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まるくあたたかく 6

「逸くんおはよー、敬吾さんどう?」 「おはよう、昨日よりはかなり良くなったみたいだよ。顔色も良かったし……さっちゃんにほんとごめんって言ってた、今日もシフト代わってもらって」 心配そうに逸を出迎えた幸は、少々項垂れて首を振った。 「いやいや全然だよー……、あたしが変な時期に旅行なんぞに行ってたから敬吾さんのシフトが聖書のような密度に……」 「いやあ前から貰ってた休みなんでしょ、それは仕方ないよ。その時は人数余裕あったわけだし」 「んーおかげさまで楽しかったけど……。て言うか、今日も敬吾さんとこ行ってきたの?あの人のプライベート長年の付き合いなのに謎なんだけど」 「いや俺アパート一緒で」 「えっ!!!!!!!」 「………………えっ?」 幸に思い切り仰け反られ、逸はぱちくりと瞬いた。 そして数秒。 野良猫でも構うような慎重さで、じわりと逸が口を開く。 「……さっちゃん待って、……凄い一応なんだけど、ほんっとただの偶然だからね。昨日まで知らなかったから。あとこの弁解が意味ないものであることを祈ってるから」 「いやある、偶然なの?凄いね」 「ストーカー疑惑を詫びてはくれませんか………」 「いやごめん、さすがに住所突き止めるほどのアレではないと思っているから今驚いたわけでね、普通に敬吾さんに想い寄せる普通の青年だとは思ってるよ」 「えーー…………」 しおれる逸をよそに、幸はしゃらっとずり落ちた眼鏡を上げた。 「そちら方面はどうなの?」 「って言うか普通に知ってるんだね、俺が敬吾さん好きなの」 「隠してるつもりだったの?」 「いや、特には」 「だよね。あの店長ですら気付いてるからね」 「えっ!俺怒られる?やっぱダメ?」 「いやあそのへんは別に大丈夫だよ、前にもカップルになったスタッフいたみたいだし」 「……まあカップルになるこたないすけど」 「悲しいよ!諦めるな!」 「無理無理、俺ノンケの人好きになったのも初だし敬吾さんだし」 「ノンケ?」 「ゲイじゃない人ね」 「へえー」 「よし、終わりました」 規定の長さに切り終わったリボンの空芯を逸が捨てると、幸が手招く。 「じゃあ次作り方教えるからね新人くん」 「お願いします」 「こうして、こうして、こーしてこーしてこう、でパチン」 「えええええうわうわうわうわ」 「いやいや上手、すごいすごい!時間かかってもいいから可愛くねー、プレゼントにつけるリボンなんで」 「手作りだったんだねこれ………」 「そーよ、繁忙期前は死ぬほどこれを作ります」 「はーい……」 「今更だけど『敬吾さんだし』がじわじわ面白くなってきてる」 「それだけですごい無理そうでしょ」 「もう形容詞として成立しちゃってる。でもあたし気は合うと思うんだよね敬吾さんと逸くんーー」 そこで、ロッカーの中から逸の携帯の着信音がわずかに聞こえた。 「あっごめんさっちゃん見てもいい?敬吾さんだ……」 「どうぞどうぞ、なんだろ悪化でもしたのかな」 長閑だった雰囲気がほんの少しぴりつく。 やはり、怒られても鬱陶しがられても休んで付いていればよかっただろうかーー 逸が浮足立ちながらメッセージを開く。 〈お疲れ。部屋の鍵開けとくからバイト終わったら寄ってくれ。飯おごる〉 「………………」 ぽかんとその画面を見つめていると更にメッセージが届いた。 〈寝てたら起こして〉 「………………」 やはり逸はぽかんとしたまま。 幸が心配そうに振り向いて、かと言って覗き込むのはどうかという顔をする。 「敬吾さん、具合悪いって?」 「あっ、いや」 慌てて表示を消すと、逸は携帯をまた鞄の中にしまい込んだ。 「帰り、アイス買ってきてくれって……」 逸は喉に小骨でもひっかけたような微妙な顔をしているが、幸は安心したように笑った。 「なんだーびっくりした!食欲あるんだね、良かった」 「うん……」 朝は粥を多めに炊いて出てきた。 食べられるようならと勝手に茶碗蒸しやらポトフやらと消化に良さそうなものをどうにか作っておいてきたがーー 奢るというくらいだから外出する気なのだろうか。デリバリーだとしてもさほど体に良さそうな気はしない。 (……そんなに良くなったんならそれはそれで良かったけど……) なんとなし気が進まない。 しかし勝手に部屋に入れと言う、それは単順に嬉しかった。 一言で表現せよと言われたら凛としていると言う、強いか弱いか分類しろと言われたら強いと応える、あの敬吾があんなにも弱ってくたびれて、抵抗しながらも他人を頼らざるを得ないなんて、あんな無防備な顔を見せてくれるなんて、それはもう逸にとっては途轍もなく魅力的だった。 それを更に、敬吾の同伴なしにそのテリトリーに入れる。 しかも眠っているかもしれないという。 なんという非日常感か。 脳内に少々危ない物質でも分泌してしまったようで、逸の頬は緩んだ。 「逸くん」 「へっ!?」 「いくら男前でもニヤけるのは気持ち悪いよ」 「すっ、すいません……」 妙に客足の悪い日に単純作業は、それはもう長く感じられた。 「っう…………!」 どこか体の外に放り出されていたような意識が戻ると同時、燃えるような熱さに敬吾は跳ね起きた。 「う"ッ」 「!?」 額に鈍い衝撃と、誰かのうめき声。 声の方を見ると、滲む視界の中逸が床に突っ伏していた。 状況が分からない。とにかく熱い。 気が触れそうなほどだった。 「あっつ………!」 「っ、いって……っ敬吾さん?……大丈夫ですか?」 布団を剥ぎ落として犬のように呼吸をしている敬吾に、つい今頭突きを食らわされたばかりの逸は逆に泡食って背中を擦った。 ーー本当に人の肌だろうかと思うほど熱い。 「っちょ敬吾さん、めちゃくちゃ熱あるじゃないですか……!」 緊迫した声音で逸が言うが、敬吾は何も聞こえていなかった。 ベッドの上に僅かに残った掛け布団の外側に触れると冷たくて気持ちが良くて、その上に崩れ落ちる。 「ちょっと……っ」 心配ではあるが逸の足は反射的に台所へ向かった。 近くにあったタオルを冷水に濡らしてからすぐに戻り、敬吾の頬に当てる。 やっとわずかに瞼が開いた。 逸は心底悔やんでいた。 敬吾のメール通りこの部屋へとやって来て様子を見てから、やはり食事は自分が作ろうと買い出しに出ていたのだ。 安らかに眠っていたからそうしたのだがーー30分と経たずに戻ってきたらこの有り様であった。 ぼんやりとした敬吾の視界に、切羽詰まった逸の瞳が映る。 だいぶ鋭くなってしまっているが、なんだか夢の中でその目を見た気がする。 「……………」 「敬吾さん!大丈夫ですか、返事して」 あまりに必死にそう言われて、苦しいながらも敬吾は笑ってしまった。 さっきまでは体中燃えているかと思っていたが、空気に身体を曝して冷たいものに触れた今は大分体が軽くなっていた。 「……敬吾さん?」 笑われて、逸は戸惑う。 安心していいのか、逆にもっと心配したほうがいいのか。 「あっっつー……びっくりした、燃えてんのかと思った……………」 その声を聞いて、逸は今度こそ安心して肩から力を抜いた。 「びっっくりしたのはこっちですよもーー……ほんっと救急車呼ぼうかと思ったー!!」 張り詰めていた逸の表情が安堵と少しの怒りに緩む。 形容しがたい、胸の詰まるような気持ちになって敬吾は言葉を知らない子供のように逸の顔を見返した。 「………」 「ちょっと触りますよ」 言うなり、返事も聞かずに逸が敬吾の首すじに触れる。 厚くて冷たい手の平が心地よく、敬吾はほっと吐息を逃した。 逸は真剣にその顔色を見る。 頬も目元も首すじも痛々しいほど赤いが、先に触れた背中ほどはもう熱くない。 発熱したは良いが眠ったままに布団を剥ぐ力がなくて、熱がこもりっぱなしになってしまったということか。 「……気分は?どうですか?」 「おかげさまでかなり楽、体もそんなに重くないし」 「そうですか……」 視線もしっかりしているし声にも張りがある。 この熱が最終決戦だったと言うところだろうか。 心底安心したようにほっと息を吐き出す逸をよそに、久しぶりに体が軽くなって少々浮かれている敬吾は呑気なものだった。 「つーか……なんだ岩井くんか」 「えぇ、それはどういう……」 「犬かと思った……それより俺の首締めた?」 「いやいや、敬吾さんどんな夢見てたんですか!?」 逸が水を差し出すと、濡れタオルを首にかけて敬吾は幸せそうにそれを飲む。 ーー本当にもう大丈夫そうだ。が、やはり外食はやめさせなければ。 「そういや今何時……っえ、7時じゃん岩井くん5時までじゃなかったっけ」 「そうですけど……あんな寝顔起こせませんて、可愛すぎてもー……」 「はいはい。なんか食いたいもんある?」 「やー、本気ですか?それ……敬吾さんまだ外食なんかできないでしょ」 「いや何か取るよ、シフト代わってもらったのに出歩くのはさすがに……」 「そうじゃなくて、お腹に優しいもんにして下さいって言ってるんですー、つーか俺もう材料買ってきちゃいましたから。作ります」 「えっ!それじゃ意味ないだろ……礼だっつってんのに」 やはりそういうことなのか。 逸はわざとらしくため息をついた。 「お礼なんていりませんて」 「いるだろ……さんざん世話になったし」 「体調悪い時にまでそんな気ぃ使わなくていいんです、世話なんて俺、店で敬吾さんにかけっぱなしですし」 「そりゃ給料発生してるだろ」 「そうですけど……じゃあ個人的な話だと俺むしろラッキーって思ってますから。こんな長時間敬吾さんと一緒にいて触って俺の飯食わせて。」 「…………え」 「部屋に入って寝顔まで見て超役得です、お礼とか意味不明ですよ」 「…………………」 片眉を上げ、わざとらしいほど小憎たらしい顔で言い切った逸を敬吾はぽかんと見返していた。 ーーーーーええと。 「ーーで、でも手間かけさせたことは違いないだろ……」 「そんっなもん。面倒だからって好きな人の世話しないやついます?せっかく一緒にいれる大義名分なのに」 「ーーーーーーー」 相も変わらず呆けている敬吾をしばし見つめて、逸は大きくため息をつく。 この人はきっと、分かっていないのだろうな。 「看病したの、俺がいいやつだからとか義理堅いからとか思ってるんなら違いますよ。普通に下心でやってます」 「んな」 敬吾の表情がやっと動いた。 大いに引きつった顔をしている。 逸は片眉上げたままふっとため息をついた。 「そんな引きますかね……」 「なおさら礼してえんだけどっ………!!」 「なにチャラにしよーとしてんですか」 「俺はそんなつもりで世話んなったわけじゃねーよ!そもそも強引に押しかけたの岩井くんだよなぁ!?」 「だからお礼なんかいらないって言ってるんです」 「待てもう話が分からん……」 「ご飯おごってもらったとこで別に嬉しくもないですもーん。飯、何がいいですか?肉いけそうなら赤身とか少しは食べた方がいいかもーーあ、」 人が変わったように小賢しい口を聞いていた逸が、はたと黙って少し下を見、また敬吾に向き直った。 「ご飯、今日じゃなくて後で外で会ってくれるって意味なら受けます」 「!!!!?違うっ!」 「でしょうね、飯作ります」 「作んなくていーから!」 「なんでですかー?」 「っそれも下心とか言うんだろ」 「そうですね」 台所へと向かっていた歩き姿勢のまま止まって敬吾を振り返り、逸はこともなげに言った。 敬吾はぐっと下を向く。 どうしてそんなに馬鹿正直に言ってしまうのか。 こちらも、真正面から拒絶しなくてはならなくなるーー。 男相手だから傷つけていいなどとは、さすがの敬吾も思っていなかった。 黙り込んでしまった敬吾に、逸はまたため息をつく。 「じゃあ、作るだけ作ったら帰りますから。ちゃんと食べてくださいね」 「え……」 「何がいいですか?」 「え、いや……それは悪い、」 「もー……」 少々苛立ったように額を擦りながら、逸は敬吾を横目に見下ろした。 「下心だとは言いましたけど、それが全部ではないですよ?当然すげー心配なんです、店屋もんなんか食ってほしくないし、かと言ってほっといたら敬吾さん何も食べないつもりでしょ?なら作っときます、これは俺のおせっかいなので気持ち悪いやつじゃないですよ。安心して食べて下さい」 「や、だから、そうなると申し訳ないから……」 逸はまたため息をついた。 本当に堅い人だ。 弱っている時の厚意くらい有り難く受けておけばいい、それが自分に惚れている後輩とくればいくらでも好きに利用できるのにそれもしない。 それが逸を苦しめた。 好きなように甘やかすことすらできなくなった。 もちろん、自分が卑しい下心を露呈させたせいでもあるのだが。 「……ならお礼してください」 絞り出すように逸が言うと、こうも傲慢な物言いをされたのに安心したように敬吾は表情を緩ませた。 「うん、何がいいーー」 「ぎゅってさせてください」 「ぎゅっ?なにを?」 「敬吾さんをでしょ……」 頭はいいくせに何を言っているのかと逸は心底呆れてしまった。 とぼけているのかとも思ったが、敬吾の驚き様と言ったらすさまじい。 当の敬吾はなぜか近しい商品名のアイスやら缶チューハイやらを連想してしまっていたのである。愚鈍の極みだった。 「えっ、……えっ」 「ハグってやつですね。抱擁?」 「そっ、れはルール違反だろっ……」 「なんのですか?って言うか俺はこれでも控えめに言ってるつもりです」 「は!?」 「本当は何がいいか、事細かに言いましょうか」 「いいいいやめろやめろ」 「分かってますよ」 すっかり泡食ってしまっている敬吾を、ごく冷静な逸が未だ観察でもするように見つめている。 それを見るに敬吾の体調は当然まだ万全ではない。 あまり困らせるようなことはしたくないけれども、是非とも礼は受け取れという、受け取らないなら厚意を差し出すなと言う、そんな無理を言うのは敬吾の方だ。 悲しいような苛立つような、鬱陶しい感情がむらりと逸の喉を撫でる。 「嫌ならいいですよ、俺はどっちにしろ飯作る気でいます。」 「ーーーー」 「でも敬吾さんは作るんならお礼するって言うし俺は敬吾さん以外のお礼なんかいりません、どうしてもって言うなら敬吾さんを下さいよ」 敬吾の眉間にこれでもかと皺が寄る。 少々感情的になってしまったことを反省しながら逸はまたため息をついた。 病人相手に神経を逆撫でしてどうする。 「ーーすみません、」 「……………」 しかし、これくらい軽いものだと思っていたのだが敬吾の取り乱しようと言ったら想像を遥かに超えていた。 そこまで嫌だったのかと思うとわざわざ自分で自分を傷つけてしまったことが嘆かわしくて可笑しくて、逸はまたもため息をつく。 これ以上の自傷行為と敬吾への迷惑はよしておこう。 食事を作るのを諦めれば丸く収まるのだ。 その後の敬吾の体調は心配であるが。 「……じゃあ、食材は置いてくので好きに使ってください。まあヨーグルトとかプリンとかもありますし」 「え、」 「困らせちゃってすみません。帰りますーーああ、明日ももし休むようなら連絡くれって店長が」 「ちょっ、と待て帰るって」 しばらく黙っていたからか、敬吾は喋り方を忘れたかのようにぎこちなく逸に問いかけた。 「……?はい。帰ります」 「いや、でも」 「?」 ーーなんと言って良いのか分からなかった。 自分は今恐らく逸を手ひどく傷つけたのだと、それは分かるのだがーー 「ごめん、」 「え?……何が?ですか?」 「や、分かんないけど、でも……」 「謝ることないですよ、ゲイでもないのにあんなこと言われたら普通気持ち悪いです」 「気持ち悪いわけじゃないんだけど、びっくりして……」 「それも当然だと思います」 逸は物分りよく頷くが、どうも正しく伝わっていない気がした。 同性ーー全般かどうかは分からない、逸にかもしれないーーに恋愛対象として見られたところで、それをそれだけで嫌悪する気持ちは全くない。それは完全に個人の自由だし事実今まで逸に対してもそう思ってきた。 だが、あんな風に直接的に、触らせろと求められると。 頭を殴られたように理解させられた。 この男が抱いているのはそういう気持ちで、そういう欲求なのだとーー 「……敬吾さん?」 斜め下を見つめて呆然としてしまった敬吾に声をかけると、敬吾はぴくりと肩を揺らして我に返った。 「ーーあ、えっと」 「?はい」 「かえる、んだよな」 「はい」 またも拙く問いかける敬吾に、逸は心底不思議そうに首を傾げて続きを待っている。 「えーーーっと……俺はー……、今から飯作る作んないの話じゃなく、今までかけた世話の分もやっぱ、礼はしたい」 少し日本語の上手な外国人、というような風情で敬吾はなんとか言い切った。 言い切ったが。 「……………礼って」 やはりそうなる。 「今回は、本っ当ーに世話になったから。これ以降のちょっとしたことはちょっとしたもんで返させて」 「ーーーーー」 もはやつむじしか見えない敬吾を、逸は穴が開くほど見つめていた。 思考は停止している。 敬吾が勢い良く正面に傾いだ。 鼻から下がばふりと逸のニットにぶつかる。 「っ…………!」 まだ熱い頬に逸の耳が当たると、異常なほど冷たく感じた。 握り込むように掴まれた肩が少し痛い。 さっきまで慇懃無礼もいいところだった逸がまるで縋ってでもいるようでーー なぜか敬吾は泣きたくなった。 時折聞こえる逸の呼吸音があまりに切なくて、思わず目を顰める。 逸は長いことそうしていたが、それ以上に踏み出すことも敬吾を不安にさせる動きを見せることもなく、やがて大人しく腕を解いた。 そうして圧迫から開放された自分の心臓がやたらと強く打っていたことに、敬吾は初めて気づいたのだったーー。

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