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第1話

花の都アルベハーフェンには数年前から奇妙な噂があった。 氷の都との境にある、暗い森に関する噂だ。 暗い森には元々良くない噂がつきまとっていたが、最近では少年の亡霊が森をうろついていると密かな噂だった。暗い森には、何かの事件に巻き込まれた果てに行き場を失った遺体が大量に捨てられているだの、赤ん坊を捨てる場所だの、そういった現実かどうかも分からない噂だけがつきまとう森だった。そして新たに浮上した噂というのが、森の入り口からじっと都を見ている青白い少年だのという目撃証言か何件かあったという。 だが誰もその真相を掴もうとはせず、噂だけが一人歩きしていた―― 「うわっ、わっ」 視界が逆転した、と同時に木々の木漏れ日の中で赤い実が宙を舞い、木から転落して背中を強打した体に降り注いだ。 「痛い!べちゃってした!」 木から転落した少年――いや、青年は最近巷で噂の〈亡霊〉くんだ。もちろん本人はそう呼ばれているのを知らないし、なんせ都に住む者と交流したこともないのでこの森にまつわる噂がどんなものなのかも知らないのだ。 青年・リュカは生まれてこのかた、この森から外へ出たことがない。 「あーあ、背中がべちゃべちゃだ……せっかくの木の実が…」 暗い森と呼ばれ滅多に人が近寄らないこの森の中に一軒の家が建っていて、ましてやそこに人が住んでいるなんて誰も思わないだろう。そんな暗い森の中で暮らしているのがこの青年、リュカである。 「今日は肉も獲れなかったし…明日また頑張ろう……」 がっくりと肩をおろして、周りに散らばった木の実や薬草をラタンバスケットに詰めなおしよろよろと立ち上がった。 リュカの生活は基本的に自給自足、両親から受け継いだ一軒家に一人で住み、畑を作って家庭菜園を営み、狩りなどにも出かけて肉を調達するなど原始的な生活を送っている。都に住んでいる者からすれば未だにそんな生活をしているのかと疑われるだろうが、リュカは生まれてからずっとこのような生活しか知らなかった。 最近になってよく森の入り口へ行って花の溢れる都を見つめては、一度くらい都に行ってみたいと憧れを抱いている。両親から聞いただけの知識しかないが、都には美味しい食べ物がたくさんあって、人もたくさんいて、毎日がお祭りのように賑わっているという。 だがこの世界は危険も同様にたくさんあると教わった。 「……?」 家までの帰り道、微かに血の匂いが鼻をついた。リュカはそのにおいを辿って森を進んだ。家からはどんどん離れていって、血の匂いは氷の都にほど近いところでより一層濃くなった。 「なんだ……?」 大きな獲物が罠にかかっている!そう思ったが、こんなに遠いところに罠を仕掛けた覚えはなかった。ざわりと胸が騒いで今すぐにこの場から逃げ出そうとしたが、その“物体”は微かにまだ息をしていて「たすけてくれ」と言っていた。 「獣人だ……」 この世界の半分以上を占める“獣人”。 この世界の頂点に君臨する“アルファ”という存在。 両親は「アルファには気をつけなさい」と口酸っぱく言っていたのを思い出す。 だが目の前にいるこの瀕死の獣人はリュカに助けを求めていて、リュカもそれを拒否するような狭い心は持っていなかった。 「家に着くまで生き延びてくれよ、獣人さん!」 これが、リュカと獣人――ノア・ムーングレイの出会いである。

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