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貴方の桜色の唇に。唇で触れたい。

 ゆとり世代の仕事ぶりに問題があると、話題になって久しく。だから俺は、がむしゃらに働いた。『ゆとり世代』と一概にくくられないように。 「岡田さん。明日の会議資料、出来ました」  陽当たりの良い窓を背にしてデスクを構える、岡田さんの元に行く。春の陽射しは暖かくて、こんな昼下がりはうつらうつらと船を漕ぐ新入社員が見受けられたが、岡田さんはけして隙を見せない、自分にも部下にも厳しい上司だった。  普通の企業なら『課長』と呼ばれる身分の岡田さんだったけど、うちの会社は年功序列を廃し能力重視をうたっていることもあって、どんなに肩書きが上でも『さん付け』なのが暗黙のルールだった。だから、俺は今日も呼ぶ。 「岡田さん。チェックお願いします」  色素の薄いはしばみ色の瞳が上がり、俺のレンズ越しの視線と絡んだ。そういう体質なのか、髪も茶色、肌も日焼けを知らぬように真っ白。今年三十路になるというのが嘘みたいに、小柄で小顔で線が細い岡田さんは、資料を受け取って俺を労ってくれた。 「ご苦労。君は仕事が早いな。少し休憩すると良い」  内容とは裏腹に、ここまでニコリともせず、鋭い眼光は揺るがない。 「ありがとうございます。ついでですから、岡田さんも紅茶、飲みませんか」  分かりにくいが、切れ長の瞳が、ふっと細められた。 「そうだな。君の淹れる紅茶は美味い。金を払いたいくらいだ。頼む」  ――よっしゃ!  俺は心の中でガッツポーズする。    入社二年目、岡田さんが時折僅かに目を細めるのが、『笑って』いるのだと気付いてから初めて、紅茶の淹れ方を誉められた。紅茶党の岡田さんの為だけに、喫茶店をやっている友人から、淹れ方をみっちり教わった甲斐がある。  俺は思わず鼻歌なんかを歌いながら、給湯室で丁寧に紅茶を淹れる。勿論、茶葉から。今日はせっかく誉められたから、ブランドはフォートナムメイソンに。  ポットとカップは予め湯通しして温めておき、電気ポットのお湯ではなく沸騰したての熱湯で茶葉が開くまでゆっくり蒸らす。焦りは禁物だ。――何事も。  茶葉を蒸らす間、俺は二年前の入社式を思い描いた。  時々おっちょこちょいを発揮する俺は、似たようなビルが乱立するオフィス街に戸惑っていた。東北から上京したばかり、右も左も分からぬ俺は、会社から送られてきた大雑把な地図を握り締めて焦っていた。  あと二十分で入社式が始まるというのに、巨大なビル群に圧倒され、ひとつひとつのビルのぐるりを回ってはここではないと落胆し、早足に行き過ぎるひと波が恐くて尋ねることも出来ずにいた。 「君、新入社員かね?」 「え?」  上ばかり見ていたから、傍らにひとが立ち止まったことにも気付かなかった。  見下ろすと――俺は183センチだから、きっと170前後だろうな――サラサラした茶髪を風になびかせた岡田さんが、やはりニコリともせずに立っていた。  俺にとっては恐怖の対象である『ザ・東京人』みたいな垢抜けた岡田さんに、応えることも出来ずに固まってしまったのを覚えている。この時はまだ、目元が僅かに細められていることにも気付かなかった。 「その封筒。我が社の入社式に出るのかね?」 「あ……は、はい」 「着いてきたまえ」 「へっ」  緊張して変な息漏れしか返せない俺の手首を掴んで、岡田さんは俺を自社ビルに連れて行ってくれた。その時は、受付まで俺を導いてさっさと踵を返す背中に、お礼のひと言も言えなかった。  でも配属先で係長だった岡田さんを見付けて、偶然に仰天し、やがて恐縮し、深々と頭を下げてまずはお礼と相成った。  ルーティーンになっている思い出をひと巡りして視線をおろすと、砂時計はきっちり最後のひと粒が落ちるところだった。  茶こしを使って岡田さんのマイカップに紅い液体を注ぎながら、俺は頬を綻ばせる。  二年。二年待った。あの無口で無愛想な岡田さんが、時々笑って、紅茶の腕まで誉めてくれるようになった。そろそろ。そろそろ、機は熟したんじゃないだろうか。  紅茶をデスクに持っていくと、岡田さんは、また微かに目を細めてありがとう、と言って桜色の唇をカップに付けた。     *    *    *  ――貴方の桜色の唇に。唇で触れたい。  いつか何処かで聴いたメロディーが、ぐるぐると脳内でヘビロテしていた。俺は頭上の桜は見ずに、岡田さんの艶々した唇ばかりを目で追っていた。  社員旅行はなかったが、この時期、希望者を募って花見をするのが通例になっていた。岡田さんは楽しくもなさそうな顔をしている癖に、毎回律儀に参加している。だから俺も参加する。  岡田さんが自分語りをすることはなかったけれど、アイスティーのペットボトルを片手に、酔って饒舌になった部下の愚痴などを聞いていた。きっと、これも仕事の一環なんだろう。  うらうらとのどかな陽射しを受け、岡田さんの茶髪が明るく光っていた。 「亀梨」  不意に呼ばれて、鼓動が跳ね上がる。 「はい」 「抱いてくれ」 「……はっ?」 「抱いてくれないか」  岡田さんは確かに俺を呼んだし、視線も合ってる。  いや、でも、周りにみんな居るし。焦っちゃ駄目です、岡田さん。 「え……えーと」  冷や汗をかいて固まっていると、不思議そうな顔をした岡田さんが、華奢な拳を伸ばしてきた。 「だ、駄目です。岡田さん」 「何が駄目なんだ。アイスティーを取りたいんだが」 「……へ?」  俺の後ろには、ビール缶やペットボトルが纏めて置いてある。 「あ……はい。どうぞ」  岡田さんの好きなブランドのアイスティーを取って、手渡す。受け取った岡田さんは、キャップをひねって桜色の唇をつけた。  ――貴方の桜色の唇に。唇で触れたい。  またメロディーが流れ出す。  どうかしているのは、俺の方だった。『退()いてくれ』だった。  酒はザルの筈の俺だったけど、そんなこともあって、何だか悪酔いしたようだ。スーツのジャケットを丸め頭の下にして、ブルーシートの隅に寝そべる。  ――ほら、魔性の神様が。花の陰から弓をひいて狙ってる。  分かってる。もし拒まれたら、もう岡田さんの下で働くことが出来なくなると。後生です神様。初めて好きになったひとが同性で上司だっただけなんです。  そんな風に祈りながら、俺はフレームレスの眼鏡ごと、片手の甲で瞼を覆った。 「……なし。亀梨」  薄目を開けると、触れそうなほど近くに、岡田さんの桜色の唇があった。周りに居た同僚たちは、いつの間にか消えていて。  俺は何だかフワフワした心地で、下から岡田さんのうなじにしっかり手を回し、強く引き寄せた。 「わ」  バランスを崩して、岡田さんが降ってくる。ついに唇が触れ合って、眼鏡の金具がささやかな金属音を立てた。 「いたっ……!」  だけど甘い雰囲気にはならず、岡田さんが小さく悲鳴を上げる。しまった。彼女居ない歴イコール年齢の俺は、キスする時に眼鏡を外すことさえ分からなかった。  岡田さんの秀でた額は、切れて真っ赤な血を滲ませている。 「あ。すみません!」  俺はガバッと起き上がって、岡田さんの両手首を掴み、その傷をペロペロと舐める。岡田さんの味がして、何だか夢中になってしまった。 「ちょ、やめ……っ」  俺の下で、岡田さんがもがく。  駄目です。やめられない。血が出てるじゃないですか。 「この……ッ馬鹿! お前は犬か!!」 「ゴフッ」  見かけによらず重い右ストレートが腹に決まって、初めて俺は我に返った。 「あれ。おか……ださん?」  辺りは薄闇に包まれ、頭上の桜ばかりがライトアップに眩しく揺れている。  夢? いや。  あの岡田さんが顔を赤くして、俺を睨み付けている。その額には、ピンク色の傷口が。表情とも相まって、何処かエロティックだなんて思ってしまう。 「いい加減、帰るぞ」  岡田さんが立ち上がる。 「あれ。今、俺」 「彼女の夢でも見たか? 勘弁してくれ」  冗談めかそうとして、岡田さんは失敗していた。怒ったような、傷付いたような口調に、俺も立ち上がって告白する。 「彼女なんて、居ません。岡田さんだって分かってて、キスしたんです。俺……岡田さんのこと」 「ストップ!」  珍しく、岡田さんが大きな声を出した。 「帰るぞ」  つれない態度を取る癖に、その顔色は真っ赤で。唇だけが変わらず、桜色だった。 「帰りたくない、です」  俺は後ろから岡田さんを抱き締める。 「何だその、オトコを落とす時のOLみたいな台詞は……」 「岡田さん。ドキドキしてる」 「は?」 「岡田さんの背中から、ドキドキが伝わってくるんです。岡田さんも、俺のドキドキ、感じてください」 「……速いな」 「冗談でも遊びでもありません。好き、なんです」  ああ。言ってしまった。期待と後悔が、胸の内で盛大にシャッフルされて目眩がする。 「……離婚歴があるんだ」 「えっ?」  不意の話題に、一瞬混乱する。 「お前は……俺を、捨てないか?」  岡田さんの胸の前で抱き締める俺の腕に、躊躇いがちに細い指がかかった。 「捨てるなんて! 一生、幸せにします!!」 「……帰るぞ。俺の家に」  ドキドキしっぱなしなのに、岡田さんはうるさそうに俺の腕を振り解く。向き直って、岡田さんはチラリと一度だけ、目を合わせてくれた。 「それなら、良いだろう」 「は……はいっ!」  貴方の桜色の唇に。触れることが出来た。一生、幸せにします。  もうあのメロディーが、恨めしく聞こえることはない。代わりに、今日の日の記念歌のように、胸を温めることだろう。 End.

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