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意識の彼方で
「岩居さん、ちょっといいすか」
因縁でも付けているような呼びかけに、敬吾は少々驚いて顔を上げた。
そこにいたのは何のことはない、ゼミの後輩の女の子である。
「ーーああ、葵ちゃんか……びっくりした喧嘩売られたのかと思った」
「あっ!すみません」
恥じ入ったようにショートカットの襟元を掻く姿に笑ってしまいながらも席を勧めると、葵はこれまた恐縮したようにちんまりと腰掛けた。
話せばこうして可愛らしい女の子ではあるものの、若干わんぱくさが見え隠れするのは実際そういう時期もあったとのことだが体育会系の生活が長かったことの方が由来であるらしい。
「あの、岩居さんにちょっとご相談がありまして」
「うん?」
「彼氏ができたんです」
「待って、それほんと相談相手俺で合ってる?」
傾けていたコーヒーのカップを置き、顔の前に手を立てながら敬吾は確認を取った。
年寄り臭いとすら言われるほどに浮き沈みの少ない性格からか相談事はよくされるが、こと色恋沙汰に限ってはまずされたことがない。
一にも二にも理論的な提案や回答は、女心だの恋心だのというものからはかけ離れているらしかった。
「合ってます、なんとなく彼氏と岩居さん似てるんす」
「えぇ?うーん……ならまあ……」
戸惑いは増すばかりだが間違っていないのなら断る理由も特にはない。
腑には落ちないが敬吾は葵の言葉を待った。
「あのー、何ていうか。好きって言ってくれないんすよ」
敬吾は咽た。
全くもって予想しなかった方向からの投球であった。
「んん…………!!?」
「なんでなんすかね?」
「なんで………。なんで………!?」
「岩居さん今彼女さんいらっしゃいます?」
「あー、うん」
彼ーー女、ではないが。
不必要な嘘は後々厄介事につながってしまう。
「言われる方ですか?彼女さんに」
「あー、言わないね確かに」
「なんでですか!?」
「んっ!?んーと……なんだろ、まあ照れくさいのもあるし……大前提だからじゃない、好きなのはとりあえず」
突如問い詰めて敬吾を驚かせたものの、葵は返ってきた答えにぽかんと口を開けて子供のような顔をした。
「あー、そっかぁ、そういう考えもあるのか……」
そう呟く葵は殊更あどけなく、本当に子供のようで敬吾は笑ってしまう。
「……あの、でもですね、うちから言ったんです、付き合ってって」
そう言えばその一人称は少し前まで「自分」だったなと思い、敬吾は更に微笑ましい気分になった。
「うち、それにいいよって言われただけですしーーあとこう、あるじゃないですか。好きじゃなくても軽い気持ちでこうー、いろいろー」
「ああー」
わやわやと顔やら頭やら撫でながら話す葵に、敬吾はやっと意を得たような気がした。
確かに、イベントが近いからだの寂しいだの体目当てだので恋人を作るなど、珍しいことでもない。
が、自分はそこまで好色ではないし、今の相手はそんな軽い理由で付き合おうと思う相手ではない。
その辺りの齟齬が、葵との間にはあったようだ。
「なるほどなあ。まあでも個人的な意見だけど俺はそーゆーのでは付き合わないよ?嫌いじゃないから、程度では」
葵がぱちぱちと瞬く。
「……………ですか?」
「うん。そこんとこ彼氏と似てるかどうかは分かんないけど」
こういうことを言ってしまう辺りが、冷たいだの無神経だの言われる所以ではあるのだが。
無責任な言葉で茶を濁す気は敬吾には毛頭ない。
くしゃりと顔を歪める葵に、今回もそう思われるかなーー、と思ったが。
「ですよねーー……!」
葵は素直に苦悩していた。
今度は敬吾が瞬く。
「いやあ似てるとは思うんですけどね!あんまチャラい人じゃないし無責任なことしないっぽいし!」
「おー……」
「でもですねやっぱね、」
勢いのままにそこまで言ってふと言葉を飲み、葵は鼻と口を両手で覆った。
「……言っては欲しい、ですよね」
「……………………」
今にも花開きそうな桜のつぼみのように頬を染めて、葵が呟く。
それはもう可憐で色っぽくて、恋の威力を敬吾は思い知る。が、どうもそれが逸の顔に重なってしまって、敬吾は小さく頬を叩いた。
全く、葵に失礼千万な話である。
「………そっか」
「……………はいっ」
そう気合を入れるように言いながら葵は恥ずかしそうに体育会系の空気を押し出した。
さっきまでの雰囲気でいればいくらでも言ってもらえそうなものだが、勿体ない。
そして、さすがにそれを敬吾が助言するのは憚られる。
「ーーじゃああのっ、言って欲しい、って言われたら岩居さんなら言いますか?」
今度は少々やんちゃな、好奇心のような輝きを灯した視線を寄越されて敬吾は苦笑した。
「んー、まあ……頑張って言うよ」
「頑張って、なんですね」
「いやもうめちゃくちゃ恥ずかしいもん。」
「あはは!でも言ってあげるんですもんね!うざいとかは思いません?」
「うー……思わないではないけど………、そいつだからまあまだ許せるかなと言うか…………」
「おぉ………」
これはさすがに、冷たいと言われても仕方がない気がしていた。
が、葵はこれまたそんな素振りも見せず、むしろ感じ入ったような顔をしている。
逆に、敬吾の方が驚いたように目を見開いた。
そんな反応をしてもらえるようなことだったのだろうか。
敬吾がぽかんとしている間に、葵が機敏に頭を下げる。
「いやもう、岩居さんありがとうございました!」
「えっ、………役に立ってる?これ」
「はい!もう!そりゃもう!」
葵は頭を上げ、何度も頷いて力強く拳を握っていた。
そうして席を立ち、少ししてから慌てたように戻ってきてお礼にとテイクアウトのスコーンを敬吾に渡す。
なんだか申し訳ない気持ちにはなったが、ほんのり甘くて素朴な粉の味がするスコーンは、少し微笑んでしまうくらいには美味しかった。
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