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新しい恋の味
鼻先をかすめた懐かしいにおいに、顔をしかめた。
これは毒だ、危険だ、立ち去れ――と頭の奥でアラートが鳴る。においのした方へ目線を送れば、やっぱり、そこには喫煙所があった。
「煙草? 吸うんすか?」
喫煙所を一瞥した俺に、隣を歩いている棚橋が問いかける。普段は鈍感なくせに、目ざといやつだ、と思う。
「いや、吸わない」
「禁煙中すか?」
「もともと吸わない。見たことないだろ、大学とかで。俺が煙草吸ってるとこ」
「あー、言われたらそうすね」
「お前は? 吸ってくれば?」
「俺は禁煙中なんで、これっす」
棚橋は胸のポケットから棒付きの丸い飴を取り出した。チェリー味。
いたずらっぽい笑みを浮かべ、包装を乱暴に破り、飴を口へ放る。破いた赤い包装を、ジーンズのポケットへしまったのを、目の端で確認した。
「ブラストってわかるか」
「なんすか?」
「ブラックストーン。あれのチェリーフレイバーのにおいがした」
「……えっ? まさか煙草の話っすか?」
通り過ぎて、煙も届かない距離から、棚
橋が振り返って喫煙所を見る。
「煙草の種類が分かるんすか? 煙のにおいで?」
「ブラストのチェリーフレイバーしかわからないけどな」
「え、まじすか?」
信じられない、と笑う棚橋から、甘く加工されたチェリーの香りがした。
◇
「あ、吉村先輩!」
「……棚橋、お前、禁煙したんじゃなかったのかよ」
図書館から出た俺に駆け寄ってきた棚橋は、チェリー味の飴を口に咥えてはいたけど、纏う空気に煙草のにおいが染み付いていた。
「臭いすか?」
「……ああ」
「吸ってないすよ、斎藤先輩たちに捕まって喫煙所には行ってましたけど」
少し先にある喫煙所を、咥えていた飴を指示棒代わりにさして、棚橋が笑う。
すん、と鼻先を鳴らす。
「いやお前、煙草持ってるだろ」
微かに香ったのは、煙のにおいだけじゃない。煙草そのものの、ツンとした、草っぽいにおい。
安っぽい嘘をつかれたと思い、俺は棚橋の方を見もせずに歩き始めた。
「……吉村先輩って、鼻、良すぎじゃないすか?」
降参と言わんばかりに、棚橋がジーンズのポケットから、くしゃくしゃの煙草の箱を取り出しながら、ついてくる。手渡された箱は、見覚えのあるものだった。
ブラスト。チェリーフレイバー。
「……空じゃねえか、禁煙はどうしたんだよ」
「いや、吸ってないすよ」
「はぁ?」
要領を得ない物言いに、心の中で舌打ちする。馬鹿は嫌いだ、と思って。
「俺は吸ってないすよ。斎藤先輩がその〜……ポイ捨てしようとしたんで、しれっと拾ってきました」
言われて、情景が浮かんだ。斎藤は、俺といるときにもよく、悪気なくそういうことをしていた。
飲み終わったスタバのカップを道に置き去りにしたり、トイレの手洗い場に放置したり。
俺はそれを見るのが嫌いで、でもそれを指摘して面倒臭い奴だと捨てられるのも嫌で。だけど、それを言えない自分のことも、嫌で。
心の奥で砂を噛むような苦さを舐めながら、あいつと一緒にいた。それを、思い出してしまう。
「俺、嫌なんすよね、そういうの」
はっきりとした口調で、屈託無く棚橋が言った。
「……そういうの?」
「煙草のポイ捨てとか」
そういえば。
飴の包み紙を、棚橋が自分のポケットに入れていたことを思い出した。それを、無意識に自分が確認していたことも。
細かくて、我ながら面倒な性格だ。
「ポイ捨ては、自分の恋人の口の中に捨ててるのと同じなんすよ」
「……は?」
自己嫌悪に陥りそうになったところで、棚橋のわけのわからない理論が展開され始めた。
「たとえばっすよ、煙草をこう、排水溝とかにポイ捨てする奴いるじゃないすか。あれって土が吸うんすよ。地球が」
「……」
「それって巡り巡って雨になって俺らの上に降ってくるし、土は野菜を育てて俺らが食べるんすよ。だからポイ捨ては、自分の恋人の口の中にゴミを捨てるのと同じなんすよ」
真面目な顔で、なんならちょっとドヤ顔で、棚橋がそう言った。口に咥えていた飴を、やっぱり指示棒みたいに手にしながら。
「っはは! んだよそれ!」
弾けるように笑いが止まらなくなる。
馬鹿だなぁ、こいつ。そう思って。
でも。
嫌いじゃないなぁ。
「馬鹿だな、棚橋は」
「えっ?! 吉村先輩にだけは言われたくないすよ」
「なんでだよ」
笑いのおさまらない俺の口に、棚橋が、自分の唇を重ねる。
一瞬、自分が何をされたのかわからなくて。
けど。
「煙草味のキスなんかより、こっちの方が百倍うまいって、いつになったら気づくんすか?」
口に広がる甘いチェリーの味は、
新しい恋の味になる予感がした。
新しい恋の味
(うっせーな、童貞)
(どっどどっどうていじゃないすよ!)
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