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第1話

「好きなんだよ」  ――あれ?  俺の頭の中は真っ白に、思考回路は完全停止、身体は背後の建物の壁に押さえつけられるような形で固定、ただ目の前の鋭い眼差しを向ける男に釘付けにされている。  ――どうしてこうなった?  ぽた、と頬に水滴が落ちる。それを合図に天から大粒の雨が降り注ぐ。人気のない路地裏に取り残された男二人をずぶ濡れにする。クリーニングしたばかりのスーツに身を包んだ俺は、ああ三千円が、と頭の中で呟く。今はそれどころではないはずなのに。 「お、おい、雨――」  話をはぐらかそうとしたが、全ての意識を俺だけに注いでいるようで、目の前の男、秀仁はびくともしない。 「城、あんたの気持ちを聞きたい」  ああ、だから子供は嫌いだ、と心底思った。常にゼロかイチか、白黒付けたがる癖、自分の感情だけで突っ走る情熱。そんな煩わしいのは大嫌いだ。曖昧が、適当が、織り交ぜた嘘が、余裕のある心が、心地いいのに。  止みそうもないな、と黒く厚い雲が広がる空を睨み付け、こんなことになるなら、と一週間前の自分を呪った。  仕事終わりに行きつけの駅前のラーメン屋に寄って、家に帰る途中、年中マナーモードに設定された携帯が肩から提げた黒のビジネスバッグの中で静かに鳴った。取り出すと、途切れ途切れに街灯が灯る薄暗い路地裏で見慣れない「近松」という苗字が携帯の液晶画面にぼんやりと浮かび上がる。母方の叔父の家からだ、と慌てて出る。 「もしもし」 「やあ、やっと繋がったな。勝仁だけど」  久しぶりに聴く勝仁おじさんの声は、相変わらず低く渋い良い声で、胸が高鳴る。親戚の集まりがある度に、彼に熱視線を送っていることは誰も知らない。 「唐突で悪いんだが、頼みがあるんだ」 「おじさんの役に立てることなら、何でもやりますよ」 「私というか、秀仁のことでね」  その名前を聞いた瞬間思い出したのは、顔は勝仁おじさんに似て整った綺麗な顔をしているくせに無愛想で無口で、たまに口を利いたかと思えば生意気に俺を「城」と呼び捨てにする従弟である。元々一人っ子で年下が苦手な俺が、祖父の葬式の時に勝仁おじさんに頼まれて仕方なく面倒を看たことがあったが、俺の精一杯の問いかけを一切無視して持ってきたロボットの玩具で一人遊びをしているような糞ガキで、ろくな思い出が無い。いわば天敵のような存在だった。 「実はK大に受かって今年の春から上京することになったんだよ。でも、のんびりしてたら寮の申し込みが終わってしまっていてね。アパートを探さなくちゃいけなくなったんだ」  電話の向こうで、勝仁おじさんが苦笑する。  悪い予感がした。秀仁の名前を聞いた瞬間から、良くない話だというのは勘で分かった。一分前の自分はどうして話を聞く前に「何でもやりますよ」なんて軽口を叩いたのか、と後悔を始めるが、最早遅い。 「それで、申し訳ないんだけど、休日で構わないから家探しを手伝ってやってくれないかな。東京住みの親戚なんて城君しかいないし、そっちは電車とか複雑だっていうから、あのぼうっとした子が一人で家なんて探せないと思うんだよ」  ほら見ろ言ったことか、と心の中のもう一人の俺が毒吐く。いやしかし、よく考えれば短期間でさっさと部屋を探してやれば、長いこと一緒に行動することもないわけで、目ぼしい部屋を奴が来る前にネットで探しておけば、即日決定してさよならできる可能性もある。それに、何と言っても大好きな勝仁おじさんの頼みを拒否することなどできるはずもなかった。 「分かりました。秀仁君のことは任せてください」 「本当かい? 助かるよ。今度何か御礼をしないとね」  嬉しそうな勝仁おじさんの声が聞こえ嬉しくなると同時に、「御礼なら勝仁さんの太くて硬い肉棒で構いません」と言いたくなる衝動を抑える。 「ああ、そうだ。実は秀仁、今朝こっちを発ったんだよ。早い方が良いと言って」  確かに三月のこの時期、四月からの上京に合わせて部屋を借りる人が多く、不動産会社が良物件を掲載すると、数時間ですぐ埋まってしまうので、一日でも早い方がいいと思う。しかし、明日明後日がちょうど土日。早速あいつと会わなければならないのかと思うと途端気落ちする。 「あと秀仁が『城の家に泊まる』と言って出ていってね。宿賃渡してあるから、ホテルに泊まってると思うんだけど。もしかして、お邪魔していないかな?」  ――なんだって?  とんでもなく嫌な予感がする。予想は絶対当たって欲しくない、絶対嫌だ、無理だ。 「ま、まだ帰宅途中なので、分かりましたら連絡します」 「仕事帰りにすまなかったね。秀仁来ていたら追い出して構わないから」  そんなことできるわけがない。俺の話は右から左、まともに話ができない相手をどうやって追い出すというんだろう。それに腐っても勝仁おじさんの一人息子じゃないか。顔が似過ぎて悪態がつきづらいのだ。  「では、失礼します」と動揺を悟られないように電話を切った後、未だかつて大事な得意先への営業に電車遅延で遅刻した時を超えるダッシュ力を見せたことは無かった。しかし今夜はその記録を超えるほどの全力の走りで家路を急ぐ。ちなみに俺は今年三十三歳を迎える軽くおっさん入った年である。  いつもならゆっくり歩いて六分の道程を二分で自宅マンションに到着し、エレベーターで四階へ。一番奥の角部屋に向かって廊下を走る。が、「相田」の表札の我が家の前には誰もいない。 肩を上下させながら、ほっと一息吐いた瞬間、また嫌な予感がした。まさかなあ、と思いながら、恐る恐るドアノブに手を掛けゆっくりと回し手前に引く。  何の手応えも無くドアが開いた。廊下の奥の部屋から光が漏れている。血の気が引いた。  慌てて靴を脱ぎ捨てると、廊下、ダイニングキッチンを通り過ぎリビングへのドアを開け放した。  風呂上りなのか上半身裸の格好でソファに悠々と座り、何か本を読んでいる男。十年振りで身長がとんでもなく伸びていても――一七二センチの俺よりはるかに大きい――恐らくその顔は若くした勝仁おじさんそのもので、誰かなど想像しなくても一瞬で分かった。 「ど、どうやって入った!」  俺は全力疾走したせいで息を切らしながら声を荒げた。秀仁は相変わらずマイペースに本から目を逸らすことも無くこちらを無視する。 「本読んでないで人の話を聞け!」  ずかずかとソファに座る秀仁に詰め寄り、本を取り上げた瞬間、それが何であるかに気付いてしまった。 「城ってゲイなのか?」  専門ではないがたまに購入しているゲイ雑誌を手に、俺は固まった。独身で誰も部屋に入れないので普通にその辺に置いていたのだろう。  更にソファーの前のガラス製のテーブルの上には、俺が愛して止まない五十代以上の芸能人の写真集や「カレセン」というそのままの名前の写真集が乱雑に置かれている。完全にバレた、と思った。  そう、俺は正真正銘、頭の天辺から爪先まで女の入る隙など無いゲイである。その上俺のストライクゾーンは五十歳以上の中老の男性なのだ。  どうする、どうする、と思考を巡らすも、誰にもカミングアウトしたことがない俺は、何の言葉も出なかった。そんな俺をよそに、唐突に立ち上がると、ソファの脇に置いてあるスポーツバッグから、長袖Tシャツを取り出し着始める。俺がゲイだと思って焦ったのか。そう気づくと、一気に怒りが噴出した。 「げ、ゲイだからって誰でも食うわけじゃないぞ! ノンケに手を出す馬鹿はそういないし、何よりお前みたいなガキは俺の趣味じゃない!」  捲し立てる俺を気にもしていない様子で、きょろきょろと辺りを見渡す。 「ソファで寝るから、布団か毛布余ってないか」  人の話は全く聞かないくせに自分の都合のいい事ばかり言いやがる。普段、この年になって部下に軽く叱咤するくらいのことはあっても、これほど怒ることはそうそうない。まるで眠れる獅子が目覚めたかのようだった。 「むしろお前という存在が嫌いなんだ! 出て行ってくれ!」  言い放った瞬間、無表情の秀仁が一瞬驚いたように目を見開いた。そしてずい、と俺の前に詰め寄った。一九〇センチほどのその長身に至近距離に立たれると、何とも言えない威圧感を覚え、つい身構えてしまう。 「俺のこと、嫌いなのか?」 「き、嫌い……だ」  さっきはっきり言えたのに、威圧感のせいか言いづらく、目を逸らしながらになってしまう。  すると、わかりづらいが、何となく落胆しているような、気落ちした表情で、「そうか」とぼそりと呟くとスポーツバッグを手に、玄関の方へ歩いていく。  まずい、と思った。勝仁おじさんに彼の部屋探しを頼まれたというのに、このまま出ていかれたらもうそれどころではなくなってしまう。  俺は反射的に秀仁の腕を掴んでいた。彼がゆっくりと振り返る。 「部屋探しに来たんだろう。勝仁おじさんから連絡があった。明日朝から行くんだろうし、だったらここに居た方が効率がいい」 「……どうして」 「俺が手伝ってやるって言ってるんだ。お前みたいな田舎者、道に迷ったり、簡単に人を信じるから変な部屋借りさせられたり、悪い奴に騙されたりするのがオチだからな」  その言葉を聞くと、彼の腕から力が抜け、またソファの側にスポーツバッグを置いた。一瞬、彼が嬉しそうな顔をしたのは気のせいだろうか。余りにも表情が乏しくて分からない。  つい顔が若い勝仁おじさんだからか、それとも勝仁おじさんの顔がちらついてしまったからか、結局追い出すこともできず、むしろ居ていいというようなことを言ってしまった。  秀仁に聞こえないよう溜息を吐くと、寝室のクローゼットにある冬用の毛布を取りに行った。奥まったところに入れていたので手間取り、数分後にリビングに戻ると、ソファに横になった彼が、浅い寝息を立てていた。黙って動かなければ、綺麗な顔をしているし、三十年ぐらい歳を取れば勝仁おじさんのような俺好みの紳士になりそうなんだが、と思いながら毛布を掛けてやる。  テーブルの上に放置されている本を全部まとめて寝室のベッドの下に隠すと、風呂に向かう。風呂上りは普段全裸でうろうろするところだが、着替えの服を脱衣所まで持って行かなければならない。  シャワーで済ませて、リビングに戻り電気を消して寝室に戻る。  さて、明日で決着を付けなければ、とノートパソコンを起動させ、不動産会社のマンション・アパート情報をK大の最寄駅から路線に沿って片っ端から見ていく。いくつか候補をピックアップし、プリンタで印刷して持っていたファイルに不動産会社ごとに分けて入れていく。  すべての作業が終わったのは、深夜三時だった。我ながら、仕事終わりによくやった、と思う。  重たい身体をベッドに横たえ、目を瞑る。明日は八時には起きて不動産会社に九時には行かなければ。そう思い、ぼんやりした頭で携帯を手にした。

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