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第1話

「何、怒ってんの?」 「別に。お、怒ってなんかないよ」 「てかさ、たしか今日一緒に帰るって言ってなかったっけ。なんで先に帰っちゃうわけ?」  そうだ。怒るとしたら、僕じゃなくアサヒのほうだ。  今日は一緒に帰る約束をしてた。一緒に帰って、アサヒの家で、たんまりと出ている春休みの課題を早々と片付けちゃおうぜって約束も、今朝、確かにした。明日は終業式だし、4月になったら僕らはもう3年で、あっという間に忙しくなるに決まってるから、3月中にどこかに遊びに行こうか、なんて話もしていた。  だけど今日、僕は彼を置いて学校から先に帰って、着替えて、今こうして彼の住むマンションのエントランスで、気まずいような、具合の悪い思いを抱えたままうつむいて大理石の床を蹴っていて。 ……そこへアサヒが帰ってきて、片手を上げて「よっ」と言いながら、僕の足を踏みつけた。 「今のでおあいこにしてやる」  そう言って僕の前を通り過ぎ、エレベーターへ向かって歩いていく。このスニーカー、結構気に入ってるんだけどな。けどまぁ、自業自得だ。  エレベーターはまるで僕らを待っていたようにそこにいて、彼がボタンを押すと、すーっと扉が開いた。いつものように「8」のボタンを押した後、扉の上にある階数を表示するバーを眺めているアサヒに向かって、言った。 「帰りに、お前の教室に寄った。そしたら、何か、クラスの奴らとギャーギャー騒いでて、マンガだかグラビア雑誌だか知らないけど、何かそんなの見てただろ。“この○○ちゃんのちっせぇ水着、たまんねぇなぁ”とかってサクが言ってて」 「あぁ。言ってた言ってた。あいつ、本当にアホ丸出しだよな」 「……お前だって、何か言ってたじゃん」  2人しかいないエレベーターの中で、隣に立っているアサヒが何かに気付いたような顔をしてこっちを見たのが視界に入って、反射的に顔を背けた。 「お、まえ。もしかしてそれで怒ってんの? 俺が水着の女のコのグラビア見てギャーギャー言ってたから? それで先に帰っちゃったの?」  その時ちょうど8階に着いて扉が開き、僕らは箱の中から解放された。たぶん、ひどい顔をしている。赤くなってるかもしれない。それを見られるのがイヤで、アサヒの家の玄関を目指し、彼よりも先に速足で歩いた。 「おーい、鍵持ってんの、俺!」  わかってるよ、そんなこと。心なしか、アサヒの声に含み笑いが混じっている。  玄関の前で追いつかれて、カギをガチャガチャやってアサヒが扉を開けて、「どーぞ」と先に入れてくれる。 「……どーも」 「どーもじゃねぇよ」  そう言いながらアサヒは玄関の扉を閉めると、こらえていたものを吐きだすように、天井を向いて大声で笑い始めた。  バカだなぁ、僕。どうしようもなくバカ。だって、僕のことをこんなふうに笑い飛ばす男のことが好きでしょうがないんだもんな。 「あ、アサヒも、ああいうのに載ってる女が好きなのか? あの、水着の……」 「……え?」 「男だもんな。……僕もそうだけど」  ふっと笑って靴を脱いで、僕の頭をポンと叩いて先にリビングへ向かうアサヒの後ろを歩きながら、ゆるくウェーブがかかった髪を眺めていた。ヤツが何をどう言い返してくるのか、聞きたいような聞きたくないような。ていうか、僕がさっき言ったことって、冷静に考えるまでもなく、カッコ悪いな。  リビングのソファの足元にカバンをどさっと置くと、こっちを見ながらアサヒが言った。 「ガリ勉で成績優秀で、絵に描いたような運動オンチで。クソにがいコーヒーはガバガバ飲んでるくせに、コーラを飲むといつもオエッてムセる。賢いくせにやきもち焼きで、けどお前のそんなガキみたいなところを知ってるの、俺だけでしょ」  そうして、ふわぁーっだか何だか言いながらソファに体を沈めると、自分の隣をポンポンと叩く。ここに座れ、というように。僕は、彼がそうしたように持っていたカバンを足元に置いて、アサヒの隣に座った。 「お前さァ、めちゃめちゃ頭イイのに、そうゆうところはバカだよな」  ばーか。とアサヒはもう一度言って僕の髪をもしゃもしゃにかきむしると、グイッと自分のほうへ引き寄せた。まだ制服を着たままの彼の身体は、汗の匂いと体温の熱さがまざって、生々しい温もりがあった。 「踏切の近くの公園に桜が咲きかけてたの、気づいた?」  僕だけに聞こえるような声で、彼が言う。 「もう春だなぁって、これトモと一緒に観れたらラッキーだったのになぁって。なんでお前、先に帰っちゃったのかなぁって考えながら、歩いてたの」 「……気づかなかった。桜」 「どうせ下向いて歩いてたんだろ? 俺のことブツブツ言いながら」  くくくっとアサヒが笑うと、耳たぶの下にある鎖骨が少しだけ動いた。その通り、正解だよ。満点。そういうところはお利口だよな。アサヒは。 「『いくら頭が良くたって、言葉にしてくれなきゃわかんないし伝わらないことだってあるんだよ』って、前に言ってたね。お前」  言った。覚えてる。確か、学祭の出し物で、アサヒがクラスの女子と組んで何かやらされるハメになったとかでギャーギャー言ってるのを見て、その時も僕がやきもちを焼いたんだ。こういうところ、本当に学習しないな。僕。 「好きだよ、トモ」  指先で僕の髪をとかすようにしながらアサヒが言った。 「お前も言ってよ」  顔の角度を少し変えると、アサヒの首の付け根の小さなほくろがあるところに唇が当たる。そこへ唇をつけたまま、 「アサヒが、好きだよ」  うん、とアサヒは答えて、今度は掌で髪を撫でながら、 「3年になったら、今度こそ同じクラスになれるといいのにな。そしたら受験勉強に付き合ってよ」 「部活は? いつまでやるの」 「7月の期末テスト前で引退。行ったり行かなかったりの幽霊部員だけど、一応はね」  来年の今頃は、受験も終わって大学に行く準備をしている。  彼は地元で、僕は県外の大学へ行く。それはもう、決まっている。ただ、その頃僕らがどうなっているか、どうしていきたいのか、それはまだ話していない。 「明日、終業式の帰りに公園で花見しようよ」  僕がそう言うと、「あぁ。いいな、それ」と頭の上で声がした。  時々思うんだ。  僕らはずっとこのまま、大人になんかならないで、ずっとこのままでいられたらいいのにって。そんな僕にとって『受験勉強に付き合ってよ』というアサヒの言葉は、残りあと1年の限られた時間を、少しでも長く一緒に過ごそうって言っているように聞こえた。それが嬉しいような、だけど少しずつ終わりに近づいているのがわかって、……だから正直に言うとすごく寂しい。そんなふうに、『寂しい』なんて思ってるのは僕だけなのかな。……そうやって、また1人で思い込んでる。 「17歳は一度だけ――」  頭の上から、ヘンな調子の鼻歌が聴こえてくる。 「何、それ?」 「知らない。サクが歌ってた。むかーしにそんな映画があったんだって。あいつ、そういうのも好きらしくて」 「18歳だって、20歳だって一回しかないじゃん」 「そうだよな」  アハハとアサヒが笑い、肩が揺れる。  いつか、こんなふうにバカみたいなことを言って笑い合って、お互いの身体を寄せ合って、時々唇に触れて。そんなふうに過ごしたことを、アサヒを、過去のものにして思い出すことがあるんだろうか。僕はその時、…………。  けど、僕らはずっとこのままで。大人になんか、ならなくていい。あと少しだけ、そう思っていたい。 end

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