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近づき遠ざかる

 教科書に載っている花の名前を全て覚えたって、将来花屋に就かない限りは役に立たないだろうし、古文をすらすらと読めたからって披露する場なんてない。  確かに英語は話せた方がいいだろうけれど、多少の間違いならニュアンスで通じると思う。  それに数学に関しても、俺が計算するよりもコンピューターに任せた方が何倍も、何十倍も、何万倍も正確で速い。  そうなれば、定期的に行われるテストの意味って何だろうか。もはや現実逃避にしかならないことを考えながら、尋音先輩が書いてくれた注釈を見つめる。  途中から筆記体に変わる英文を見ながら、気分屋な先輩らしいなぁって微笑んでしまった時だった。そんな俺の背中に圧し掛かってくる重たい身体。それは、生きる屍と化した由比だ。 「ああ……ハロゲン化物イオンにハロゲン化銀、酸化銀とハロゲン化銀はアンモニアに反応してジアンミン銀イオンとなり化学式は……くっそ、ハロハロうっせぇな!!」 「由比、怖いって。お前、そのうち誰か呪い殺しそうなんだけど」 「駄目だ。頭の中でアルファベットと数字が乱闘騒ぎを起こしてる。こんなんじゃ今回のトップは無理だあ……」  全体重を俺に任せ、深いため息を吐く由比に苦笑してしまった。  由比は中学生の時からずっと学年トップの成績をとっていて、それにかける熱意は凄い。テスト前の由比には、頭に見えないハチマキを巻いているような、そんな錯覚に陥るぐらいだ。 「柳ぃ……俺もうさぁ、自分の寝言で飛び起きるレベルまでいった。これでトップとれなきゃ、この学校辞める」 「は?学校を辞めてどうすんだよ?」 「旅に出る。伊達政子と世界1周の新婚旅行に行ってやる」  持っていた教科書を放り投げた由比が、不貞腐れた顔で自分の席、つまりは俺の後ろに座った。今日から始まるテストで教室中がソワソワしているけれど、その中でも由比の奇行は目立って異常だ。ここ最近の由比の言動を見てると、不審者扱いされかねないと俺は思う。 「はぁ……。柳はいいよな。辞書人間が傍にいるんだから」 「辞書人間って、褒めてんのか貶してんのか微妙だな」 「愛知先輩は人間よりも辞書に近いよ。常識はないけれど学識はある」  それはもう人間じゃなくて辞書じゃねぇか。呆れて何も言えない俺の目の前で、由比が次に手にしたのは数学の教科書だった。 「現国と古典、英語は楽勝なんだよ。でも俺って根っからの文系だからさ、化学と数学は本気で無理。無理寄りの無理」 「それもう完璧に無理ってことだろ。でもさ、そんなこと言いながらも、由比はいつも90点以上とってるくせに」 「ほぼ丸暗記だけどね。テスト前の俺は、教科書よりも教科書かもしれない」  眼鏡のフレームを指で押し上げ、由比は教科書に没頭する。今日は現国と英語が2種、それから生物のテストだというのに、それには興味がないらしい。  一方、俺の手元には古典の問題集とノートがあって、尋音先輩が出してくれた応用問題は3回もした。それが出るとは限らないのに、もし同じような問題が出たら絶対に答えたいからだ。  我ながら健気に頑張っていると、眼鏡を外した由比が、目頭を押さえながら言う。 「でも、今回誰よりも必死なのは香西さんだと思うけどな。だってアレでしょ、このテストから愛知先輩も参戦するんだっけ」 「ああ、うん。授業には出なくても、テストぐらいは受けろつったら頷いてた」 「お前、本当に何者だよ。あの人が柳の一言でテストを受けるなんて、怖いって」 「何者って言われてもなぁ……別に尋音先輩は、受けたくなくて受けなかったわけじゃないから。テストなんて受けなくていいって言われて、それに従ってただけだから」  尋音先輩は不真面目な人なんかじゃない。誰か……お家の人とか、学校の関係者とかに、授業に出なくていいって言われたから出ないだけだ。求められたことは完璧に遂行する先輩らしく、忠実に守っているに過ぎない。  だから俺はまず最初にそれを崩そうと、先輩に頼んだ。てっきり断られると思ったのに、尋音先輩はたった1度頼んだだけで頷いてくれたのは、数日前の話である。 「まあ俺は愛知家のボンボンがどうなろうと興味ないけど。でも、香西さんに関しては同情する」 「ゴリラに同情って何で?」 「だって、香西さんって入学してからずっとトップだったのに。それなのに愛知先輩が出てきちゃ、どんなに頑張っても1位は無理でしょ。あの人が名前を書き忘れるか、途中で気が変わって教室から出て行くかしない限りは」 「さすがにそれはないって。だって、尋音先輩は全く授業受けてないんだぞ?そりゃ先輩レベルなら家庭教師はいるだろうけどさぁ……」  尋音先輩が授業に出ていないのは1日や2日の話でなく、もう1年半近くの話だ。いくら尋音先輩と言えども、その時間を埋めるのは不可能に等しい。  そう思って由比に言い返すと、俺の幼馴染みは「分かってない」とばかりに、呆れ顔でこちらを見ていた。 「断言できる。今回のテストのトップは愛知先輩。そして、それに腹を立てた香西さんの怒りは、柳に向く」  まるで占いのような由比の宣言を聞き終え、出来る限りの努力をして迎えたテスト本番。授業で習ったところはすんなりと解け、応用問題にもそれほど苦戦はしなかった。  いつ以上に答案が埋まる。今までなら埋めた解答欄の数で点数を予測していたのに、今回は赤点は絶対にないと言い切れる出来だ。  返って来るテストの結果を楽しみにしていた俺は、すっかり忘れていた。うちの幼馴染みの勘はとても鋭いってことを。  それを痛感させられたのは、1週間のテストが終わってやってきた週明けの月曜のこと。尋音先輩の誕生日を6日後に迎えた日のことだ。

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