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Smoking Cinderella

 店内の妖艶なピンク色の照明が、グラスに反射してユラユラと揺れている。  揺らいでいるのは、俺の視界だ。  その理由は、慣れない酒を飲んだ所為か、初めて訪れた二丁目の空気の所為か、それとも両方か。 「……別に何だっていいし」  誰にともなく呟いて、目の前のグラスを空にする。  ずっと憧れていた───いや、憧れ以上の感情を抱いていたサークルの先輩に、ものの見事にフラれた俺は、自棄と自虐に駆られて夜の二丁目へやって来た。  先輩がノンケであることは知っていたし、そんな彼と特別な関係になれるなんて高望みはしていなかった。ただ、仲の良い後輩として傍に居られたらと。  けれど、やはり嘘というものは必ずバレてしまうものらしい。  俺が先輩に惚れている、という出処のわからない噂は、ある日突然流れ出し、瞬く間にサークル内に広まった。噂を流した張本人を突き詰めるつもりなどないし、そもそも真実なので否定も出来ない。  ただ、何よりショックだったのは、先輩との交流がそれ以降プツリと途絶えてしまったことだ。  就活もあるからと他のメンバーには話していたようだが、サークルを抜けた先輩の名前が、俺のLINEのリストから消えたことが、彼からの拒絶を示していた。  どうせ実らない恋なのだからと、密かに先輩と色違いの腕時計を買ったりした。  辛いものが好きな先輩と食事に行きたくて、毎回舌が焼ける思いをしながら好みが合うフリをした。  先輩の纏う匂いを感じていたくて、彼の吸う煙草を自宅で吸ったりもした。  ───あ、確かに俺気持ち悪いな。  改めて思い返して、自分の執着心に呆れた嗤いが漏れる。さすがにこれは引かれたって仕方ない。  どのみち俺ももうサークルには居られないし、飲んで飲んで、何もかも忘れ去ってしまいたくて。  何ならそのまま、行き場を失くした感情を身体ごと誰かにぶつけたくて。  でもどうすればいいのかわからなくて……。  もうかなり酔いは回っていたけれど、更に強い酒をオーダーしようとしたとき。 「隣、いいかな?」  頭上から耳障りのよい声が降ってきて、ぼんやりと顔を上げる。  スッと鼻筋の通ったイケメンが、細めのスクエアの眼鏡越しに俺を見下ろしている。白のジャケットとカラーシャツをこんなにも嫌味なく着こなす男は初めて見た。  服装も容姿も華やかなのに、軽率そうな雰囲気は微塵もない。 「見慣れない顔だけど、もしかして初めて?」  俺の返事を聞かないまま、隣に腰を下ろしたイケメンが続け様に問い掛けてくる。 「あら、ヒロちゃん。随分久々じゃない」  馴染みなのか、マスターが親しげな笑みを男に向けた。 「最近忙しくてね。やっと一山越えたところ」 「今日はいつもの?」  そこで、男は何故かチラリと隣の俺を一瞥してから、「いや、今日はシルバーストリークで」と首を振る。酒に詳しくない俺はさっぱりわからなかったが、意味ありげに微笑んだマスターは、男の前に琥珀色の酒が入ったカクテルグラスを差し出した。 「差し出がましいのは性に合わないけど、君みたいな子がヤケ酒するのに、この場所はお勧めしないよ」 「え……?」  何も答えていないのに、全てを見透かしているような男の言葉にギクリとなる。  そんな俺をそれ以上問い詰めるでもなく、男は取り出した煙草に火をつけた。見たことがないパッケージだ。  隣に座られたときには匂わなかったのに、煙草を取り出すところから口に咥えるところまで、一連の所作がとても様になっていて、つい見入ってしまう。  形の良い唇から吐き出された紫煙が、ゆらりと立ち上る。  先輩が吸っていたものとは違う、渋くて苦いその匂いに、不意に目頭が熱くなった。  本当に溺れたかったのは酒でも欲求でもなくて、涙だったのかも知れない。  俺自身は決して煙草の匂いが好きなわけではないはずなのに、隣の男が黙って燻らせる煙は、不思議と胸に温かく沁みた。  いくら店内とはいえ、公衆の面前で、ましてや初対面の人間の前で泣くのも、恥ずかしいやら情けないやらで、両手で顔を覆う。  ズ…、と鼻を啜る俺の横で、「彼にノンアルコールを」という声がした。  質問に答えるどころか、いきなり泣き出すような見知らぬ相手に何でそこまで…と、益々泣きたくなる。  コト、とグラスが置かれる音がして指の隙間から覗き見ると、目の前に鮮やかなイエローのカクテルが用意されていた。更に隣から、一枚の名刺が視界に滑り込んできて、思わず顔を上げる。  いつの間に飲み干していたのか、空のグラスを前に、男は灰皿で煙草を揉み消して静かに席を立った。 「機会があれば、今度はもっとゆっくり飲もう」  そう言い残して颯爽と店を後にする男の姿は、まるでドラマか映画のワンシーンみたいだった。  彼がいつも決まって飲むカクテルは、恋情を拒む『ブルームーン』であること。  この時奢ってくれたカクテルの名前が『シンデレラ』だということ。  それらは、彼が去った後、マスターが楽しげに耳打ちしてくれた。  ───シンデレラはそっちだろ。  彼が残していった小さな紙のガラスの靴を見詰めながら、俺は微かに残る煙草の匂いを、胸に深く吸い込んだ。

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