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春に泣くはる

 空を仰ぎ見ているその人は、とても綺麗な人だった。桜吹雪が舞う裏庭の片隅の喫煙所で、ただ空を見上げているその人。  大きな花びらが降る中、屋根も何もない喫煙所で空を見上げてタバコを燻らせている姿が本当に綺麗で、そして儚く見えた。  目を離してしまったら消えてしまいそうだと思った僕は、その人をずっと見つめていた。  桜の花びらがその人の頬に当たってはらりと地に舞い落ちる。その光景が泣いているように見えた僕は気づけばハンカチを差し出していた。 「葛西先生、あの、これ……」  差し出したハンカチをきょとんと首を傾げて見たのは、僕のクラスとは違うクラスの担任をしている数学の葛西宏史(かさいひろふみ)先生。  ハンカチを見た葛西先生がぶっと噴出して肩を揺らして笑い出した。僕はその様子に少し戸惑い、さっきの光景が頭にチラつきながらも、僕が差し出しているハンカチに目をやって固まった。  小さなひよこが輪を作って踊っている青いハンカチは、僕が幼稚園の時から使っているハンカチで、大人の葛西先生が使うには幼過ぎる。  けらけらと笑う先生に恥ずかしくなって、僕は差し出していたハンカチをブレザーの内ポケットにしまう。 「……で? なんで俺にハンカチを?」  まだくすくすと笑いながら先生が僕に言う。 「泣いているように、見えたから……」  僕が先生の頬を指指し言えば、先生は手の甲で頬を拭い「泣いてない」と笑いタバコを灰皿に押しつぶした。 「昼休憩が終わってしまうぞ? 行きなさい」  それでも僕はそこから動く事ができなくて、先生を見つめる事しかできなかった。なんでか分からないけど、僕が行ったら泣いてしまうんじゃないかって思ったから。 「はるー! 次移動ー!」  動けないままでいた僕の元に友人の声が届く。 「ほら、行きなさい。俺ももう行くから」  タバコをポケットにしまい先生が僕に背を向けて歩きだす。僕はその背が寂しそうに、悲しそうに見えて、先生の姿が見えなくなるまでそこにいた。  この時僕は、すでに先生に恋をしていたんだと思う。 ***  高校の入学式も終わり、桜が散り始め四月も半ばが過ぎようとしていた。  本命の受験に失敗した僕は、その時まで高校生活と言うものをおざなりに過ごしていた。  兄みたいに頭が良い訳ではなく、親にいつも兄と比べられて劣等感を感じていた。  だから寮生活が出来る遠くの高校を受験したのに、努力のかいなく失敗。そんな僕が滑り止めで受けたような高校を真面目に行く気は無かった。  適当に卒業して適当に大学行って適当に就職をするのだろうと漠然と思っていた。  だけど、先生と話すだけで灰色に見えた僕の周りが鮮やかに色づいていく。 「また来たのか? 橘」 「来たらだめでした? 先生」 「別にいいが……。制服に臭いがつくぞ?」 「大丈夫ですよ」  裏庭の喫煙所に近づいた僕に対して顔を向けずに先生に言われて少し驚いた。 「先生、頭の後ろに目があるんですか?」 「あるわけないだろ」  くすりと笑った先生がタバコを灰皿に押し潰して僕を見る。 「ったく、お前は他の連中と違って悪い子ではないと思っていたんだけどな」  おどけた様な口調で言った先生がははっと笑った。  その笑顔もすごくかっこいい。柔らかそうな髪と切れ長の目。筋の通った鼻と厚くも薄くも無い形の良い唇。  好きだなって思う。  自分の気持ちを自覚するのに、そんなに時間はかからなかった。 ***  玄関の鍵を開けて家に入る。 「ただいま」  家の中にかけた言葉に答える声はない。  医者をしている父と会社を経営をしている母、頭の出来の良い兄と頭の出来の悪い平凡な僕。その四人が暮らす家には人がいることがあまりない。  いたとしても部屋で勉強をしているだろう兄と出張にいく母が着替えを取りに帰る位だ。愛人のいる父は全く家に帰ってこない。 「あら、あんた帰ってきたの」 「……うん」  重そうなスーツケースを持った母が奥の寝室から出て来た。 「ちゃんと勉強はしてるの? 受験の時みたいにまた恥かかせないでよ? あんたは冬希(ふゆき)と違って頭の出来が悪いんだから、ちゃんと勉強しなさいよ。ちょっと春耶(はるや)、聞いてるの?」 「聞いてるよ」 「なら返事をしなさいよ。母さんはあんたの事を思って言ってるんだから。ほんと、誰に似たのかしら」  忌々しげに舌打ちをした母が腕時計を一瞥してからリビングに入っていった。 「あら冬希ちゃん、ちょうど良かった。母さん今からまた出張なのよ。だから留守番頼むわね」 「おかえり、母さん。大丈夫だよ。春耶の事も僕に任せておいて」  声のトーンの変わった母といつも通りの兄のやりとりを聞いて僕は溜息を吐いた。 「冬希ちゃんがしっかり者で母さん助かるわ。それに引き換え……」 「母さん、出張なんでしょ? 時間はいいの?」 「あらやだ。こんな時間。お金いつものとこに置いておいたから」 「ありがとう。母さん」  リビングから出てきた母が僕を見てからまた舌打ちをする。 「あんたね、たまには気を利かせて荷物を車に入れる位したらどうなの。ほんと、役に立たないんだから。頭の出来も悪かったら何も出来ないのね」 「母さんスーツケース持つよ」 「ありがとう冬希ちゃん。本当、助かるわ」  スーツケースを持った兄と鞄を持った母が玄関から家を出て行き、車の音が遠ざかっていくのを聞いた僕はリビングに入った。 「お前さ、その要領悪いのどうにかしたらどうよ」  キッチンの棚を開けいつも通りの場所にある缶を取出し中身を手に取った時後ろから兄が声をかけてきた。 「どうって……」 「あんなの唯の金づるなんだからさ、悔しい顔してないで要領よく動けって言ってんの」 「金づるって……」 「本当の事だろ? 金だけ置いてけばいいと思ってるんだから。それより金いくら入ってた?」  僕の手元を見た兄が僕から奪い取ると枚数を数えだした。 「ちっ 十万かよ。これ、お前のね。俺遊びに行ってくるから」  万札を財布に入れると兄が家を出て行った。  静まり返った家は何の音もしない。僕は鞄から財布を取出し五枚の万札を入れると自分の部屋に入った。  愛情なんて産まれてからかけられた事なんてない。家にお金を置きにくる母と試験以外では帰ってこず遊んでいる兄、愛人の家に入り浸って寄り付かない父。  小さい頃の思い出なんてベビーシッターの人が遠足のお弁当を作ってくれた位しかない。    こんな家で育った僕が誰かを好きになるなんて思わなかった。   *** 「また来たのか? 橘」 「来たら駄目でした? 先生」  いつもやりとりをして近くにあったベンチに座る。タバコをもみ消した先生が僕の隣に座った。 「すっかり桜も散っちまったな」 「もう五月の半ばですよ」 「ま、そうだな」  僕の隣でポケットから飴を取り出した先生が僕に一つ渡すと飴を口の中にいれてばりばりと噛み砕いた。その音に僕は驚いて受け取った手を見ていた視線を先生に移す。 「お前、そんな顔も出来るんだな」 「そんな顔? 僕だって驚く位しますよ」 「そうじゃねぇよ。なんて言うか……。感情を隠しているって言うか、見せないって言うか。友達と話てる時も表情が動かないだろ? 表情が死んでるっていうか。あぁ、なんて言えばいい」 「なんですか、それ。あははははっ」  表情が動かないなんてそんなのはただのロボットでじゃないか。思わず大きな声で笑ったら先生が目を見開いて僕を見ていた。 「お前、笑ってた方が可愛いぞ」  先生の言葉に顔が赤くなったのが分かった。 「可愛いって、僕は男ですよ」 「ま、そうだけど。子供ってのは笑ってる方が可愛いんだよ。だから笑っとけ」  赤くなった顔を見られたくなくて俯いた僕の耳に入ってきた言葉。  僕は先生から見たらまだ子供なんだ。  この時僕は決めた。高校卒業したら就職しようって。   *** 「橘、笑え」 「来てそうそうなんですか? 先生」  喫煙所のベンチに腰掛けたら先生がいきなりそう言ってきた。最近ではことあるごとに先生が僕に「笑え」と言う。時には変な顔をしたり、おじさん特有の親父ギャグを披露したりと最近の先生はなんか変だ。 「俺はお前が笑っている顔が見たいんだ」 「そんな事言っても無理ですよ」  僕の頬の肉を持った先生がぐにぐにと揉み解す。 「笑えよ。ってか今日もあっついな」 「夏がきますからね」  季節は梅雨を越えて夏になろうとしていた。さんさんと降る太陽の熱と木陰にいても動いてないのに吹き出る汗。 「俺は春が恋しいよ。こんな熱いのは嫌だ」 「来年、また来ますよ」  「そうだな」と言った先生の横顔が何故か寂しげに見えた。僕はそんな横顔を見ていたくなくて話題を変えた。先生との話題と言ったら数学の分からない箇所になってしまうけど。  先生。  僕が貴方を好きだと言ったら、貴方はどんな反応をするのだろうか?   *** 「あんた、夏休みだからってダラダラしないで。冬希をちょっとは見習いなさいよ」  リビングで掃除機を掛けていた僕に向かって出張から帰ってきた母が言った。 「母さん、おか――」 「勉強から逃げてそんな事ばかりしてるから希望してた進学校に行けなかったんじゃないの? ほんと、恥ずかしい。母さん表も歩けないわよ。母さんが近所の人に何って言われてるか知ってるの? 知らないわよね。子育ても碌に出来ない母親って言われてるのよ? あんたのせいよ。あんたが受験に失敗なんかするから母さんが言われなくてもいい事言われるのよ」  それ以上聞きたくなくて僕が母に背を向けた時リビングのドアが開いて兄が入ってきた。 「母さん、お帰り。今出張から帰ってきたの? お疲れ様」 「ただいま、冬希ちゃん。春耶と違って本当に冬希ちゃんはしっかりしてるわね。それに母さんを労わってくれて」 「母さんスーツケース持つよ。寝室でいい?」 「そうね。だけど母さんすぐ出張なのよ。荷物入れ替えたらまた出ないといけないの」 「そっか。母さん無理しないでね」 「子供なんて冬希ちゃんだけで良かったのよ。春耶なんていらなかったわ」  どんな顔をしてその言葉を言ったかなんて分かる。子供の時からいわれ続けている言葉。「グズ」「のろま」「出来が悪い」「父さんにも望まれなかった可哀想な子」「産まなければ良かった」。  僕も産んでほしくてなんてなかった。僕を勝手に産んだのはあんたなのに。 「………に……られたくせに」 「何か言った?」 「……何も」  小声で言った言葉は聞こえてなかったらしい。兄を見るとにやりと笑っていた。 「ま、いいわ。母さんあんたにかまってる暇ないの。冬希ちゃん、春耶のことお願いね」 「うん、任せておいて。母さん時間は大丈夫?」 「あら。こんな時間。急がないと」  兄と共にリビングを出て行った。だけどすぐに兄が僕の元に戻ってきて「これ母さんから」と言ってお金を僕に持たせた。 「さっきの言葉、大きい声で言ってやれば良かったのに。”父さんに捨てられたくせに”ってマジうける! あははははっ」 「兄さん! 大きい声で言わないでよ!」    腹をかかえて笑う兄に内心焦る。僕が言ったとバレたら、何を言われるか分かったものじゃない。何倍にもなって返ってくるのは分かりきっている。ひとしきり笑った兄が笑うのをやめると急に真剣な顔になった。 「俺、大学入る時この家出るよ。春耶、お前はどうするの?」 「僕? 僕は高校卒業したら就職する。お金も貯まってきたし就職決まったら家を出るよ」  子供の頃からもらっていた小遣いはもう三百万は貯まった。高校を卒業する頃にはもっと貯まっているだろうけど、一人暮らしをするには多いほうがいい。 「ま、それがいいだろうな。大学行ったら俺ここに戻る気一切ないし」 「戻る気ないって……兄さん、母さんに好かれてるじゃない」 「好かれてる? 違うな。あいつは周りに見栄を張れる俺が好きなだけだ」  「母さんが出たら遊びに行ってくる」と言って階段を登っていった兄の背中は疲れているように見えた。 *** 「久しぶりだな。元気にしていたか? 春耶」  夏休みが終わる直前、不意打ちのように父が家に帰ってきた。ラフな格好で帰ってきた父はリビングのソファーで横になっている僕を見てにこりと笑う。 「久しぶり」  僕の向かいのソファーに座った父が咳払いをして兄を呼んでくれと言う。だけど兄は遊びに出ていっていない。高校三年の兄は有名な国立大に推薦入試が決まってからと言うものほとんど家に帰ってこなくなっていた。まぁ、前と大して変わらないけど。 「兄さんはいないよ。遊びに行った」 「そうか。今日は二人に話があってきたんだが……。春耶だけでもいいか」  居住まいを正した父のいつもと違った様子に僕は起き上がってソファーに座った。 「父さんな、母さんと離婚しようと思ってる。春耶、父さんの家で暮らさないか? こんな劣悪な環境で暮らすのは体に悪い」  ソファーの周りを見てからしかめ面をした父が僕に顔を戻す。  母さんに怒られた日から僕は一切の家事をやめた。掃除も洗濯も何もかも。掃除の出来ない兄が食べた物や着替えた服をそのままにしているからリビングや他の部屋は汚くなる一方だ。 「母さんは何て言ってるの?」 「母さんにはまだ話はしていない。ああ! 臭いっ! よくこんな環境で暮らせるな、あいつは! 信じられん! こんな所にお前達をおいて行く事等できん! 春耶今すぐ荷物を纏めなさい!」  僕の手をとった父が僕を立たせどかどかと階段を上がっていく。僕は父の背中を見ながらついていくだけだった。  僕は、早く大人になりたい。  友達は大人になりたくないと言うけど、大人になりたくない理由が分からなかった。    勝手に産んで、勝手に捨てて、環境が悪いからとつれていく。  僕は、こんな大人になりたいのだろうか? ***  夏休みも終わりまだ熱い太陽の光が降ってくる中、僕は相変わらず裏庭の喫煙所で昼休憩を過ごしていた。 「先客がいたか……。って、なんだ橘じゃないか」  いつもはタバコを吸ってからベンチに座る先生がタバコを吸わずに僕の隣にどかりと座る。 「どうしたんだよ? 今日はいつもより無表情じゃないか」 「……」 「なんだ? 思春期特有の悩みごとか?」 「……」 「先生に言ってみろ。話をするだけでも楽になるぞ? ん? ほらほらおじさんに話してみなさいって」  ふざけた感じの先生の態度に僕は一つため息を吐いた。 「なんだよ~。先生にも言えない悩み事か? あれか? 好きな子の事だろ? そうだよな。俺もお前の年くらいの時はお前みたいに悩んだもんだ」  うんうんと一人で納得したように頷いている先生に僕は今まで出来なかった質問をしてみることにした。 「先生、大人って何をしたら大人なの? 子供を産んだら大人? 仕事を始めたら大人? 二十歳を超えたら大人? セックスをしたら大人?」 「大人でもセックスをしていないやつはいるぞ」 「そうなの!?」 「ああ。じゃなくて! 大人、か……」  腕を組んで考えことを始めた先生の姿を見て僕は、本当に好きだなって思う。 「うーん。まぁ、子供を産んだら親になるから大人になった、と言える。仕事をしているのは、まぁ、大人だな。でも待てよ。高校卒業して仕事してるやつもいる。年齢的に言えば子供? 法律上二十歳からは大人と見なされるから子供ではない。……が、学生のうちは子供、か? うーん」    「どうなんだろうな」と呟いた先生が僕を見た。 「橘は、どんな人が大人だと思う?」 「先生みたいな人が大人だと思う」 「俺?」 「うん! かっこいいし仕事してるし、僕の悩みもこうやって真剣に聞いてくれるし」 「なんとも言えない大人だな。ま、俺は二十を超えて今度の誕生日で三十四になるから年齢的には大人と言えば大人だな。けど、精神的に大人になっているのか、と聞かれたら、分からない」 「分からない?」 「ああ。年齢だけ大人になってるだけに思う」  子供じみた質問をしても真剣に考えて答えてくれる。  ああ、先生。  僕は、先生が好きだよ。 ***  両親が離婚したのは僕が進級して二年になり、兄が志望大学に受かって一人暮らしを始めた時だった。   「橘笑えって」  まだ寒い風が吹く中、僕と先生は裏庭の喫煙所で昼休憩を過ごしていた。 「笑えって、な?」 「笑えないのに、笑えって言われても……」 「本当にそうか? 絶対か?」  子供っぽい笑みを見せた先生ががばりと僕の腋を持った。 「これでどうだ!」  執拗に動く手が僕の腋を擽ってくる。笑うのをこらえてたけどあまりのくすぐったさに我慢するのは無理だった。 「あは、あははははははっ ひっ やめ、てよ、せんせ、い あははははは」 「そうやって笑ってればいいんだよ」 「あは、あは、あはは、ひひ」  気がすんだのか先生が擽るをやめて僕に笑いかける。 「やっぱりお前は笑った方が可愛いぞ」  ねぇ、先生。  僕は貴方が好きだよ。  子供っぽい所も、黒板に向かう姿も、タバコを吸う仕草も、顔も、全部、全部。  桜吹雪が舞い散る中で見たきらきらと輝く、初めて見たあの時から、ずっと、ずっと、好きだった。  でもね、先生。  貴方に同じ気持ちを返して欲しいとは思わないんだ。    だから、僕は僕の気持ちをここに置いていく。 「先生、僕、先生が好きだよ」  訝しげに覗いてきた先生の口に僕は口を重ねた。 「先生、大好き。今までありがとう」  呆然とした先生を見て僕は立ち上がった。 「あ、おい! 待て! 橘! やり逃げか!」  先生の言葉にくすりと笑って僕は走る。  もう先生に会うことは無いだろうけど、先生と触れ合えた時間を僕は忘れない。 *** 「新しい学校ではうまくやっているか?」 「うん」  結婚すると紹介された義母は優しい人だった。  母みたいに仕事ばかりでお金だけを置いていくわけでもなく、家の掃除も洗濯も僕の世話も本当によくしてくれている。 「春耶さん、お口にあう?」 「美味しいです」 「本当、良かった。おかわりはいる?」  血の繋がった母とは違う優しさと温もり。  一つの食卓を父と僕と義母の三人で囲む生活。  学校でも新しい友達がすぐに出来たし、勉強だって苦労するような事はない。  だけど、先生がいないだけで鮮やかに写った景色は色を無くした。  「で、春耶。高校卒業したら働くと学校の先生に聞いたが? 大学は出ておきなさい」 「あら、春耶さん、それ本当なの?」 「うん、僕、高校卒業したら就職する」 「先生はお前の成績で大学にいかないのはもったいないと言っていたぞ?」  僕は早く大人になりたい。   「いい。僕は就職する」 「ま、まぁいいじゃない。春耶さんの気持ちも変わることがあるかもしれないし。ね?」  顰め面をした父を見た義母がおどおどして父を諌めた。 「はぁ……まぁ、いい。気持ちが変わる事があったら言ってくれ」  就職をして大人になったら貴方に胸を張って会いにいくことが出来るだろうか。 *** 「どうしたんだよ? はる」  廊下を歩いている途中、窓から見えた景色。  裏庭に前の学校みたいに桜の木があった。 「先に行ってて」 「おい! 授業もうはじまるぞ!」  息を切らせて裏庭についたけど、そこに喫煙所も無ければベンチもない。  色のついてない灰色の世界。 『橘、笑え』  ねぇ、先生。  貴方はまたあの場所でタバコを吸っているのだろうか? 「はる! 何やってんだよ! 授業始まるって!」  振り返ってみれば、同じクラスの田中誠が僕の腕を取って息を荒く吐いていた。   「お前は成績いいかもしんないけどさ、俺、成績悪いから授業さぼりたくないの! 早くいこうぜ! ハゲ田先生遅刻にすっげーうるさいんだから!」 「ハゲ田先生って吉田先生の事? そんな言い方よくないと思うよ」 「いいんだよ! 部活の先輩だってそう呼んでるし! てか早く行こうって!」  ぐいぐいと服を引っ張られてその場を後にした。 ***  僕はことあるごとに、裏庭に行った。  昼休憩に行けば、必ずと言っていいほど誠が僕の後をついてきて一緒にご飯を食べるようになった。 「いいな。お前の母ちゃん料理上手で」  僕のお弁当を覗き込んだ誠が義母が作った弁当を褒めてくれる。 「美味しいよ」 「何それ。自慢?」 「自慢って訳じゃないけど」  はぁとため息を吐いた誠がパンの袋をやぶいてかぶりつく。 「お前、成績いいし、かっこいいし、女子にモテるし、母ちゃん優しいし、すげー羨ましい」 「モテる? 羨ましい? 僕が?」 「お前、モテるじゃん。けど、笑わないからとっつきにくいって言ってたけどな」  ふんと鼻息を荒く吐いた誠の周りにかすかに色がついたように思えた。  だけど、やっぱり灰色で。 「お前みたいに成績よかったら、即効先生になれるかもしれない! 俺お前みたいな頭が欲しい!」 「先生?」 「おう! 俺、小学校の先生になるのが小学校の時からの夢だからな! 絶対なるんだ!」  高校教師。  それもいいかもしれない。   *** 「父さん、僕大学行くよ」  その日いつものように三人で食卓を囲み、ご飯を食べているときに父に告げた。 「そうか。どこに行くか決めたのか?」 「僕の今の成績だったらH大かな? もう少し頑張ればS大?」 「そうか、まぁ、頑張りなさい」  父の横で義母がにこにこと微笑んでいた。 「良かった。春耶さん、見つけることが出来たのね。良かった。良かったね」  泣きながら言った義母の言葉の意味は分からなかったけど、僕は頷いておいた。   ***  前の学校みたいに桜が降ることの無い学校の校庭で僕は景色をずっと見ていた。  灰色の世界はところどころまだあるけれど、かすかに色が増えている。 「はーる! 卒業式はじまるぞ! お前、サボる気か!」 「サボらないよ」 「早く行こうって」  胸元のポケットに胸章をつけた誠が走りよってきた。 「卒業かー、あっと言う間だった気がする」 「俺はしんどい三年間だったよ。成績のいいお前はそうでもなさそうだったけど」  ぐいぐいと引っ張る誠の腕を逆にひっぱると驚いて誠がこっちを見た。 「何すんだよ! こけるだろ!」 「誠、ありがとう」  首をかしげる誠にくすりと笑うと誠が目を見開いた。 「はるがわらった! 明日は雨か!?」 「失礼な事言ってないで行くよ」  滞りなく終わった卒業式。  四月になれば大学に入る為僕は一人暮らしを始める。  先生。  貴方はまだあの裏庭でタバコを吸っているのだろうか?  僕はまだ、貴方が好きなんだ。  あの学校に置いていったはずの僕の気持ちは、まだ僕の胸の中にある。  教師になって貴方と同じ場に立てたら、僕は―― *** 「橘春耶と言います。よろしくおねがいします」  大学を卒業し、教員免許も無事に取れた四月。  僕はあの桜の木が裏庭にある母校で働くことになった。   「橘」 「葛西先生。お久しぶりです」  僕の教育者は葛西先生になったようだった。   「おや、葛西先生も橘先生もお知り合いですか?」 「橘春耶、こいつはここの生徒でしたよ。ま、途中で転校していきましたけどね」 「そうでしたっけ? ま、子供の成長は早いものですからな、ははは」  六年ぶりに見た先生は、前髪が何本か白髪になっていた。  額にかかる数本の髪の毛が色気を増しているように見えるのは気のせいだろうか。  相変わらずのタバコの匂いと柑橘系の香水の匂い。 「葛西先生、ご指導よろしくおねがいします」  校長が去っていき、頭を下げた僕に何を思ったのか、先生が頭を上げさせて僕の顔を見る。 「あんま変わってねぇんだな」  ぽつりと呟いた先生の声が聞き取れなくて僕が聞き返そうとしたら手をとられて早足で歩き始めた。  ついた場所は僕と先生がよくいた桜吹雪の舞う裏庭で。 「お前、よくもやり逃げしてくれたな。今度は逃がさねぇからな」  低いハスキーな声。  気づけば先生の顔が僕の目の前にあった。 「何で泣くんだよ。俺は泣いた顔じゃなくて笑った顔が見たいんだよ」  僕の頬に流れる雫を優しく指で拭う先生。 「先生、僕、先生が好きだよ」 「知ってるよ。あんな態度されたら誰だって気づく」 「あんな態度?」 「目がな、好きだ好きだと言ってたからな」 「そう。先生、先生は?」  言葉で答える変わりに僕の口にキスを落とす。 「だから泣くなって。初めてその顔見るけど俺はお前が笑った顔がいい」  ねぇ、先生。  貴方にも見えているだろうか。  こんなにも色づいていく景色が。 「好きだって。泣くなって。なぁ、春耶」  僕はこれから貴方の隣で新たに色づいていく景色を眺めながら貴方に言うのだろう。 「先生、好きだよ」  

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