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Ⅰ-Ⅰ 伊丹
ネオンが人を吐き出す。雑踏が体の芯を犯す。安居酒屋の脇で、これから二次会に向かうらしい赤ら顔の男女らが品のない笑い声を上げる。その横を、伊丹研一は声を殺して歩いた。
近くの路地裏では小競り合いがあったらしい。野次馬が大通りに溢れ、いつもなら無秩序なりの秩序を持って流れるこの人混みに不自然な淀みができていた。この界隈ならば洒落にならない面倒ということもある。巻き込まれないうちに帰宅してしまおうと、肩に提げたトートバッグをかけ直し、足を速めた。しかし急な早足に合わせきれず、向かいから来た女たちに鞄をぶつける。
ぶつかった女たちが、こちらを見上げた、一瞬のぎょっと怯んだ表情を伊丹は見逃さなかった。彼女らはまるで無視という体で一息で立ち去ったが。
もっともそういう視線には慣れっこだった。大学に入ってから三年以上世話になっているバイト先でも同じようなことは度々だし、さらに遡れば学生服を着ていた頃から自分はすでにそうだった。
伊丹は上背がある。一八〇を優に越す長身は何もせずとも隣に立つだけで周りを圧倒するのだとは、学生時代に繰り返し言われたことだった。おまけにたいして運動をするわけでもないから、筋肉どころか肉がなく、痩せて骨格ばかりが目立つ骨張った体をしている。それが一層自分の不気味さを増しているのだというくらいの自覚は流石にあった。
駅まではまだ、少しある。伊丹はしばしば自分が新宿歌舞伎町のど真ん中をアルバイト先に選んだことを後悔する。決して職場から駅まで距離があるわけではないのに、無限に沸く人混みをかいくぐりキャッチを躱していると、いつの間にか携帯で算出するよりも長い時間を要してしまうのだ。
「おにいさぁん」
すぐ後ろから舌っ足らずに呼び止められ伊丹は振り返った。普段なら気にせず行ってしまうところだが、その声があまりにも近く、首元で吐息すら感じられたことで、瞬間の欲が理性に勝った。だがそのゼロ距離の期待に反し、ハイブロンドの髪を巻き上げた夜の女の言葉は、伊丹の後ろの小柄な青年に掛けられたらしかった。
自意識の過剰さに内側から責め立てられ、丸まった背をなお縮める。都合良く目の前の信号が青に変わったので、渡らずとも良い横断歩道をとりあえず渡った。
逃げるようにしてピカデリーの前まで来たところで再び背後に気配があった。
「おにいさん」
高めではあるが、しかし、明らかに男の声だ。キャッチか。
「おにいさんてば」
声は繰り返す。ただ男の癖に、妙に甘えた色を含んだ声色をしている。珍しいな、と思ったところで、不意にバッグを強く引っ張られ伊丹は後方によろめいた。
「なんですか」
「聞こえてるじゃん」
そこにいたのはずいぶん華奢な男だった。身の丈も女のようで、人気スポーツブランドのトレーナーを緩く着こなし、それがより線の細さを際立たせている。青年だろうが、少年のようにも見える。そしてどことなく、先ほど伊丹が勘違いをした女に呼び止められていた小柄な青年と同じ人物に見えた。
「さっき、おにいさん間違えて振り返ってたね。ちょっと、笑えた」
やはりそうらしかった。
「でもさっきのお姉さん、ちょお距離近かったもん。仕方なくない?ね?」
歯牙にかけず立ち去るべきか、一応話しに付き合ってやるべきか伊丹が逡巡している間にも青年は話続けた。
「結構きれいな人だったよ。肌も柔らかそうで。新しい子かも、人気でそう。もしかしてあんまり見てなかった?すぐ行っちゃったもんね。見てなかった?」
「……見てないですけど」
「見てないのか。あのさ、さっきのお姉さん胸の開いたドレス着てたけど、よく見ると下着がずれててね。さきっぽまで、見えてたんだよ」
急に何を言い出すんだという衝撃とともに、伊丹の脳裏に先ほど視界をかすめただけの女のドレス姿がちらついた。胸元なんて覚えてなかった。それでも青年の言葉で、想像で、補完されるあのときの景色。途端下腹の方からせせり上がって来た熱を押さえ込むようにして言葉を返した。
「そうですか」
「想像したでしょ」
青年は薄くほほえんだ。笑顔にいたずらな加虐心が覗く。伊丹はもてあそばれた気になってやや腹が立った。早く帰ってしまいたかったが、一方で、そのまっすぐな瞳に捉えられ不思議と自分の方が動けないでいる感じもあった。青年は一歩、二歩と歩み寄り、それから伊丹の手を握った―いやそれは正しくなかった。青年は伊丹の手に握らせたのだ。
「今これしかないんだけど」
ゆっくりと手を開くと、持たされたのは桃色のチュッパチャップスだった。
彼はそのまま静かに体重を伊丹に預けてきた。退くことはできなかった。青年の子供のような体温が、今まさに伊丹の熱い下腹部に重なっているのだ。
見下ろしていた青年の頭が懐き始めた子猫のように擦りつく。
おにいさん、どお、と彼は誘った。
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