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第4章 終わりと始まり 1

 鼻先、頬を柔らかな風が撫でるように通り過ぎる。夢うつつの世界からゆっくりと意識が浮上していく。瞼の向こうに金糸の刺繍の施された天蓋が見え、ふうと一息吐いて身体を起こした。  ベッドから下り、疲れが残る重い身体を引き摺るように絨毯の上を素足で歩いて一番奥で揺らめくカーテンの方へ向かう。窓から外を見遣ると、まだ空は白んでいて夜が明けたばかりのようだった。  春を告げるつがいの薄緑色の小鳥が飛んでいくのを見つけて笑みが零れる。爽やかな風を受け深呼吸をし、窓を閉めた。 「……よし」  今日も平らかで安らかな一日が始まる。それを噛み締め、また気怠い身体を叱咤し鏡の前に向かった。鎖骨の辺りまで伸びた長いアッシュの髪、左に流すように分けた前髪は、決して紅い右眼を隠すことはしない。 「ニコデムス様、御起床でしょうか」 「うん、イェルク。入って」  最近はこの時間に嫌でも目が覚めてしまうので、イェルクもそれに合わせて着替えを持ってきてくれるようになった。ここ一年余り長い時間眠っていないような気がする。 「おはようございます、ニコデムス様」  一礼をして部屋に入ってきたイェルクも日々の疲れが顔に滲み出ているが、笑顔で挨拶をしてくれる。細く吊り上がった眼が糸のようになり優しい印象になった。その顔を見ると、釣られて笑顔になる。  服を脱ぎ、桶に水を溜めて濡らした絹布でイェルクに身体を拭いてもらう。最近は朝身体を綺麗にするのが日課になっていた。 「おはよう。早速だけど、今日の仕事の確認を頼むよ」  イェルクが持ってきた服――白のシャツに淡い青色のジャケットとズボン――に手伝ってもらいながら着替えた。 「先日カーロの大使から話があった三国同盟成立一周年を記念した式典を行いたいとの話に、カーロ国王からの正式な文書が届きました。そちらに返答を行って頂きます。後は、北方地域の道路整備及び四つの橋の建設状況、移民による開拓地の発展状況について目を通して頂き、指示をお願いします。カーロから貿易船乗り入れについての許可申請も数件来ていましたが――」  つらつらと何の資料も見ずに、様々な案件について語る姿は毎日恐れ入る。こちらも情報整理に追い付くのがやっとだ。 「戦争の話題が上がらなくなって久しい。世界が平和に向かって歩んでいると実感できるのは、本当に幸せなことだよ」 「そうですね」  少し背が伸び、少年の面影が微かに残っている鏡に映った自分を見詰めながら、あれから時が流れたことを感じる。  バルタジとの戦争が起こって一年が経っていた。  あの戦争の後、カーロから同盟の申し出があり、それを受けてミヒャーレを占領していたバルタジに対して圧力を掛けることに成功した。ミヒャーレの王族と国民、領土の解放、さらにカーロ、ミヒャーレ、アレクシルの三国との不可侵条約の締結を条件に、バルタジに対して報復と一切の賠償を請求しないことで同意を得、戦争は終結した。  他国から孤立することとなったバルタジは、疲弊した国民の怒りもあり内乱が起こった。結果国王は処刑、クーデターの首謀者であった王の甥が国王になり、現在は残存する抵抗勢力の殲滅を進めながら、国の建て直しを図っている。  その間、カーロ、アレクシル、ミヒャーレの三国間で同盟関係を正式に結び、強固な協力関係を今後永続的に持つことを誓約するに至った。  現在ミヒャーレは、アレクシルとカーロからの支援、また国一丸となった復興政策と国民の努力の甲斐あって平和な日常を取り戻しつつある。  カーロとの関係も良好で、毎日アレクシルの港には多くの貿易船が行き来し、貿易船の乗り入れ申請がひっきりなしに届いている。カーロの南方で採れる色とりどりの新鮮な果実が毎朝市場に並び、またカーロではアレクシル北方民族の伝統工芸である細かな刺繍の入った織物や独特な植物を模した文様を施した陶磁器が人気で、高値で取引されているようだ。  時々仕事の合間を縫って忍んで城下に出ることがあるが、市場は活気に溢れ、暮らす人々の顔にも笑顔が浮かんでいて、一年前の凄惨で悲しい出来事を忘れそうになる。  しかし、城下の中央広場に建てた慰霊碑を眺める度、もう二度と戦争をすることがないように、と祈りを捧げ誓った。そのために、カーロ、ミヒャーレ、バルタジを除く残る三国とも交流も深めるため、定期的に大使を送っている。  ――悩んでいる暇もないくらい忙しなくしていればいいさ。そうしていれば、勝手に時は流れて、色んなことが普通になっていくんだ。  ふと一年前、報酬を手に紅獅子団が城を出る時、オルジシュカが言った言葉を思い出した。本当に、そうだな、と一年経った今思う。 「明日の紅獅子団歓迎の祝祭の様子はどう?」 「ええ、国中が沸き立っていますよ。今日滞在する予定の村でも小規模ですが前夜祭のようなものを行うとか」  最近は城内もこの話で持ちきりだ。皆明日は祝祭に参加すると言って使用人の多くが休暇を申し出ている。僕もイェルクと共に少し顔を出すつもりだが、市民が自主的に行っている祭りだから、あまり僕が表に出ない方が良いだろうと非公式――つまりこっそり忍んで――参加とするつもりだ。  祝祭の話が出た経緯はこうだ。  あれから紅獅子団はバルタジの内戦に新王側として長く従軍していたのだが、先日反乱軍の鎮圧が進んでいるため離脱したと聞いていた。その帰路、アレクシルを通過するため入国届が出ていたが、オルジシュカから疲弊した兵士を休ませたいという話があり、しばらく城下への滞在を許可する流れとなっていた。  国民にとって紅獅子団は自国を守った英雄達であり、その来訪を祝したいとの申し出があって、明日訪れる予定の紅獅子団のために祝祭が行われることになったのだ。 「祝祭の時は庶民の服を用意してくれると助かるんだけれど。こんな格好じゃ目立ち過ぎるから」  そう言って明らかに質のいい生地と金糸を使った刺繍のジャケットをひらひらさせてイェルクに見せた。「考えておきます」とイェルクが笑いながら僕の髪を櫛で梳いた。  部屋を出て、擦れ違う使用人や衛兵と朝の挨拶を交わしながら、朝食を取りに広間に向かった。広間に入ると早朝にも関わらず給仕係がきっちりとした格好で待っていた。ここ一年早起きに付き合わせている使用人達には本当に申し訳ないと思う。  もう慣れた長テーブルの正面の席に座り、ナプキンを膝に掛ける。と、すぐに皿から湯気を立ち昇らせた美味しそうなスープが運ばれてきた。  たまにイェルクや給仕係に料理の感想を言いながら、一人で朝食を取った後、そのまま執務室に向かった。昨日一山片付けて半分にまで減っていた資料が同じ量だけ隣に山を作っている。思わず苦笑いを浮かべながら、机に向かった。 「何かあったら呼ぶよ」 「承知致しました。私は朝食を取って参ります」  インクと紙の匂いが充満した部屋に一人残される。背後の窓の方を振り返った瞬間、ふとあの横顔が思い浮かんですぐに机の上のカーロ国王からの手紙に目を落とした。熟考し、丁寧な字を心掛けて紙に返事を書く。勿論答えは「喜んで参加致します」だが、それを公式文書に落とし込むのは少し――いや、かなり頭を使うものだ。  一つ本日の大仕事を片付け、次の資料に目を通していると、食事を済ませたイェルクと共に大臣のヤーコブが執務室を尋ねた。  先程書いた返信を二人に読んでもらい、同意を得たので、封筒に赤い蝋燭を垂らし、王家の紋章の入った印を押して封をした。イェルクに使者を遣わせるよう手紙を手渡す。 「式典はカーロで催されるのですよね。アレクシルで行う方が、立地を考えた場合ミヒャーレ国王の負担が減って良いと思うのですが」  カーロ国王の文書に一度目を通したはずだが、もう一度手に取ってヤーコブが訝しげな表情で読んでいる。 「それは考えなくもないけれど、カーロ国王は保守派だから、自国を離れることを恐れているのかも。カーロの王族のことはよく知らないけれど、もしかしたら留守の間にクーデターが起こることを危惧しているのかもね」  カーロの王はまだ若い。隙を狙う敵がまだいると考えているかもしれない。ミヒャーレ国王に関しては、国民からの信頼は厚く、王となる権利を有する者の定義と各貴族の権限について初代国王ミヒャエルが事細かく定めたこともあり、クーデターの恐れがない。カーロ国王は国を空けることができないこともあるが、式典を国内で行うことで、この三国の結束を国民にアピールし、国王の威厳を見せたい意向があるのかもしれない。 「でも、我が国で行わなければならない理由もない。カーロが式典を行ってくれるのであれば、準備する手間が省けるし、まだまだ我が国の財政も安定しているとは言えない。血税をそこに割かずに済むのだから、寧ろ有難い話だと僕は思うけれど」 「ミヒャーレ国王も人が好いですからね。きっとカーロ国王の申し出を受けるでしょう」  ヤーコブは苦笑を隠すように眼鏡を上げながら手紙を僕に返した。「ミヒャーレ国王も」ということは、僕もお人好し認定を受けたことになる。前にヴァルテリもそう評していたような気がするが、僕はそんなにお人好しだろうか。ちらとイェルクの顔色を窺うが、笑って誤魔化された。 「来月カーロの首都で、か。初めてだな、国外に出るのは」  書面に書かれた日付と場所の名前を見詰めながら、初めて城門の外に出た時の感動を思い出す。あれからまた城下に行くことはあれ、外の世界に出ることはないままだった。  カーロは貿易が盛んな国であり、その首都は数ある港の中でも世界一の大漁港を有するという。あらゆる民族が行き交い、様々な文化が花開いて栄えているのだろう。想像するだけで、楽しみで仕方がない。 「あと一年もすれば、ほとんどの公共事業も終わりを迎えます。国の体制が整えば、ニコデムス様の意思で他国に赴くこともできましょう」 「それを楽しみに、今は仕事に精を出さないとね」  途中で止まっていた資料を手に取って、ジャケットを脱ぎ腕まくりをして見せると、二人して笑っていた。 「それでは、私は引き続き国民からの要望事項を纏めます。今週末にはお見せできるかと」 「うん、大変な量だろうけれど、宜しく頼むよ」  まだ目の行き届いていない小さな村が数多くあることを考慮し、全ての国民から一人一つ要望を書いてもらうという政策を実施した。それは国が行うべきではない個人的なものから、今まで知ることが無かった早急な対応を必要とするものまで様々だった。ヤーコブにはその優先順位を判断、分別してもらう作業をしてもらっている。公共事業の大規模計画を立ててもらってすぐの仕事だったから、相当堪えるものだろうが、忍耐強くやってくれている。  ヤーコブが部屋を後にし、僕はひたすら書類に目を通し、必要とあれば書に記したりサインをしたりした。イェルクは執務室の床に転がっている不要になった書類の整理をしている。時々意見を求めたり、各方面への伝達を申し付ける以外は、特に会話が無いまま昼を迎えた。 「昼食の時間ですが、如何しますか。こちらに運ばせますか」  ふうと一息吐き、資料を机の上に置くと、腕と背筋をぴんと伸ばし肩を解して椅子から立ち上がった。 「いや、広間に行こう。このままここに座っていたら石になってしまいそうだ」 「確かに、根を詰め過ぎては身体に毒。息抜きは必要です」  ジャケットを羽織り執務室を出てすぐのところで、軽装姿の男が待っていたかのように駆け寄って来る。訓練の昼休憩中なのだろうか、ヴァルテリだった。 「申し訳ありません、このような格好でお話をさせて頂くなど」 「気にしないで。服装で君の騎士道精神が貶められたりはしないよ」  軽装でも騎士の風格がその立ち姿に現れている。それに、どんな格好であろうとも、彼の容姿ではあまり変わりがないとさえ思う。 「今更ながらに申し上げにくいのですが、その、明日の祝祭についてなのですが……」  そこまで言って、言い辛いのか押し黙ってしまう。もしかしたら、と思いヴァルテリの顔を覗き込むと微かに頬を赤らめていた。 「そう、そのことなんだけど、頼みたいことがあって」  予想外のことだったのだろう、目を丸くして「何でしょうか」と首を傾げている。 「明日こっそりイェルクと祝祭を覗きに行こうと話をしていたんだ。イェルクがついていれば大丈夫だと思ったんだけど、やはり人の多いところに出ると何が起こるか分からないだろう? だからどうかな、ヴァルテリも一緒に来て貰えると心強いのだけど」 「よ、喜んで御受け致します!」  渡りに船といった感じだったのか、笑顔で僕の両手を握って喜んだ。ヴァルテリは、本当は一人で行きたかったかもしれないが、彼の性格ではきっと土壇場で行くのを辞めてしまうだろう。こうして仕事にして彼の気持ちを少しでも汲んでやることができればいい。それに、いざとなれば、いくらでもやりようはあるのだし。 「明日が楽しみ――」  と言い掛けたところで、階下からまだ城に仕えて日の浅い若い門兵が慌てた様子で駆け上がってきた。何事かと思い、ヴァルテリ、イェルクと共に走り寄る。 「も、門内に黒馬に乗った白髪の男が……急に押し入ってきて……」 「白髪、って……」  ヴァルテリの顔を見上げると、同じことを思ったのだろう。動揺している様子だった。 「その男はどこに?」 「他の兵は誰も止めなくて、それでもう玄関のところに来ています! あの男は、一体……」  その強引さについ彼らしいと思って笑ってしまった。僕はヴァルテリの服の裾を引っ張って、「行こう」と微笑み掛けて階段を下りた。後ろから戸惑いながらヴァルテリがついてくる。  階段の下に、大きさの違う剣を腰の左右に提げた白髪の男が立っているのが分かった。しかしエントランスに着き真っ直ぐにその姿を見て固まってしまった。それは、背後に立っているヴァルテリも、釣られて着いてきたイェルクも同じだろう。 「よう、王様! 相変わらずチビだな!」  目が合うと手を挙げて快活に笑う。その青年の姿は、かつて自分とさほど身長が変わらなかったノエという少年とは思えないものだった。互いに駆け寄ると、その大きさを実感する。自分との身長差は見上げなければならないほどだ。 「ノエ、一年で随分と……成長したんだね」 「俺は身長伸びるって信じてたからな。元々民族的にも大柄な男が多いってオルジから聞かされてたし」  成長期が遅く来たのだろう。身長もさることながら、身体つきもかなり筋肉がついて逞しくなったように思える。 「なあ、ヴァルテリ、少しはあんたに相応しい男になったと思わないか」  振り返ると、いつの間にか後ろに隠れるように立っていたヴァルテリがびくと肩を震わせて、片手で口元を隠して腕を組んだまま視線を逸らす。 「か、身体が大きくなっただけだろう。それで何が変わったって――」  言い掛けたヴァルテリの口元を押さえていた方の腕を引っ張って退かし、そのまま彼の正面に立った。邪魔にならないように、僕はそっと横に避ける。 「身体がでかくなっただけじゃない。俺はあんたの隣を胸を張って歩ける男になるために努力した。あんたが抱えてるものを代わりに背負ってやれるくらいの男になりたくて」  ノエは呆然と見詰めているヴァルテリから視線を外し、首の後ろを掻いて俯く。 「一年でそんな風になれたか、正直自信はねえよ。未だにオルジやモーリスからはしょっちゅう怒られるし、熱くなって単騎特攻仕掛ける癖も直んねえ。でも、諦めらんねえ」  ノエがヴァルテリの両腕を強く握り締め、菫色の澄んだ瞳で真っ直ぐにヴァルテリの茶の瞳を見詰め返した。 「あんたが好きだ。それだけは、一年経っても変わらねえ。きっとこれから何年経っても、そうだって言える。だから俺は、あんたがうんと言うまでいつまでも追い掛け回すぜ」  ノエがふっと鼻に掛かるような息を吐いて笑う。その穏やかな表情は、勝気な少年だった彼がもう過去の存在であることを物語っているようだった。 「ヴァルテリ、あんたの心を俺にくれるか」  ヴァルテリの瞳が揺れ動くのが分かった。そして俯き、固まる。  良い答えを貰えないと思ったのだろう、ノエは苦笑しながらヴァルテリの両腕を掴んでいた手を離した。その、瞬間だった。逆にヴァルテリが腕を掴んで引き寄せると、少し背伸びをして唇をノエの唇に重ねた。  すぐに唇を離し、踵を返して早足で中庭を突っ切って出て行った。恐らく騎士団の訓練に戻ったのだろう。  一瞬のことで固まったまま呆然とヴァルテリを見送ったノエだったが、自分の唇にそっと触れると事態を飲み込んだのだろう、ぱっと表情が明るくなってヴァルテリの去っていった方へ走っていった。 「ヴァルテリが今日の夜と明日城を空けていたとしても咎めないであげようか」  事態がまだ呑み込めていないのか、イェルクは目を白黒させながら、「そうですね」とだけ答えた。清廉潔白な騎士団長が、予想以上に大胆な行動に出たので、訳が分からなくなっているのだろう。 「さ、昼食を取りに向かおうか」  そう言って階段を上り始めると、慌ててイェルクがついて来て、二人で広間に向かった。  昼食を取った後、二人はどうしただろうかと気になりつつも、再び執務室に戻って営々と資料に目を通したり文書を作成したりして過ごした。  山を一つ片付けたところで、背後を振り返ると日が城壁の向こうに沈んで、空は茜色に染まっていた。集中して仕事をしていると一日が終わるのが早い。 「今日はこの辺にしよう。今日中にやっておかなければならないことは、片付けたし」 「はい、そろそろ夕食の時間ですし」  立ち上がって伸びをすると、肩が凝っているのか硬くなっていて、ぐるぐると腕を回した。  執務室をイェルクと共に出て広間に向かうと、その扉の前に白髪の長身の男――ノエが立っていた。僕等に気が付くと、笑顔で手を挙げる。 「一緒に飯食ってもいいか? 厨房と給仕係には話を通してあるんだ」  話を通してある、というのは自分の分の料理を出してくれと頼んであるということなのだろうか。一ヶ月も城に留まっていなかったはずだが、まるで親戚の家のような気軽な振る舞いについ笑ってしまう。 「いいけれど、ノエは紅獅子団に戻らなくていいの? 皆まだアレクシルの何処かの村に駐屯しているんじゃなかった?」  そう言うと、ノエは少しバツが悪そうに首の後ろを掻いて苦笑する。 「無断でここまで突っ走って来たからさ、金も持ってねえし……明日の祝祭でこっそり合流するまで城に置いてくれると助かる」  ヴァルテリに早く逢いたいという一心で、なりふり構わず馬を走らせてきたのだろうか。そう思うと、彼の一途で情熱的な恋情が伝わってきて、つい助けてやりたくなる。流石に「こっそり合流」というのは無理な気がするけれど。 「分かった。客室を用意するよ」 「いや、いい。寝る場所が無いって方が、都合がいい」  「都合がいい」というのは、ノエの方ではなく、きっとヴァルテリの方だろう。彼は少し難しい性格だから、何かをするのに理由や言い訳を必要とする。それをノエは分かっていて、あらかじめ「言い訳」という逃げ道を用意しているのだ。 「そっか。じゃあ、夕食を一緒に」  ノエ、イェルクと共に広間に入り、席につく。ノエが僕の斜め前の席に座って、僕の後ろに立っているイェルクを自分の隣の席に「座れ」というように指を差した。 「あんたの分も出せって言っといたんだよ。大勢で食った方が飯は美味いだろ」 「勝手なことをされては困る。私のような階級も無い人間が王と同席する訳には……」  イェルクを振り返ると苛立った様子でノエを睨み付けている。ノエの方を見ると肩を竦めて僕を見、溜息を吐いた。 「あんたがそんなだから、王様は毎日不味い飯食う羽目になるんだ。いくら豪勢な食事でも、一人で黙々と食うんだったら、美味しいとは俺は思わねえな」  一年前の毎日の食事風景を思い出して、胸が詰まる。あれからずっと、この長テーブルで一人だった。食事が不味いとは思ったことは無いけれど、楽しいと思ったことは、無かった。 「イェルク、今日くらいは、いいよね? だって客人の頼みだもの」  笑顔で振り返ると、困惑した顔で僕とノエ、そして周りを見渡した。広間に居た給仕長が、素早くノエの隣の席にテーブルクロスと食器を並べる。  イェルクが僕との主従関係を明確にしているのは正しい行いだ。階級を無視するような振る舞いをすれば、周囲に悪印象を与え、他の城の者達に不満が生まれる可能性がある。それが余計な火種を生まないとも限らない。  しかし、それは、王となった僕に、孤独を生んだ。  ノエは歳が近いし彼の友好的な性格と外部の人間だからという気安さで、王と人民との垣根を越えてくれる。ノエの気遣いは、とても嬉しかった。  観念したように、イェルクはノエの隣に所在無げに座った。給仕が僕、ノエ、イェルクの順に同じスープを出す。 「美味そうだ! ずっと飯食ってなかったから、余計だぜ」  僕がスープに手を付ける前に構わずスプーンを手に取ったので、イェルクが不機嫌な顔になっているのが面白かった。最近、こんな顔をしているのは見ていなかった。 「ヴァルテリとは上手くいきそう?」 「どうかな。あの後追っかけてってもっかいキスしようとしたら引っ叩かれたし、それきり騎士団長さんに戻ってしまわれたから」  テーブルに肘をついてスプーンを指先で弄びながら溜息を吐く。  傭兵から騎士の階級を得て、今騎士団長という栄誉ある地位を得たヴァルテリは、騎士たろうとして真面目が行き過ぎているところがあるように思う。それは、彼の今までの人生が大きく関わっているのだろうが、ようやく固く閉ざされた門扉を開けたのに、追い返すような真似をするのは何故だろうか。 「まあ、年上のくせに初心で恥ずかしがり屋なのは可愛いところなんだけどさあ」  スープのカップを手に取って一気飲みしてから背凭れに寄り掛かり頭の後ろで腕を組む。 「拒絶されてるわけじゃないんだ」 「当たり前だろ。敬愛する王様の前でキスしたんだぜ? あいつにしたら、神の前で誓いを立てるよりよっぽど神聖なプロポーズの了承の仕方だろうさ」  給仕係がノエの皿を下げてサラダを持ってくる。前のめりになって、フォークを手に取ると大口を開けて詰め込むように食べ始める。よっぽど空腹だったのだろう、一人だけ食べるペースが速い。 「良かった。廊下で一人寝せずに済みそうで」  笑顔を向けてそう言うと、ノエは一瞬真剣な眼をして、いつの間にか空になった器を給仕係に渡してメインディッシュを催促する。 「……頼まれてたやつだけど」  肉を大口にナイフで切りながら、ちらとイェルクの方を見る。「何のことだ」とイェルクが食事の手を休めて訝しげな表情で彼の横顔、そして僕の顔を見た。 「続けて。イェルクにもどのみち伝えると思うし」  もぐもぐと肉を口いっぱいに頬張り、ワインで流し込むように飲み込む。僕とイェルクのところに給仕係がサラダを運んでいるので、配膳が済むのを待ってノエが口を開いた。 「王様の兄貴だけど、やっぱりバルタジでもミヒャーレでも見つけられなかった」 「……そう」  驚いた顔でイェルクが僕に問い詰めるような視線を送る。あの戦争で勝利を収めるために利用した人物の事を、ノエとただ一人を除いて誰にも伝えることはしなかった。 「でも、逆に生きてる可能性は高いと俺は見てる」  真っ直ぐに見詰めるノエの眼差しが少し和らいで、僕の落胆を気遣うようだった。 「処刑されたって話はないし、バルタジの牢獄をいくつか見て回ったけど、監獄長もそんな金髪碧眼の青年は見てないっていうんだ。バルタジじゃ、そんな容姿の奴は珍しいから、見たらすぐ分かるはずだからな」  処刑されても捕まってもいないのならば、何処かに逃げ延びている可能性は高い。安堵の息を漏らしながら、胸の奥でずきと痛みが発する。  奸計を逆手にとって謀略を巡らし、彼を危機に陥らせておきながら、生死を気にするなど、かつて風狂王子と呼ばれた名の通りの所業だ。紙切れ一つで血を分けた兄弟の命を斬り捨てた悪魔のような自分を、偽善で誤魔化してはならない。  「これが兄貴だったか分からないが」とノエは言葉を濁し、最後の肉の一切れを頬張った。 「あるバルタジの港に居たカーロの貿易商が、船を降ろされて困っていたカーロ出身だと言う青年を船員として雇って船に乗せたらしい。でも全然役に立たなかったから、カーロで降ろして解雇したんだそうだ。それきり見ていないらしいんだけど、それが金髪碧眼の青年だったってさ」  もしそれが兄ならば。バルタジからカーロに逃げたとなれば、誰も追っては来られない。彼が奸計を働いたことを知っているのはバルタジの旧国王軍の一部の人間と僕とノエ、あと一人だけだ。彼は安全な場所まで逃げることができたのかもしれない。僕が探そうとしなければ、彼はこの罪で命を落とすことは無いだろう。 「ありがとう、調べてくれて。後でイェルクから報酬の方を渡してもらうよ」 「別にいらねえよ。あんたの頼みだからやったんだ。今夜の食事と明日の朝食でチャラにしといてやる」  「明日も良い飯食わせろよ」とノエはにっと口を横に開いてフォークで皿をかちかちと鳴らして笑った。僕は口元を手で隠したが、笑い声がつい漏れてしまった。 「あの、ニコデムス様……」  すっかり食事を中断して困惑の表情でこちらを見詰めているイェルクに、「後で全部話すよ」と目を伏せてから、複雑な心の内を誤魔化すように微笑んだ。 「あと風の噂だけど、最近アリとロビンらしき二人組をカーロで見たっていう船夫が居たな」  アリとロビンは戦争の後、僕の治療が落ち着いたのを見届けて早々に城を去った。「聖母の遺児」は倒した三人以外にもまだ残っていると言っていた。「また情報を集めるところから始めなきゃ」とアリは肩を竦めて笑った。  彼らがどこでどう暮らしているのかは教えてはくれなかったが、僕が困った時は助けに行くと約束してくれた。 「二人ともあれきり会ってないからね。元気にしていてくれるなら、いいんだけど」 「何言ってんだよ。不老不死の吸血鬼だぞ? 元気じゃねえはずがねえだろ」  寄り添い睦まじく笑い合い、永遠に続く道を深く結ばれた愛の絆で歩く美しい二人の姿を思い浮かべて、「そうだね」と微笑んだ。  その後早々にノエは食べ終わってしまったが、僕等が食べ終わるまで、これまでバルタジで見聞きしたこと、内戦、国状を色々と話してくれた。  ノエが言うには新王はまだ前王よりは穏健な印象だと言う。ただ、一年も続いている内戦のせいで、国中が荒れ果て、国民の大半が明日食べる物の心配をしなければならないほど貧困に喘いでいるという。そのため、内戦が終結してもしばらくは内政に力を入れていく方針のようで、他国への攻撃など考えている余裕はなさそうだということだった。ひとまず安心だ。  食事を終え、少し談笑してから広間を出た。ノエは大きく伸びをして、きょろきょろと周りを見渡す。 「ヴァルテリなら、兵舎で他の騎士たちと食事をしている頃だと思うよ」 「そうか、じゃあ部屋の前で待っとくかなあ」  そう言って手をひらひらさせて「じゃあな」と廊下を歩いていった。彼の部屋の場所は聞かなくとも分かるのだ。 「どうなさいます、御部屋でおやすみになられますか」  イェルクに兄のことを話さなければならない。ふと思いついて通りがかりのメイドに僕とイェルクのケープを持ってきてくれるように頼んだ。 「日も暮れたというのに、どこかお出になるおつもりですか」  半分呆れたような表情で眉根を寄せる。一年ほど前、王子だった頃はよくイェルクはこんな顔をしていたなと思って、苦笑してしまった。 「違うんだ。でも外は少し肌寒いからね」  不思議そうな顔をするイェルクにそれ以上説明せずにいると、少ししてメイドが部屋からケープを持ってきてくれた。それを羽織り、イェルクの袖を引いて階段を降りてまっすぐ、開けた中庭に出た。 「一年くらい前までは、僕が眠れない夜は、君とたまにこうして来たよね」  十二夜くらいの月が空に浮かんでいる。噴水の静かな水音と、微かにそよぐ風の音を聞きながら、去年も目を喜ばせてくれた薔薇が今年も変わらず美しく咲き誇っている。 「ええ、いつも庭園の奥へお隠れになって、私をからかっていらっしゃいました」  恨み言を言いながら、微笑むイェルクを見上げる。あの日より、ほんの少しだけ彼が近くなった気がした。 「……あの夜の事を覚えてる?」 「もちろんです。あの出来事が、貴方の運命を変えたのですから」  満月の夜だった。その月のように煌めく金の瞳の男は、確かにこの庭に降り立ち、何もできずに蹲っているだけの僕を引っ張り上げて、光差す道を示してくれた。 「その翌々日には、僕は兄様をこの国から追放し、王として冠を戴いた」  ゆっくりと噴水に向かいその淵に座って水に指先で触れる。小さな波紋が広がろうとして、噴水の大きな流れに飲み込まれて消えた。 「一年前、バルタジとの戦争で、僕は兄様を利用した」  イェルクの顔を見ずに、水面に映り込んだ歪んだ自分の顔を見下ろした。自分でも恐ろしいほど、その眼は冷静だった。 「兄様はバルタジに身を寄せ、僕への復讐のためか、内情を探るような手紙を寄越した。それを逆手に取って利用させてもらったよ」 「……まさか、バルタジへの情報漏洩は……」  きっと、イェルクは疑っていたのだろう。僕が相談もなしに彼と二人で話を進めることが、重要な計略においてあるわけがない。例えば、それが言えないようなことならば話が違うけれど。 「あの状況で他に方法は無かった。でも、僕は兄様一人の命と引き換えに、国を守る方を選んだ」  振り返り薄く笑むと、悲痛な面持ちで呆然と立ち尽くしているイェルクがいた。 「それなのに、兄様が無事かもしれないと聞いて安心しているなんて、甚だ可笑しい話だ。正しく外道だよ」  時に善行を、時に非道な行いを、王たる者は選択を強いられる。感情を余所にやって、脳内だけで導き出した答えを選ばなければならない時もある。それが、国を導く者の責務であり、背負っていかなければならない罪咎なのだ。 「貴方という人はどうして……何でも一人で背負おうとなさるのです。貴方にとって私は、それほど頼りになりませんか」  顔を歪めて拳を強く握り締めながら憤りを露わにする姿を見て、自分が今までずっと間違っていたことに気付かされた。 兄から手紙を受け取った時に、もしイェルクに相談していたら、僕を心配するだろうが、反対はしなかっただろう。この方法以外にないことは、すぐに分かっただろうから。そしてきっとこの罪を共に背負ってくれただろう。少なくとも今、このような辛い想いをさせずに済んだだろう。  今更最もこの城で信頼している大切な存在を裏切るような真似をしたことを悔いても、意味がない。  イェルクは僕の前に膝をついて座ると、僕の両手を手に取った。僕を見詰める目は、優しく包み込むような慈愛に満ちている。 「ノエに言われて私も過ちに気付きました。貴方を王として確固たる権威をもたせることを優先するあまり、貴方を孤高の王にしてしまった。まるで……先王ユリウスのように」  奸臣の思い通りに動かされ、時に無暗に力を振りかざし、邪魔な者を排除して、信頼できる者など一人もいなかった兄。彼の胸の内を聞いたのは、最後の別れ際の「お前は狡い」という言葉だった。  ――お前は何でも持っているくせに、私が唯一持っていた王の冠を奪った。  兄は王であることだけが全てだった。両親もいない、頼れる友も家臣もいない、そんな孤独の中で、十五年もの間生きてきた。彼が僕を疎ましく思ったのは、もしかしたらこの魔女の眼を持っていることではなく、妾の子でこの右眼を持って生まれた僕が、イェルクやラッセ、使用人から受け入れられていることが、自分にはないものだったからかもしれない。  大切なことは何も打ち明けず、自分の胸に仕舞い込んで生きていくような道を選んでいけば、やがて僕も同じ道を行くことになる。  人々を導ける強い王になろうとするあまり、気付かぬうちにすぐ傍に居る大切な存在にさえ、弱さを見せないようにしていた。  僕は決して強い王ではない。魔女の紅い眼を持つ忌み子で、まだ十六で経験も積んでいない。国の外に出たこともない世間知らずだ。誰かに頼らなければ生きてはいけないのは、きっとこれからもそうだろう。  皆に身体を支えてもらいながら、歩み続ける道を僕は選ぼう。それが、僕が望む強い王の本当の姿だ。 「僕は、一人じゃない。だからイェルクやヤーコブ、沢山の人達の力で、強い王として立てる。そのことを、ノエや君や、兄様のお陰で知ることができた」  イェルクの手を握り返して微笑む。とても温かく、少しがさがさとした手だ。この手は、きっとこれからも倒れそうになる僕の身体を力強く支えてくれる。  イェルクの手を握ったまま彼を引き上げるようにして立つ。そこらじゅうに咲いている花が、月の光でぼんやりと浮かび上がって美しい。 「少し、中庭を見て回ってもいい?」 「ええ、もちろん。庭師も喜びますよ」  イェルクと薔薇の庭園や花壇に綺麗に植え込まれているユリ、スズラン、ジギタリス、カンパニュラ、ルピナスなどを一通り見て回る。それぞれの花が芳しい匂いを辺りに漂わせていた。  そうしているうちに随分と時間が経ってしまったようで、身体が冷えてきてしまった。イェルクが「御風邪を召しては大変です!」と大慌てで自室に返されてしまった。  苦笑しながらケープをポールハンガーに掛ける。寝るように言い渡されてしまったから、他に何かするにも蝋燭に火が灯っていないのでは何もしようがない。  ふうと溜息を吐き、真っ直ぐに部屋の一番奥にある窓の前に立った。鍵の掛かった窓を開け放つと、夜のひんやりとした空気が入ってくる。窓枠に手を掛け、月と星が瞬く空を眺めた。  この窓を夜開けて朝閉める。慣習化したこの行為に意味はない。あるとすれば、願掛けだ。  いつか、この窓から入ってくるかもしれない男を、その日を、ただ待ち焦がれていた。  目を閉じて深呼吸をする。暗い想いに囚われそうになった時、いつもそうすると次第に波立つ心も落ち着いてくれた。終わる今日ではなく、始まる明日に希望して、一日が終わり、また一日を始めるのだ。  目を開き、「よし」と自分を叱咤して、踵を返した、その瞬間だった。目の前の床にある自分の影が急に大きくなったのだ。  いや、大きくなったわけじゃない、重なっている、と気付いた時には振り返っていた。

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