包み隠さず話すので、俺は恥ずかしくなってひとつ頭を下げると家の中に引っ込んだ。程なくして、叶が大きな段ボールを一つ抱えてくる。 「何それ?」 「パソコンだ。ネット経由の仕事なら、何処ででも出来る」  驚く事ばかりだった。叶が、パソコンで仕事を? 「それ……いつ決めたの」 「お前が泣くからな。英司が眠ってから、通販で一式揃えたんだ」 「な……泣いてない」 「嘘は、もう少し上手につくんだな」  叶が穏やかに笑う。だけど次の瞬間には、瞳に悪戯っぽい色を光らせて近付いてきた。 「昨日は、移動の事を考えて一回で我慢したんだ。今日は寝かさないぞ」 「ちょ……」  ベッドに押し倒され、唇を奪われる。叶の言った通りだった。『仕事』をしなくても、叶は無償の愛を与えてくれる。一生かけてこれまでの罪を償おうと決めながら、安らかな心地で瞳を閉じた。やってくる快感の波に流されてしまうまで、俺は叶の名前を呼んで、これは彼との『愛』そのものなのだと確認していた。 End.

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