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天使強襲、妖精覚醒
それは余りにも突然の出来事だった。
唐突に目の前が眩いほどの光が照らされ、その中心からふんわりとした雰囲気の薄い茶色のマッシュヘアの大きな白い羽根の天使が現れた。
『鈴木さん、すっかりお寝坊さん』
何故、俺の名前を知っている?
いや、その前に何で天使なんだ?
まだ約半世紀しか生きていないのに、もうお迎えなのだろうか。
余りにも唐突な展開に呆然としている俺に天使が優しく微笑みながらそっと差し出したのは………鍋?
俺が呆然とその鍋を見つめていれば天使はゆっくりとその蓋を開け、優しい湯気と共に立ち上る…味噌汁の匂い…?
『鈴木さんの大好きなワカメと油揚げのお味噌汁ですよ』
聞き覚えのある声…それも良く聞く声。
この声は…確か…
そんな事を考えていると、不意に天使の顔が近づいてきた。
吐息がかかるくらいの場所まで。
『できれば…毎日こうして…』
優しく甘い声。
少し切なげに揺らいだ表情で近づくその顔が誰か、確認しようとしたところで…
………目が覚めた。
「うわぁぁぁぁッ!!!」
「…っ…‼おはようございます、鈴木さん」
さっき夢に出てきた天使と同じ声が目の前から聞こえ、その目の前にはマッシュヘアの茶髪の青年の満面の笑顔がドアップで迫っていて貴幸は思わず雄叫びを上げた。
部屋に漂っているのは紛れもなく味噌汁の匂い。あまつさえ玉子焼きの匂いも混じっている。
「おはよう…慧くん…」
聞き覚えもある筈だ。
目の前にいる茶髪の青年は定休日の日曜以外夕食の世話になっている焼き鳥屋のバイトの子だ。
………しかし、だ。
どう見てもここは貴幸の自宅であり、焼き鳥屋の従業員と客以上の関係がない彼がどうしてここに居て、更には朝飯まで作っているのだろうか?
貴幸の思案の表情をどう捉えたのか、慧は顔を離し布団の横で貴幸に向かい体育座りをすると淋しげに目を伏せ口を開く。
「…昨夜のこと…覚えてないんですか…?」
「…え…っ?」
慧の顔をぼんやりと見つめ、今居る状況と慧の言葉に混乱しながらも貴幸は昨日の記憶を辿る。
確か昨夜は職場の結婚退職する子の送別会で小料理屋に行き、その後二次会でカラオケに行き、まだ飲み足りないという部下を連れて馴染みのスナックに行き、更に夜はこれからだという部下に連れられて…どこかに飲みに行った…ような気がする。
馴染みのスナック以降の記憶がすっぽりと抜け落ち、どれだけ呑んだのかは酒には滅法強い貴幸が久々に感じる頭の奥でズンズンと響く二日酔いの音が証明している。
…記憶がないことと、慧がどう繋がるというのだろうか…?
ただでさえ二日酔いで回転の鈍い脳で一生懸命思案しながら、とりあえず水でも飲んで頭を覚醒させようと目頭を軽く指で摘まんでゆっくりと起き上がった途端、貴幸は自分が全裸である事実に初めて気づくと、どうしたら良いだろうかと寝ぼけた頭で考えている途中でバランスを崩し、隣で座っていた慧を押し倒してしまった。
「…ごめん…ッ…?!」
「…ぁ…っ…」
ビクッと慧の身体が跳ね、近視でぼやける視界にも判るくらい間近で慧の鎖骨の窪みにどぎつくつけられたキスマークが目に飛び込むのと同時に、鼻先を掠めた甘い体臭と小さな喘ぎに記憶が一瞬にして蘇り、二日酔いだった頭は完全に覚醒した。
つまり、この状況は…
その、いわゆる………
「思い出して…くれました?」
慧の身体の上であまりの事の重大さに完全に固まってしまっている貴幸の天然パーマのかかったくせのある髪をそっと撫でながらいつもの優しいふんわりとした声が響き、ハッとしたように身体を離そうとした貴幸の背中をギュッと抱きしめるとそのまま慧は態勢を入れ替えて貴幸の上に乗ると顔を近づけて啄む様に口づけるとニッコリと笑う。
「責任、とってくれますか…?」
その真っ直ぐな瞳に直ぐに否定する事が出来るような状況ではない。
だが、どう責任を取ればいいのだろうか?
男女であればともかく、男同士なのだ。
どうすればよいのだろうか…?
考えあぐねその真っ直ぐな瞳が痛くなり貴幸が目を伏せると小さく息を呑む音が聞こえ、伏せた瞼に羽根が触れたような口づけがひとつ、ふたつ、と落とされ、最後にもう一度触れるだけの口づけを感じた後、貴幸の身体にずっとあった重みが不意に軽くなり両腕を掴まれると起き上がらせられる。
「…ふふ、なんて冗談です。一晩泊めて貰って気持ちよくして貰ったお礼に朝ごはん出来てますよ。服着たら食べましょう?」
いつもの明るい声にふと目を開いた貴幸のぼやけた視界にも判るくらいの酷く切なげな今にも泣いてしまいそうな慧の表情に胸を締め付けられ、貴幸は何ともいえない気持ちで一杯になり掴まれていた慧の手を振りほどくとそのまま背中を強く抱きしめた。
「…鈴木…さん…駄目です…っ…」
胸元で聞こえる堪えるような涙声に更に胸を締め付けられる。
抱きしめる腕の中で小さくなっている慧に、切なくも温まる気持ちになる自分に驚きをながら貴幸は首筋に鼻先を寄せる。
この感情は………?
いつだったか遠い昔に感じた事のある感情に何のどんな記憶だったかと思いあぐねながら、その体温に、匂いに。
貴幸の中でふと昨夜の記憶の中に残る声がリフレインする。
『…ずっと…ずっと…好きだったんです…』
何度も、何度も。
繰り返し、繰り返し囁かれた言葉に偽りはないだろう。
多分、いやおそらく。
慧は自分の事を恋愛対象として好きなのだろうと感じた。
そしてその時、俺は…?
貴幸は快楽の中で感じていた自分の感情を思い返す。
愛しい、と思った。
自分の腕の中で快楽に溺れながらも、その場限りの愛情ではないと繰り返し伝えてくる慧に。
慧と逢った時に感じていた暖かな気持ちはここに繋がって居たのだと、心にも身体にも刻み込まれていっていた。
そうか、この気持ちは。
遠い昔過ぎて忘れてしまっていたし、もう二度とこんな感情を味わう事などないとも思っていた。
目の前で小さく震え必死に涙を堪えている慧を傷つける全てのものから護ってやりたいと思うほどの、強い愛。
これほどまでに真っ直ぐに愛情をぶつけられた事は今までなかった。
あれほどまでに真剣な告白を冗談で済まそうとさせた事に貴幸は強く後悔の念を感じる。
ただ、どうすればよいのかわからず混乱したばかりに。
常識ばかりに気を取られたせいで。
ほら、また本能を、本心を蔑ろにしそうになった。
あの時みたいに。
お前は何も変わっちゃいないんだ。
貴幸の中の誰かがそう言って嗤う声が聞こえた気がした。
責任の取り方なんて。
そんなことは後からでもどうとでもなる。
ただ、この今一瞬は。
半世紀近く生きてきて、こんなにも強く愛しいと思えた人を二度と手放さない機会は今だけだ。
「鈴木さん…っ…離して…下さ…い」
「…離さない」
自分の中で嘲笑う誰かを振り払う様に貴幸は身を捩り離れようとする慧の耳元で力強い声で返す。
「…でも…っ…でもっ…」
まだ堪えている涙声はかなり震えている、それでも嗚咽を出さないように。
貴幸に迷惑を掛けまいと、必死で。
どこまで自分を想ってくれているのか、この子は。
二回り近く歳は離れているというのに。
背中に回した腕に力を込め安心させるように背中を撫でながら、貴幸は耳元で囁く。
「…常識に囚われすぎてどうやって責任を取ればいいのかわからずに混乱していただけだ。済まない」
「…ぇ…っ………?」
驚いたような慧の声が胸元で響く。
その吐息の熱さも愛しいと感じながら、曖昧にしてしまえば又きっと誤解してしまう真っ直ぐな慧にも伝わるように言葉を繋ぐ。
「きちんと慧の人生の責任を取る。それは義務ではなく、愛情として。これからずっと」
「鈴木…さ…」
貴幸の言葉に驚いた様に顔を上げた慧の少し下がった大きな瞳の目尻に溜まる涙に貴幸は唇を寄せて吸い上げる。
「…昨夜みたいに貴幸、って呼んでくれないの?」
何度も、何度も呼ばれた。
肌を重ねあいながら。
甘い吐息混じりに、愛しげに。
その声に満たされた気持ちになっていったのも事実だ。
「たか…っ…ゆきぃ…貴幸ぃ…」
とうとう堰を切ったように垂れ目の大きな瞳から大粒の涙をポロポロと零ししゃくり上げながら慧は貴幸に抱きつくと表情を隠す様に胸元に顔を埋め愛しそうに貴幸の名を繰り返し呼ぶ。
何て愛らしいのだろう。
こんな気持ちは余りにも久しぶり過ぎて、まるで初めて感じるかの様に貴幸は優しく微笑むとあやすように背中を叩きながら慧を優しく抱き締める。
常識なんて、世間体なんて糞食らえだ。
どうとでもなる、いやどうとでもする。
この愛おしい存在を護るためなら。
ついぞやまで混乱していた自分を棚に上げ、貴幸は芽生えて完全に自覚し覚醒した愛情という名の感情の塊を大事に大事に抱え込む。
「…っく…いいの…っ?」
そのまま、暫くの間。
貴幸の胸元を熱い雫が伝い漸くそれが少し落ち着いた頃、ポツリと慧が呟いた。
「…何が?」
自分でもこんなに優しい声が出せたのだな、と自嘲しそうなくらいに甘い声で貴幸は慧の柔らかな髪を撫でながらそう尋ねる。
「…奥さん…っ…居るのっ…判ってるのに…っ…勝手に…っ…ほとんどっ…意識ない…っ…鈴木さ…襲って…っ…その上…っ…責任取れ…っだなんて…っ…無茶…言ってるのにっ…」
おそらく伏せられたままの慧の一時治まっていた熱い瞼を胸元で感じながら、貴幸の愛情に躊躇しているらしい慧がしゃくり上げながら呟く。
その言葉に貴幸はふと首を傾げる。
…奥さん?
これまで半世紀近くたった一度の痛手から臆病になった挙げ句、未だ出生以外の何もない美しい戸籍を保つある意味所謂妖精にでもなっていそうな貴幸である。
何故慧がそう言うのだろうかと疑問に思いながら、背中越しに見える自分の左手の薬指のいぶし銀になったリングを見つけこのせいか、と納得する。
誰も信じられなくなって、あの痛手の直ぐ後に本来なら倖せを繋ぐ筈だったものを、自分の痛手を忘れない為に、そして群がってくる女達を避ける為に纏った心の鎧。
これまで幾度となく。
その呪縛を解き放とうとさせようとした人間は居た。
それでも。
貴幸の鎧を解き放てる人間は誰一人居なかった。
皆、無理矢理脱がせようとしていたから。
外からの力ではどうにもならないのに。
それをいとも簡単に。
外側からただただ暖かい愛情という名の光で温め、自ら脱ぎたいと思わせた。
どこかの寓話のように。
貴幸はふっ、と笑うと、抱き締める手はそのままにその深く肉に食い込んだ呪縛の塊をゆっくりと抜く。
遠く見える残像、日付も名前の刻印もとうに薄れ、目の前の愛しい人の前でそれら全てが掻き消えていく。
抱き締める手の力を緩め髪を撫でながら慧の顔を自分の方に向けさせるとその呪縛の塊を慧の目の前に翳す。
その塊を直視したくないというように視線を逸らした慧の頬にそっと口づけると口を開く。
「慧だけだよ。嫁も子供も居ない。何なら今からコンビニ行って戸籍謄本でも見せてあげようか?」
「…え…っ…でも…っ」
逸らした視線を一度リングに戻し慧が口籠もる。
あれだけ自分を煽っておいて今更のように躊躇している慧がたまらなく愛おしい。
そんな慧をそのままに貴幸は慧の背中を抱くとゆっくりと布団に押し倒すと、その涙に濡れた顔をただ愛おしそうに見つめて柔らかくふっくらとした唇を啄む。
「鈴木さ…っ…」
「貴幸」
「貴幸…っ…」
いつの間にかいつもの呼び方に戻っていた慧を正すように問いかけると、ギュッと強く首元に抱きつきながら甘く名前を呼ばれる。
何ともいえない甘い感情を感じながらそんな慧の髪を撫でこめかみに口づけを落とすと貴幸は真っ直ぐに慧の瞳を見つめて口を開く。
「これはね、永遠の愛を誓ったものではない。俺を護る為だけのただの鎧だったもの。でもこれからは…」
ゆっくりと慧の左腕を取ると、その鈍く光るリングをそっと慧の男にしては細く長い薬指に滑り込ませる。
「慧を護る為だけの御守り」
貴幸の指とは比べものにならない細い指には余りにも大きすぎてゆるり、と塡まった薬指のリングを呆然と見つめる慧のその指先にそっと口づけを落とす。
「…たか…ゆき…っ…」
「でも流石に護れるだけの大きさじゃないな。直ぐにどこかへ消えてしまいそうだから今日、買いに行こう」
自覚し、覚醒した、遅咲き過ぎる妖精は無駄に経験値も稼いだ金も高い分だけかなりタチが悪い。
余りの怒濤の展開に、自分の質問にすら全て答えてない貴幸に未だ状況が理解できない慧は呆然と貴幸を見つめる。
「えっ…と…あのっ…」
すっかり自己満足の世界に浸っていた貴幸の耳元に躊躇するような慧の声が響き、そういえば残りの質問に答えていなかったな、と思い返すと、貴幸は目の前の鎖骨の窪みににある自覚のなかった昨夜の自分が勝手に付けた朱い欲の証に愛情と独占欲の混じった更に強い紅を植えつけると耳元に唇を近づけ口を開く。
一言で全ての質問が氷解する、その言葉を。
「慧を、愛してるよ」
強すぎる刻印に小さく身を震わせ熱い吐息を洩らした慧の耳元を揺らす甘い言葉に慧は驚いたように濡れた瞳を見開くと、首筋から顔を離し愛しげな優しい眼差しで真っ直ぐに慧を見つめ返す貴幸にその瞳は直ぐにふんわりと柔らかな半月に変わる。
「僕も…っ…僕も…っ…貴幸っ…貴幸だけ…っ…ずっと…ずっとっ…愛してるよ…っ」
慧の甘い声に貴幸は優しく髪を撫でると鼻先に一つ口づけを落とす。
「だからちゃんと責任取ってね」
「………!!」
ニッコリ、と。
満面の笑みでそう囁く貴幸をやっぱり素敵だなぁ、と場違いに見惚れている慧の唇に貴幸の少し厚めのぽってりとした唇が重なって直ぐに離れる。
「ちゃんと意識のある俺に、慧の全てを全部、ちゃんと教えて」
優しく。
愛しげな甘い瞳でそう囁かれ、慧は自分の意思を言葉にすることも出来ない位に満たされた気持ちで胸がいっぱいになると一つ小さく頷いてそっと貴幸の頭を抱き寄せると唇を重ねる。
それを合図に貴幸は舌先で味わうように慧の唇を舐めながら息苦しさに少し開いたそこに舌を差し入れ、歯列をなぞるように愛撫する。
何度も何度も繰り返される余りの優しい愛撫にゆっくりと歯列が開かれていき、貴幸の舌が慧の舌を捉える。
歯列をなぞっていたときとは逆に、激しく突き立てられ絡め吸い取られる口づけに慧の唇はもっと強く、と求めるように開いていき、貴幸はより深く口づけていく。
互いに愛情を確かめ合うように強く舌を絡ませ、静かな朝餉の匂いが漂うもう陽射しも上がりきった暖かい室内にぴちゃぴちゃと甘い水音だけが響き、全てが愛情の証だと必死に飲み込む慧の唇からも溢れ出す位の甘く熱い二人分の愛の雫が絡まって慧の口端から零れ落ちていく。
どれくらい、そうしていたか。
うっすらと開いた瞼の先に見えた慧の目尻に溜まる涙と荒い息づかいに名残惜しさを感じながらも漸く貴幸は唇を離した。
「…ん…っ…ふ……っ…は…ぁっ」
100メートル走をオリンピック選手とデッドヒートするくらいに全力疾走したような荒い息を吐き出しながら、慧はくたり、と貴幸の背中に回していた腕を布団に落とす。
二人の間をねっとりとした銀糸が糸を引き、貴幸はそのまま舌を伸ばすと慧の口端から零れ落ちている雫を舐め取ると荒い息を繰り返す慧の瞼に口づけ、力の抜けた慧の薬指のリングを指先で撫でる。
「この調子…じゃ…今日は…指輪は…無理かな?」
貴幸も息を上げたまま掠れた低い声でそう囁くと、その今まで聞いたことのないセクシャルな声に慧の腰の辺りがずくん、と重く響く。
「…ん…っ…まだまだ…っ…だよ…?もっと…っ…もっと…ぜんぶ…っ…ぼくを…っ…知って…っ。もっと…もっとっ…」
慧は掠れた甘い声で言葉を紡ぎながら力の抜けた手でそっとリングを撫でる貴幸の指を掴むとそのまま指先を絡ませると、真っ直ぐに貴幸を見つめて言葉を続ける。
「貴幸の全部…僕にも…っ…ん…っ」
言葉を紡ぎ終わる前にその余りの愛おしさに貴幸はその甘やかな囁きを洩らす唇を塞いだ。
自分の愛情を教えるために。
慧の愛情を知るために。
柔らかな唇の感触を味わいながら、貴幸はふと目覚める前の夢を思い出した。
あの唐突な夢は現実だったのだな、と場違いな事を思いながら、それを確実な現実にする為に深く慧に口づけた。
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