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第2話
統太はスマホでNail Excellentに予約をいれた。もちろん指名を忘れないように。
仕事が終われば楽しみが待っていると思うと何もかもが上手くいく気がする。そのせいか無事、残業もなく誰かに声を掛けられることもなく会社を出ることが出来た。
予約時間の五分前、小さな扉の前に統太は立っていた。はずむ気持ちを抑え小さく息を吐いてからドアを開ける。
「こんばんは」
覗き込むようにドアを開けると馨が迎え入れてくれる。
「いらっしゃいませ! お待ちしてました」
統太は思わず目を細め満面の笑顔になり、嬉しさを隠せてないことに頬を赤らめた。
「お願いします」
統太は上着を脱がせてもらい席に着くと
「あのっ、すごく気分よく過ごせました! 仕事もなんか上手くいってるような気がするんです」
と嬉しそうに言い、馨は
「それはよかったです。指先はいつでも目に入るから、きれいになってるだけで気分が上がりますよね」
と統太の手を取りながら笑顔になる。
「女性のお客さんによく見られてるみたいで、話題作りにもなるんです。あ、僕は営業やってるんで」
「大変そうなお仕事ですね。お役に立てたら嬉しいです。今日はネイルケアにハンドマッサージも入れてくれたんですね、ありがとうございます」
馨は道具を揃えながら今日のメニューの確認をした。統太は少しでも長く馨と話をしたくて、自分がやってもらってもおかしくなさそうなメニューを追加したのだ。
「最初に前回と同じように爪の長さから整えますね」
馨は指先を親指と人差し指で挟んで爪を削り始める。
「すみません、また乾燥してますよね。頑張って保湿してたつもりだったのに」
「お仕事で書類とか紙類をよく触ったりしませんか? そういうことでも乾燥するんですよね」
「そうなのかー。パンフレットや契約書類を毎日触ってるから。あと、一人暮らしで家事を少しやるんでそれもあるかも」
「一人暮らし大変ですね。自炊もしてるんですか?」
「そうなんです。仕事も一人暮らしもなかなか慣れなくて。でもなるべく食事は作りたいと思ってます。お惣菜買ったりすることもあるけど」
二回目だから少し親しくなった気持ちで、統太は誰にもしていなかった一人暮らしのことを少しだけ口にした。
二人だけの空間、向かい合って手を触ってもらって親近感が一気に増している。統太はいろいろ話したいと思っていた。その気持ちを察するように馨はこの前はしなかった質問をした。
「お家はこの近くですか?」
「そうです、歩いて十分くらいかな」
「遅くまでやってるスーパー知ってますか? サノヤっていうところ」
「知らないです、いつも一駅向こうの駅前のイヨンに行ってます」
統太は動き続ける馨の手を見つめている。職場では仕事の話と学生時代の話くらいしかしたことがなく、就職してから近くに友人もいなくて、さらにこんなご近所情報を話せるなんて思ってもみなかったから嬉しくて仕方がない。
「ここの前の道を駅とは逆に進んで突き当たって左に曲がると三件目くらいかな? 間口が狭くてわかりにくいけど、自転車がたくさん止まってるからわかると思いますよ。たぶん夜十二時までやってるはず」
「じゃあ仕事が遅くなってもやってますね、いいこと聞いた〜」
「僕も一人暮らしなんですよ、だからよく帰りに買い物して家でご飯作るんです」
「一人暮らしの先輩ですね、いろいろ教えてください」
会話が弾んでいる間に指先はまたきれいに整っていた。
「次にハンドマッサージしますね。肘までシャツをめくらせてもらってもいいですか?」
馨は慣れた手つきでシャツの袖を丁寧にあげながら肘のところで落ちてこないように曲げてとめた。
「ちょっとシワになるかもしれませんが」
「もう帰るだけだから気にしないでください」
にこやかな顔を返して馨はたっぷりとハンドローションを手にとり、左右の手のひらで温めるようになじませてからくるくると手先から腕全体にのばした。肌の上を滑るように動いて全体に馴染ませると手首から肘に向ってほどよい強さで擦り上げたり腕をつかむようにしたりしてマッサージをする。普段触らないようなところを刺激され統太はふーっと息を吐いた。
「加減はいかがですか? 強すぎて痛かったら遠慮なく言ってくださいね」
「気持ちいいです、ちょうどいい刺激で。こういうの初めてですけど、すごくいいですね。みんなやればいいのに」
自分も初めてなのに何言っちゃってるんだと統太はちょっと恥ずかしく思ったけど馨は気にしてないようだ。
「あまり手のマッサージってしないですよね。でも手を使わない日はないから、もっと労ってあげてもいいと思ってます」
腕から手先のマッサージに移り、統太の親指と小指が馨の左右の小指と薬指に挟まれ手を広げられる。親指で手の甲を丁寧に擦り上げる刺激が張っている手の筋を意識させる。
「僕の手、疲れてるみたいです」
「そうですね、特に右手は常に使いますからね。でも今は左手もパソコンとか使うから同じくらい疲れてるかな」
指一本一本も揉み解され、裏返してまた手のひらをぐりぐりと押さえられるとなぜか体もぽかぽかしてきた。
「体も暖かくなってきたみたいです」
統太はなんとなく反対の手を見ながらそう言うと
「血行が良くなるのか、そう言う人が多いですよ」
と馨は指の間の水かきみたいなところを押さえながら統太を見て目を細めている。
「そこも気持ちいいー」
ふふふと満足そうに笑う馨は楽しそうに施術してくれる。好きなんだな、この仕事が。いいな、そういうの。
「そういえば、昨日サノヤでパイシートが特売に出てたんですよ」
「パイシート?」
突然またスーパーの話になって統太はパイシートがわからず疑問で返した。
「パイ生地が冷凍されてるんですよ。小麦粉から作らなくていいから便利」
「なんかおしゃれな食材ですね」
「そうかな? 鉄板にクッキングシートを敷いてそこにパイシートを隅まで伸ばして、トマトソースとかケチャップとかなんでもいいんだけど多めに塗って、タマネギやネギや昨日の残りのおかずとかのせて、溶き卵と溶けるチーズをかけてオーブントースターで焼くだけなんだけど」
馨は一気に謎の食べ物の作り方を話して統太の顔を見た。
「めちゃくちゃ美味しくて、冷蔵庫に余ってきた食材を一気に使えるんですよ」
「え、なんか想像がつかないけど……お腹空いてきました」
「あ、すいません、つい。美味しかった話を誰かにしたくて」
つい話したくなるようなことを自分にしてくれるなんて、統太はむずがゆくなるような気持ちで聞いてみた。
「残りのおかずは何を入れたんですか?」
と質問した。
「きんぴらごぼうとほうれん草とコーンの炒めたの」
「えー全然合わなそう!」
「それがそうでもなくて、ほんと何でも美味しくなるからやってみて下さいよ」
馨とこんな風に笑ってご飯の話をするなんて、統太は自分の生活がぱっと明るくなった気がした。仕事だけの毎日だったのに、生活に色がつく感じってこういうことなのかもしれない。
「サノヤ行ってみます。パイシート安くなってるといいな」
自分の手を行き来する馨の手を眺めながら、うつむく顔もしっかり見ていた。馨はその視線に気づいて目を合わせると照れたように笑って、また手の方に視線を戻した。
ホットタオルで軽く拭かれた手を統太はグーパーグーパーと動かして目を見開いた。
「なんだかすごく軽くなった!」
その様子を見守る馨はマスクを外して穏やかに微笑んだ。
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