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くらすメイト

 その転校生は、やたらと俺を見てきた。担任教師が黒板に名前を書いている間も、その目は俺を捉えたまま動かない。  その後も、教室内や廊下ですれ違う度に視線を向けてきた。  不快だ。正直、薄気味悪い。俺が何をしたっていうんだ。  そして今、隣人に回覧板を回そうと玄関のドアを開けただけだ。それだけなのに、何故。  その転校生が、何故俺ん家の門の前にいる? 「おーい! 雅人ー!」  硬直している俺を呼ぶ、男の声がした。この時間帯に聞けるのは珍しい。男の表情からは、何かに追われるかのような気迫さえ感じられる。 「親父。えっ、仕事は?」 「はあ、はあ、ごめんな、雅人」  息切れとともに出た親父の謝罪。俺の問いへの回答になっていない。何に対しての謝罪なのかもわからない。  しかし、親父が次に放つ科白により、それらは一旦解決してしまうこととなる。 「彼、今日からうちで暮らすことになったから」  俺は間を置いて、「は?」とだけ呟いた。 「雅人と同じクラスなんだよね?」 「はい」  俺の呟きを見事にスルーした親父の問いに、転校生は冷静に答える。  ちょっと待て。  普通に、自然に話が進んでいくが、おかしくないか?  待て待て待て。うちで暮らす、って?  同居? ってことかよ。  意味わかんねえよ。  他人と暮らすこと自体抵抗あるっつーのに、俺ら今日が初対面なんだぞ? 「自転車はそこに置いといてね」 「ありがとうございます」  てかお前はなんでそんな冷静なんだよ。  まあ、全部知ってたんだろうな。  そうか、だからか。  今日散々向けられた視線の理由に、納得がいく。これから同居するやつのことを見ておこうと思ったのか。  違う。納得がいく、ってなんだよ。なにこの状況を受け入れてんだ。  肩にデカめのリュック、両手にボストンバックを提げた転校生を、親父は笑顔で家中へと招き入れる。  マジでうちで暮らすのか。何かの間違いじゃないのか? とりあえず親父に全てを話してもらうしかない。  俺たちはリビングに向かい、ソファに腰掛けた。 「改めてだが、彼は深見 直くん。今日から一年間、うちで暮らすことになった」  向かいの親父が説明する。  思った以上の期間だった。長くても一ヶ月程度だろう、と勝手に思っていた。 「直くんのお父さんと俺は、仕事上で付き合いがあってな、ある事情で直くんを預かることになったんだ」 「ある事情……」 「父親が、海外に出張することになって」  俺の反芻に、深見が応える。 「ああ、なるほど。家族全員付いていく、とか?」 「いや、父親だけ」 「えっ」 「母親、死んだから、先月」  声が出なかった。余計なことを言わせた。 「……悪い」 「俺の方こそ、驚かせてすまなかった」  無意識に下がっていた顔を上げると、親父と目が合った。 「今朝言おうと思っていたんだが、急いでいる雅人を引き止めるのは気が引けてな」 「いや、俺も寝坊したし。ごめん」 「僕の方こそすみません。出発は来月だったのに、急遽今日になってしまって」 「お父様も多忙なお方だ、それは仕方がないよ。君が謝ることじゃない」  事情は理解した。深見の生活スキルは推し量れないが、高二とはいえ、突然一人で生活するのは難しいのだろう。精神的にも不安定だ。  だが実感がわかない。今日から他人がうちで暮らす。なんというか、すげえヘンな感じ。語彙力の欠片もないが。  「部屋を案内するね」と、親父が立ち上がった。  物置にしていた部屋を突然片付けだしたのは、これが目的だったのか。しかも俺の部屋の隣だし。  深見が部屋に消えていった後、親父が小声で話す。 「ごめんな、突然。後日ゆっくり話そうと思っていたんだが」 「深見も言ってたじゃん、急遽今日になったって」 「それもそうなんだが、なるべく雅人の負担にならないようにするから」  深見と同じく、俺にも母親はいない。俺が小学生の頃に癌で死んだ。それ以来、家事は主に俺が担うことになっている。  親父は仕事で多忙だが、手が空いた時などは手伝ってくれるため、なんとかここまでやってこれた。 「別に一人くらい増えたところで変わんないって。それに、負担とか思うのはさすがに気の毒だよ」  だからこれは本心だった。他人と暮らすことの違和感は拭えないままだが、生活そのものは変わらずやっていける自信がある。 「お前……、いい男になったなぁ!」 「なんだよ、気持ちわりぃ」  ただ、一つだけ疑問に思っていることがある。それは、深見は何故転校してきたのか、ということだ。  転校前、どこの学校に通っていたのかは知らない。県内、もしくは他県だったのか。しかし、一年間通っていた学校を出てまで親父に頼んだのは、何か理由があるのだろうか。それだけ親父は人望が厚い、ということか?  少し空いていた扉の隙間から、深見の様子を眺めた。慌ただしそうに荷解きをしている。 「深見」  声をかけられるとは思っていなかったのだろう。深見の肩が跳ねた。手を止め、振り返る。 「あー、なんか手伝おうか?」  俺も特に話す内容を考えていなかった。とりあえず頭に浮かんだことを口にした。 「えっ、ああ、いや、大丈夫。ありがとう」 「そっか。まあ、今日からよろしく」 「こ、こちらこそ。よろしく」  ぎこちなく答えた後、ダンボールに視線を戻す。  なんというか、悪い奴ではないのだろう。学校で初めて会った時に覚えた、不快感や薄気味悪さは殆どない。  その後は、特に会話をすることもなく夕食を終えた。深見は「ごちそうさま」と礼をし、洗い物を進んでやってくれた。悪い奴ではないのは確かだ。  翌朝の教室にて、席についたのと同時に、クラスの女子、菊田さんが話しかけてきた。 「ねえ、深見くんと一緒に登校してきてなかった?」  確かに俺と深見は、同時に家を出て、同時に正門を通り、同時に入室した。  会話をせず一定の距離を空けていたつもりだったが、他人からすれば一緒に登校してきたように見えるのか。  不特定多数の生徒に同居の件を知られるのは、あまり気分が良いものではない。用心しよう。 「偶然だと思うけど」 「そっか。ごめんね、突然」  納得したように去っていったと思いきや、その足は今度、深見の隣で止まった。 「菊田さん、深見くんに話しかけてる」 「タイプっぽいもんね、深見くんみたいな美少年」  登校してすぐ、二人の様子が目に入ったのだろう。二人組の女子が、席につきながら二人を見てこそこそと話している。  明らかに悪意のある口調なのはとりあえず無視し、深見に目を戻した。  昨日は容姿をじっくりと見る時間も余裕もなかったが、今改めて見ると、確かに整った顔立ちをしているな、と思う。  女子たちが美少年、と表現するのは、華奢な身体や艶のある黒髪も影響しているのだろう。  その日、深見が帰宅したのは、俺が家に着いてから一時間後のことだった。 「遅かったな」  今日一日、俺と深見の間に会話はなかった。あまりベタベタと馴れ合う必要もないが、ギクシャクするのも疲れる。挨拶代わりに口にしてみた。 「ああ、うん。今朝、菊田さんに『黒川くんと一緒に登校してきてなかった?』って聞かれて」  そう思われないように下校の時間をずらした、と付け足す。  俺に聞いた際の科白と全く一緒で呆れる。菊田さんの目的はよくわからない。転校生への興味からか、単純に深見に気があるからなのか。 「わかった、俺も気をつける」  「手伝うよ」と深見は、洗濯物を畳む俺の近くに腰掛けた。やはり悪い奴ではない。 「聞くの忘れてたんだけど、深見は昼どうしてんの?」 「購買でパン買ったよ」 「明日から作ろうか? 弁当」 「えっ! いいよ、悪いし」 「どうせ俺も親父も要るから」 「でも、おかずが一緒だと、その、怪しまれたり……」 「あ」  思わず呟いた。その問題は大きい。気づかなかった。 「頭良いな」 「いや、そんな」  お、照れてる。可愛いとこあるんだな。  いや、待て。可愛い、ってなんだ。深見は男だ。クラスの女子が表現したのは、「美少年」だ。「美少女」ではない。男、である。 「黒川くん」  深見の声で我に返る。名を呼ばれたのは初めてだ。くん付けが、こそばゆい。 「どうかした? 急に動かなくなったけど」 「あ、ああ、大丈夫。弁当は、なんとかする」 「ありがとう」  なんだか熱っぽいのは、気のせいであってほしい。進級早々、学校を休むのは御免だ。 「いただきます」  深見と同居してから、一週間が経った。俺も深見も、少しずつこの状況に慣れてきたように思う。  父親は相も変わらず多忙なため、このように二人で食卓を囲むスタイルが定着し始めていた。  そのため、必然的に変化が訪れる。 「黒川くんって、揚げ物もできるんだ」  深見の口数が増した。それに伴い、表情が豊かになったように思える。勿論、変化は俺にも訪れていた。 「ま、まあな」  深見に褒められたり、柔らかな表情に遭遇すると、何故か身体が熱くなり、息が苦しくなるのだ。その度に胸中は困惑する。  そして極め付けは、夕食後での出来事だ。  トイレから出たとき、隣の風呂場から出てくる――勿論全裸の――深見と鉢合わせてしまった。  それだけならまだよかった。同居しているのだから仕方がない。これから先、こんなことは幾度となく訪れる。風呂場側もいずれ経験するだろう。  問題なのは、その数秒の出来事で、俺の下半身が育ってしまったということだ。即座にトイレへUターンする。  もう意味がわからない。重症すぎる。狭い空間が溜息で充満しそうだ。  こんなことにまでなってしまったのは、クラスの女子が深見を美少年、と評するのを聞いたからだ。俺の中で、深見は美少年だと認定されてしまった。  いや、関係あるのか?  本来、美少年とこの現象はリンクしない。美少年と「深見」はリンクしても、「これ」とはリンクしない。何回リンクを連呼するんだ。どうかしてる。  収まったのを見届け、俺はトイレから脱出した。手を洗った後は部屋に直行し、本棚から写真集を取り出す。数年前にファンになったアイドルの、ファースト写真集だ。やはり可愛い。一冊目とだけあって、表情やポーズが初々しい。でもそこがいい。先月発売になったセカンドに手が伸びないのは、その個人的な趣向によるためである。  再び育っていく感覚に、安心感を覚える。同時に、必死になっていることを虚しく思った。  というか、そもそも俺は何に焦っているんだ。「男」である深見に反応したことか? それはそうだとして、何故なのか。「美少年」だからか? それとも……。 「そういう人がタイプなの?」 「どわあ!」  驚いて寿命が縮む。かの有名な都市伝説を、改めて信じたくないと思った。 「ごめん、驚かせて」  謝罪する深見の表情にも、息は苦しくなるようだ。 「部屋の入口に立ってたから、気になって……」  俺の手からすり抜けて床に落ちた笑顔は、今では俺を嘲笑っているように見える。 「深見ってさ」 「何?」 「経験、ある?」  何を聞いてんだ、俺は。 「……あ、ある」  マジかよ。 「いつ?」 「前の学校の人」 「へえ、なんか意外」 「えっ……、あ、うん」  ん? なんかマズったか?  ちょっと馬鹿にしたような言い方だったかな。そんなつもりはなかったんだが。 「…………」  走る沈黙。完っ全にやらかした。 「あのっ!」 「は、はい」  先に破ったのは深見だった。返事が思わず敬語になる。 「この後、忙しい?」 「いや、特には」 「これから始まるドラマ、一緒に観ない?」  午後八時五十五分。テレビの前で、五分後の放送まで待機する。  ソファに座っていることもあり、妙に距離が近い。ふと横顔に目を移した。 「うわ、睫毛長っ」  おい、俺。何故口にした。  深見が俺を見つめる。そして、笑った。 「よく言われる」  九時になり、スーツ姿の男性が映し出された。主演の人気俳優だ。ナレーションが流れる。どうやら弁護士ものらしい。  俺の頭が働いていたのはここまでだ。この後の展開は勿論、他の出演者などの情報は記憶になかった。エンディングの主題歌は比較的好みだったため、かろうじて今も脳内に流れている。 「うん、面白かった」  共感できない。全部、深見のせいだ。この一時間、深見のことしか頭になかった。 「観てよかった」  満足そうに話す表情に、俺は何も言えない。 「……え?」  言えない、と思っていた矢先、呆気なく言った。  深見が、泣いている。  状況が読めない。わからない。何故だ。何故、深見は泣いている?  単純に考えると理由は、ドラマに感動したから、だろう。  しかし、薄い記憶を辿っていくと、初回第一話とはいえ、特に感動するようなストーリーではなく、主人公である弁護士の言動に爽快感を覚える、それがこのドラマの狙いだったように感じた。気に入った主題歌ですら、爽やかなアップナンバーだった。考えにくい。  だとしたら、何に対して? 「ごめん」  俺の思考に応えるかのように、深見が謝罪した。 「泣かないように、って思ってたんだけどさ」 「そんなに感動したんだ?」  「いや」と、首を横に振る。 「母さんが観たかったんだ、このドラマ」  再び何も言えなくなった。 「主演の俳優が好きで、発表された時からずっと楽しみにしてた。俺にしつこいくらい『一緒に観ようね』って言ってて」  「観せてあげたかった」と、涙を拭った。 「一緒に観てくれてありがとう」 「深見」  深見の左手に伸ばしかけた手を引っ込めた。 「来週も、一緒に観よう」  代わりに、熱い背中を撫でた。  いつもより小さく感じる。  手を離すと消えてしまいそうだ。そんな馬鹿げた妄想をした。  来週の第二話は、更に集中できなくなるだろう。でも一緒に観たいんだよ。一緒に楽しみたい。  俺、深見のことが好きだ。  深見への想いを自覚してから、更に一週間が経った。  なんとなく、だ。なんとなくだが、俺と深見の距離は縮んだように思う。それも、物理の方で。  深見は、俺に甘えてくる、というか、スキンシップが多くなった。俺や助けを呼ぶ際、必ずと言っていい程、肩や腕に触れてくる。  学校でも、一緒に過ごす時間は多くなった。移動教室では、高確率で隣同士の席に座り、昼休みでは、同じメニューの弁当を広げて食べる。  意中の相手に頼りにされ、作った飯を絶賛され、毎週並んでテレビドラマを観る生活。幸せでしかなかった。  が、この想いの終着点を考えた時、我に返るかのように唖然とする。  初恋は実らない、とはよく言ったものだ。深見に抱いているものは、俺にとっては初恋同然だ。  そして、一番知りたいことを、未だ確かめられていない。  ドラマの第二話が終わった。先週より確実に集中できないと半ば諦めていたが、その逆だった。単純に面白い。登場人物も増え、シナリオがめくるめく展開されていく。何より主題歌が良い。調べたところ、今注目の新人ロックバンドが担当しているらしい。 「黒川くん、この主題歌好きなの?」  小声で口ずさんでいたのに、気づかれてしまった。この距離では無理もないか。 「うん、なんかすげえ好み」  主題歌発売のCMが流れる。 「CD、五月に発売だって。買わないの?」  発売日はまさかの誕生日だった。自分へのご褒美に、とスマホで価格を調べてみたものの、コスパの低さに首を傾げてしまう。 「うーん、考え中」  そう答えてみたが、買わない、の選択肢しか胸中にはなかった。 「あの男の人、主人公の元クラスメイトだったんだね」 「ああ、川嶋、だっけ? いいライバルになりそうだよな」  ドラマの話題が続く。川嶋、とは今回の第二話で初登場したキャラクターだ。 「主人公の高校に転校してきたんだよね」  聞くなら、今しかない。そう思った。 「深見ってさ」 「うん」 「なんで、転校までして……」  言いかけて、飲み込んだ。後悔した。表情が一瞬曇るのを、俺は見逃さなかった。 「また、話すよ」  一線を引く、とはまさにこのことだ。  自身の部屋へと消えていく深見の姿を、黙って見つめることしかできない。  この日以来、俺が転校の理由について聞き質すことはなかった。勿論深見から話すこともない。  この件はタブーだ。そう判断できれば、どんなに楽だろう。  今となっては、深見の全てを知りたい、理解したい、と思っている。過去も、今、考えていることも。  深見を想えば想う程、一線を引かれた際の苦しみが強くなる。  そして月日は巡る。  距離が縮まることも広がることもないまま、誕生日の朝を迎えた。  天気はあいにくの雨。誕生日が楽しみ、なんて柄じゃないが、少しばかり気分が重くなる。 「今日はなるべく早めに帰るよ」  朝食を済ませた親父が、ネクタイを締めながらそう言った。 「いいって、いつも通りで」 「ケーキも予約してるしな」 「マジかよ……」  照れ臭くなり、なんとなく深見に顔を見られたくなかった。それが影響したのか、家を出るまで会話は生まれなかった。  今朝より断然うるさくなっている雨の放課後。  ついていなかったのは、天気だけじゃなかったようだ。今日の俺は、運悪く日直が当たってしまった。  日直くらい、別にどうってことない。ただ今日は、自分の誕生日とはいえ、夕食のメニューに力を入れるつもりだった。普段は絶対に作ることのないラザニアとか。そう考えていたのに。 「日誌、お願いしていいかな? 黒川くんの方が、字キレイだもん」  もう一人の日直、菊田さんから日誌を受け取った俺は、一限目から順に、授業の内容について記憶を引きずり出していく。が、何も書けない。日誌どころではない。 「黒川くん」  顔を上げると、黒板を消し終えた菊田さんと目が合う。 「これ……」  小さな紙袋を持ち、ゆっくりと俺の前に立った。 「俺に?」 「開けてみて」  中を取り出し、ラッピングを外した瞬間、「えっ」と声が漏れた。現れたのが、あのドラマ主題歌のCDだったからだ。 「お誕生日おめでとう、黒川くん」 「ありがとう……。俺の誕生日、知ってたんだ」 「黒川くんと同中の子に聞いたから」  そういえば中学の卒業アルバムに、プロフィールを書くページとかあった気がする。 「これ、今日発売だよな?」  「昨日、フラゲしたんだ」と頬を染める。 「あとね、この曲が好きってことも聞いたの」 「え」  この情報を知っているのは、一人しかいない。 「深見くんに」  距離が縮まった原因が、今わかった。  黒川くん、この主題歌好きなの?  頭に、深見の声が響く。  甘えた表情や過度なスキンシップの先にある目的。それは、俺の好みを把握することだったんだ。菊田さんが同居の件を知っているのかは定かではないが、比較的俺と距離が近い深見に頼んだのだろう。深見との登校初日に投げられた科白にも、納得がいく。  そこまでして俺の好みを把握したい理由。察しはついた。  菊田さんは、俺の手に自身の手を重ねる。 「私、黒川くんが好き」  家までの足取りは、重い。降りしきる雨のせいではない。  感情がまとまらない。これは、怒りなのか、悲しみなのか。  裏切られた。そう解釈しても良いのか、それすらわからない。  ただ、はっきりしていることが唯一あった。  深見に、会いたい。  その感情が、心と、足を動かす。 「直くん、遅いな」  午後九時をまわっても、家の中に深見の姿はなかった。  日直の俺より先に帰宅しているとばかり思っていた。想定外だった。  雨は、今朝と比べ物にならない程に強くなり、風も出てきた。窓が揺れる音が、不安を煽る。 「駄目だ、繋がらない」  素っ気ないガイダンスが流れるスマホから耳を離した。 「車で近くまで行ってくるよ。何かあったら連絡して」 「わかった」  親父が家から出ていった後、突然鳴り出した心臓の音に驚く。  怖い。深見に何かあったらどうしよう。会えなくなったらどうしよう。もしそうなったら、俺はこの先、誕生日なんていらない。  そうだよ。俺今日、誕生日なんだよ。深見と過ごしたかったのに。  今度は、異様に悔しさが込み上げてきた。 「何やってんだ、俺」  思わず自分を鼻で笑う。滅茶苦茶だ。情けない。恥ずかしい。  なんなんだよ、もう。  早く、早く帰ってこいよ、深見。 「……ん?」  その時、足音がした。深見だ、と察した。俺は犬か何かか。玄関に向かう。  間違いなく深見がそこにいた。 「ごめん、遅くなって」 「いや、そこじゃねえわ」  深見の身体は、見るからにびしょびしょに濡れていた。 「傘持ってっただろ?」 「盗られたみたい。何処のコンビニにも売ってなくて」  脱衣所から持ってきたバスタオルを深見の頭上に広げ、濡れた髪を拭う。 「何やってたんだよ、こんな時間まで。連絡くらいしろ」 「スマホ、濡れて壊れた」  責めるような真似はしたくないが、こんな状況で俺も落ち着いていられない。心臓の激しさを隠すのに必死なんだ。 「黒川くん」 「なんだよ」 「なんか、頭、ぼーっとする」 「は?」  慌てて深見の額と首に触れる。熱い。とてつもなく熱い。 「……黒川くん」  一体、何が起こった。  深見は俺を抱きしめた。いや、抱きついた、の方が妥当か。 「菊田さんに、告白された?」  その科白に、一瞬息が止まる。 「されたよ、おかげさまで」 「付き合うの?」 「断ったよ。プレゼントも返した」  付き合うわけないだろ。この心臓の音が何よりの答えだ。 「誕生日おめでとう」  唐突だな、と出かかった言葉が引っ込んだ。深見の手には、主題歌のCDがあったからだ。 「これ買いに行ってたんだ」 「……この雨の中?」  深見は頷く。 「ドラマとコラボした限定盤なんだ。何故かこれだけフラゲできないし、今日何処にも売ってなくて……、何十軒も回ったらこんなことに」  「でも賭けだった」と続ける。 「菊田さんと付き合うなら、渡さないでおこうと思ってた。黒川くんを想いながら聴こう、って」  ……今、なんて言った?  聞き逃したつもりはない。だが、信じられない。 「どうしても今日、手に入れたかった」 「深見、今……」 「黒川くんのことが好きなんだ」  そうか。これは、深見の姿をした幻だ。そして、聞こえるのは幻聴だ。 「前、聞いたよね、転校の理由」  幻は静かに話し始めた。 「前の学校でね、男の先輩と付き合ってたんだ。でも突然フラれた挙げ句、全校生徒にバラされて、気持ち悪がられて煙たがられて……、居場所なんか何処にもなかった」  胸が熱くなる。気づけば深見の手首を掴んでいた。  幻なんかじゃない。目の前にいるのは、間違いなく深見だ。 「そんな時、父親の出張の話が出て、黒川家のことを知った」  深見は照れ臭そうに笑う。 「写真見せてもらったんだけど、正直、黒川くんはタイプだった。今思うと、一目惚れだったのかもしれない」  「最初、じろじろと見ちゃってごめん」と謝罪した。  あの視線に、別の理由があったなんて。今度は顔が熱くなる。 「……そんなこと、初めて言われた」 「一日に二人から告白されるような、色男なのに?」  深見の冷たい手が、俺の熱い頬に触れる。  「会えて嬉しい」と優しく伝えた後、俺に唇を近づける。  初めてのキスを、深見と交わせるなんて。  こんなこと聞いたら、さすがに深見でも引くだろうか。  俺は目を閉じる。  ガチッ。文字通り、そんな音がした。  前歯に激痛が走り、口を押さえる。目を開けると、深見も全くポーズをしていた。お互いに吹き出してしまう。 「痛い……」 「経験あるのに、なんでそんな下手なんだよ」  思わずそんな科白が飛び出した。 「だって、キスしたことないから」 「は? キスはしてねえのにヤったのか?」 「やった、って?」 「……深見ってさ」 「うん」 「童貞?」  ゆっくりと頷く。  経験、って恋人の有無じゃねえよ。  言いかけたが、やめた。俺も深見のことは言えないくらい経験不足だ。知らないことも多い。  それでいい。一緒に学んでいこう。この場所で。  だから、とりあえず。 「俺、深見のことが好きだ」 完

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