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番外編
男はひどく痩せていた──。
40代後半と聞いていたが、少しも手入れされていない白髪混じりの髪に、やつれた頬、頼りなさげな細い肩を見ているともっと年配に思えた。
会った瞬間から目も合わせず、やましい事でもあるかのように視線をやたら泳がせ、詠月が席を勧めても尚、男は所在無さげだった。
ゆるかやかなクラシック音楽が流れる喫茶店で男は渡された一枚の写真に只々見入った。
先ほどまで泳いでいた筈の視線はじっと一点を見つめ、その口元は優しく綻んでいた。
「この子が……」と、希望の声を含ませ小さく呟く。
「──はい。皐月さんの、僕の、子どもです。──あなたの孫です」
血の繋がりなど関係ない。この男は皐月の大切な父親なのだと詠月はしっかりとそう告げた。
「皐月もすっかり大人になった……。そうか、皐月にも家族が、子どもが、産まれたんですね……。かわいいなあ……、鼻の形が皐月にそっくりだ」
眩しげに男は写真の中で皐月に抱かれる小さな命を見つめた。
「皐月さんはきっと、あなたに会いたい筈です。あなたが今どうしているのか何ひとつ知らないと、以前話していました。あなたにこの子を抱いて欲しいと思っている筈です」
詠月の言葉で目を覚ましたように男は写真をテーブルに置き、すっと手を自分の膝の上へと仕舞い、頭を横に振った。
「いえ、私はあの子には会いません……会えません。あの子の幸せな未来を奪ったのはこの私なんです。私が全てを狂わせた。私はあの子の幸せな未来にいてはならないんです」
「そんな……」
「詠月さん。私なんかを探して下さってありがとうございました。私なんかが言うのもおこがましいですが、ずっと皐月の事が心配でした。あの子は一度に両親 を失って、施設で一人どう過ごしていたのか、ずっとそれだけが気掛かりでした。でも、ちゃんと生きて、あなたと出会え、この子にも巡り会えた。皐月は幸せに生きているんだと今日知ることが出来て本当に幸せです。心から安心出来ました、本当にありがとうございます」
そう言って頭を深々と下げた男からは先ほどまでまとわりついていた重い影が消えていた。柔らかく作られた笑みが詠月の心を暖かくした。
何年経っても構わない、いつか連絡をください。と詠月は自分の名刺の裏にプライベート用の携帯番号を記し男に渡した。
「待ってます、お義父さん」
そう告げた詠月に男は目を一瞬大きくし、再び頭を下げた。
「その写真は差し上げます。持っていてください。そうだ、大切なこと言い忘れてました。息子の名前は涼月 。7月生まれの涼月は、京介 さんと美月 さんの孫です」
その言葉に京介は膝に置いた拳を力一杯握り締め、俯き肩を震わせた。テーブルに落ちた雫を詠月は見ないふりをして席を立ち伝票を手に取るが、すぐにその手首を掴まれた。
顔を上げずに「私に……払わさせてください。せめて、それくらいは……」と震える声で京介は訴えた。
詠月は大人しく伝票をテーブルに戻すと「お言葉に甘えてごちそうになります。お義父さん、お身体に気を付けて……また必ず会いましょうね」
伝票の上に置かれた京介の手の甲を優しく握り、会釈すると詠月はゆっくりと店の扉を開けた。
京介は、きちんと立ち上がり、詠月を見送ることのできない自分を恥じながら滲む瞳で写真をもう一度見つめた。濡らしてはいけないと紙ナプキンを取り写真を裏返した瞬間京介は全身の震えが止まった。
そこには細いマジックでメッセージか添えられていた。
『お父さんへ。
お元気ですか? 俺は今幸せです。
ずっと苦しいことばかり記憶に残っていたけれど、涼月が産まれてからはお父さんとお母さんと三人で楽しく過ごした事をたくさん思い出すようになりました。なんだか自分でも不思議です。
お父さん、待ってるね。
皐月より」
京介は写真を胸に抱くと唇を噛み締め、漏れ出る嗚咽を堪えながら俯き、零れ落ちる涙を構うことなくただひたすらに愛する我が子を思った。
最後の別れ際、謝ることしか出来なかった泣きじゃくる我が子に今はただ、ありがとうと伝えたかった。
「皐月…………」
死ぬまでに、もう一度愛しい我が子の名を呼んでみたいとそんな夢が京介には出来た。
そして叶うのなら、この小さな命を抱いてみたいと──。
「美月……、この子は少しお前にも似ているよ。お前もこの子を見たらきっとそう思うだろうな……」
京介はゆっくり瞼を閉じると深い溜息を静かについた。
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