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だいぼうけん! 9

「あー、やっぱ匂い飛んじゃいましたね」 「え?」 乾かしたばかりの敬吾の髪をぱさぱさと梳かしながら、不思議そうな敬吾に逸は笑いかけた。 「香水の匂いです」 「ああ、そういやついてたか昨日……」 さもなさそうに言う敬吾の頭を、今度は力いっぱいに抱きしめる。 「でもうちのシャンプーのにおいしてるのもいいーーーーー!」 「あーもーはいはい」 「いや、ほんとすげえ良かったですよあれ……敬吾さんが体温上がったり汗かいたりするとガンガン強くなるからもう……ステータス異常起こさせる技食らってるみたいでしたもん、ヒート、こんらん、スピードアップ、みたいな」 「あーあー分かったから分かったから」 剣呑な流れに敬吾は慌てて混ぜっ返した。 「俺香水がエロいなんて思ったの初めてですよ」 「……………」 無駄であった。 もう、諦めて放っておくことにする。 そうなると体も素直なもので、ぐうと腹が鳴った。 「腹減った」 「………。はい。」 悲しげに頷きながら、それでも素直に冷蔵庫を開く。 が、その中はほとんど空だった。 敬吾の部屋のものとは違い逸の冷蔵庫は一人暮らし用でごく小さい。 こまめにしなければいけない買い出しを、昨日しようと思っていてしていなかったーー。 「……敬吾さん、悲しいお知らせです」 「あー。うちにならなんかあると思うけど」 逸の部屋の食料事情に関しては、食いつぶしている自覚のある敬吾であった。 何につけ礼をしているつもりではあるのだが、計画を崩してしまっていることはままあるだろう。 逸の分まで作ることはできないが、食料の提供くらいならしたい。 二人は空きっ腹を抱えて階段を降りた。 「敬吾さんの冷蔵庫、なんでこんなでかいのにしたんですか?」 「もとは実家のだったんだよ、引っ越す時そろそろ買い換えたいから古いの持ってけばってなった」 「ああなるほど、いいなあ……俺とりあえず安いの買ったらちっちゃすぎて。次は絶対でかいのにしよー」 逸は眉を下げ、しみじみといった風情で冷蔵庫のドアを撫でる。 敬吾もまた心底持て余している、という顔をした。 「逆に俺はあのくらいで良かった気がしてる。自炊するとやっぱ大きい方がいいのか」 「ですね、すぐは使わないけど常備しときたいもんとか、でかい調味料とか厳しいです。でもミニサイズのは割高だしすぐなくなるしー」 「あー、なるほどな……」 「これも使っちゃっていいですか?」 「聞かなくていーからどんどん使ってくれ」 逸はやはり気を使っているようだが、危うそうな食材の整理までしてくれているらしくむしろ有り難いと敬吾は思っていた。 半端に残った野菜や、日持ちしそうだと思って買ったのに結局長いことそのままになっている燻製類、後ほんの少し残っているがその少しが使えない調味料など、捨てるのも気が咎めるがどうして良いのか分からないものがそれはもうたくさんある。 「冷凍庫にも色々あんだよなー」 「お、新巻鮭じゃないですか」 「あーそれ実家から来たやつ。日持ちするし焼くだけだからって言われたものの」 「魚焼きグリル使っちゃうとめんどくさいですもんねー、銀紙敷いて焼くといいっすよ」 「それありなのか!?」 「全然ありです、敬吾さんちのって水入れるタイプですか?いらないやつ?」 「…………………。え?」 「ちょっとそこ調べてからにしましょうか、鮭は」 それまでに見繕った食材でやりくることに決めたらしく、逸は冷凍庫を閉じた。 「何ができんの?これ」 「えーっと、バターポン酢で野菜とウインナー炒めて、紅しょうがと青海苔入りの卵焼きと、玉ねぎとじゃがいもの味噌汁ですかね。あとちくわもチーズ乗せてチンして食べちゃいましょうか」 「お前すげーな……」 他人の家の冷蔵庫でも、適当に料理が出来るのか。 敬吾は本心、尊敬の眼差しで逸を見上げた。 「残り物で料理するの結構楽しいですよ、たまに奇跡起きるし。でもこーゆーのもでかい冷蔵庫じゃなきゃできないわけですよ、ちっちゃいとそもそも残り物に割けるスペースがない」 「なるほどなあ。じゃあもうここに入れとけばいいじゃん、どうせ俺使いこなせてねーし」 「えっ、」 「えっ?」 逸が鋭く振り返り、敬吾はきょとんとそれを受ける。 しばし、互いに瞬きだけを応酬していた。 「……いいんですか?俺今、作るのもここでしていいってことだと解釈しちゃってますけど」 「え?うん。既に作ってもらってるじゃん。ならやりやすいとこでやった方がいいんじゃね」 「え、あ、はい……そう、ですね」 「?うん。俺が買ったもんも使っていいし」 「は、はい……」 どうやら放心しているらしい逸を、敬吾は不思議そうに見上げていた。 一体何にそんなに驚いているのだろうか。 徐々に我に返りながら、逸は話をそれ以上続けることなくまた玉ねぎを刻んだ。 「……後で包丁研いでもいいですか?」 「全然いいけどそんなことまでできんのかお前は」 「いや、真似事ですよ研がないよりはマシになるって程度ですけどね、でも手切らないでくださいね、いや切れない包丁のほうが危なかったりもするんですけど」 「なんだお前テンパってないか?」 「い、いえ決してそんなことはございませんが」 どう見ても嘘である。 しかし逸が妙に必死な様子で落ち着いた口調で否定するので、とりあえず好きにさせておくことにした。 「手伝うこと無かったらコーヒーでも淹れとくけど」 「あっはいっ、お願いします」 やはり野球部一年生のように固くなっている逸を開放してやるように放っておいて、敬吾はリビングに入った。 電気ケトルでお湯を沸かしながらカップにコーヒーの粉末を入れ、テレビのリモコンに手を伸ばした。 その横に、取ってきた覚えのない検針票。 その更に横に、合鍵。 そこで初めて、ああ逸が合鍵と一緒に持ってきたのかと思い至り、裏返しになっていることに少し笑う。 平素ならば流し見してすぐに捨ててしまうその紙切れと、ポストに入れっぱなしで存在すら忘れてしまっていた鍵。 普段はそこにないもの。 何かしっくりと来ない。 「…………………」 とりあえず、検針票は捨ててしまった。 「敬吾さーん、ボウルってありますか?」 視界の外から呼ばわれて、なんとなくぼんやりとしていた敬吾は少々驚いた。 ひと呼吸置いてから、声の方へと向かう。 異分子を手にとって。 「多分探せばある。なんに使うの?」 「卵とくのに」 「ああ」 ボウル一つ、改めて考えなければ在り処が分からないとは。 本当に料理などしない人なのだなと逸は少し笑ってしまっていた。 さてこれから何を食べさせてやろうかと。 「んーーちょっと待て、どっか鍋の中に入ってんのかも」 「あー、なるほど」 「んじゃ先にこれ。やる」 「はい?」 コンロ下の収納の中に屈み込んでいた敬吾が、僅かに体を引いて逸の方に腕を差し伸べた。 その拳の下に逸が手を開くと、ぽとりと冷たい感触。 「ーーーーー」 「生物とか買ってきてもここ入れなかったら意味ないしな」 「ーーーーーーー」 敬吾はゆっくりとボウルを探した。 できれば渡す瞬間の逸の顔は見たくなかった。 きっとまたあの、敬吾の苦手な顔をする。 直視できないほど嬉しげで、そして甘いーーああ、困った。少し見たい。 「……あった」 やはりボウルは、鍋の中に入れられて更に蓋を閉じられていた。 それを持って恐る恐る体を起こし、逸の顔を見上げる。 その顔は、鼻から下が手で覆われていて表情はよく分からなかった。 「………………おい」 ただ自分の手のひらを凝視している逸を、敬吾もまた怪訝そうに見つめる。 「岩井?死んでんのか」 思わずそう言ってしまうほど、逸は微動だにせず手のひらを見ている。 眉も瞼も動かないのに、瞳だけがするりと動いて敬吾を捉えた。 「!」 「……いいんですか」 「えっ?」 「い、いーーんですか、これ、え、俺持ってていいんですか!??」 「え。えっ?う、うん」 それを聞いて初めて逸は開きっぱなしだった手のひらを閉じた。 潰す気かと問いたくなるほど固く閉じた。 「……あの、敬吾さんたぶん、飯作るのに便利なように使えって意味でくれたんだと思うんですけど、でも俺一応恋人のつもりでですね、それが合鍵もらうってのはですね、なんかこう、あれなんですけど、そのへんは……どう、したら」 「ん、うん……とりあえず口調が淡々すぎてこえーよ落ち着け」 「うわあ俺鍵もらえるなんておもってなかったああ」 「お、おう」 「もーなんかすげー強いキャラ仲間にしてラスボスがいる城の鍵手に入れたみたいなあああ」 不思議な既視感はそれかと敬吾は思った。 先の逸の喋り口調はまるで電子音で文字が打たれるだけの長台詞だった。 考えていると、ばふんと音を立てて肺が潰された。 逸の手のひらと硬い拳が背中を掻き抱く。 「んっ……」 苦しげな呻きが妙に色っぽくて、逸は敬吾の首すじに顔をすり寄せた。 やはり犬にでも懐かれているような気持ちになって、敬吾が逸の背中をぽんぽんと叩く。 「……まあ、何も飯作りに来いって言ってるわけじゃねえから……好きなときに使え」 逸の返事は驚くほど小さくて掠れていた。 心配になるほどだったが、腕を解いた逸は嬉しげに笑って敬吾を見ていた。 やはり見ていられなくなるようで敬吾が視線を逃すと、指の背で頬を撫でられ、するすると心地よい音がする。 危うく目を閉じてしまいそうになってーー敬吾はきゅっと眉根を寄せた。 逸が困ったようにふと微笑む。 と、温かい綿の花でも触れているようだったその指が離れる。 「あー、……ダメだ、真面目にゴハン作ります」 「………?」 不思議そうな雰囲気を察してか、まな板に向かっていた逸が僅かに振り向いた。 「またむちゃくちゃしたくなっちゃいました」 「ーーーー!」 「ご飯作りまーす」 「………………。」 沈黙にも色々あるものだ。 敬吾はあまり言葉で感情を表す方ではないが、素直ではある。 (ほんっと可愛い…………) 微笑ましく思いこっそりと笑いながら、真っ赤になっている敬吾の顔は見ないでいてやることにして逸は卵を割った。 「んっ!玉子焼きうまいなこれ!」 「うまいですね、予想以上のアタリだこれ」 「え、初なのか」 「たまに奇跡起こるって言ったでしょ?」 「あー」 だいぼうけん! おわり

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