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第1話

 生まれた時からずっと、海のそばに住んでいた。だから、海は特別な場所でもなければリゾートでもない。ただそこにあるもの、だった。  飽きる感覚もないぐらいになじんだその景色とは違うものが見たくなって、進学をきっかけに生まれ育った土地を離れてからは、ずっと海のない街を選んで住んでいた。  潮の香りもしない。海水の湿気も届かない。そんな街は空気みたいに軽くて快適で、でもどこか落ち着かない。  いつかそんなつまらないことを思うようになって、結局また海の近くに住むようになった。一美とおれと、一年中、湿気と潮の匂いを含んだ空気にさらされながら。  つり革を持ち隣に立っていた女性が、次の停車駅で降りるべく小さな声ですみませんと言いながら、おれの背後をすり抜けて行った。開いたドアから車外へ突き出た女性のハイヒールがホームへ着地するのとほぼ同時に、風がさぁっと車内に入り込み、その人のスカートをふわりと膨らませた。条件反射のように左手でスカートを押さえ、その手のほう、だから左方斜め後ろを伏し目がちにちらりと見やった時の女性の表情が妙に色っぽかった。頬には薄いピンク色が差し、上に向かってカーブした唇の端には降ってわいたアクシデントを恥じ入るような淡い微笑が浮かんでいる。  それによく似た色っぽい顔を、つい最近どこかで見た。  いつ。どこだ。  つり革を持ったまま、考える。  思い出した。  先週末、ちょうど一週間前の土曜の朝だ。  目覚まし時計のアラームが鳴るよりも先に目が覚め、ぼんやりした頭のまま、窓の方を向いてこちらに背を向けて寝ている一美の肩のあたりを見ていた。痩せている印象はあるけど、肩幅は結構あるんだなとか、もうそろそろ厚手のパジャマを出さなきゃいけないかななんて思っていた時、寝返りをうちこちらを向いたヤツが薄目を開けた。 「……もう、起きる時間?」 「まだ。朝飯作るから寝てていいぞ」  一美はおれよりも出勤する時間が遅く、平日はだいたい朝飯を作ってくれる。だからというわけじゃないけど、なんとなく土日はおれが台所に立つことにしている。とは言ってもコーンフレークとヨーグルトだけだったり、ご飯とみそ汁に目玉焼きの日もあったり、適当かついい加減で、それは二人とも大体同じ。  その日は珍しく、前夜ベッドに入ってから「明日の朝はホットサンドが食べたいなぁ」とヤツが言った。「じゃあ、覚えてたら作る」なんて答えたけど、ちゃんと覚えていた。  寝る前に脱いでベッドの下に放ったままだったTシャツをとり、袖に通したついでに両腕を天井に向かってぐーっと伸ばしたその時、わき腹にヤツの手が触れて、 「なぁ、したい」  はぁ? と聞き返すよりも先に腕を取られ、「こっち」とさっきはい出したばかりのベッドの中へ連れ戻された。  この男は最近何を考えているのか、おれを受け入れるくせに、何度聞いても「いく」とも言わないで、そろそろかなと思う頃合いになるとおれの名前を呼び付けそっちへ顔を向けさせると、満足そうに唇を合わせ舌をつついたりつつかせたりしているうちに、おれの手の中に温かいものを放出する。この日もそうだった。 「一緒にいくなんて、女じゃあるまいし。それぞれが気持ち良かったらそれでいいじゃん。好きだからこんなことしてるんだし」 「それはそうだけど、お前のいく時の顔が見たかったんだっつーの」 「じゃあ目、開けてれば。俺は、目は閉じる派だけど」  それだけ言うとくくっと笑い、湿った唇でおれの唇を端から端まで包み込んでいく。可愛げのないことばかり言うくせに、一美の唇は口に含むとほろほろと崩れ落ちてしまいそうに柔らかく、甘い熱を孕んでいる。それよりもやや硬さのある舌で、おれの口の中をまるで機嫌をうかがうように舐めたりつついてきたり、いじらしいことをする。そんなふうだから、唇を合わせているとつい、まぶたを閉じてしまう。 「なぁ……、」 「ん?」 「いかないの? 卓郎は」 「いくよ」 「俺の中、こないの?」 「い、く」 「ん……、」 「……」 「まってる」  その間たぶん一、二分。言葉を発する合間に唇を重ねるのか、キスする間に時折、唇を離して言葉にして伝えているのか。くっつきあった唇が、言葉を交わすために離れて、またお互いの唇が欲しくなって。それから、さっきの問いかけに応えて、また唇と舌を絡み合わせる。それを何度も繰り返している。こんな永久運動だったら、たぶん何も問題もなく一生続けていられる。この男とだったら、の話だけれど。  そんなことを思いながらようやく一美の唇を引き離し、乱れた前髪を指の先ではらい、額からまぶたに向かって唇をつけた時に、ヤツがフッと微笑んで見せた表情が、……たぶん、さっきの女性よりも色っぽかった。 メールの着信を知らせる振動に気づいて我に返り、あわててポケットから取り出して画面を見ると、一美からだった。ぼんやりしていたけれど、電車の窓からは降りる駅のホームがもう見えていた。ヤツからのメールには、「疲れたー。今日は先に寝る。ごめん」と書かれていた。  翌朝の食卓で一美が、「今日、ヒマだったら海に行こうよ」と言ってきた。テーブルのこっち側で「へ?」みたいな顔をしているおれを尻目に、「夕方の涼しい時間がいいけど、それだとゆっくりできないかなー」とか何とか、勝手に頭の中で今日の予定を組み立て始めている。 「八月の休みにさんざん泳ぎに行かないかって誘ってんのに『行かない』ばっかり言って、このタイミングで海かよ」 「今だったら、地元の人がいるぐらいで、観光客もいないっしょ。別に泳ぎたいわけじゃないから」  まぁ、それは何となくわかる気もする。 「いいけど。別にヒマだし」 「じゃ、決まりね。秋とか冬のさ、人のいない海のほうが俺、好きだな」  確かに男二人で海へ泳ぎに行っても、なぁ? ギャアギャア騒ぎたいわけでもないし、水着の女の子が見たいわけでもないし。  一美と出会ったのは、大学三年の時にバイトで雇ってもらったバーだった。おれより一か月ほど早くバイトを始めていた一美は、掃除の仕方やグラスの洗い方、マスターの機嫌が悪い時の対処の仕方なんかも丁寧に教えてくれた。そんなに口数は多くないけれど変な気を遣わせない親しみやすさがあって、ふわっとした茶髪交じりの柔らかそうな髪からは潮の香りとは違う、いい匂いがした。話していくうちに同じ大学に通う同期生だってことがわかり、学部が違うとはいえお互いの存在感の薄さを笑った。  一美と書いて、「かずみ」と読む自分の名前を彼は気に入っているのだと言った。名前を付けたのは母親で、その由来は「世界で一番美しい人だから、一美」。生まれたばかりのヤツを見て、小さな体を胸に抱いて、その時にその名前が浮かんだのよ、とおふくろさんは言ったという。ちょっと前まで写真家としてあちこち飛び回っていたおふくろさんと、一美の二人家族。父親の顔は知らないらしい。まずいことを聞いたかな、と思ったおれの心中を察してヤツは、「喪失感なんてまるでないよ。だって最初っから母親と俺しかいなかったから、うちはそういうやり方なんだなって」。  大学を卒業するタイミングでちょうどアパートの更新があり、引っ越そうかな、と話したら「付き合ってるんだし、一緒に住んじゃおうよ」と当たり前のことのように提案され、それまで住んでいた部屋から一駅分、海に近い今の家に落ち着いた。駅から徒歩約十分。十帖ぐらいのリビングダイニングキッチンにそれぞれの部屋と寝室。築年数は年齢の倍ほどあったけれど、海風にさらされる地域であることを痛感させられるような欠点が見当たらないだけでも申し分のない物件で、まだ社会人ともいえないような半人前の男二人の生活が当たり前のように始まった。それが二年前。今年、最初の更新を済ませた。  休みの朝をだらだらと過ごし、夕方になって腹が減る頃に帰ってくればいいか、ぐらいの気軽さでおれたちは海へ出かけることにした。駅まで出てしまえば、電車で三駅。歩いて行くこともできるけれど、今日の日差しはやけに眩しかった。電車の窓からキラキラ輝く海を、二十五歳にもなる男二人が並んで目を細めて眺めていた。  つくづく思うけれど、雨の湿気と海の湿気は違う。秋に降る雨は特に好きじゃない。梅雨時の雨はそれはもう受け入れるしかないけれど、暑かった夏が終わってせっかくの過ごしやすい時季なのに長雨で幾日も雨が降ったり、曇天が続いたりするのは何だかもったいない気がする。あ、曇天はいいか。曇り空は昔から好きなんだ。  高校時代、男ばかりの教室でなぜか窓際の席に当たる機会が多く、授業中にぼんやりと空を眺めていることが多かった。記憶の中にある空はいつも、秋の空だったように思う。夏のくっきりとした青空でも、冬のひんやりとした灰色の空でもなく、穏やかに広がっている秋色をした空。ちょうど今、こうして二人で並んで眺めているような空だ。 「卓郎、あの話が聞きたい。中二の時の、たっちゃんの話」 「はぁ?」 「久しぶりに話して」 「もう、いいだろ」 「よくない」  並んで腰を下ろした砂浜で、靴の先でおれのサンダルに砂をかけながらヤツが言う。  まだおれたちが付き合う前、<だった。>バーの仕事にも慣れた頃に一美から、「今週いっぱいでココを辞める」と打ち明けられた。なんでも、当時ヤツが住んでたアパートの近くにできたばかりのカフェにたまたま入ったら、居心地が良い上に店主の作ったメシが感激するほど美味くて、「なんか人手が足りないらしくて大変そうだったから、俺が手伝いますよって言っちゃった」。  一緒に住むことになった時もそうだけど、今になれば、ああこの男はそういうことを軽く言っちゃえるヤツだよな。って納得できる。  この土地で生まれ育った店主が、古くなった自宅を改築して始めたそのカフェは、まさに隠れ家とでも言いたくなるような風情で、といえば聞こえはいいけれど、とにかくわかりづらい場所にあった。だいたい「最寄り駅から徒歩十五分」なんて、遠すぎる。聞いただけで行く気が失せる。古くから住んでいる土地勘のある人には、「あぁ、あそこの坊主が始めた喫茶店か」で通じるらしいが、たかが移り住んで三、四年ぐらいの学生にとっては、何度説明されても、果てはヤツに地図を書いてもらっても(またその地図もいい加減なものだった)たどり着けず、結局付近までヤツに迎えに来てもらってようやく、店長自慢の潮の香りのコーヒーにありつくことができた。  一美も今や正式なスタッフの一人として時には店主の代役を務め、店も沿線のフリーペーパーに紹介されたり、時には地元局の情報番組に取り上げられることもあるぐらい人気の店になったけれど、その日に限っては、おれ以外には近所の御婦人がお茶を飲みに来るぐらいで、早い話がヒマだった。おれも午後からは何も予定がなく、今朝のようにだらだらと、庭先に二つ、三つ並んだうちの一つのテーブルを占領してヤツと話している時に、なぜかファーストキスの話になり、おれが中二の夏休みに三歳上の従兄とキスしたことを何気なく話した。男が好きだってことはヤツには話してあったし、まぁその頃からヤツのことが気になってはいたんだけど、その時にさらっと、たった一度話しただけでしかもその時は大した反応も示さなかったにもかかわらず、ヤツはそれから半年おきぐらいにその話を掘り起こしてきた。 「中二の夏休みに……、どこの山奥だっけ?」  ああ、もう、と内心うっとうしいのと苦々しいのと両方の思いをかみつぶしながら、何度目かわからないその話を引っ張り出すことにした。  父親の実家は、当時おれたちが住んでいた海のそばとは真反対の、見渡す限り山と田畑しかないのどかな田園地帯にあった。過疎化が進む一方のその地域に住んでいた祖母のもとで、夏休みのうちの二週間程度を過ごすのが小学生の頃からの恒例になっていて、宿題の山を片付けながら唯一この土地に住んでいる年の近い従兄の達郎、要するにたっちゃんと川で泳いだりトウモロコシ畑の水やりを手伝ったりしながら過ごしていた。  長い長い階段を上った先の山の上にさびれた小学校があり、その脇にたっちゃんの大きな家があった。 「この階段、何段あると思う?」  いつもゼイゼイ言いながら、やっとの思いで階段を上がるおれと違って、たっちゃんは涼しい顔をして時にはダッシュしながら駆け上がっていった。 「……知ら、ない」 「百八段」 「ヒャクハチ……それ、何か、意味のある数字?」 「除夜の鐘。つか、煩悩の数」  ボンノウ? そんなの、学校で習ったっけ? 「人間の欲とか、怒りとか、汚れとか。中学生には難しいか?」  と、おれの顔を覗き込むようにしてたっちゃんは笑った。  彼の部屋で、ペットボトルに入った水を一気に半分ぐらい飲み干した後でたっちゃんが、「海に行きたいなァ」と言った。 「ここは涼しいけど、山の景色はもう十分過ぎるぐらい味わったから」  そう言ってサラサラした声で笑った。「うち、海のすぐそばだよ。いつか遊びに来てよ」と身を乗り出したおれの頭にポンと手を置いて、 「俺さ、来年から留学するんだよ。びっくりだろ? こんな田舎からどこへ行くんだってゆうのな。短期だからすぐに帰って来るけど、来年の夏はいない。次に会うとしたら再来年」  汗に濡れたシャツを脱ぎながら、「それまで待てるか?」とたっちゃんがおれの目を見て言った時、「待つよ」と答えたおれの声はかすれていた。  たった一度きりの、夏の夕方の数分間。塩からい唇に触れた後、「誰にも言わないよ」とたっちゃんは言った。  ……いつまでだって待つ。おれのその言葉に嘘はなかった。なかったけれど、それ以来、おれが祖母の家を訪れることはなかった。その夏の二週間が過ぎ、おれが田舎を離れた後に祖母は急に体調を崩してあっけなく逝ってしまったからだ。  たしかに、今でもふっと思い出すことはある。  甘くもないし、きれいでもない。  もしもあのまま祖母が生きていて、たっちゃんの帰りを待ちながら次の年も、その次の年もあの田舎で夏を過ごし、彼の家に続く百八段もの階段を毎日のように上り続けたら、おれの迷いは吹っ切れたのかな。「海に行きたい」と言ったたっちゃんが山を下りておれの家を訪れ、二人で海へ行く日はやってきたのか――。 「……なるほどね」  ヤツは、手のひらに乗せた小さな貝殻を陽にかざしてみたり、指の先で転がしたりしながらおれの話を聞いていた。 「聞くたびに、話がどんどんドラマチックになっていってない?」 「毎回同じだよ。それより、恋人の昔のコイバナを何度も聞きたがるって、どんな趣味の悪さだよ」 「いやいやいや。そんなふうに淡くて刹那的で、でも一瞬激しく火花が散るような恋愛を、かつての卓郎がしたことがあったんだなぁって」  恋愛って。  あれは恋愛なんてものだったのか。  それよりも、今はどうなんだよ。  美化されていく一方の過去の記録よりも、きれいじゃなくても波風立たない毎日だったとしても、あの時よりも今のほうがずっと恋愛の只中にいると、おれは思っている。 「そろそろ帰ろっか」  不意に立ち上がり、ジーンズの尻についた砂をぱんぱんとはらいながら、ヤツがおれに向かって手を伸ばした。 「腹減った。何か、美味いもの作って」  お前なぁ。もうちょっとマシな言い方はないのかよ。 「いいじゃん。それより、早く立って」  ヤツの手がおれの腕を取る。来た時とは違い手を繋いで、というよりヤツがおれの少し後ろを、おれの手を握って歩いた。そんなことは今まで一度だってしたことがなくて、少しだけ不思議な感じがした。 「ここら辺に住み始めてから、いやなことや悲しいことがあった時とか、どうしようもない気分になった時は、一人で海に行くようになったんだ。最近はそうでもないけど、大学の時、卓郎に出会う前は一人でよく来てた。砂浜に座って眺めてるだけなんだけど、なんだろうね。いろんなものを捨てに来たかったのかな。晴れてる日でも曇ってる時でも、海はいつも変わらずに波があって。キラキラ光ってる時もあれば、じっと黙ってる時もあって。広くて大きくて」  おれは、足元を見ながらうん、うん、と頷いて一美の話を聞いていた。 「小さな頃から海のそばにいた卓郎は、そういう感覚はないかもしれないね」  そうかもな。 「俺、もう、しないよ」  背中で聞いていたヤツの声が、一瞬何を言っているのかわからなくて、立ち止まって振り向いた。ヤツはふわっとしたいつもの笑顔で、 「さっきの、お前の昔の話。もうさ、ここに置いて帰ろうよ。そしたら波がどこかへ運んで、いつか全部きれいさっぱり消してくれる。だから、卓郎ももう忘れて。俺も、もう聞かないから」  ずっと立ち止まったままでいるのも妙に照れくさくて、でも一美に何を言えばいいのかもすぐにはわからなくて、「おう」とだけ言ってヤツの手を取ったまま、また歩き出した。おれだって、一美が昔に好きだった人のことなんて知りたいとも思わない。そんなことよりも、ヤツが誰にも言わないままそっと海に捨てに来ていた気持ちの何分の一のかけらだけでも、粉々に砕いて、消してやることができたらと思う。  どちらからともなくお互いに、なんとなくそういう気分で、海岸にそって三駅分歩いて帰ることにした。ヤツはずっとおれの手を握っていた。夕暮れ近い空にぼうっと浮かんだ、黄色と橙色が混ざったような太陽を指さして、「ディタオレンジみたいできれいな色だなぁ」とヤツは声を弾ませた。 「そういえば広田先生、覚えてる? 今週、店に来たんだ」 「広田先生って、あの広田?」 「そう。何年ぶりかで海が見たくなったんだって。相変わらず口髭が似合ってた」  文学部にいたヤツの恩師でもある広田先生は、趣味で絵を描いていた。母親の影響で写真や絵が好きだった一美は、講義とは別にもっぱら趣味の話をするために一時、先生の研究室へ足しげく通っていたことがあった。 「卓郎、帰ったらあれ聴こうよ。スノウ・パトロール」  スノウ・パトロー……、あぁ。男女がシェアハウスする、なんとかいうテレビ番組で流れてたな。 「懐かしいな。でもおれはあれがいいな。ウェザー・リポート。できれば『ヘヴィ・ウェザー』」  最初に一美と知り合ったバーで、なぜかいつもウェザー・リポートの曲が流れていて、「バーっていうと、オシャレなジャズが聴こえてくるイメージなんですけど」と笑う一美にマスターは、「俺はフュージョンが好きなんだ」と譲らなかった。マスターは若い頃にベースを弾いていたらしく、常連さんの中には、大学のジャズ研究会でマスターと一緒にバンドを組んでいた頃の思い出話を聞かせてくれる人もいた。 「『ヘヴィ・ウェザー』って、一曲目にいかにも天気予報のバックで流れてるような曲が入ってるアレ?」 「そう」 「ジャコ・パスなんとかって人がベース弾いてるヤツだっけ?」 「そうだよ」  左手をきゅっとゲンコツにして口元に持っていき、ぷっと笑う。それはヤツのクセだ。 「卓郎は相変わらずで何より」 「おう」  内側から施錠し、さっきポケットから取り出した鍵を玄関ドアのフックへ引っ掛けていると、靴を脱ぎながらヤツが「早く冬にならないかな」と、まるで歌でも口ずさむように言った。こいつの口から冬が好きだなんて言葉、かつて一度も聞いたことがないんだけどな。 「寒いの、好きだっけ?」 「別に」  ……なんだよ。 「でもあったかいじゃん。こうしてると」  サンダルを脱いだばかりのおれの素足をわざと踏みつけて、ヤツがおれの背中に腕を回した。おれがやり返すと、今度はその腕をおれの首に巻き付け、冷たくなったおれの頬に額をくっつけると小さな声で「あったかいよ」とつぶやいた。  さっき海で、腹が減ったとヤツは言ったけど、帰ってからおれたちはメシも食わずビールも飲まず、音楽を鳴らすこともしないでまっすぐにベッドへ向かい、重なり合った。いつものようにどうでもいい話をしながら、いつもとは違う交わり方をした。ヤツはガラにもなくおれに向かって何度も、好きだ、と言った。熱くなったままの体を何度も抱いた。 「俺さ、冬の海も結構好きだよ」 「おれはいやだ。くそ寒い」 「だろうね。でもさ、くそ寒い日にマフラーをぐるぐる巻きにして海を見るのもいいじゃん」  四年のクリスマスの時だったかな。おれたちが付き合い始めて間もない頃で、ケーキが食いたいというヤツと大学の近くで待ち合わせた時に、濃紺のダッフルコートに白いニット、赤いチェックのマフラーを合わせてきた一美のコーディネートに惚れ惚れしたことがあった。こっちが照れるぐらい似合っていて、でもそれを素直に口にはできなくて、「リセの学生じゃねぇんだから、その恰好」とか何とか憎まれ口を叩いた気がする。  今年の冬は、あのマフラーをぐるぐる巻きにして、今日みたいに海岸線を歩くんだろうな。片手はダッフルのポケットに突っ込んで、もう片方をさっきみたいに繋いで。でも、くそ寒い日は歩くよりも電車のほうがいい。駅に着いて、改札を出て、あっという間に青から赤に変わる信号のある横断歩道を渡ったら、海まではあと五分もあれば行けるから。 end

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